翌日、恨みがましいほどの快晴。久美子はどんよりした気分で登校した。
部活の朝練に参加すると、麗奈はいつもの無表情でトランペットを吹いていた。近付いて「おはよう」と声をかけると、麗奈も「おはよう」と返してきた。
それがあまりにもいつも通りだったから、久美子は安心して言った。
「今日のお昼、一緒に食べようね」
「あー、それなんだけど、やっぱり今日はいいわ」
そっけなくそう言われて、弾みかけていた気持ちが一気に萎んだ。
麗奈は久美子を見ずに、じっと譜面と睨めっこしている。
「どうして?」
どうにかそれだけ声を絞り出す。
「どうしても」
「話したいことがあるんだけど」
「昨日のこと?」
ちらっと、麗奈が顔を上げる。感情の読み取れない瞳。久美子は大きく頷いた。
「うん。だから、お昼に……」
「それなら、帰りに私から声をかけるわ」
強めの語調で言い切って、麗奈はもう話すことはないと言わんばかりに、譜面に目を戻した。
朝から考えてきたたくさんのシナリオの、どれにも該当しない麗奈の反応。
久美子は思わず眩暈がして、何も言わずにその場を離れた。
お昼は結局、同じクラスの三人で食べた。もちろん、葉月には突っ込まれたが、久美子は笑って誤魔化した。
「じゃあ昨日のは、私への当てつけだったのかなぁ」
葉月が釈然としない顔をする。久美子は慌てて首を振った。
「ただの私への嫌がらせだよ。ちょっとケンカしちゃって」
これ以上こじれて欲しくない。麗奈のことだけで手いっぱいなので、全面的に自分のせいにして葉月を抑える。
授業はすべて右から左へ抜けていく。こんなことでは、次の試験は半分より下になるかもしれない。
部活にも身が入らない。葉月と緑輝が心配してくれて、久美子は空元気で振る舞った。
自分が落ち込むと、また麗奈への風当たりが強くなる。麗奈はわざわざみんなに嫌われたくて、それを狙っているのではないかとさえ思えてきた。
部活の時間をやり過ごして、音楽室の隅で佇む。このまま麗奈に声をかけてもらえなかったらどうしようと思ったが、杞憂に終わった。
「お待たせ、久美子。帰ろう」
麗奈は笑顔だった。今まで他人の顔色ばかりを窺って生きてきた顔色マスターの久美子が見ても、晴れやかな笑顔。
それでも、どうしても何か目論んでいるとしか思えない。疑心暗鬼に陥ると、なんでも穿った見方をしてしまうのだと、前に自分で思った通り。
下駄箱で靴を履き替えて外に出る。
「ねえ、手を繋いでいい?」
不意に麗奈がそう言って、久美子が答える前に手を握った。温かい。
麗奈の温もりに触れると、思わず胸が熱くなった。わけのわからない涙が込み上げてきて、慌てて上を向く。
眩しい星だけが小さく輝く空。
「昨日は、意地悪なことをしてごめんなさい」
いきなりそう言われて、久美子は驚いて麗奈を見た。
麗奈も同じように久美子を見る。足を止めて見つめあって、久美子は恥ずかしくなって俯いた。
「私も、ごめんなさい」
「何が?」
「わかんないけど」
もう一度歩き始めて、少ししてから麗奈が言った。
「わからないなら謝らないで。とにかく謝っておけば丸く収まるって考えるの、久美子の悪いクセよ」
辛辣な言葉。泣きそうな心地で隣を見ると、麗奈は楽しそうに微笑んでいた。
久美子はほっとした。
麗奈は一度バッグの中身を確認するように振り返り、何も取り出さずに歩き出した。
「私、麗奈のこと、わからない」
「何それ。むしろわかった気になってたの?」
「……今日の麗奈は意地悪だね」
ふてくされると、麗奈が声を出して笑った。機嫌は良さそうだ。
一緒に電車に乗る。かなり引っついて隣同士に座ると、触れ合う腕がひんやりして気持ち良かった。
麗奈は時々首を捻っている。こんなに落ち着きがない麗奈を見るのは初めてだ。
「どうかしたの?」
「別に。私も色々考えてるのよ」
「そうだね。私も。今日は仲直りしようね」
ぎゅっと強く手を握る。
「元々ケンカなんてしてないし」
同じように握り返して、麗奈がそっぽを向く。いつも通りの、素直じゃない可愛い友達。
しかし、何故か違和感が拭えない。昨日あんなに重たい台詞を残した割に、今の麗奈は軽すぎる。
宇治駅で降りていつもの交差点を渡る。改札口で離したきり、そのままになっていた手を、麗奈が再び握った。
「こっち。もうちょっと一緒にいよう」
赤くなりながら手を引っ張る。久美子に拒否権はなかったし、異存もなかった。
宇治橋は渡らずに、さわらびの道の方へ続く細い川沿いの道を歩く。宇治神社にでも行くのかと思ったら、麗奈はその手前の適当な川べりに座った。
暗くて静かだった。時々後ろの遊歩道を歩いて行く人がいるが、あまり気にならない。
手を繋いだままもたれ合う。久美子の大好きな時間。
しばらくそうしてから、ふと顔を上げる。黙ってキスするいつものパターン。
大丈夫かなと心配したが、麗奈はいつも通りに応えてくれた。
互いを確かめ合うように唇を重ねる。腕を背中に回して、体をそっと抱き寄せる。
しばらくむさぼり合うように唇を吸い合った。何人か背後を通り過ぎていく気配があったが、この際知り合いに見られなければいい。
随分大胆になったものだ。それよりも今は、麗奈が愛おしい。
目を閉じてキスを続けていると、不意に麗奈が久美子の胸に手を当てた。そのまま、久美子のなかなか膨らんでくれない胸を撫でる。
久美子も同じように麗奈の胸に触れた。羨ましい膨らみは、相変わらず柔らかい。
「私、久美子のおっぱい、好きよ?」
「嘘だ」
「ほんと」
「私は好きだよ?」
「知ってる」
麗奈がくすっと笑う。日頃麗奈の胸ばかり見ていることに、どうやら気付かれているらしい。
麗奈の指が気持ち良い。大きさは違えど、基本的な構造は同じなので、麗奈も同じように感じてくれているのだろうか。そう思うと、感覚を共有しているような、不思議な気分になる。
一度唇を離すと、熱い吐息が顔にかかった。うっとりとした目で見つめ合う。
麗奈がそっと久美子の頬に触れ、親指で唇をなぞった。
久美子は反射的にその指を口に含み、舌で転がした。
「くすぐったい」
麗奈の声を無視して、根元までくわえ込む。少ししょっぱくて美味しい。
口が寂しくなったのか、麗奈が久美子の髪に顔を押し当てる。
「いい匂い」
嘘だと思ったが、指をくわえているので何も言わない。
自分は麗奈の髪をよく嗅ぐくせに、自分がされると妙に恥ずかしい。久美子はいつだって自分には自信がない。
麗奈が指を引き抜いて、もう一度唇を合わせた。そのまま久美子の太ももに手を置いて、スカートの中に滑り込ませる。
「ちょ、ちょっと、麗奈……」
「まあまあ」
「まあまあじゃなくて!」
赤くなりながら、小声で咎める。確かに後ろから見える位置ではないし、島からはもちろん見えはしないだろうが、すぐ後ろを人が通っていく場所で、いくらなんでも大胆すぎる。
困惑する久美子に構わず、麗奈の手が下着に触れた。自分でわかるほど熱くなっている。久美子は真っ赤になって麗奈にしがみついた。
「麗奈のバカ。バカ……」
「どうしようもなく可愛いわね」
意地悪な声。きっと笑いながら自分を見ているのだろうが、俯いたまま顔を上げる勇気はなかった。
下着の上から、麗奈が久美子の柔らかな場所に指を這わせる。保健室での一夜が脳裏に蘇る。
もう久美子の体を知り尽くしているかのように、麗奈の指は的確に久美子の一番敏感な場所を突いてくる。
声が漏れそうになるのを必死に堪えながら、久美子も同じように麗奈のスカートに手を入れて、そのまま太ももの内側を撫でた。
「久美子?」
意外そうな声。そういえば、自分から触ったことはなかった。
自分がされているのと同じように、麗奈の股に指を押し当てる。自分の下着も随分濡れていると思ったが、麗奈はそれ以上だった。
しばらく合わせ目に沿って指を上下に動かす。湿っぽい生地の感触は、水分を含んだ弾力のあるスポンジのようだ。
布を摘み上げて、肌との境目から指を入れてみた。
「ちょっと!」
耳元で、ひどく動揺した麗奈の声。構わず押し込むと、ぬるりとした感触があって、熱い液体が久美子の指に絡みついた。
どうしたらいいのかわからず、適当に指を折り曲げてみる。指先が両側の肉に挟まれて、その生々しい感触に久美子は鼓動が速くなった。
もっと奥に。さらに指を沈めたところで、麗奈が無理やり久美子の手を押しのけた。
「もう! こんなところで、何考えてるのよ!」
小声で批難しながら、体ごと仰け反る。
自分からしておきながら、何を言ってるんだろう。久美子は気持ち良さでぼーっとなりながら、引き抜かれた手を顔の前に持ってきた。
中指の先が、ねっとりと濡れて光っている。ほとんど無意識に口に含んだ。
「っ!」
麗奈が隣で声にならない声を漏らした。
指先からした味はあまり美味しくなかったが、麗奈のものだと思うとたまらなく興奮した。
指を抜いても、まだ麗奈の匂いが残っていた。鼻の下に当てると、嗅いだことのない匂いがした。
「久美子、いつからそんなふうに……」
「麗奈のせいだと思うけど」
「元々じゃない?」
「麗奈のせいだと思うけど」
2回言うと、麗奈が唇を尖らせてから笑った。
もう一度キスをする。全身が燃えるように熱く痺れた。
「帰ろうか」
「うん」
辺りはいつの間にか暗闇に包まれていた。
何を話すでもなかったが、心はすっかり軽くなっている。
行為自体には若干の物足りなさを覚えつつ、久美子はまだ上気した顔で家に帰った。
結局、これで丸く収まったのだろうか。
伝えようと思ったことも伝えていない。言葉にしなくても、昨日のあれで想いは伝わったのだろうか。
昼休みの件も、麗奈はしおらしく謝ってきた。もう大丈夫なのだろうか。
久美子がそんなことを考えながら、ぼんやり通学路を歩いていると、途中で秀一と会った。
「おはよう」
いつものように気のない挨拶をする。秀一との関係も、別に答えを出さなくてもいいのだろうか。
麗奈さえ良ければ、久美子自身は何も変えたくない。ずるいと言われても構わない。そういうずるくてちっぽけな人間性を、麗奈は好きになってくれたのではないのか?
挨拶から数十歩。秀一が何も言わないので、久美子は首を傾げて顔を見上げた。
「何?」
秀一は久美子を見ずに、何やら不機嫌な表情で黙っていたが、やがて重々しく口を開いた。
「お前、昨日高坂と何してたんだ?」
「何って、何が?」
「夜だよ」
ぶっきらぼうに投げられた言葉で、久美子は冷水をかけられたように一気に目が覚めた。
昨夜、宇治川の堤防で麗奈としていたすべてを、秀一に見られた? あんな帰り道でもない場所で、偶然に?
いや、違う!
刹那、久美子はすべてを理解した。
あれは、麗奈がわざと見せたのだ。昨日の朝、久美子が声をかけた時点から仕組まれていた。
麗奈がすぐには話したがらず、帰りに自分から声をかけると言ったのは、秀一の帰宅時間に合わせるためだった。帰り道で妙にキョロキョロしていたのも、秀一が見ていることを確認していたのだ。
久美子が顔色を変えて立ち尽くしたことが、そのまま答えになった。もとより、言い訳する言葉など持ち合わせていない。
「正直、気持ち悪いって思った」
冷めた声でそれだけ言って、秀一は一度も久美子を見ることなく行ってしまった。
……やられた。
呆然と立ち尽くしながら、自然と口元に笑みが零れる。
なんだろう、この清々しい気持ちは。変えたくないと思っていた関係を壊されてなお、麗奈に対して怒りの一つも沸いてこない。
ツンと澄ました余裕の表情で、一体どれだけ多くのことを考えていたのだろう。どれだけ焦り、どれだけ冒険したのだろう。そんな麗奈の心の内に思いを馳せると、むしろ可愛く思えてくる。
学校へ急ぐ。
乱暴に靴を履きかえると、階段を駆け上がった。そして、校舎の渡りで地味な反復練習をしていた麗奈の前に立って、仁王立ちで見下ろした。
「やってくれたね」
久美子が笑っていたせいかはわからない。麗奈は平然と顔を上げて、わざとらしく髪をかき上げた。
「もう気が付いたの?」
「秀一に三行半を突き付けられたよ」
「それは夫婦や恋人同士で使う言葉よ? 不愉快だわ」
そう言いながら、麗奈がふふっと笑う。
トランペットを拭いて、ケースに仕舞う。それを見届けてから、久美子は聞いた。
「結局、なんだったの? あのお昼のも含めて」
「なんでもないわ。久美子を独り占めしたかっただけ。私は友達は一人でいいって言ってるのに、久美子は他の子と仲良くしてて、妬いちゃったの。でも、お昼のはやりすぎたと思ったから謝ったでしょ? 嫌われたら意味がないし」
「別に嫌わないけど……」
頬を膨らませてそっぽを向く。文句の一つでも言ってやろうと思っていたが、はっきりと「妬いた」などと言われたら、許すしかないではないか。
「麗奈は、本当に私のことが好きなんだね」
「いつもそう言ってるじゃない」
呆れたように肩をすくめた。
最終的には、深読みしすぎた。麗奈は、久美子の煮え切らない態度に苛立っていたわけではない。単純に、秀一の好意そのものを警戒していたのだ。
久美子を秀一に奪われるリスクと、秀一を排除することで嫌われるリスク。その二つを天秤にかけた末、麗奈は前者を大を見た。
葉月については後者を選んだ。確かに久美子は今、秀一は必要としていないが、葉月と緑輝は失いたくない。麗奈はよく見ている。
「私も麗奈が好き」
そんな言葉が口をつく。
「わかってる」
「わかってない! 私自身がわかってなかったんだから」
力いっぱい否定すると、麗奈が驚いた顔をした。久美子は胸に溜まった息を吐き出した。
「麗奈に、全部思い出にするって言われた時、私本当に悲しかったの。部屋で一人で泣いて、怖くて、絶対に麗奈を失いたくないって思った。私、自分で思ってたより、ずっと麗奈のことが好きみたい」
あの晩、必死に麗奈のことを考えて、それでもわからなかった何か。
それは、自分が考えるより、麗奈が黄前久美子という人間を好きだということ。
久美子にはそんな自信はなかったし、自分もまたそこまで麗奈に依存しているとは思っていなかった。だから、いとも簡単に秀一のことを相談してしまった。
久美子が次の言葉を探して黙っていると、麗奈がすっと手を伸ばして、走ってきて乱れた久美子の襟を直した。
「ありがとう」
優しい眼差しで微笑む。
その声が本当に穏やかだったから、久美子は今回の一件はこれでようやく片付いたのだと、長い息を漏らした。
「もう試さないで。私は麗奈と、平和に過ごしたいの」
「たまには一波乱あった方が面白くない?」
「全然面白くない」
ぎゅっと一度、仲直りの握手をした。
朝のチャイムが鳴り響く。
雨降って地固まると言うが、出来ればずっと晴天でいてほしい。久美子は争い事が嫌いなのだ。
握り慣れた柔らかな手。
それが、いつも当たり前にあるのだと、決して自惚れないように──
自分の手を引く麗奈の嬉しそうな横顔を見つめながら、久美子は固く心にそう誓った。
─ 完 ─