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耳をつんざくような破裂音の後、硬い物の倒れる音と、床に落ちたと思われる金管楽器の悲鳴が響き渡って、久美子はビクッと身を強張らせた。
夕方遅くの音楽室には、パート練習を終えた多くの部員が集まり、思い思いに今日最後の時間を過ごしていた。
反射的に音のした方に顔を向けると、窓際に近い場所で、綺麗な長い黒髪の一年生がうずくまっていた。すぐ隣には、彼女の座っていた椅子が横になっている。バランスを崩した譜面台が時間をおいて音を立て、すでに床に転がっていたトランペットに重なった。
「麗奈!」
そう叫んだ久美子の声だけが、音楽室の防音材に吸収される。他には物音一つなく、その場にいた全員が息を呑んで立ち尽くした。
何が起きたのか理解できないように、頬を押さえて唇を震わせている麗奈の傍らに、二年生が立っている。後輩を叩いた自分の右手を見つめるその顔は、叩かれた麗奈以上に青ざめていた。
「優子……?」
消え入りそうな声がする。偶然久美子の近くにいた香織が、こちらも信じられないものを見るように、目を見開いて震えていた。
久美子はバッグを放り投げて駆け出した。
いつかこんなことが起きるのではないかと、誰もが思っていた。
コンクールの参加メンバーをオーディションで決めることになり、学年に関係なく上手な者がA部門で出場することになった。同時に、ソロパートもオーディションが行われ、トランペットは三年の香織を差し置いて、一年の麗奈が選出された。
これに、多くの反対の声が上がった。確かに技術的には麗奈の方が上である。それは香織自身も認めている。しかし、高校の部活動において、実力だけが優先されるべきなのかと。
もちろん、これまでもそのように決められていたなら、誰も異存はなかっただろう。しかし、これは顧問が滝に変わった今年からの方針である。上級生が反発するのも無理はなかった。
それでも、全国を目指すという目標を掲げたのは自分たちであり、全国を目指すためにより上手な者がソロを担当するのは当たり前だった。
そういう趣旨のことを、周りの反発を抑え込むために麗奈本人が言ったから、彼女に対する風当たりはさらに強くなった。
麗奈は自分は正しいことを言っていると胸を張っていたが、彼女が強くあればあるほど周囲は彼女を煙たがった。
吹奏楽はチームワークである。一人だけが上手だからと言って、チームの和を乱す者が適任とは思えない。そんな声まで上がり始めたが、滝がそれに加担することはなかった。
結果として、麗奈への嫉妬と怨嗟の声を孕んだまま、部活動は続けられていた。
そんな最中のことだった。
発端となったのがどういうやりとりだったかはわからない。ただ、麗奈がいなければソロを演じられるはずだった香織を崇拝している優子が、その麗奈を平手打ちする理由など、そう多くはない。
「麗奈!」
静寂の中、もう一度叫んで久美子は麗奈の肩を抱きしめた。その声に呼応するように、教室に音が戻ってくる。
不安を凝縮したようなざわめき。
それでも、こうして麗奈に駆け寄るのは自分一人しかいないのだと、久美子はどこか冷静にそんなことを思った。
「優子!」
悲鳴に近い声を上げたのは、部長の晴香だった。顔を上げると、珍しく厳しい顔をした晴香が早足で近付いてくる。
それより先に、麗奈が立ち上がった。久美子を押し退けて、一歩優子に近付いたかと思うと、その右手が優子の左頬を捕らえた。
パンッと小気味のよい音がして、優子が二歩よろめいて壁に手をついた。
晴香の足が止まり、再び部室に静寂が落ちる。凛とした声が響いた。
「これでおあいこだから! 何も問題は起きてないから!」
それだけで、何十人という部員すべてを黙らせる。麗奈は涙の浮かぶ目で威嚇するように周りを睨み付けると、実に手際よく片付けをして、久美子の腕を掴んだ。
「行こう」
強く引っ張られる。
あまりの勢いに、久美子は思考がついて行かなかった。ただ、麗奈に強く掴まれた腕の痛みが、なんだかとても嬉しかった。
麗奈は自分の教室まで来ると、乱暴に久美子を放り込み、すぐにドアを閉めた。
久美子はよろめきながら顔を上げる。教室には誰もおらず、窓の向こうに赤く焼けた空が広がっていた。
振り返ると、麗奈は床に座って壁にもたれていた。抱えた膝に頭をつけて、小さく肩を震わせている。
久美子はその前にしゃがんで、そっと麗奈の頭を抱きしめた。
「大丈夫だよ」
子供をあやすように、優しく髪を撫でてみる。こんなに弱々しい麗奈を見るは初めてだ。
しばらく髪を梳くように指を滑らせていると、麗奈が顔を上げた。瞳が涙で潤んでいるが、悔しいせいか、痛みのせいかはわからない。赤く腫れた頬が痛々しい。
「キスして」
随分ストレートに、麗奈が言った。
久美子は一瞬ためらった。廊下からは見えない位置だが、もう誰も戻ってこないと言うには、時間が早い。
もしドアを開けられたらと思ったが、目の前の友達が可愛すぎて、どうでもよくなった。
そっと片手を頬に沿えて、唇を重ねる。軽く抱きしめ合って、味わうように30秒ほど。
顔を離すと、麗奈が頬を紅潮させて、うっとりするように目を細めていた。久美子は恥ずかしくなって目を伏せる。
もじもじした10秒。唐突に麗奈が言った。
「ほんと、あいつ、信じられない!」
見ると、先ほどまでの柔らかな空気はどこへやら、口をへの字に曲げて憮然としている。
先輩に向かって随分な発言だが、叩かれたのだからそれくらいは許してあげよう。久美子としても、世界で一番大切な友達を傷付けられて、少なからず腹が立っている。
「もう決まったことを、いつまでもいつまでもぐちぐちぐちぐち、ほんっとにしつこいの!」
「優子先輩、香織先輩の信者だもんね……」
小さく笑って頷いた。陰口は言うのも聞くのも好きではないが、今日だけは仕方ない。
「私でいいじゃん。私の方が上手いんだから。何がいけないの?」
もう一度、抱えた膝に額をつける。顔を見せないようにするためだろうか。
「滝先生のやり方が気に入らないなら、辞めればいいのに」
納得がいかないと吐き捨てる。久美子は何も答えずに、そっと髪を撫でた。
麗奈はそれだけでは満足できなかったのか、まるで睨むように久美子の目を覗き込んだ。
「ねえ、久美子もそう思うでしょ?」
「そうだね」
久美子は渋々頷く。本当は、辞める辞めないというほど極端な話だとは思っていないが、今は麗奈に合わせておく。
麗奈はようやく口元に微笑みを浮かべた。
「よかった。私、間違ってないよね? 正しいことをしてるよね?」
質問を重ねる。久美子は答えに詰まった。
間違ったことは言っていないが、正しいことをしているかと言われると、どうだろう。友達として全面的に背中を押してあげたいが、もう少し敵を作らない態度を取った方がいいのではないかと思う。
しかし、先ほどの音楽室での周囲の様子を見ても、麗奈には本当に自分しか友達がいない。せめて自分だけは味方になってあげなければと、妙な親心が働いて、久美子は大きく頷いた。
「麗奈は正しいよ。ソロも、麗奈が吹いた方が絶対にいい成績が取れる」
胸がチクリと痛んだ。どうしても、片方を応援すると、もう片方を貶めた気分になる。はっきりと自分の意見を口にするのは苦手だ。
麗奈は小さく笑ってから、そっと久美子の体を抱きしめた。
「安心した。ありがとう、久美子」
そう言った麗奈の声が本当に安らいでいたから、久美子はまあいいかと思った。
音楽室での一件は、あの状況下において、本当に麗奈が上手く鎮めたと思う。
恐らく晴香は、優子を非難する言葉以外、持ち合わせていなかっただろう。優しい性格だが、有事の対応は得意ではない。
優子自身も後悔していたのは明白であり、麗奈が喧嘩両成敗に持って行ったのは、優子にとっても有り難かったはずだ。
滝の耳まで届いたかはわからないが、あの後二人が呼び出されるようなことはなかった。きっとあの一件は、このまま流れてくれるだろう。
その日、久美子は緑輝と葉月と3人で帰った。麗奈が、「今私と帰ると、久美子まで目をつけられる」と心配してくれたのだ。
その言葉にそのまま乗っかる自分もどうかと、落ち込みながら歩いていると、唐突に緑輝が言った。
「緑は、ソロは香織先輩が吹くべきだと思うな」
驚いて顔を上げる。緑輝が珍しく眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに唇を尖らせていた。
「どうして? よくわからないけど、高坂さんの方が上手なんでしょ?」
葉月が意外そうに聞き返す。
「それはそうだけど、年功と実力のバランスもあると思うし」
緑輝が難しいことを言う。要するに、年上を少しくらい立ててもいいのではないかということだ。
緑輝は聖女出身である。吹奏楽の名門から、どうして北宇治のような弱小に来たのかというと、競争の無いところで純粋に音楽を楽しみたかったと聞いたことがある。
そういう意味では、今の滝のやり方は、何か緑輝に昔の嫌なことを思い出させるところがあるのだろう。せっかく緩い吹奏楽部に入ったのに、結局また昔の空気に戻ってしまったわけだ。
葉月が納得できない顔をする。
葉月は運動部上がりである。学年に関係なく、ただ実力だけで勝敗の決まる世界を生きてきて、それを当然だと思っている。
全国を目指すなら、より上手な人間が担当するべきという彼女の意見ももっともだった。
そんな葉月に、緑輝が言った。
「滝先生が来る前は、北宇治はそんな学校じゃなかったんだよ? 久美子ちゃんの話だと、高坂さん、立華の推薦もらってたんでしょ? だったら、どうして北宇治に来たのってこと」
これには葉月もうーんと考え込む。その隣で、久美子も思わず腕を組んだ。
そういえば、初めてキスをした森の中で、麗奈は北宇治に来た理由は久美子がいたからだと言った。それは結局嘘だったのだが、その後本当の理由を聞いていない。
「レベルの低い北宇治なら、絶対にソロをやれるし目立てる。そう思ったのならわかるけど……」
呟きながら、緑輝はそれはないと首を横に振った。久美子も同感である。
麗奈はそんなお山の大将で満足する人間ではない。そもそも、麗奈の実力なら立華に行っても一番になれる。
「吹奏楽とは関係ない理由なのかもね」
葉月があまり興味なさそうにそう言って、その話はそこで終わった。
翌日、久美子の予想通り、部活は何事もなかったかのように行われ、部員の空気もいつも通りだった。
いつも通りというのは、もちろん麗奈に対しては冷たいという意味だが、相変わらず麗奈は気にしていないようだった。
本当に平気なのか、久美子は前に一度聞いたことがある。せめて自分の前では無理をしなくていいと言ったら、麗奈は憮然としながらこう返してきた。
「久美子は、私を悲劇のヒロインにでもしたいの?」
それ以来、久美子は麗奈は本当に大丈夫なのだと信じることにした。確かに、自分なら堪えられないから、麗奈もそうなのだと決め付けていた。麗奈はきっと、自分よりずっと強いのだ。
練習を終えてマウスピースを洗っていると、小さな足音が近付いてきた。顔を上げて確認すると、昨日麗奈を引っ叩いた優子だった。
そのまま通り過ぎてくれるのを願ったが、優子は久美子の隣で足を止めた。
「黄前さん、少しいい?」
背筋がゾクッとした。優子に呼びかけられたのは初めての気がする。
昨日の光景が脳裏に鮮やかに蘇る。大事な友達を叩かれた怒りもあったし、自分も叩かれるのではないかという恐怖も沸いてくる。
「なんですか?」
声が震えた。
「そんなに怖がらないで。昨日のは本当に私が悪かったから。ごめんなさい」
優子が申し訳なさそうに頭を下げた。
久美子は意外に感じた。謝る相手が違うとは思ったが、この先輩が素直に他人に頭を下げるとは思わなかった。
優子が踵を返して歩き始めたので、久美子は仕方なくついて行くことにした。理由をつけて断る方が、久美子には難題に思えた。
優子は適当な空き教室に入ると、机の上に座った。
「黄前さんは、ユーフォ、長いんだっけ?」
「7年になります」
短く、端的に答える。自分が警戒していることに、優子も気が付いているようだった。
「夏紀、高校からユーフォを始めたの。元々そんなにやる気もなかったし、あんまり上手じゃないでしょ?」
探るような目で優子。夏紀は久美子の先輩で、優子の同級生。久美子と同じユーフォニアムを吹いているが、優子の言う通りあまり上手ではなかった。
久美子は何も答えなかった。夏紀より上手い自負はあるが、先輩を下手だとは言いたくないし、優子の意図がわからないので安易な同意は憚られる。
もっとも、その沈黙は肯定と同じだった。優子は一度頷いてから、視線を逸らせて窓の向こうに目をやった。
「上手な黄前さんがAで、夏紀がB。夏紀もそれで納得してる」
「香織先輩は納得してないっていう話ですか?」
「もし逆に……」
久美子の質問を遮るように、優子が言葉を続けた。
「黄前さんがBで、夏紀がAだったらどう思う? 誰が聴いても黄前さんの方が上手なのに、学年が上だからっていう理由で、夏紀がAだったら」
「それは、ちょっと悔しいです」
少し考えてからそう答える。
緑輝には悪いが、やはり上手な者が評価されるべきだと思う。久美子は決して闘争心の強い方ではないが、打ち込んでいることが認められないのは悔しい。
「じゃあ、もしそうなったら、黄前さんは部活を辞める? それとも、Bで我慢して続ける?」
話が見えてきた。
吹奏楽部に二年生が少ない理由。滝が来る前まで、この部では技術の優劣に関わらず、学年が上の人間がAだった。それに反発した現二年生が、一斉に吹奏楽部を辞めていった。
もし自分がそうなら……。
「そうなってみないとわかりませんけど……続けるかもしれません。音楽は好きだし……」
「そう」
優子はあまり興味がないように頷いた。
「じゃあ、1年経って、次のコンクールでも同じようにBだったら? 一生懸命努力して、それでもやっぱりやる気のない夏紀がAだったら、黄前さん、どうする?」
音楽が好きで、コンクールに出るために頑張って、それがまったく報われなかったら。明らかに頑張っていない先輩がAで出場して、銅賞で満足して笑っていたら。
想像しただけで悲しくなる。夏紀のことはもちろんただの例だが、やはりその先輩に対して腹も立つし、顧問や風習に反発もするだろう。
何も言えない久美子に、優子が声の調子を柔らかくして言った。
「悔しい思いをして続けてきて、ようやく三年生になりました。夏紀も卒業しました。やっとコンクールにAで出られるかと思ったら、すごく上手なユーフォの一年生が入ってきました。どう思う?」
ああ……。
久美子は理解した。
香織は、ずっとBだったのだ。あんなにも上手なのに、認めてもらえなかった。
それでも腐らずに頑張ってきて、実力もつけて、満を持して迎えた高校最後のコンクールの直前に、反則レベルの新入生が入ってきた。
「今までなら、上手な一年が入ってきても黄前さんがAだった。2年間それで我慢してきた。実力も伴っている。それが今年から、いきなりやり方が変わって、その子がAで黄前さんはBになりました。どう思う?」
「それは……」
想像しただけで悲しくなった。思わず頭を抱える。
自分の3年間はなんだったのだろう。そうなったわけでもないのに、目頭が熱くなる。
「高坂さん、上手だと思うよ。私だって、高坂さんが香織先輩より上手なのはわかってる」
優子がため息をつく。
「でも、香織先輩も十分上手だよ? 2年間、ずっと我慢して練習して、本当に上手になって、ようやくソロが吹けると思ったら、ソロは一年生になりました」
熱くなった頬に涙が零れるのがわかった。
頭がくらくらする。あまりにもひどすぎて、事実であることを心が拒否している。
呆然とする久美子の頭上で、無機質な優子の声がした。
「ねえ。私やみんなが、香織先輩にソロを吹いてほしいって思うの、間違ってる?」