その日も麗奈はツンと澄まして、誰とも話さずに一人で練習していた。
思えば、麗奈が他の部員と喋っている姿を、ほとんど見たことがない。ましてや、部活に関係ない雑談となると、完全にゼロである。
友達は一人でいいと、麗奈は言った。久美子の前では楽しそうにしてくれるが、それ以外の多くの時間を一人ぼっちで、寂しくないのだろうか。
「麗奈」
声をかけると、久美子の大事な友達はほんの少しだけ表情を和らげた。胸がチクリと痛む。
果たしてこれから自分がしようとしていることは、正しいのだろうか。そもそもそれは、誰にとって正しいのだろう。
麗奈を昨日と同じ空き教室に導きながら、久美子は悩んだ。昨日優子に言われて、夜遅くまでさんざん悩み抜いた末に出した答えなのに、いざ麗奈の顔を見たら心が揺らぐ。
今その時目の前にいる相手が、一番嬉しいことを言う。そんな八方美人な人生を送ってきたせいで、何が自分の意見なのかわからなくなってしまった。
「単刀直入に言うと、ソロを香織先輩に譲ってあげてほしいの」
二人の他には誰もいない教室で、久美子はぽつりとそう切り出した。
まともに顔が上げられない。麗奈のスカートが、動揺のせいか少しだけ揺れた。
音楽室から、色々な楽器の混ざり合った無秩序な音が聴こえてくる。グラウンドからは、運動部の元気な掛け声。その中で、この教室だけがとても静かだ。
「ちょっと、意味がわからないんだけど」
麗奈の声がかすれていた。一度ツバを飲み込んで顔を上げると、麗奈はあらゆる感情の欠落した表情で久美子を見つめていた。
久美子はいたたまれなくなって、もう一度視線を落とした。
「ほら、陰口とか、ひどいし……」
「そんなの気にならないけど」
「香織先輩も、ほら、上手だし……」
「私の方が上手よ?」
「でもほら、香織先輩、三年生だし……」
「上手な人がやるって、滝先生が言ったよね?」
少しずつ、麗奈の声が熱を帯びてくる。明らかに苛立っている。
「香織先輩、頑張ってるし……」
「私だって頑張ってるわ」
「みんな、香織先輩に吹いてほしそうだし……」
「その『みんな』に、久美子も入ってるの?」
「えっ?」
思わず顔を上げると、冷たい瞳が久美子を貫いた。
「優子先輩に何を言われたの?」
冷静な中に、微かに混ざる動揺。久美子は一瞬、息をするのを忘れた。
香織先輩に吹いてほしい「みんな」に、自分は入っているのだろうか。今べらべら喋っていることは、果たして自分の意見なのだろうか。
昨日優子に言われた話が、脳内で再生される。あれを聞かせれば、麗奈の考えは変わるだろうか。そもそも自分はそれを望んでいるのか?
目を見開いて、思わず頭を抱えると、麗奈が心配そうな瞳で、そっと久美子の髪に触れた。
「優子先輩に何か言われたのね? でも、大丈夫よ。ごめんなさい。貴女まで巻き込んで」
「あっ……」
違う。違う!
久美子は麗奈の手を払い除けるように、頭を大きく振った。
優子は関係ない。たまたま教えてくれたのが優子だっただけで、過去の経緯を知って香織にソロを吹いてほしいと思ったのは、他でもない自分だ。
昨夜さんざん考えて、香織にソロを譲ってもらおうと、久美子は自分の意思でそう決めた。優子は関係ない。
久美子は一度口を引き結び、真っ直ぐ麗奈の目を見た。
「私も、香織先輩がソロを吹くべきだと思った。優子先輩の希望も、香織先輩の思いも関係ない!」
「久美子?」
麗奈が驚いた顔をして、行き場をなくした手を下ろす。綺麗な眉が思案げに歪む。
「香織先輩、あんなに上手なのに、去年も一昨年もBだったんだよ? それでもずっと頑張ってきたんだよ? 一度くらい、コンクールでソロを吹かせてあげようよ!」
「だから私に、一昨年の香織先輩と同じ目に遭えって言ってるの?」
「……っ!」
震えるほど静かな麗奈の言葉に、久美子は息を呑んだ。
ただ香織の努力が報われて欲しい。そう思ってのことだった。
麗奈には我慢してもらうつもりだったが、それが香織と同じ目に遭わせることだとは考えなかった。
心臓が早鐘のように響く。
「麗奈には、来年があるじゃない」
「来年、すごく上手な子が入ってきたら?」
「麗奈より上手な子なんて、入って来ないよ」
「そんなに私が上手なら、やっぱりソロは私が吹くべきよ」
ダメだ……。
気持ちが悪い。こんなにも激しく、自分の想いを誰かにぶつけたのはいつ以来だろう。
しかも、まるで伝わらない。話せば話すほど、麗奈の言っていることが正しいように思える。
いや、きっと麗奈が正しいのだ。そういう方針を、顧問の滝が示した。我が儘を言っているのは自分の方だ。
俯くと、床に涙が零れた。無性に悔しい。
「香織先輩に、ソロを譲ってあげて……」
「最後は感情論?」
「お願い」
「絶対に嫌」
はっきりとした拒絶。その言葉の冷たさに、数日前の音楽室の光景を思い出した。
思わず麗奈を叩いた優子。きっと今みたいに、正論でねじ伏せられたのだ。この冷酷な正しさの前に、自分たちの熱意はこんなにも無力だ。
「どうして……」
「何が?」
「どうして、北宇治なんかに入ったの?」
気が付くと、久美子は訊いていた。あの日、森の中で麗奈にはぐらかされた質問。
麗奈がなぜ立華を蹴って北宇治に来たのか。自分も、緑輝も、立華に行った旧友の梓も、誰もがそれを疑問に思った。
「最近の北宇治は、別に吹奏楽の強い学校じゃなかった。そんなにも冷淡に、実力だけで評価されたいなら、どうして北宇治なんかに入ったの? 立華にでも行けばよかったじゃない!」
勢いよく顔を上げると、涙がキラキラと光って散った。
「北宇治はみんなで仲良く楽しくの学校だった。偶然滝先生が来たから、麗奈は一年なのにソロになれただけなんだよ? もし滝先生が来てなかったら、麗奈はソロどころか、Bだったかもしれない。それとも何? 滝先生が来て、こういうふうになるって知ってたって言うの!?」
久美子の持つ最後のカード。
一体誰のためにこんなにも必死になっているのか、久美子にももうわからない。ただ、言葉が止まらない。
そんな久美子の切り札に、麗奈は一度瞳を伏せた。それから深く長く息を吐いて、優子に向けた冷たい眼差しで久美子を見た。
「そう。知ってたの」
「何を?」
「滝先生がこの学校に来ることを。私、滝先生のために、北宇治に入ったの」
久美子は、その言葉をすぐには理解できなかった。
理解した後、麗奈はでたらめを言っているのだと思った。言い返せなくなって、適当なことを言っているのだと。
「元々知り合いなの。滝先生がこの学校に来るって知って、私は立華を蹴った。私、滝先生が好きなの。だから、滝先生が期待して選んでくれたソロを降りるなんて、絶対にしない」
…………。
……?
今、麗奈は何を言った?
何も考えられず、呆けたように立ち尽くす。そんな久美子をしばらく睨み付けてから、麗奈は目を閉じて首を振った。
「もういい」
吐き捨てられた4文字。
もう話すことは何もないと言わんばかりに、その一言だけを残して、麗奈は教室を出ていった。
ベッドに寝転がると、あまりの気持ちの悪さに、先ほど胃に詰め込んだものを戻しそうになった。
食欲などまるでなかったが、「せっかく作ったご飯を捨てろと言うのか」と言われたら、食べないわけにはいかない。所詮自分は子供だ。
一度ツバを飲み込んで、胸を落ち着かせる。学校を出てから、ずっと動悸が収まらない。
麗奈の言葉が、ようやく理解できてきた。元々滝に師事するために北宇治に来たという麗奈。思い返せば、過去の不可解な言動もそれですべて合点がいく。
ただ、台詞の間に挟まれた一言が、上手く解釈できない。
──私、滝先生が好きなの。
あれはなんだったのだろう。恋愛対象として好きということだろうか。きっとそうなのだろう。
少し前、幼なじみの秀一が久美子を好きだと知って、麗奈はひどく焦っていた。最後には秀一を罠にはめ、その想いを排除した。
その麗奈が、滝を好きだと言ったのか?
この際、秀一のことはどうでもいい。自分は別に彼を好きではない。ただ、あれだけ久美子を誘惑しておいて、麗奈が普通に異性を好きだったということが、受け入れられない。
自分はからかわれていただけなのだろうか。それとも、これまでのすべては友情の延長だったのだろうか。
麗奈には久美子しか友達がいない。麗奈は「友達」に対してああいうことをする女の子だったという、それだけのことだろうか。
しかし、久美子は違う。麗奈を、葉月や緑輝とは違う目で見ていた。本当に好きだった。それは一方的な想いだったのだろうか。
わからない。わからない上、もう考えても仕方がない。
麗奈とのすべては終わってしまった。超えてはいけない一線を超えてしまった。彼女が一番大切にしているものを、真っ向から否定してしまった。
「何してるんだろ、私……」
目の上に腕を乗せる。涙が耳の方に流れていく。
香織にソロを譲ってほしい。そう頼んで、麗奈がどんな反応をする想定だったのか。
少し考えればこうなるとわかったはずなのに、昨夜は何時間も考えた末、麗奈が笑顔で承諾してくれると思った。どうしてだろう。
結局、自分勝手なのだ。高坂麗奈という人間を、まるで見ていなかった。
麗奈はトランペットを愛している。音楽を生き甲斐にしている。それなのに、自分が頼めばOKしてくれると自惚れた。
それを見透かされた。この結果は、当然の報いだ。
今度こそ無理だ。これまで様々なすれ違いを乗り越えて、ケンカするたびに絆を深めてきた。麗奈となら、ずっとやっていけると思っていた。
けれど、今度こそ本当に無理だ。麗奈の眼差しはもう、友達を見る目ではなかった。
ふらふらと、夢遊病者のように起き上がる。スマホを開くと、待ち受け画面で麗奈が笑っていた。
ぎゅっと抱きしめる。
「……っ……うぅ……」
喉が熱くて息が苦しい。二人で積み重ねてきた時間が、全部思い出になってしまった。もう二度と、麗奈の温もりに触れることはない。
こうして人は、失敗を繰り返しながら、大人になっていくのだろう。大切なものを失いながら、何度も朝を迎えるのだろう。
そしていつか、この胸の痛みも、本気で人を好きになったことも、懐かしく思い出すのだろう。お酒でも飲みながら、その時隣にいる誰かに、苦笑いしながら話すのだろう。
「うわあぁあああぁぁぁぁぁぁっ!!」
久美子は大声を上げた。頭から布団をかぶり、枕に顔を押し付けて絶叫した。
麗奈の名前を何度も何度も叫びながら、文字通り気を失うまで泣き続けた。
翌日、気が付いたら久美子は学校にいた。
誰かに「おはよう」と言われたが、顔も上げなかった。
葉月と緑輝が心配してくれたが、机に突っ伏したまま動かなかった。
授業中に当てられたが、何も言わなかったら怒られて座らされた。小テストは白紙で提出した。
何の言葉も耳に入らない。誰の声も心に届かない。
もう何も見たくない。何も聞きたくない。どんな傷でも時が解決するというのなら、いつかその時が来るまで心を閉ざそう。
虚ろな瞳で音楽室にいた。隣に誰がいるのかもわからない。膝の上にユーフォニアムがあるが、いつ用意したのかも覚えていない。
滝が入ってくる気配がした。反射的に立ち上がり、礼をして、座る。
きっと怒られるだろう。追い出されるかもしれない。それならそれでもいい。そういうことを考えることさえ億劫だ。
「先生、いいですか?」
その日初めて、久美子の鼓膜を震わせたのは、世界で最も愛した同級生の声だった。
ゆっくり顔を上げると、全員が椅子に座っている中、麗奈だけが立って真っ直ぐ滝を見つめていた。
意志の宿る黒い瞳。引き結んだ唇。静かな、それでいて力強い声で、麗奈が言った。
「先生、私をソロから降ろしてください」