※この作品はR-18です。

日常の隣で   作:水原渉

7 / 9
2

 その日も麗奈はツンと澄まして、誰とも話さずに一人で練習していた。

 思えば、麗奈が他の部員と喋っている姿を、ほとんど見たことがない。ましてや、部活に関係ない雑談となると、完全にゼロである。

 友達は一人でいいと、麗奈は言った。久美子の前では楽しそうにしてくれるが、それ以外の多くの時間を一人ぼっちで、寂しくないのだろうか。

「麗奈」

 声をかけると、久美子の大事な友達はほんの少しだけ表情を和らげた。胸がチクリと痛む。

 果たしてこれから自分がしようとしていることは、正しいのだろうか。そもそもそれは、誰にとって正しいのだろう。

 麗奈を昨日と同じ空き教室に導きながら、久美子は悩んだ。昨日優子に言われて、夜遅くまでさんざん悩み抜いた末に出した答えなのに、いざ麗奈の顔を見たら心が揺らぐ。

 今その時目の前にいる相手が、一番嬉しいことを言う。そんな八方美人な人生を送ってきたせいで、何が自分の意見なのかわからなくなってしまった。

「単刀直入に言うと、ソロを香織先輩に譲ってあげてほしいの」

 二人の他には誰もいない教室で、久美子はぽつりとそう切り出した。

 まともに顔が上げられない。麗奈のスカートが、動揺のせいか少しだけ揺れた。

 音楽室から、色々な楽器の混ざり合った無秩序な音が聴こえてくる。グラウンドからは、運動部の元気な掛け声。その中で、この教室だけがとても静かだ。

「ちょっと、意味がわからないんだけど」

 麗奈の声がかすれていた。一度ツバを飲み込んで顔を上げると、麗奈はあらゆる感情の欠落した表情で久美子を見つめていた。

 久美子はいたたまれなくなって、もう一度視線を落とした。

「ほら、陰口とか、ひどいし……」

「そんなの気にならないけど」

「香織先輩も、ほら、上手だし……」

「私の方が上手よ?」

「でもほら、香織先輩、三年生だし……」

「上手な人がやるって、滝先生が言ったよね?」

 少しずつ、麗奈の声が熱を帯びてくる。明らかに苛立っている。

「香織先輩、頑張ってるし……」

「私だって頑張ってるわ」

「みんな、香織先輩に吹いてほしそうだし……」

「その『みんな』に、久美子も入ってるの?」

「えっ?」

 思わず顔を上げると、冷たい瞳が久美子を貫いた。

「優子先輩に何を言われたの?」

 冷静な中に、微かに混ざる動揺。久美子は一瞬、息をするのを忘れた。

 香織先輩に吹いてほしい「みんな」に、自分は入っているのだろうか。今べらべら喋っていることは、果たして自分の意見なのだろうか。

 昨日優子に言われた話が、脳内で再生される。あれを聞かせれば、麗奈の考えは変わるだろうか。そもそも自分はそれを望んでいるのか?

 目を見開いて、思わず頭を抱えると、麗奈が心配そうな瞳で、そっと久美子の髪に触れた。

「優子先輩に何か言われたのね? でも、大丈夫よ。ごめんなさい。貴女まで巻き込んで」

「あっ……」

 違う。違う!

 久美子は麗奈の手を払い除けるように、頭を大きく振った。

 優子は関係ない。たまたま教えてくれたのが優子だっただけで、過去の経緯を知って香織にソロを吹いてほしいと思ったのは、他でもない自分だ。

 昨夜さんざん考えて、香織にソロを譲ってもらおうと、久美子は自分の意思でそう決めた。優子は関係ない。

 久美子は一度口を引き結び、真っ直ぐ麗奈の目を見た。

「私も、香織先輩がソロを吹くべきだと思った。優子先輩の希望も、香織先輩の思いも関係ない!」

「久美子?」

 麗奈が驚いた顔をして、行き場をなくした手を下ろす。綺麗な眉が思案げに歪む。

「香織先輩、あんなに上手なのに、去年も一昨年もBだったんだよ? それでもずっと頑張ってきたんだよ? 一度くらい、コンクールでソロを吹かせてあげようよ!」

「だから私に、一昨年の香織先輩と同じ目に遭えって言ってるの?」

「……っ!」

 震えるほど静かな麗奈の言葉に、久美子は息を呑んだ。

 ただ香織の努力が報われて欲しい。そう思ってのことだった。

 麗奈には我慢してもらうつもりだったが、それが香織と同じ目に遭わせることだとは考えなかった。

 心臓が早鐘のように響く。

「麗奈には、来年があるじゃない」

「来年、すごく上手な子が入ってきたら?」

「麗奈より上手な子なんて、入って来ないよ」

「そんなに私が上手なら、やっぱりソロは私が吹くべきよ」

 ダメだ……。

 気持ちが悪い。こんなにも激しく、自分の想いを誰かにぶつけたのはいつ以来だろう。

 しかも、まるで伝わらない。話せば話すほど、麗奈の言っていることが正しいように思える。

 いや、きっと麗奈が正しいのだ。そういう方針を、顧問の滝が示した。我が儘を言っているのは自分の方だ。

 俯くと、床に涙が零れた。無性に悔しい。

「香織先輩に、ソロを譲ってあげて……」

「最後は感情論?」

「お願い」

「絶対に嫌」

 はっきりとした拒絶。その言葉の冷たさに、数日前の音楽室の光景を思い出した。

 思わず麗奈を叩いた優子。きっと今みたいに、正論でねじ伏せられたのだ。この冷酷な正しさの前に、自分たちの熱意はこんなにも無力だ。

「どうして……」

「何が?」

「どうして、北宇治なんかに入ったの?」

 気が付くと、久美子は訊いていた。あの日、森の中で麗奈にはぐらかされた質問。

 麗奈がなぜ立華を蹴って北宇治に来たのか。自分も、緑輝も、立華に行った旧友の梓も、誰もがそれを疑問に思った。

「最近の北宇治は、別に吹奏楽の強い学校じゃなかった。そんなにも冷淡に、実力だけで評価されたいなら、どうして北宇治なんかに入ったの? 立華にでも行けばよかったじゃない!」

 勢いよく顔を上げると、涙がキラキラと光って散った。

「北宇治はみんなで仲良く楽しくの学校だった。偶然滝先生が来たから、麗奈は一年なのにソロになれただけなんだよ? もし滝先生が来てなかったら、麗奈はソロどころか、Bだったかもしれない。それとも何? 滝先生が来て、こういうふうになるって知ってたって言うの!?」

 久美子の持つ最後のカード。

 一体誰のためにこんなにも必死になっているのか、久美子にももうわからない。ただ、言葉が止まらない。

 そんな久美子の切り札に、麗奈は一度瞳を伏せた。それから深く長く息を吐いて、優子に向けた冷たい眼差しで久美子を見た。

「そう。知ってたの」

「何を?」

「滝先生がこの学校に来ることを。私、滝先生のために、北宇治に入ったの」

 久美子は、その言葉をすぐには理解できなかった。

 理解した後、麗奈はでたらめを言っているのだと思った。言い返せなくなって、適当なことを言っているのだと。

「元々知り合いなの。滝先生がこの学校に来るって知って、私は立華を蹴った。私、滝先生が好きなの。だから、滝先生が期待して選んでくれたソロを降りるなんて、絶対にしない」

 …………。

 ……?

 今、麗奈は何を言った?

 何も考えられず、呆けたように立ち尽くす。そんな久美子をしばらく睨み付けてから、麗奈は目を閉じて首を振った。

「もういい」

 吐き捨てられた4文字。

 もう話すことは何もないと言わんばかりに、その一言だけを残して、麗奈は教室を出ていった。

 

 ベッドに寝転がると、あまりの気持ちの悪さに、先ほど胃に詰め込んだものを戻しそうになった。

 食欲などまるでなかったが、「せっかく作ったご飯を捨てろと言うのか」と言われたら、食べないわけにはいかない。所詮自分は子供だ。

 一度ツバを飲み込んで、胸を落ち着かせる。学校を出てから、ずっと動悸が収まらない。

 麗奈の言葉が、ようやく理解できてきた。元々滝に師事するために北宇治に来たという麗奈。思い返せば、過去の不可解な言動もそれですべて合点がいく。

 ただ、台詞の間に挟まれた一言が、上手く解釈できない。

 ──私、滝先生が好きなの。

 あれはなんだったのだろう。恋愛対象として好きということだろうか。きっとそうなのだろう。

 少し前、幼なじみの秀一が久美子を好きだと知って、麗奈はひどく焦っていた。最後には秀一を罠にはめ、その想いを排除した。

 その麗奈が、滝を好きだと言ったのか?

 この際、秀一のことはどうでもいい。自分は別に彼を好きではない。ただ、あれだけ久美子を誘惑しておいて、麗奈が普通に異性を好きだったということが、受け入れられない。

 自分はからかわれていただけなのだろうか。それとも、これまでのすべては友情の延長だったのだろうか。

 麗奈には久美子しか友達がいない。麗奈は「友達」に対してああいうことをする女の子だったという、それだけのことだろうか。

 しかし、久美子は違う。麗奈を、葉月や緑輝とは違う目で見ていた。本当に好きだった。それは一方的な想いだったのだろうか。

 わからない。わからない上、もう考えても仕方がない。

 麗奈とのすべては終わってしまった。超えてはいけない一線を超えてしまった。彼女が一番大切にしているものを、真っ向から否定してしまった。

「何してるんだろ、私……」

 目の上に腕を乗せる。涙が耳の方に流れていく。

 香織にソロを譲ってほしい。そう頼んで、麗奈がどんな反応をする想定だったのか。

 少し考えればこうなるとわかったはずなのに、昨夜は何時間も考えた末、麗奈が笑顔で承諾してくれると思った。どうしてだろう。

 結局、自分勝手なのだ。高坂麗奈という人間を、まるで見ていなかった。

 麗奈はトランペットを愛している。音楽を生き甲斐にしている。それなのに、自分が頼めばOKしてくれると自惚れた。

 それを見透かされた。この結果は、当然の報いだ。

 今度こそ無理だ。これまで様々なすれ違いを乗り越えて、ケンカするたびに絆を深めてきた。麗奈となら、ずっとやっていけると思っていた。

 けれど、今度こそ本当に無理だ。麗奈の眼差しはもう、友達を見る目ではなかった。

 ふらふらと、夢遊病者のように起き上がる。スマホを開くと、待ち受け画面で麗奈が笑っていた。

 ぎゅっと抱きしめる。

「……っ……うぅ……」

 喉が熱くて息が苦しい。二人で積み重ねてきた時間が、全部思い出になってしまった。もう二度と、麗奈の温もりに触れることはない。

 こうして人は、失敗を繰り返しながら、大人になっていくのだろう。大切なものを失いながら、何度も朝を迎えるのだろう。

 そしていつか、この胸の痛みも、本気で人を好きになったことも、懐かしく思い出すのだろう。お酒でも飲みながら、その時隣にいる誰かに、苦笑いしながら話すのだろう。

「うわあぁあああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 久美子は大声を上げた。頭から布団をかぶり、枕に顔を押し付けて絶叫した。

 麗奈の名前を何度も何度も叫びながら、文字通り気を失うまで泣き続けた。

 

 翌日、気が付いたら久美子は学校にいた。

 誰かに「おはよう」と言われたが、顔も上げなかった。

 葉月と緑輝が心配してくれたが、机に突っ伏したまま動かなかった。

 授業中に当てられたが、何も言わなかったら怒られて座らされた。小テストは白紙で提出した。

 何の言葉も耳に入らない。誰の声も心に届かない。

 もう何も見たくない。何も聞きたくない。どんな傷でも時が解決するというのなら、いつかその時が来るまで心を閉ざそう。

 虚ろな瞳で音楽室にいた。隣に誰がいるのかもわからない。膝の上にユーフォニアムがあるが、いつ用意したのかも覚えていない。

 滝が入ってくる気配がした。反射的に立ち上がり、礼をして、座る。

 きっと怒られるだろう。追い出されるかもしれない。それならそれでもいい。そういうことを考えることさえ億劫だ。

「先生、いいですか?」

 その日初めて、久美子の鼓膜を震わせたのは、世界で最も愛した同級生の声だった。

 ゆっくり顔を上げると、全員が椅子に座っている中、麗奈だけが立って真っ直ぐ滝を見つめていた。

 意志の宿る黒い瞳。引き結んだ唇。静かな、それでいて力強い声で、麗奈が言った。

 

「先生、私をソロから降ろしてください」

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。