教室が静まり返った。
久美子も意識を引き戻された。思わず目を見開いて麗奈を見る。
「どうしてですか?」
あくまで穏やかな滝の声。しかし、麗奈を見つめる目には非難の色があった。
その目を真っ向から睨むように見つめ返して、麗奈が口を開く。
「一身上の都合です。迷惑を承知のお願いです」
「ソロを中世古さんに譲るということですか?」
「後任を誰にするかは、私の決めることではありません」
全員が、息をするのも忘れて見守っている。ふと隣を見ると、あすかが座っていた。他人に興味のないあすかですら、驚いた顔をしている。
思わず香織の姿を探すと、斜め前に座っていた。後ろからなので表情はわからないが、上げた顔は麗奈に向けられている。
物音ひとつしない音楽室に、いつもより低い滝の声が浸透する。
「理由は、聴かせてはもらえませんか?」
「つまらない理由なので、話したくありません。でも、私には大切な理由なんです」
麗奈は引き下がらない。昨日、絶対にソロを降りないと言った時と同じ強い瞳で、今度は麗奈が好きだと言った滝を相手に、ソロを降ろせと言っている。
久美子は混乱した。元々働きの悪い思考回路に、今の事態は処理できない。
永遠に近い20秒ほどの沈黙があった。いたたまれずに周囲を見ると、あれほど麗奈を降ろしたがっていた先輩たちが、みんな俯いて気まずそうにしている。
なんて勝手なのだろうと思ったが、すぐに自分も人のことは言えないと気が付いた。むしろ、一度は麗奈に味方しながら裏切った自分が、一番卑怯な気がした。
滝がため息をつき、それから香織に目をやった。
「中世古さん。高坂さんがソロを降りるなら、私はソロを中世古さんにお願いしたいです。どうですか?」
張り詰めた空気。麗奈は五線の引かれた黒板を凝視したまま、ピクリとも動かない。
「一日、考えさせてください」
ようやく、香織がそれだけ言った。動揺した声。喜怒哀楽はわからない。
「わかりました。私としては、中世古さんにお願いしたいです」
滝が小さく頭を下げてから、鋭い瞳を麗奈に向けた。
「それから、もし中世古さんが引き受けたら、その時点で今回のコンクールでは、高坂さんがソロを吹くことは絶対にありません。いいですね?」
「はい」
一切の迷いもなく、麗奈がはっきりと頷いた。
各自パート練習のために解散になったが、久美子はぼんやりしたまま座っていた。
ふと光が遮られて、顔を上げると、麗奈がなんとも言えない表情で久美子を見下ろしていた。
「ひどい顔をしてるわね」
そっと頬に触れられる。麗奈の手はひんやりしていた。
撫でられた皮膚がざらざらしている。昨日泣き続けて荒れた肌。目の下にはクマができ、ブラシの一つもかけてこなかった髪はボサボサだ。
「少し熱があるわね。今日はもう帰った方がいいんじゃない? 私から滝先生に言おうか?」
額に手を当てながら、麗奈が心配そうな顔をする。
たった今、あれだけ滝の期待を裏切りながら、平然と話しかけに行くという。この子は一体、どれだけ心が強いのだろう。
ふわふわした頭でそんなことを考える。
上手く言葉が出て来なくて、久美子は黙って麗奈の顔を見つめていた。麗奈は特に急かすでもなく、そんな久美子を楽しそうに眺めながら、優しく髪を撫で続ける。
まるで音楽室に二人しかいないような時間。それを打ち破ったのは、三年生の先輩だった。
「麗奈ちゃん、ちょっといい?」
言うまでもなく、香織だった。いつもの温和な微笑みはどこへやら、綺麗な顔が不機嫌に歪んでいる。
麗奈はやはり無感情な目で香織を見た。
「この子も一緒で良ければ」
香織が怪訝そうに久美子を見下ろす。それからすぐに顔を上げて、「わかった」と頷いた。
麗奈に手を引かれながら、入ったのは優子と話した教室だった。麗奈と話したのもここだったし、これで三回目になる。
麗奈は適当な椅子に久美子を座らせ、香織のことなどまったく気にしていないように、久美子の髪を撫でた。まるで人形扱いだ。
「どうしてソロを降りたの? それで、私が喜ぶと思ったの?」
香織の語気に怒りが混ざる。ドアの向こう側に人の気配がした。何人か野次馬がいるようだ。
麗奈は涼しい顔で答えた。
「言った通り、私の個人的な事情です。香織先輩には関係ありません」
「それを信じろって? 私に同情して、ソロを譲ってくれたとしか思えない!」
「香織先輩がそう解釈するのは勝手ですけど、私は一言もそんなことは言ってませんし、私以外の誰がソロを吹こうが興味ありません」
久美子は二人の言い争いをぼんやりと眺めている。
麗奈の言った通り、熱があるらしい。頭がまるで働かない。
「納得できない。今のままじゃ、ソロは受けられない」
「じゃあ、断ればいいんじゃないですか?」
「そういうわけにもいかないでしょ!」
香織が怒鳴る。この人もこんなふうに感情的になるのかと、久美子は意外に思った。麗奈は人を怒らせる天才だ。
「みんな全国を目指して頑張ってる。そのためには、ソロは貴女が吹くのが一番いいって、みんなそう思ってる。私だって……」
「その割には香織先輩、ソロの練習してますよね?」
「っ!!」
香織の顔が赤くなる。9割方、怒りのためだろう。
ソロが麗奈に決まった後も、香織はソロパートの練習をしていた。もちろん、麗奈にもしものことがあった時のためだろうと久美子は思っていたが、そうではなかったのかもしれない。
「私を、バカにしてるの?」
香織の拳が握られる。それが麗奈を傷付けることがないよう、久美子は祈った。
麗奈が大きくため息をついた。
「私は、本当に香織先輩には興味がないんです。ごめんなさい」
それは、どんな非難よりも辛辣な一言だったかもしれない。香織が本当に悲しそうな顔をした。
「じゃあ、どうしてソロを降りたの?」
力ない声。さすがに悪く思ったのか、麗奈は一度久美子の髪を見下ろしてから、真っ直ぐ香織の目を見つめた。
「この子がそうしろって言ったからです」
ポンと、両手を久美子の肩に置く。
「つまらない理由ですよね? それに、もしあの場でそんなことを言ったら、久美子が槍玉に挙げられる。きっと誰も信じてくれない。でも、本当にそれだけなんです。たったそれだけが、私にはすごく大事なことなんです」
久美子は、心の整理は後からすることにした。展開があまりにも急すぎて、心も頭もついていけない。
30秒くらい、香織は唖然としたまま視線を彷徨わせ、最後に久美子を見た。
「久美子ちゃんは、どうして麗奈ちゃんにそんなことを?」
久美子は視線を落とした。
何か答えなくてはいけない。熱っぽい頭をフル回転させる。
発端は優子の一言だった。ただ、それを言えば今度は優子が非難される。それに、麗奈に言った通り、優子は事実を教えてくれただけで、直接は関係ない。
すべては自分の思いなのだ。
──香織先輩のソロを、私が聴きたかったからです。
言いかけたその言葉を飲み込む。もしそう言えば、久美子の個人的な希望で、部全体のとても大事なことを変えてしまったことになる。
それは事実なのだが、香織が良しとするはずがない。もう一度麗奈を説得するよう言われるだろう。
──麗奈より、香織先輩がソロを務めた方が、全体のバランスが良くなります。
それも無しだ。そうしたら、みんなが麗奈を嫌いという感情論で、演奏が下手になっていると認めることになる。それはきっと、香織を傷付ける。
上手く言葉が出て来ない。髪を撫でる麗奈の手の感触だけが温かい。
「私に、同情したの?」
香織の声に非難と困惑が混ざる。突然の第三者の登場。麗奈の理由は恐らく香織にとって、まったくの想定外だったろう。
麗奈は何も言わない。ただ、突き放しているわけではない。子供のお遣いを見守る母親のような気持ち。それが、髪に触れる指先から伝わってくる。
「そうです」
はっきりと、久美子は頷いた。
きっともう、何を言っても香織を納得させられない。それなら、本音ベースで肯定しよう。
ずっと努力が報われなかった香織が可哀想だった。上から目線で同情した。それがたった一つの真実だ。
「私、嬉しくない……」
香織が項垂れて、悲しそうに瞳を伏せる。涙声はかすれて、熱を帯びていた。
久美子は何も言えない。
重苦しく沈澱する空気を、やはり麗奈が立ち切った。
「もういいですか?」
顔を上げた香織の瞳から、涙が零れ落ちた。綺麗な滴が頬を伝う。淡々と、麗奈が言った。
「この子は自分の気持ちを素直に言っただけで、ソロを降りる決断をしたのは私です。この子はただ、理不尽な理由でずっとBだった香織先輩に、ソロを吹いてほしかっただけです。優子先輩も、みんなもそうです。香織先輩にソロを吹いてほしいだけで、私を降ろしたいわけじゃないんです」
麗奈が久美子の手を引いた。急に立ち上がったからか、眩暈がして思わず麗奈に寄りかかった。
「その『みんな』に、麗奈ちゃんも入ってるの?」
聞き覚えのあることを、香織が言った。
「さっき言った通り、私は、香織先輩には興味ありません。私は、この子のことだけでいっぱいなんです」
香織がどう思ったのか、久美子にはわからない。傷付けたかもしれない。
ただ翌日、みんなの前で、香織はソロを引き受けると宣言した。
その事実だけで、久美子は良しとした。
今はもう使っていない演劇部の部室は埃っぽくて、歩くと靴の跡が残った。
入口のドアの鍵をかけると、麗奈は部室のさらに奥、準備室という名の物置部屋の鍵を開ける。
何やら演劇の道具がごちゃごちゃ置かれた奥に、大きめのソファが置いてあった。そこだけ綺麗に雑巾で拭かれた形跡がある。
麗奈は準備室のドアにも鍵をかけて、電気をつけた。
「要は、お昼なら問題ないと思うの」
独り言のようにそう言ってから、明るく笑う。確かに、夜ならわずかに漏れる光も目立つが、日中ならわからない。ましてや土曜日の昼ならなおさらだ。
突っ立ったままの久美子の手を取って、ソファに座らせる。隣を空けたが、麗奈はそこには座らずに、正面から久美子を抱きしめた。
「はぁ、良かった」
麗奈が独りごちる。久美子は麗奈の背中に手を回して、その体を強く引き寄せた。
もう二度と、一生触れることはないと諦めた麗奈が、腕の中にいる。そう考えるだけで、涙が溢れてくる。
「私、前に一波乱あった方が面白いって言ったけど、あれ嘘だから。もうそろそろ勘弁して。私は久美子と平和に過ごしたいの」
「それ、私が前に言った」
無言で抱きしめ合ってから、どちらからともなく唇を重ねる。くちゃくちゃと、わざと音がするように激しく舌を絡めてから、麗奈が顔を離した。
「本当に、いい加減にして。なんなの? 久美子は私に意地悪してるの?」
「してないけど……。麗奈も、色々考えた?」
「当たり前でしょ!」
ぴしゃりと言い放つ。怒られたのになぜか嬉しかった。
「麗奈は平気なのかと思った。私、ほとんど死んでたのに、麗奈はいつも通りだったし」
「平気なわけないじゃない」
麗奈が呆れたように息を吐いて、久美子の隣に座った。
「私がどれだけ今回のソロを大事にしてたか、少しは考えてくれた? なんなの? なに簡単に懐柔されてるの?」
「だって、香織先輩が可哀想で……」
「また来年、可哀想な先輩が現れて、私はソロが吹けないのね。わかったわ」
「怒ってる?」
「怒ってるに決まってるじゃない!」
麗奈が声を荒げて、久美子は思わず身をすくめた。
「なんなの? 本当に楽しみにしてたソロは吹けない。滝先生には呆れられる。あの後滝先生に呼び出されて、ため息つかれたのよ? なんなの? 私が久美子と塚本の仲をぶっ壊した仕返しなの?」
「ああ、それ、一応気にしてるんだ」
全然関係ないことに、えへへと笑う。麗奈がきつく睨み付けて、パチンと音がするくらい強く、両手で久美子の頬を挟んだ。
「久美子。今回は私、本当に貴女を捨てるつもりだった」
「うん……」
「あの日家に帰ってから、トランペットとか、ソロとか、滝先生とか、自分の好きなものを並べて、よく考えたの。そうしたら、ソロと貴女が残った」
「滝先生は?」
「久美子に聞かれたから、この学校に来た理由を話しただけよ。今でも好きよ? 尊敬はしてる。でも、今は久美子が一番好きだって、そんなこと、わかってるでしょ?」
真顔で言われて、久美子は曖昧に笑って頷いた。
久美子はいつだって自分に自信がない。今回も、本当にもう麗奈とは終わってしまったと思った。
「昨日、朝から貴女の元気がなかった。それで、久美子もいっぱい悩んでくれたんだなって思ったら愛おしくなって、ソロももういいやって思ったの」
「いっぱい悩んだよ。今でもこうして麗奈と一緒にいられるのが信じれないくらい、本当に諦めた」
「なんでそこで諦めるの? もっと関係を修復する方向に力を入れてよ」
麗奈が心底呆れたようにそう言って、久美子ははっとなった。確かに今回、麗奈に好かれる努力を何一つしなかった。嫌われたら、もう戻れないと諦めた。
そんな久美子を見て、麗奈が深い深いため息をついた。
「ケンカして、貴女が一人で諦めて、私が頑張って仲直りするこの流れ、なんとかならないの?」
「だって……。自信がないんだよ、私……。麗奈みたいな綺麗で、頭も良くて、トランペットも上手な子が、どうして私なんかを好きなんだろうって、今でも思ってるよ」
「なんで? 私だっていっぱい欠点あるわよ? 人付き合いは下手で、すぐに人を怒らせるし、性格は貴女と同じくらい悪いし、融通は利かない。冷たいってよく言われるし、人のために頑張るとか好きじゃないし」
さりげなく悪口を言われたが、流しておいた。
抱きしめられて、ソファに強く押し付けられる。乱暴に唇をむさぼられて、久美子はあまりの気持ち良さにくらくらした。何度しても、キスは飽きない。
乱暴に掻きむしるように久美子の髪を撫でてから、麗奈はすくりと立ち上がった。
「罰として、今日は今から、私の命令に従いなさい」
強い口調で言い放つ。真顔で久美子を見下ろしているが、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「えー……」
「いいじゃない。貴女に言われてソロも諦めた。香織先輩とケンカもした。今日も貴女と過ごすためにこの部屋を用意した。久美子も少しくらい私にサービスしてよ」
「わかったよ……」
渋々頷く。確かに今回、香織のためには勇気を出したが、肝心の麗奈のためには何一つ動いていない。
前に、愛を勘違いするなと怒られた。本当は、身内こそ大切にしなくてはいけない。
麗奈は満面の笑みを浮かべて、それからスマホを取り出した。
「じゃあ、脱いで。全部」