準備室には窓がなく、滞留した空気は古い匂いがする。
ふと顔を上げると、何かの劇に使ったのか、グロテスクな被り物が棚の上から顔を出していた。
「……はい?」
久美子はにっこり笑って麗奈を見上げた。麗奈はなんでもないようにスマホをタップしながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「脱いで。全部。下着も」
「いやいやいや、どうしてそうなるの?」
「どうしてって。ケンカした後、いつもエッチなことするじゃない、私たち」
平然とそう言われて、久美子は思わず赤くなって俯いた。
確かにそうなのだが、それはたまたまそういう空気の中でそうなるのであって、別にそういう……。
「ごちゃごちゃ考えなくていいから、脱いで。保健室で一回素っ裸になってるんだし、いいじゃない」
「あ、あれは……ほら、暗かったし……。ムードとか……」
「今日はそういうのはいいから。私は怒ってるの。命令に従って」
怒ってると言いながら、顔には意地悪な笑みが張り付いている。あからさまにからかっている。
久美子は諦めた。こんなに明るい場所で恥ずかしいことこの上ないが、それで麗奈が笑ってくれるなら、少しくらいは我慢しよう。
ホックを外してスカートを下ろす。今日は飾り気のない、水色の地味な下着で、もっと可愛いのを穿いてくれば良かったと後悔した。
「スカートから脱ぐのね」
「い、いいじゃない!」
「別にいいけど。照れてる久美子、本当に可愛い」
スマホがカシャカシャ音を立てる。
「ねえ、私の写真、本当に何に使ってるの?」
もぞもぞと上を脱ぎながら聞いてみる。あの森の中の土下座の写真から今日まで、一体麗奈の持つ「久美子コレクション」とやらは、何枚になっているのだろう。
「たまに見て楽しんでるだけよ?」
「変なことに使ってない?」
「変なことって?」
「わかんないけど……」
上を脱いだら、ブラジャーは紐の部分にもレースの入った、久美子の持っている中でもなかなか可愛いやつだった。ただいかんせん、上下お揃いではないし、何よりカップサイズが小さい。
「こんなことなら、もっとちゃんとしたのを着けてきたのに」
お腹が出ていないかとか、体形は変ではないかとか、色々気になって来る。
「変じゃない?」
「可愛いわよ? こっちに来て」
促されて麗奈の前に立つと、麗奈が剥き出しになった太ももに触れた。ひんやりした指先の感触。それが下着を通過して、お腹まで撫で上げる。
「んっ……」
「気持ち良かった?」
「くすぐったいだけ!」
麗奈は楽しそうに久美子の体を撫でている。最近怒っている麗奈ばかり見ていたので、なんだかいつも以上に可愛く感じる。
「ねえ、麗奈も脱いでよ」
「嫌よ」
絶望した。
肩から腕のラインを指先でなぞってから、腋の下から手を入れる、ブラジャーのホックが外されて、肩の締め付けが緩んだ。
外したブラジャーをソファの上に置くと、麗奈は露わになった久美子の小振りの胸を手の平で包み込んだ。
「すごく恥ずかしいんだけど」
「だからいいんじゃない。羞恥心は大事よ?」
一度手を離して、数枚写真を撮る。麗奈にその気がなくても、何か間違って流出とかしたらどうしようと、少し怖くなったが、まあその時は麗奈に一生責任を取ってもらおう。
「肌、綺麗ね」
「そう?」
「噛んでいい?」
「痛くしないなら」
最大限譲歩して許可すると、麗奈が子供のように顔を綻ばせた。どうもこの子は、性癖がおかしいように思う。
麗奈は久美子の胸を口に含むと、先端を舌先で転がした。痒いような感覚が全身を襲って、身震いする。
それから舌で胸の曲線をなぞり、鎖骨の下の柔らかいところを甘噛みした。久美子は麗奈の頭を抱きしめる。
肩や腕の肉を歯で挟んだり吸ったりしながら、麗奈がそっとヘソに手を当てて、少し肌を押して下着に滑り込ませた。
じょりじょりと、麗奈の指先が縮れたヘアを撫でる。下着からはみ出すほどの量ではないので、処理とかしたことがないが、大丈夫だっただろうか。
麗奈が下着を下ろす。明るいところでまじまじと見られると、余計に心配になった。
「ねえ、変じゃない?」
「さあ。自分のしかじっくり見たことがないから、わかんない。普通じゃない?」
いかにもテキトーにそう言いながら、久美子をソファに座らせる。
スマホでパシャパシャ撮られながら、一体自分は真っ昼間から、全裸で何をしているのかと冷静になった。しかも学校でだ。
「完全に変態だと思う」
「それでも私は、久美子が好きよ?」
「私じゃなくて!」
麗奈が久美子のそこそこ肉付きの良いお尻を撫でる。ソファの上に四つん這いで座らされると、麗奈が上からのしかかるように抱きしめてきた。首筋に舌を這わせながら、左手でささやかな膨らみを包み込む。
右手はそっと久美子の股にあてがわれ、中指がいつの間にかしっとりと濡れた合わせ目に沈み込んだ。
指先の動きに合わせて、ぴちゃぴちゃとイヤらしい音を立てる。久美子はだんだん気持ち良くなってきて、体を支える力が抜けた。
ソファに崩れ込むと、麗奈が背中から覆いかぶさる。
「ん……んっ……。あっ! くぅ……」
ぬるりと、麗奈の指が久美子の中に入ってきた。全身が痺れる。思えば、そこに何かを入れるのは、人生で初めてだ。
まったく経験したことのない感覚。じんじんして、肉の感触が生々しくて、それが恥ずかしさとブレントして頭の中が真っ白になってくる。
開きっ放しの口に、麗奈が左手の指を突っ込んだ。舌の上をかき回されると、大量の唾液が指を伝ってソファに流れ落ちる。
「久美子、すごくエッチな顔してる……」
「知らないし……」
麗奈は久美子の唾液でベタベタになった左手を、一度右手に絡めた。新しい液体を得た右手の人差し指と中指が、久美子の未発達の入口をこじ開ける。
それが中に入ってくると、下半身に痛みが走った。
「麗奈、待って。ちょっと痛い!」
「ダメ。待たない」
「麗奈!」
第二関節までねじ込まれると、ナイフで切られたような鋭い痛みが背筋を駆け上がり、久美子は思わず悲鳴を上げた。ソファの縁にしがみついて呻く。
「ああっ、痛い……麗奈、痛い。本当に痛い!」
「もっと力を抜いて」
「無理だし! あああ、痛い痛い! もうダメ! やめて!」
麗奈が指を広げながら、関節で曲げ伸ばしを繰り返す。体が裂けるような痛みが断続的に突き上げて、久美子は身をよじらせながら叫んだ。
頭上で麗奈の呑気な声がする。
「久美子って、痛いのは好きだっけ?」
「それは私じゃない! 麗奈でしょ!?」
「久美子の痛がる声、すごく可愛い。前に噛んだ時も思ったけど。宝物にする」
意味を問うより先に、麗奈が2本の指を根元まで突き刺し、一番深い場所を指先でこりこりと挟み込んだ。お腹を中から押される不思議な感覚。
しかし、そんなことよりも入口が痛すぎて、久美子は目がチカチカした。注射の針を刺された後、それをかき回されるような痛み。
「ああーっ! 痛い! うあああぁぁっ! 麗奈、もうやめて! 痛い、痛いっ!」
本気で暴れると、ようやく麗奈が解放してくれた。指を抜かれても異物感が消えず、股間がひりひりする。
片手でお腹を押さえ、もう片方の手で涙を拭うと、麗奈を睨み付ける。麗奈はそれを気にせず、片手で器用に写真を撮ってから、先ほどまで久美子を苦しめていた指を突き付けてきた。
蛍光灯に照らされてぬらぬらと光る指先に、綺麗な赤が混じっている。何が楽しいのか、麗奈が満足げに頷いて言った。
「これでおあいこね」
「何がおあいこなのか、全然わかんない」
「いいからいいから」
麗奈がそっと抱きしめてくる。久美子も麗奈にしがみついて、キスをした。
ズキズキと嫌な疼きは消えないが、大好きな麗奈の匂いと、舌の感触に朦朧とする。髪を撫でられるのも好きだし、背中を引き寄せられるのも気持ちがいい。
あの森の中でのファーストキスみたいなのも、またしてみたい。やっぱり服も脱がせよう。肌と肌の触れ合う感触を、久しぶりに味わいたい。
「じゃあ、そろそろ部活に戻ろうか」
唇を離し、しれっとそう言った麗奈に、久美子はにっこり微笑んだ。
「そんなわけないでしょ?」
力いっぱいソファに押し倒す。
麗奈が可愛い悲鳴を上げながら横たわる。
自分の両手両足に挟まれて、麗奈がすぐ近くでじっと自分を見つめている。決して手放したくない、可愛い可愛い大事な友達。
「もうどこにも行かせないから」
静かにそう言ってから、もう何度目かわからないキスをした。
空が高い。
ユーフォニアムを抱えて、一人で中庭のベンチに座っている。来るはずの麗奈がなかなか現れない。
スマホを手にして、写真フォルダをタップする。サムネイルでわかる、明らかに異質な肌色の1枚を開くと、画面にいっぱいに上半身裸の麗奈が映し出された。
照れて口元を隠している仕草が実に可愛い。形のいい大きなおっぱいも魅力的だ。
結局あの後、麗奈も裸にして、力尽きるまでイチャイチャしたのだが、その最中に撮らせてもらったものだ。
自分が被写体としてどうかは別にして、麗奈が久美子コレクションを作る気持ちが少しだけわかった。
思わずにやにやしながら眺めていると、いきなり後ろから強く頭を叩かれた。驚いて振り返ると、トランペットを持った麗奈が怖い顔で立っていた。
「バカなの? ねえ、バカなの?」
「いきなり何? 痛かったんだけど」
「バカなの? 久美子って、私が思ってるより遥かにバカなの?」
久美子がスマホを仕舞うと、麗奈が隣に腰かけた。
「本当に、そういうの、学校では開かないで。今後ろにいたのが加藤さんとかだったら、どうするつもりだったの?」
「ごめん」
麗奈が思いの外本気で怒っているとわかったので、久美子は素直に反省した。
個人練習と称して、二人でサボっている。サボると言っても、滝が来る以前の先輩たちのように、トランプをして遊ぶようなレベルではないが、ストイックに練習に励んでいた麗奈と、基本的には真面目な久美子にしては、だらけていた。
あれから2週間が過ぎた。
部内の空気は、香織がソロを担当することで良くなったかというと、そうでもない。
香織は上手だ。しかし、誰が聴いても麗奈の方が優れていた。滝は公平だったが、やはり麗奈と比較してしまうところもあるのか、指摘が以前より厳しくなった。
それに便乗するように、周囲から「香織で大丈夫なのか」という声が上がり始めた。中には直接麗奈に、やっぱりソロをやってくれと言ってきた強者もいたが、麗奈はいつも通り冷淡に突っぱねた。
香織は文句一つ言わずに頑張っているし、確実に上達している。しかし、比較の対象はチートスキルの持ち主なので、その差は数日の努力で埋められるものではない。
「どっちみち文句を言われるなら、やっぱり私がソロを吹けば良かった。まったく。久美子のせいで!」
眉間に皺を寄せて、麗奈が吐き捨てる。結構根に持ってるなぁと、久美子は呆れた。
麗奈への風当たりも強い。香織が非難されることで、麗奈がソロを降りた理由を、香織への嫌がらせだと捉える者が現れた。むしろ今ではその説が主流になっていて、結果的に麗奈は「本当に性格の悪い一年生」という烙印を押されている。
「麗奈は強いね。私なら堪えられない」
元気付けるようにそう言ってみたが、麗奈は何も答えなかった。
しばらく陽射しと風を楽しむように黙っていると、近くでざりっと砂を踏む音がした。
顔を上げると、渦中のマドンナが立っていて、その後ろには優子が落ち込んだ顔で項垂れていた。
香織は硬い表情をしていたが、無理に微笑んだ。それが痛ましくて、久美子は思わず目を逸らす。
「少し、いい?」
「はい」
麗奈が無表情で頷いた。返事も事務的で、すっかりいつもの冷淡な麗奈になっている。
一度「冷奈」に改名したらどうかと言ったら、5分くらいくすぐられて、人生で初めて死を覚悟する事態に陥った。
自分の前でだけ見せる笑顔や感情。嬉しい反面、もっとみんなに本当の麗奈を知ってほしい気もする。
そんなことをぼんやり考えていた久美子の耳朶を、香織の悲愴な声が打った。
「ソロを、やっぱり貴女が吹いてください」
ピリッとした緊張が走った。香織は今にも泣きそうな目をしているし、優子は絶望的な顔でそんな香織の背中を見つめている。
突然の修羅場に、しかし麗奈はまったく動じることなく口を開いた。
「どうしてですか?」
「貴女の方が上手だから」
「必ずしも、一番上手な人間がソロを吹く必要はないと思います」
香織よりも麗奈の方が上手い。それはもう明白なので、生意気ではあるが、いちいち謙遜したりしない。
「本当の理由はなんですか?」
静かに促す。香織は少し逡巡してから、情けなく笑った。
「私、もう堪えられない。みんな、私より麗奈ちゃんの方がいいと思ってる。みんな陰口言ってる。前までこんなことなかったのに」
香織は誰からも好かれる人気者だった。優子に限らず、彼女を好きな部員は多かったし、嫌っている者はなかった。
だから、嫌われることに耐性が無いのだ。久美子は冷静にそんなことを思った。
「みんなって誰ですか? 私も久美子もそんなこと思ってないし、優子先輩だってそうですよね? 声の大きい一部のバカのために、今日までの努力を全部捨てるんですか?」
相変わらず淡々とした声だったが、麗奈が久美子以外の誰かを励ますのは珍しい。不器用な台詞だったが、麗奈の言わんとすることは伝わったようで、香織も驚いた顔をした。
柔らかく微笑んで、吐息を漏らす。
「麗奈ちゃんは強いね」
「強くありません」
即答する。それから腰を上げて、香織と向かい合って立った。形の良い薄い唇が言葉を紡ぐ。
「応援してくれる人がいるから、私は頑張れる。ただそれだけです。落ち込んでる時は、視野が狭くなるものです。顔を上げて周りを見てください。どんな時でも香織先輩を応援してくれる人、いますよね?」
香織は目を丸くして、少しの間、呼吸をするのも忘れたように固まった。それから壊れたオモチャのようにゆっくりと振り返る。
やはり呆然としている優子と目が合った。優子は状況を飲み込めないように立ち尽くしていたが、すがるような香織を見て大きく頷いた。
久美子は怪訝な目で麗奈を見上げる。麗奈はそんな久美子に構わず、一歩香織に近付くと、今日は随分力なく映る細い肩を抱きしめた。
突然の抱擁に、香織が目を見開いて、すぐ隣にある麗奈の黒髪を見た。そんな香織の背中をそっと撫でて、麗奈が聴いたこともないような優しい声で言った。
「大丈夫。香織先輩は上手です。私たちも全力でバックアップします。だから、自信を持って吹いてください。香織先輩が笑顔で吹いてくれることを、私たちはみんな、心から望んでいます」
「それは、麗奈ちゃんも……?」
香織の声が震える。どうしていいのかわからないように、両手が宙を彷徨う。
「もちろん、私もです。香織先輩が2年間、どれだけ頑張ってきたか、一年の私たちでも知っています。一緒にいい演奏をしましょう」
ぎゅっと、麗奈が強く香織を抱きしめると、香織の目から大粒の涙が溢れた。それが零れて麗奈の頬を濡らす。
置き場所を探していた香織の手が、恐る恐る麗奈の背中に触れる。それから同じように強く、麗奈の体を自分の胸に引き寄せて、香織は嗚咽を漏らした。
「うん。ありがとう、麗奈ちゃん。ありがとう。私、頑張るから」
「はい」
麗奈が穏やかに微笑む。それを見ていた優子が、感極まったように二人に抱きついて、大きな声で泣き出した。つられて香織も声を上げる。
それをベンチに座ったまま眺めながら、久美子は思った。
何か変だと。
再び静寂が訪れて、二人でベンチに座っている。
グラウンドの方に顔を向けたまま、久美子は聞いてみた。
「さっきのあれ、どこまで本心だったの?」
ちらっと目だけで横を見ると、麗奈は無表情で手元のトランペットを見下ろしていた。
「よくわからない。でも、私は久美子みたいに器用じゃないから、本心の一つだとは思う」
「そっか」
久美子は、誰よりも麗奈のことを知っている。麗奈の親以上に、麗奈のことをわかっている。そんな自負がある。
それでも、さっきの麗奈は見たことがなかった。麗奈があんなふうに香織を抱きしめて、あんなふうに優しい言葉をかけるなど、考えもしなかった。
だから、全部嘘だと思った。
「久美子って、本当に冷めてるよね。でも、そういうところ、好きよ。あの時からずっと」
久美子の言いたいことを察して、麗奈が笑った。
あの時というのは、もちろん中3のコンクールのことである。悔しくて泣いていた麗奈に、実に淡々とあの一言を吐いた。
元々麗奈の方が感情豊かである。ただ、人情があるとは思っていなかった。考えてみれば、いつだって一歩引いたところから冷静に眺めているのは自分だ。
「優子先輩も嬉しそうだったね。麗奈、優子先輩のこと、嫌いじゃないの?」
「どうでもいいかな。でも、私ももし久美子を傷付けられたら、きっとそいつを殴るよ」
自分はどうだろう。久美子は思う。
麗奈のことは大好きだ。愛している。それでも、いざという時、麗奈のために頑張れるだろうか。
「いつもありがとう。私、頼りなくてごめんね」
「そうね。でも、頼りない久美子の方が可愛いわ」
素直には喜べないことを言ってから、麗奈がトランペットを構えた。
「ソロのことは悔しかったけど、さっきの香織先輩を見ていたら、これで良かったって思った。音楽に優劣をつけることに、私は賛成なんだけど、それだけじゃないって思った」
少し音を出す。滑らかな指使いと、淀みないリップスラー。
「私は特別になりたかった。だから、トランペットで一番になって、特別になろうと思った。コンクールでも絶対にソロを吹きたかった。でも……」
力強い瞳。けれど以前のような刺々しさはなくて、緩めた頬には温かみがあって、凛々しくて可愛らしい、大好きな麗奈。
「私、久美子とこうしている時間が好き。二人でのんびり、音を楽しむ音楽もいいなって思った。貴女の特別になれたら、今の私はそれでいい」
マウスピースに唇を当てる。1音目から、自信に満ちて力強く響く、格調高いメロディー。誰もが思わず足を止めて聴き入る、次元の違うサウンド。
懐かしい。中学時代にどこかで演奏した曲だ。
ヘンデルの『水上の音楽』、第2組曲の『アラ・ホーンパイプ』。同級生に、こんなにもトランペットの上手な子がいるのかと、心が打ち震えたのを覚えている。
けれど、あの頃よりもさらに洗練されている。荒削りな勢いは鳴りを潜め、曲本来の持つ優雅さと、弾むような軽やかさが前面に押し出されている。
それはきっと、技術の進歩ではなく、麗奈の人としての成長だろう。他人と競争して勝つことにしか興味のなかった麗奈が、協調性を覚えて周りが見えるようになった。
久美子もユーフォニアムを構えた。本当はもっと楽器が欲しい曲だが、麗奈のトランペットなら大丈夫だ。
胸いっぱい、息を吸い込んだ。
高さも音色も役割も違う音が絡み合って、一つの音楽を織り成す。麗奈とのアンサンブルは、いつだって気持ちがいい。
低音で麗奈の響きをしっかり支えている満足感。技術は劣るが、楽しそうな麗奈の顔を見れば、そんなことはどうだっていい。
ユーフォニアムは地味な楽器だ。愛着もなく吹いていた時代もあったが、この控えめな存在感が、久美子には合う。
もしトランペットと音のぶつかる楽器をやっていたら、今の麗奈との関係はなかったかもしれない。
時々麗奈と目を合わせながら、一つの音楽を作り上げる。二人でのんびり、音を楽しむ。こんな日常も悪くない。
伸びやかな麗奈の音が、大空に舞い上がる。
その音楽のように、異なる二人が作り上げていく、美しい毎日。
─ 完 ─