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幸せとは、決して持続しないものなのだろうか。
お金はなくなる。人はいなくなる。道具は古くなる。変わらずにあるものは飽きる。
対して不幸というヤツは、いつまででも持続する。
治らない病。落ちたら戻れない社会。死んだ人は帰らない。幸せに飽きるより、不幸に慣れる方が難しい。
つまり人とは、どうしたって不幸になる宿命であり、それがいわゆる人類誕生と同時に背負わされた業というものなのかもしれない。
そんなネガティブな思想がぐるぐると、もう何日も頭の中を渦巻いて、体内のすべての毒素を吐き出すように大きくため息をついた。
見上げた空はどんよりとして、雨は降りそうにないが、陽射しのかけらも感じられない。初めて目を開けた人に、空とは青いものだと言っても、信じてもらえないだろう。
気分が晴れない。こんなにも落ち込むのなら、いっそ刹那の幸せなど味わわない方が良かった。
そうかと思えば、幸せなことのない人生は不幸そのものなので、やはり持続しなくても幸せな体験はあるに越したことはないという考えも浮かぶ。
この歳にして思い出に浸って生きていくのだろうか。一度足を止めてスマホを開いた。
待ち受け画面の壁紙は、この世界で俺しか持っていない卯月ちゃんの写真。最愛のアイドルの女の子と二人で散歩して、抱きしめてキスをしたあの日から、もうひと月近く経つ。
結局人生で最高の日はあれっきり訪れることなく、俺のLINEの履歴も、数日前で止まってしまった。
何がいけなかったのだろう。それとも、そもそも本当にあの日がイレギュラーだっただけで、望んだすべては元々得られるはずがなかったのだろうか。
あの翌日、俺からメッセージを送るまでもなく、卯月ちゃんからLINEが飛んできた。前日キスしたことなどまったく気にした様子もなく、可愛いスタンプと一緒に、『おはよう。眠い……』という程度の内容。
あの日を思い出すと、卯月ちゃんは抱きしめたことにも、キスしたことにも一切言及していない。何を考えているのか、どう思ったのかまるでわからないが、あれがなければこうして卯月ちゃんからメッセージが来ることもなかったはずだから、少なからず影響は与えたと思う。思いたい。
『おはよう。俺も眠たい。昨日はなかなか寝つけなかった』
内心の興奮を押し隠して、淡々とそう書いて送ったが、深読みすれば十分興奮した内容だったかもしれない。
寝つけなかったのは、もちろん卯月ちゃんのことを考えていたからで、それを突っ込まれたらどうしようかと思ったが、卯月ちゃんからの返事は斜め上だった。
『寝つけない時は羊を数えるといいって言いますけど、私、羊を数えて寝られたためしがないです』
思わず固まり、どう返したものか悩んでいると追加で1通。
『最高は260匹です』
どこで見つけたのか、羊のスタンプが飛んでくる。卯月ちゃんのこの反応は、天然なのか、突っ込み待ちのボケなのか、あるいは俺の心境をすべてわかった上で、話題をそっちに持って行かないようにしているのか。
あの日のことを振り返ると、俺は実はすべて計算しているのではないかと思い始めた。卯月ちゃんは意図的に俺としたことに触れないようにしている。それが話したくないからそうしているのか、単に恥ずかしいからかはわからない。ただ、なんとなくそう感じる。
『卯月ちゃんも、羊を数えないと眠れないこととかあるの?』
言いたくないことには触れないようにする。それは優しさというより、嫌われたくないとい自衛であり、そういう気遣いがよかったのか、卯月ちゃんとのメッセージは長く続いた。
『ライブの前とか、今でも緊張とか興奮とかしてよく眠れないかな』
『いつも余裕そうに見える』
『本番は意外と平気かも』
そんな日常的なメッセージは、途切れることなく数日続いた。
夜は電話することもあった。こちらからかけることはなかったが、なんでもないように卯月ちゃんは電話してきて、本当に他愛もないことを話して切った。
そこに意図があるかはわからない。元々プロダクションのサイトで彼女のプロフィールを見ると、趣味のところに「友達と長電話」と書いてある。趣味らしい趣味はそれしかなく、恐らく色々な友達と同じように電話しているのだろう。
もちろん、深い意味などなくていい。彼女の友達リストに俺の名前が載っているのなら、それより嬉しいことはない。
それでも、俺は不安を覚えていた。雲の上の存在である卯月ちゃんに対して、俺は受け身の姿勢でいた。だからこそというべきかもしれない。アイドル島村卯月に、俺は自分から話しかけていいのかわからなかった。
卯月ちゃんは向こうからメッセージをくれたし、話し始めれば盛り上がるのだが、もし卯月ちゃんが飽きてしまったらそれでおしまいだ。学校の友達やアイドル仲間のように、メッセージや電話をしなくても会える関係ではない。途切れたら終わってしまう。
卯月ちゃんに会いたい。そもそも一度会ったそれも、その後の関係も奇跡のようなものだというのに、俺はそれを継続するためにも、卯月ちゃんと会いたかった。どうしてもなるべく早く2回目を実現させたかった。
しかし、こちらから卯月ちゃんに会いたいとは言えない。もし卯月ちゃんがそれを望んでいなかったら、その一言は卯月ちゃんを困らせてしまう。
俺はさんざん悩んだ末、電話越しにこんな話をした。
「そういえば、前に行ったカフェ、ちょっと検索してみたらプリンが美味しいって書いてあったよ」
「はい。私も食べたことありますけど、なかなか濃厚でした。うーん、でもちょっと甘いかな」
「ケーキは甘さ控えめだったね。他にも美味しいケーキが食べられるカフェはあるの?」
「色々知ってますよ?」
あまりにも王道の話題展開だったが、卯月ちゃんに言った通り、俺は女の子と話したことなど皆無だし、手垢のついた手段を使うのも許してほしい。
「それは是非また教えてほしいな」
わかりやすい一言だったと思う。それは明らかに誘い文句だったが、乗り気がしなければ電話越しに店だけ教えれば済む。卯月ちゃんは俺に「ごめんなさい」と言わずに断ることができる。
一瞬、沈黙があった。恐らく2秒くらい。動悸がして倒れそうな俺の耳に、卯月ちゃんの柔らかな声がした。
「じゃあ、今度一緒に行きますか?」
俺は息をのんだ。女の子の言う「今度」は断り文句だと聞いたことがある。しかし、この場合は文字通り受け止めてもいいのだろうか。
「是非とも。次の土日とかは?」
曖昧な「今度」を、速やかに具体化する。ここは攻勢に転じる。
卯月ちゃんは土日はレッスンで忙しいと言い、心に絶望が広がったが、すぐに代案を提示してくれた。
「平日の夜なら大丈夫です。ご飯だけになっちゃいますけど、どうですか?」
「Sure!」
「どうしていきなり英語なんですか!?」
「いや、嬉しくて」
俺は思わずガッツポーズをした。女性は断っても代わりの提案はしてこないと聞いたことがあるので、こうして自分から都合の良い日を言ってくれるのは、少なからず卯月ちゃんも望んでいると考えて良いのだろう。
「じゃあ、木曜日に、この前別れた場所で会いましょう。楽しみです」
明るい声で卯月ちゃんがそう言って、その声が本当に弾んでいたから、俺は通話を切った後思わず泣いてしまった。
幸せは続いていた。
この日の約束は果たされた。横槍が入ることも、ドタキャンされることもなく、木曜日の夜7時、卯月ちゃんは大きなトートバッグを提げて制服姿で現れた。髪の毛を縛っていないのは、一応変装なのだろうか。
「お待たせしました! お久しぶりです!」
キラキラした瞳に、赤くなって立ち尽くす俺が映っている。実物の卯月ちゃんはやっぱり可愛くて、俺は幸せのあまり倒れそうになるのを懸命に堪えた。
「いや、全然。荷物たくさんだね」
「レッスンの帰りなんです。来月のライブ、結構いい感じになってきましたよ?」
「それは楽しみだ」
来月と言っても、実際には2週間後、ニュージェネレーションズのイベントがある。ライブとトークと握手会で、もちろんチケットは購入済みだ。
何も言わずに歩き始めた卯月ちゃんの隣に並んだ。制服姿の女子高生と夜の街を歩いていると、何か妙な背徳感を覚える。変な目で見られてはいないか、不安になってきょろきょろ見回すと、卯月ちゃんが可笑しそうに口元に手を当てた。
「大丈夫ですよ。誰も私のことなんてわかりませんから」
「あ、いや、スナイパーが俺を狙ってないかと思って」
「…………」
卯月ちゃんがぽかんと口を開けて俺を見上げる。俺は慌てて手を振った。
「いや、違う。そう。それなら安心だ!」
「○○さん、スナイパーに狙われてるんですか?」
「実は……」
「巻き込まないでくださいね?」
卯月ちゃんがそう言ってから、自分の発言にウケたのか、声を出して笑った。
混み合う街を人をかき分けるように歩き、やがて電飾の綺麗なカフェに辿り着いた。先日の店とは違い、こちらは完全に喫茶店である。
「ちょっと夜ご飯を食べるには物足りないかもしれませんね」
「いや、クラブハウスサンドがあれば俺は生きていける」
「好きなんですか? クラブハウスサンド」
「まあ、普通」
「あったかなぁ。クラブハウスサンド」
店に入ると、比較的空いていた。卯月ちゃんの言った通り、夕食向けの店ではないのだろう。
向かい合って座る。おしぼりで手を拭いてメニューを開くと、卯月ちゃんが嬉しそうに指を差した。
「あっ、ありましたよ、クラブハウスサンド!」
そんな卯月ちゃんを見て、少し申し訳ない気分になる。適当に言っただけで、そこまでクラブハウスサンドに思い入れはない。
悪いと思ってそう告白すると、卯月ちゃんはきょとんとして俺を見た。
「○○さんって、真面目なんですね。わかってるから大丈夫ですよ?」
「それは、冗談だってわかってたってこと?」
「もちろんです。○○さん、冗談ばっかりです」
「いや、そんなことはない」
「スナイパーに狙われてますしね。あははっ」
結局クラブハウスサンドを2つ頼み、卯月ちゃんは水を一口飲んでから椅子にもたれた。
「今練習してるダンス、全然できないんですよ」
「難しいんだ」
「もうダメかもしれません。いっそみんなでコケた方がウケるんじゃないかって、トレーナーさんに呆れられました。でも、振り付けが難しいんだと思います。もう少し、レベルに合わせた振り付けを考えてほしいかな」
「そのバランスは難しそうだね」
「そうそう。出来ることばかりしていてもダメだし、と言って難しすぎてもできないし。本番でみんなでコケたら、諦めたと思ってください」
それから卯月ちゃんは、学校の友達のことと、新しい靴が欲しい話をした。
クラブハウスサンドが来てからは、それを美味しそうに頬張りながら、好きな食べ物の話をして、俺に話題を振ってきた。
家族のこと、休みの日の過ごし方。自分の話をするのは恥ずかしいが、卯月ちゃんが俺に興味を持って聞いてくれるのは本当に嬉しい。
食後のケーキはチーズケーキがお勧めらしいので、俺もそれにしようとしたら、別のを頼んで半分ずつにしようと言われた。
もちろん異存はなく、装飾の凝ったミルクレープを頼んでから、コーヒーのお代わりをもらう。
「○○さん、ケーキ好きなんですか?」
「どうして?」
「どうしてって、ケーキが食べたいって言ったの、○○さんじゃないですか」
そう言って、卯月ちゃんがふふっと笑う。
俺は一瞬、答えを迷った。笑いながら頷くべきか、それとも真面目に答えるべきか。
敢えて後者を選択してみる。
「卯月ちゃんに会いたかっただけだよ」
「ケーキは好きじゃないんですか?」
「いや、ケーキも好きだけど」
「私もです。必ずしも甘いものが好きっていうわけでもないんですけどね」
卯月ちゃんはにこにこしながらティーカップを手に取って、飲まずに戻した。
俺はなんだかものすごい肩透かしを食らった気分になった。卯月ちゃんが何を考えているのか全然わからない。ただ、悪い意図はなさそうだったので、ひとまずその疑問は脇に置いた。
ケーキが来ると、卯月ちゃんはフォークで一口突き刺して口に運び、顔を綻ばせた。
「うん。久しぶりに来たけど、やっぱり美味しい」
「俺は食べたことがないから楽しみだ」
「食べますか?」
卯月ちゃんが笑いながらそう言って、同じようにフォークで一口分取った。そしてそれをすっと俺に差し出す。
俺は一瞬唖然となったが、何も考えずにそれを食べた。卯月ちゃんが驚いた顔をする。
「冗談だったんですけど」
「俺も少しそうなんじゃないかって思った」
「で、どうですか?」
「どうだろう……」
卯月ちゃんが自分の食べたフォークでケーキを食べさせてくれたことがあまりにも衝撃的で、ケーキの味どころではなかった。
「私、ミルクレープは食べたことがないです」
「じゃあ、卯月ちゃんも」
言いながら、同じように一口分、少し大きめに取って卯月ちゃんの口元に運んだ。
ドン引きされたらどうしようと、心臓がバクバク鳴っていたが、先にやったのは卯月ちゃんなのだし、大丈夫だろう。
卯月ちゃんは少しはにかんで、俺のフォークからケーキを食べた。そして美味しそうに頬張って飲み込む。
「完全にバカップルですね。あっ、バカップルって死語ですか?」
「どうだろう。聞かない気はする」
「私も久しぶりに言いました」
俺は今卯月ちゃんが口をつけたフォークでミルクレープを食べた。それだけでドキドキしながら、女の子と回し飲みをして緊張する中学生かよと、自分で突っ込んだ。
卯月ちゃんは全然気にならないのだろうか。表情や仕種からではまったくわからない。
前回やいつもの電話と同じように、話は途切れることなく盛り上がり、ラストオーダーを告げられて店を出た。
21時半。明日も平日だというのに、この街はいつまでも賑わっている。
「そろそろ制服でいると怒られそうな時間ですね」
「ごめんね。卯月ちゃんといると楽しいから、つい時間を忘れる」
「私もです」
駅まで歩いて、卯月ちゃんが笑顔で手を振った。
「じゃあ、今日はこれで。ケーキ、ご馳走様でした」
「いや、それは全然。また他の店も紹介してね」
「はい、もちろんです!」
そう言って、卯月ちゃんが俺に背中を向ける。
──その一瞬。
きっと、卯月ちゃんが俺から離れたその一歩が、幸せの最後だったのだ。
卯月ちゃんの細い肩、街灯に照らされて光る髪の毛、ほっそりとしたふくらはぎ。
「卯月ちゃん!」
思わず呼び止めて、俺ははっとなった。
卯月ちゃんが振り返り、俺の顔を見て怪訝そうに首を傾げる。
「どうしました?」
俺は思わず伸ばした手を下ろして俯いた。
今、何故卯月ちゃんを呼び止めたのだろう。わかっている。認めたくないが、わかっている。
抱きしめたかったのだ。卯月ちゃんに触れたい。この前みたいな延長戦はないのかと、そんな醜い欲望が卯月ちゃんの足を止めさせた。
「な、なんでもない。ごめん」
絞り出した声が震えていた。顔を上げられなかった。
卯月ちゃんはしばらく無言で立っていたが、やがてぽつりと言った。
「そうですか。わかりました」
顔を上げると、卯月ちゃんは少し困ったような顔をしていた。
「○○さん、あんまり遠慮しなくていいですからね」
それだけ言って、今度こそ卯月ちゃんは人混みの中に消えて行った。
俺は大きく息を吐いて、近くのガードレールに腰を下ろした。
俺が何か言いかけてやめたことに、卯月ちゃんはもちろん気付いていた。その理由を「遠慮」だと捉えた。
俺が何を言いたかったのか、わかっていたのだろうか。わかった上でああ言ったのか、それともまったくわからなかったのか、どっちなのだろう。
もし前者だとしたら、抱きしめてもよかったのだろうか。だが後者だったら、きっと卯月ちゃんを傷付けるだろう。
体が目当てなんかではない。もちろん、卯月ちゃんを性的な目で見ているし、卯月ちゃんの写真を良からぬことに使ったことは数えきれない。
けれどもし、こうして二人で会えて、笑ってくれて、向こうからメッセージや電話をくれる今と、どちらか一方を選ぶとしたら、体なんて触れなくてもいい。卯月ちゃんの好意が嬉しい。
にも関わらず、俺は卯月ちゃんを抱きしめたかった。キスをしたかった。それは卯月ちゃんのためではなく、すべて自分の欲望を満たすためだ。
その欲望を叩き付けなかったのは遠慮ではない。自制だ。俺は卯月ちゃんが思うほど綺麗な人間ではない。
卯月ちゃんを穢したい。卯月ちゃんを俺の色に染めて、それでもなお俺を好きでいて欲しい。それは妄想の世界でしか有り得ないことだろうか。
あの日、俺をベンチまで導いて、もたれかかってきたのは卯月ちゃんだった。卯月ちゃんが本当に俺のことを好きなら、抱きしめてキスをしてもいいはずだ。
いやそれは、「俺のことが好きならエッチさせろ」と言っているのと同じ、卑劣な発想だ。
それに、卯月ちゃんが意図的に俺の向ける好意を避けているのも気になる。さっきも会いたかったという一言を、見事なスルースキルでかわされた。
卯月ちゃんの気持ちがまったくわからない。
自重しすぎてはいけないと思っているが、押しすぎて引かれるのは論外だ。
迷っていると、スマホが震えた。卯月ちゃんからだった。
『平日のこんな時間でも電車が満員。大人って大変><』
やっぱり、先ほどの微妙な空気などまったくなかったかのようなメッセージ。そのことに、一瞬苛立ちを覚えた。そしてすぐ、そんな自分に嫌悪して、泣きたくなる。
『綺麗な夜景は、人々の残業でできてるんだって、どこかで読んだ』
まるで気にしていないような返事を送る。
卯月ちゃんも同じなのだろうか。実は今の俺みたいに、内心ごちゃごちゃ色々なことを考えているのに、表面には出していないだけなのだろうか。
他のファンより特別で、友達よりは異性を意識して、それでも一線は越えないような微妙な距離感。
卯月ちゃんがそれを望んでいるのなら、俺もその距離感に異存はない。あの日のキスは思い出として封印して、こうして個人的にやり取りができるだけでも十分嬉しい。
他愛もないメッセージを送り合いながら、俺はそう思った。
その時は本当に、そう思ったのだ。