1
夏。閉ざした窓の外から、蝉の声が染み入るように浸透してくる。
エアコンの効率を上げるために締め切ったカーテンの隙間から、強い日差しが床の上に零れ落ちている。
今日も外は快晴だ。最高気温は34℃。こんな日は部屋に閉じこもっているに限るなどと言いながら、実のところ大してすることがないだけなのがひどく悲しい。
春からお付き合いしている彼女と遊べるのなら、どんな炎天下だろうと大雨だろうと厭わないが、初めてデートをした日から今日まで、結局一度も遊べずにいる。
わかっていたことだ。本人は電話やメールで会いたいと言ってくれるが、仕事や稽古やライブの準備で本当に忙しいらしい。それでも三度ほど夜に駅で会って、少し喋ってキスをした。それだけで十分幸せである。
慣れてはいけない。相手は俺がずっと大ファンで、追いかけて、目が合うだけで一週間は幸せになれるくらい遠い憧れだった女の子。名前を呼ばれただけで舞い上がっていたあの頃を忘れてはいけない。
もっとも、そんなことを言うと、「もっと普通の女の子扱いしてください」と拗ねられるので、なるべくそういう思いは出さないようにしている。結局俺は、相手はアイドルだからと言いながら、思い通りにならないことをすべて卯月ちゃんのせいにしているだけなのかもしれない。
色々と難しい。
小さくため息をついてから、先ほど通販で届いたアイドル雑誌を開いた。ニュージェネレーションズの3人で水着の撮影をして、それが今号に掲載されているという。発売前に卯月ちゃんが嬉々として報告してくれたが、俺はなんとも複雑な気持ちでそれを聞いていた。
記憶の限りでは、卯月ちゃんが仕事で水着を着たことはない。きっとそういう仕事は受けないスタンスなのだろうと思っていたが、別にそういうわけではなかったようだ。
ページを開くと、いつもの元気で可愛い3人組が目に飛び込んできた。オレンジ色で布の少ないビキニ姿の未央ちゃんと、水着と呼んでいいのか、ショーパンスタイルの凛ちゃん。そのバランスを取るためか、おヘソは出しているがスカートタイプで露出少なめの卯月ちゃん。ページ数にして4ページ。彼女たちの今の知名度を考えれば、十分なページ数だろう。
俺は卯月ちゃんの瑞々しい素肌を眺めながら、やはり隠し切れない不快な気持ちに囚われた。自分の彼女の水着姿が、たくさんの男の目に触れるのだ。それを喜べるのは特殊な性癖の人間だけで、生憎俺にはそういう趣味はなかった。
現金な話だ。付き合う前は卯月ちゃんの水着姿を拝みたい、そういう仕事はしないのかと一人で愚痴を零していたのに、彼氏の立場で写真を見たら、独占欲と嫉妬心で狂いそうになっている。
けれど、それは抑えなくてはいけない。これだけは卯月ちゃんにぶつけてはいけない。
嫉妬をしないこと。それが、俺が告白した日、卯月ちゃんが俺に提示したたった一つの条件だった。
俺が嫌だから、仕事で水着は着ないで欲しい。もしもそんなことを言ったら、卯月ちゃんがどちらを手放すかは明白だ。だから、これだけは抑えなくてはいけない。
再び写真に視線を戻した。花柄のビキニで、上は胸の間に大きなリボンがついている。そのおかげで胸の谷間が目立たないのはせめてもの救いだ。腋を見せるようなポーズもないし、一ファンとして見たら、微妙にコレジャナイ感のあるもどかしい写真である。
それでも、艶めかしい鎖骨、くびれたウエスト、柔らかそうな太もも、慎ましいおヘソ。前に触れた肌の感触を思い出しながら眺めていると、だんだんと下の方が元気になってきた。
今日のところは難しいことは考えず、他の多くのファン同様、本能のままに使わせてもらうことにしよう。
カーテンはすでに閉めてあるので、ズボンを脱いでいそいそと準備していると、まるでどこかにカメラでもついているのか、絶妙のタイミングでスマホが鳴った。ホームに表示された最愛の人の名前にビクつきながら、急いで応答する。
「卯月ちゃん?」
「はい。○○さん、今良かったですか?」
いつもと同じ、元気で明るい声。目の前の雑誌の女の子と喋っているのは不思議な気分だったが、感慨に耽っている場合ではない。
「全然平気。部屋で暇してた」
ズボンを直しながらそう言うと、卯月ちゃんが呆れたような声を漏らした。
「○○さん、いつも部屋で暇してますね。あっ、CUTER's見てくれました?」
CUTER'sとはこの雑誌の名前である。わざわざ電話で確認して来るほど見て欲しかったのだろうか。
「見たよ。ちょうど今使おうと思ってたとこ。これ、どこで撮ったの?」
とりあえず話を膨らませようと思って尋ねると、奇妙な沈黙があった。それから思い出したように卯月ちゃんが口を開いた。
「田舎の古民家です。てっきり海だと思ってたから、家の中で水着って、変な感じですね」
「まあでもなんか、見えない川とか、涼とかが見えるよ」
「リョウ? ああ、涼しい感じですか? そうですね。清涼感を意識しました」
「未央ちゃんの水着、攻めるね」
「初めはみんなそれくらいの予定だったんですけど、凛ちゃんが嫌がって。『そんな水着を着るなら、私はアイドル辞める』って言い出して、そんな感じになりました」
卯月ちゃんがくすっと笑う。それはいかにも凛ちゃんらしい。歌やダンスは見せたいが、女性の性を売りたいタイプの子ではない。恐らくこの仕事も、渋々承諾したのだろう。
卯月ちゃんはどうだったのだろう。3人で揃えられなくて残念だったか尋ねると、卯月ちゃんは「うーん」と芝居調に呻った。
「その水着も可愛いから、別にどっちでも良かったです。○○さん的には、スカートが無い方が使いやすかったですか?」
「使いやすいって、何に?」
「知りませんよ。先に『使おうと思ってた』って言ったのは○○さんです」
ようやく俺は単純な失言に気が付いた。そして、卯月ちゃんの口ぶりは、完全に俺が何に使おうとしていたのかわかっているようだった。
俺が息を呑む音が聴こえたのか、卯月ちゃんが冗談めかして言った。
「てっきりまた、わざとエッチなことを言って、私をいじめてるのかと思いました」
「いや、そんな趣味はないから」
「○○さん、絶対に小学生の時、好きな女の子をいじめて喜んでましたよね。最低です」
「してないから!」
ひどい言われようだ。もっとも、図星な思いがないこともない。そんな爽やかな少年時代は過ごしていないが、だからこそ余計に、今小学生じみたことをしたい気持ちが残っているのかもしれない。
卯月ちゃんがお姉さんぶって言った。
「まあでも、気に入ってくれたなら嬉しいです」
何事もなかったように、卯月ちゃんが穏やかなトーンでそう告げる。
少しだけもやっとした。卯月ちゃんは自分の写真が男の性欲処理に使われることに抵抗はないのだろうか。俺の使用用途を知ってなお、まるで気にしていないように聞こえる。
これ以上この話を続けるのもどうかと思ったが、機嫌が良さそうなので大事故にはならないだろう。ある程度のリスクは覚悟の上で聞いてみた。
「卯月ちゃんは、自分の写真が『使われる』ことに、嫌悪感とかは無いの?」
「別にありません」
即答だった。唖然とする俺に、卯月ちゃんが少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「私は可愛いから着たいだけですけど、男の人から見たらエッチに見えるのは仕方ないと思うし、ファンの人たちが私の写真でそういうことをするのは、別に水着に限りませんよね?」
「まあ、うん」
「でも、○○さんは別です」
突然ぴしゃりとそう言われて、俺は姿勢を正した。これは何か怒られるのかと思ったら、卯月ちゃんは俺の想像とは正反対のことを言った。
「男の人は、しなくちゃダメなんですよね? だったら、○○さんは私の写真だけを使ってください。他の人でされる方が、私は嫌です」
喜ぶべきか、卯月ちゃんは男の性についての正しい知識を持ち合わせているらしい。記憶にはないが、もしかしたら俺が教えたのかもしれない。
それにしても、昼間から真面目に性の話をするのはむず痒い。出会った頃はキスの話をするだけでも恥ずかしがっていた卯月ちゃんが、随分とオープンになったものだ。それも全部俺のせいかもしれないが。
「大丈夫だよ。卯月ちゃんも、する時は俺のことだけを考えてね」
果たして卯月ちゃんは、一人でエッチなことをしたりするのだろうか。内心ドキドキしながら聞いてみたが、卯月ちゃんは久しぶりに鮮やかなスルースキルを披露して見せた。
「それより、私が電話したのはCUTER'sのことじゃないんです。すごい脱線しちゃいました」
「ああ、そうなの?」
「はい。また急なんですけど、明後日丸一日お休みになったんです。平日ですけど、空いてませんか?」
それは嬉しい話だが、さすがに無理だ。俺が言いあぐねていると、卯月ちゃんはまるで営業活動のように続けた。
「たぶんもう、ライブまでに時間の取れる最後の日になります。ライブが終わったら夏休みは後少しだし、宿題がいっぱい残ってるし。もちろん会いますよ? でも、あの切り絵展の日からだいぶ経つし、ライブはまだ先だし、そろそろ遊びたいんです!」
セリフに熱がこもる。
これはなんとかするしかないだろう。あの島村卯月にこんなにも熱心に遊びたいと懇願されて、それ以上に大切なことなどあるだろうか。
「それにしても、明後日はどうしたの? また急なキャンセル?」
「いえ、元々その日はお仕事はなくて、レッスンの予定だったんですけど、みくちゃんが風邪を引いたり、アーニャちゃんや蘭子ちゃんが調子が崩してお休みしたり、みんな疲れが出て来てるみたいだから、一度お休みを入れることになったんです」
「みんな大丈夫なの?」
「みんなはわかりませんけど、私は元気です」
力強く、卯月ちゃんが受話器越しに頷く。
シンデレラプロジェクト初の単独ライブ。大きな会場にも関わらずチケットが完売して、みんな緊張と興奮でいっぱいなのだ。それは卯月ちゃんから送られてくるメールからもわかる。
きっとみんな、若さに任せて無理をしてしまっているのだろう。本番を万全に迎えるために休みを入れたのは、良い判断だと思う。
卯月ちゃんは言葉通り元気そうだし、体調不良の子たちには申し訳ないが、ここはせっかくなので卯月ちゃんをお借りしよう。
「わかった。なんとか空ける」
「ほんとですか!? ありがとうございます!」
嬉しそうに、卯月ちゃんが声を弾ませた。本当に、俺みたいなどこにでもいる一介のオタクと会えるだけでこんなにも喜んでもらえるなんて、文字通り身に余る光栄である。もっとも、その手の自虐的な発言も怒られるから口にはしない。
「何かしたいことはある?」
前回の反省をふまえて、先に聞いてみた。前回の初デートでは、色々考えすぎた結果、上手くいかずに突っ走って破綻した。思い出しただけでも恥ずかしくなる。
卯月ちゃんは「そうですねぇ」と楽しそうに前置きしてから、明るい声で答えた。
「せっかくなので、夏っぽいことがしたいです」
「夏っぽいこと? 怪談とか?」
「そういうのじゃなくて!」
慌てたように否定する。思わず口をついて出たが、確かに怪談は唐突だった。
しかし、お化け屋敷で怖がる卯月ちゃんはとても可愛く見える。相変わらず発想が小中学生のそれだが、卯月ちゃんは怖いのは苦手だろうか。意外と平気だろうか。
ふと、広げていた雑誌の写真が目に入った。
「じゃあ、海に行こうか」
まさか自分の口から、海などという青春の香りのする単語が出てくるとは。単純に、卯月ちゃんの水着姿をこの目で拝みたいという、不純な欲望100%の提案だったが、卯月ちゃんは嬉しそうに声を明るくした。
「いいですね。そういえば私、海で遊んだ記憶が全然ありません」
「俺もないけど。どこがいい?」
「全然わからないからお任せします。あっ、でも、あんまり気合入れなくていいですからね?」
慌てたように卯月ちゃんがそう言ってから、可笑しそうに笑った。明らかに初デートでテンパった俺のことをからかっている。
まあ、あの日のことは笑いのネタにしてくれればいい。希望した形ではないが、卯月ちゃんの記憶に残ったのならそれでいい。
そろそろ時間がないからと言って、卯月ちゃんが通話を切った。最後に、「邪魔をしてすみませんでした」とからかってきたが、改めて続きをするような気分ではなかったので、雑誌は閉じて片付けた。
それよりも、海だ。卯月ちゃんは気合を入れるなと言っていたが、だんだん緊張してきた。
海で遊ぶというのは、具体的には何をするのだろう。砂浜でビーチボールを打ち合う光景しか出てこないが、何かそういうものではない気がする。
そういえば、日焼けは大丈夫だろうか。女の子に日焼け止めを塗ってあげる光景が古いマンガにはよくあったが、実際のところはどうなのだろう。可能であれば、是非お手伝いさせていただきたい。
日焼け止めを塗ったら、海には入れないのだろうか。海に入るとなると、やはり浮き輪があった方がいいだろうか。
卯月ちゃんはどんな水着を着てくるのだろう。一瞬現実逃避した刹那、そもそも自分がオシャレな水着を持っていないことに気がついた。ジムのプールで泳ぐような水着しか持っていない。
一度大きく深呼吸して、気持ちを落ち着けた。まずはGoogle先生に問い合わせて、必要なものを一式買いに行こう。
カーテンの向こうでは、相変わらず蝉が鳴き続けている。外に出るような気温ではないが、それが卯月ちゃんとの遊びのためなら、喜んでドアを開けたい。
いつかと同じ、喜びと不安に胸をドキドキさせながら、俺はスマホを手に取った。