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コーヒーカップを持ち上げたら、すでに空になっていた。カップを置いて代わりにスマホを手に取ると、時刻は20時を回っていた。待ち合わせの時間を1時間も過ぎているが、先程から何度も遅れてごめんなさいとLINEが来るし、元より怒るつもりもない。待ち合わせているのは、俺が愛して止まないあの島村卯月である。夜にわざわざ俺のために時間を作って、会ってくれるというだけで身に余る光栄だ。
もっとも、今日はいつものような楽しい時間になるかはわからない。俺は1枚のチケットを手にして、小さくため息を落とした。
先日、卯月ちゃんがゲスト出演した学園祭で、みくちゃんと李衣菜ちゃんからもらったライブのチケットである。このライブに卯月ちゃんは凛ちゃんと未央ちゃんと一緒に行くらしく、それを知っている二人が、卯月ちゃんと一緒に見に来いと言ってくれたものである。
二人は俺を卯月ちゃんの従兄弟だと思っているし、3時間以上も一緒に学園祭を回ったことで妙に懐かれてしまった。ライブに来て欲しいと思うのは自然なことだし、その気持ち自体は俺も嬉しく思う。ただ、卯月ちゃんはいつも、ファンが自分以外のアイドルにも興味を持って離れて行くことを気にしているし、ましてやそれが自分の彼氏ともなれば内心穏やかではないだろう。もちろん俺は卯月ちゃん一筋だが、俺の行動に対して卯月ちゃんがどう思うかは別問題である。
ライブに行かないのが一番波風が立たない。それは間違いないのだが、昨日李衣菜ちゃんから直接、絶対来てねとLINEが飛んで来たし、卯月ちゃん自身もせっかくだから仲間のライブを見てほしいと言っていた。それは紛れもなく本心なのだろうが、自分で言っておいてその通りにしたら不機嫌になるのが、島村卯月という女の子である。いや、恐らく年頃の女の子はみんなそんなものなのだろう。
今日はいよいよライブが今週末に迫って来たので、最終的なジャッジをするために俺から卯月ちゃんに声をかけた。卯月ちゃんは何とか仕事を切り上げて会いに行くと言ってくれたが、案の定仕事が終わらずにこうして待ち続けている。待つこと自体は構わないのだが、それを卯月ちゃんが申し訳なく思っていることに心が痛む。
コーヒーのお替わりを注文して、スマホで今度のみくちゃんたちのライブを調べていると、ドアベルを鳴らしながら卯月ちゃんがやって来た。
「遅れてごめんなさい」
息を弾ませながらそう言って、俺の向かいに座る。今日は薄くメイクをしている。撮影の仕事ではなかったようだが、それなりに人前に立つ仕事だったのだろう。似合わない伊達眼鏡を見つめながら、全然気にしていない旨を伝えると、卯月ちゃんは可愛らしく笑った。
「せっかく珍しく○○さんから誘ってくれたのに、仕事が長引いちゃって。もったいないことをしました」
「そんなに珍しい?」
「はい。珍しく私に会いたくなったんですね? 嬉しいです」
「いや、いつでも会いたいから」
「そうだといいんですけどねぇ」
まるでそうではないように卯月ちゃんがため息をつく。もちろん、冗談で言っているだけなので軽く流して、少しだけ仕事の話を聞いてみた。今日はピンクチェックスクールの雑誌記事のインタビューだったらしい。内容は雑誌が発売されるのを楽しみに待つことにして、さりげなく本題を切り出す。
「そういえば、いよいよ今週末、アスタリスクのハロウィンイベントだね」
思い出したようにそう言うと、卯月ちゃんはクスッと笑って俺を見上げた。
「そういえばって言うか、それを話すために呼んだんですよね?」
「えっと、まあ、そうだけど」
虚をつかれてしどろもどろに頷くと、卯月ちゃんは可笑しそうに口元に手を当てた。
「今までのイベントで一番の出来だって、二人が言ってました。他にも何人か見に行くって言ってますし、凛ちゃんと未央ちゃんもいるから○○さんとはいられませんけど、後で感想とか話しましょう」
「俺は見に行ってもいいの?」
それとなく探る予定が、はっきりそう聞いてしまうと、卯月ちゃんはいたずらっぽく微笑んだ。
「○○さんが行きたければどうぞ。私に遠慮する必要はありません」
あっさりとそう答える卯月ちゃんはやはり裏表は無さそうだったが、今までそれで何度失敗したかわからない。
正直なところ、興味はある。ただ、卯月ちゃんが最優先なのは絶対なので、喧嘩の火種は作りたくない。
もう少し本音を聞きたかったが、これ以上突っ込むと、卯月ちゃんが「私の許可が欲しいんですか?」と不機嫌になるリスクがある。俺自身、「卯月ちゃんが言った」という逃げ道が欲しいのは否めない。もっとも、そんなものは何の免罪符にもならず、いざその時が来たら、「あの時はあの時は、今は今です」という、実に不条理なカードを切られるだけだが。
どうしたものかとコーヒーに口をつけると、卯月ちゃんが困ったように眉尻を下げた。
「嫌じゃなければ顔を出してください。私も二人に、従兄弟のお兄さんを連れて来てって言われていて、後から来てくれなかったとか、社交辞令だったとか、○○さんを悪く言われるのは嫌です」
それは確かにそうだ。二人からチケットをもらい、LINEでも来いと促され、卯月ちゃんにまで声をかけてくれているのに、行かないのも不義理である。俺は恐らくもう二度と、二人とプライベートで会うことはないだろうからどう思われても構わないが、卯月ちゃんは頻繁に顔を合わせる仲である。俺にしても、嫌われないに越したことはない。
「じゃあ、行こうかな。聴きたい曲もあるし」
「はい。私のことは大丈夫です。すっかり大人になりましたから!」
「それはないと思うけど」
真顔で見つめると、卯月ちゃんが「えーっ!」と実に驚いたように目を丸くした。
まあ、同じ場所で同じイベントを見るのだから、解釈次第では一緒に見に行くも同然だ。そもそもアスタリスクの二人も、一緒に見に来いと言ってチケットをくれたのだし、普通に楽しんで、後から感想を語り合うのも悪くない。
ライブの詳細は卯月ちゃんも聞かされておらず、敢えて聞かないようにしているらしい。しばらく二人で曲や内容の予想で盛り上がり、21時前に店を出た。会っていた時間より待っていた時間の方が長かったが、たとえ短い時間でも卯月ちゃんと会えるのは、やはりとても幸せだった。