イベントはライブパートから握手会に移る。客席に声が戻り、会場はドリンクをもらう人、物販に並ぶ人、帰る人たちでごった返している。
俺は静かにその場を離れようとしたが、このポジションでそんなことができるはずがなかった。
「で、さっきの話はなんだったの?」
凛ちゃんが半眼で卯月ちゃんを見ると、取り囲むように未央ちゃんが俺の隣に立ち、手の平を上にして呆れたように首を振った。
「どう考えても従兄弟じゃないよね? ファンが出来たとか、手紙をもらったとか嬉しそうに話してたよね?」
当然の反応である。いっそ「冗談に決まってるじゃないですか」とでも笑ってくれた方が丸く収まりそうな気がするが、卯月ちゃんはそうはしなかった。困ったように微笑んで、せわしなく指を絡める。
「サクラをお願いしてたんです。デビューしてファンの一人もいないと寂しいので」
「いやいやいや、だいぶ無理があるっしょ!」
「二人を騙すつもりはなかったんですけど、そろそろ隠すのも限界かなって。ああ、それより○○さん、握手会はいいんですか?」
いきなり卯月ちゃんが何かを訴える眼差しで俺を見上げた。ここから逃げろということだろうか。
どうしていいかわからず逡巡していると、卯月ちゃんが両手でグッと俺の背中を押した。
「ほら、せっかく二人がLINEで来て欲しいって送ってくれたんですから、挨拶しておくべきです。握手券あるんだし!」
それはどう考えても俺に言ったセリフではなかった。恐らく卯月ちゃんの読み通り、二人が聞き捨てならぬと反応する。
「LINE? ○○さん、二人とLINEを交換してるの?」
「えっと……」
俺が口を開こうとしたら、卯月ちゃんが全力でそれを遮った。
「はい。私の従兄弟のお兄さんですから! そういう繋がりがあっても全然不思議じゃありません!」
「いや、色々不思議だし、無理があるから」
「とにかく○○さんは握手会に行ってください!」
無理矢理押し出されて、俺は仕方なく握手会の列に並んだ。振り向くと、怪訝な顔の二人の間で、卯月ちゃんが笑顔で手を振っている。何を考えているのかも、この嘘がどう転がるかもわからないが、今は卯月ちゃんを信じることにした。いずれにせよ、俺にできることは何もない。
会場を後にする3人を目で追いながら、15分ほど列に並ぶ。握手券は4千円で1枚となかなか高額だったが、その1枚で二人と握手できる。先に李衣菜ちゃんと向かい合うと、もちろん李衣菜ちゃんは俺の顔を覚えていてくれて、パッと顔を明るくした。
「ああ、○○さん、ちゃんと来てくれたんだ」
ギュッと握った手が温かくてドキドキする。あんな展開にならなければ、恐らく卯月ちゃんは俺を握手会に送り出しはしなかっただろう。あるいはいつも通り、行って来いと言いながら、後で不機嫌になるか。
「すごく楽しかったよ」
「卯月ちゃんは?」
「ああ、うん。一緒に見てた」
「それは良かった。また今度感想聞かせてよ!」
そう言って快活に笑う。すぐ隣でスタッフが張り付いているが、李衣菜ちゃんの言う「今度」がまさか個人的なものだとは考えていないだろう。俺もボロが出ないよう、剥がされる前に手を離した。
そのままステージの反対側のみくちゃんのテーブルに行くと、こちらはニコリともせずに、「ああ、来たんだ」と素っ気なく言った。もちろんただの照れ隠しだと、今ならわかる。猫とはそういう生き物なのだ。
何かのサービスなのか全員にしているのかはわからないが、みくちゃんが俺の手を両手で包み込んで営業スマイルを浮かべた。汗ばんでいたが、柔らかな女の子の指の感触に背筋がゾクッとする。
「『Halloween Code』、すごく良かったよ」
真っ先に勧めてくれた曲を褒めると、みくちゃんは満足そうに頷いた。
「当然にゃ」
「いっぱい練習したの?」
「そういうのはお客さんは気にしなくていいの!」
「お客さんって……」
俺が苦笑すると、みくちゃんはジトッとした目つきで俺を見上げた。
「次のライブも来て。いっぱい練習するから」
「都合が合えば」
「都合は合わせるものだから!」
憎まれ口を叩かれながら、テーブルを後にする。スマホを見ると、卯月ちゃんから短いメッセージが来ていた。
『とりあえず後で』
これは遅くなっても会って話した方がいいだろう。早めに認識を合わせておかないと、絶対に面倒なことになる。すでに十分ややこしくなっている気はするが、喧嘩しているわけではないのが救いだ。相変わらず重たい話は発生するが、その質は変わってきている。
『適当に待ってます。また連絡ください』
会場を出ながらそう返事を投げて、スマホをポケットに突っ込んだ。まだそんなに遅い時間ではないが、すでに辺りは真っ暗だ。真っ暗といっても空の話であって、都会の街明かりは眩しい。
二人のアクセスの良い駅まで移動して、初めて入った喫茶店でコーヒーを注文する。卯月ちゃんの返事が30分後になるか3時間後になるかはわからないが、もう慣れっこだ。
待っている間、卯月ちゃんのついた嘘について考えようと思ったが、やめておいた。それはもう直接聞いた方が早い。
ライブの余韻に浸りながら、一応主役の二人にメッセージを飛ばしておく。李衣菜ちゃんは今度感想を聞かせろと言い、みくちゃんは次のライブに来いと言っていた。あの子たちが社交辞令で言っているわけではないのはもう明白なので、それらについてはまた卯月ちゃんと相談することにしよう。個人的には友達感覚で会ってもいいが、卯月ちゃんの機嫌より優先するほどではない。
思ったよりは早く卯月ちゃんから返事が来たので、駅前で待ち合わせた。卯月ちゃんは会って早々ぐったりと俺にもたれかかって、冗談っぽい口調で言った。
「質問攻めに遭いました。もうヘトヘトです」
「大丈夫だったの?」
寄りかかられる重みにドキドキしながら聞くと、卯月ちゃんは「どうでしょうね」と曖昧に笑った。
一度入ったことのある洋食屋に移動してご飯にする。海老フライとハンバーグのセットを味わいながら、従兄弟発言について率直に聞いてみると、卯月ちゃんはビーフシチューを飲み込んでから小さくため息をついた。
「あの辺が限界かなって思って。ライブの後で確実に○○さんのことは話題に出るだろうから、私のいない場所で変な話になるくらいなら、自分から言った方がいいと思って」
「みくちゃんたちが言うってこと?」
「みくちゃんはわかりません。そもそも、○○さんが私の従兄弟だっていう話を信じてるかもわかりません。でも、李衣菜ちゃんは本当にそう思ってるから、間違いなく普通に話してしまいます」
「確かに」
その光景が容易に想像できて、俺は困り顔で頷いた。みくちゃんは俺と卯月ちゃんが喫茶店でイチャついていた現場を目撃しているから、何となく嘘だとわかった上で合わせてくれている気がするが、李衣菜ちゃんは俺が卯月ちゃんの従兄弟だと信じている。そもそも疑う要素がない。
「李衣菜ちゃんは、私が○○さんに、ピンチェのイベントの時に家に行ってもらったことを知っています。従兄弟だから別に隠すこととも思ってないから、たぶん何気ない会話の中で、未央ちゃんや凛ちゃんに伝わると思うんです」
「でも、二人も言ってたけど、どう考えても俺が卯月ちゃんの従兄弟だっていうのは無理があるよね? あんなにも握手会でハイテンションになる従兄弟がいたら怖いから」
「ですよねー」
卯月ちゃんが悩ましげに頭を抱える。ただ、本気で悩んでいるというよりは、どことなくおどけているようにも見える。
「二人はなんて?」
「私は○○さんは私の従兄弟のお兄さんで、デビューの時からサクラでファンになってくれていたことを強調しておきました。私を可愛がってくれている話もしました。それがすべてです」
「信じてないだろうね」
「たぶんそうでしょうね。でもまあ、納得はしてくれました」
要するに、みくちゃんと同じステータスということだ。信じてはいないが、卯月ちゃんが俺を従兄弟だと言い続ける限り、決定打はない。みくちゃんは上手く折り合いをつけたが、果たして一緒にユニットを組んでいる二人はどうか。
俺が難しい顔をすると、卯月ちゃんはスプーンを置きながら苦笑した。
「まあ、みくちゃんもどう考えてるかわかりませんけどね。案外素直に信じていて、○○さんを好きになったりしないか、そっちが心配です」
「いや、それはないでしょ」
思わず苦笑して首を振る。卯月ちゃんはたまたま俺が卯月ちゃんを好きだったから好きになってくれたが、みくちゃんには俺などより遥かにコアなファンがたくさんいるし、中にはイケメンもいれば優しい奴だっているだろう。俺を好きになる理由がない。
相変わらず嫉妬心が強いと呆れていると、卯月ちゃんは俺の内心を読み取ったように唇を尖らせた。
「今日未央ちゃんも言ってましたけど、○○さんは色んな意味で特別なんですよ。私、未央ちゃんと凛ちゃんが○○さんを、どんな理由であれ特別視しているとは思っていなくて、今日はすごく驚きました」
「全然いい理由じゃなかったけどね」
客席での話を思い出して肩をすくめる。未央ちゃんと凛ちゃんに全然興味を持っていないという、どちらかと言えばネガティブな理由で覚えられているという話だった。とても褒められた内容ではない。
俺がそう伝えると、卯月ちゃんは澄ました顔で水のグラスを手に取った。
「わかってませんね。学園祭の話、少しみくちゃんに聞いたんですけど、未央ちゃんと同じことを言ってました。あんなにもアイドルであることを意識せずに話して来る人は珍しいって。あのみくちゃんが、ステージの外の人のことをあんなにも嬉しそうに話しているのを見たことがありません」
確かに、理由はわからないが、みくちゃんも李衣菜ちゃんも妙に懐いてくれている。もっともそれは、性別すら意識していない友達の感覚だが、異性は異性である。卯月ちゃんが嫌がるのも無理はない。
空いた皿が片付けられ、運ばれてきたコーヒーを一口飲んでから、改めて卯月ちゃんを見つめた。慎重に、神妙に切り出す。
「これからの相談なんだけど、俺もう、アスタリスクのライブはもちろん、ニュージェネのライブに行くのも控えた方がいいかもって、少し思った」
「どういうことですか?」
「このままだと、いつかバレると思うから。今日未央ちゃんに声をかけられたのも意外だったし、学園祭で李衣菜ちゃんに呼び止められたのも意外だった。俺が現場に行かなければ、そういうことは起こらない」
もちろんそれは苦渋の選択だった。俺は元々アイドル島村卯月が好きで追っかけをしていた。ただ、そのことで卯月ちゃんが余計なことを考えなくてはいけないのなら、俺は現場に行くのを我慢しても構わない。卯月ちゃんが彼女でいてくれれば、俺はそれだけで幸せに生きていける。
断腸の思いでそう伝えると、卯月ちゃんは呆れたように首を振って、つまらなそうにストローをくわえた。
「全然ダメです。逆です」
「逆?」
「どうしてそっちに行っちゃうのかなぁ。私、試されてるのかなぁ」
何やら不服そうにぶつぶつ呟いてから、卯月ちゃんが怒ったように俺を見た。
「私は○○さんと、彼女と彼氏の関係も大切ですけど、それと同じくらい、アイドルとファンの関係も大切なんです。会えない時間が多くても大丈夫なのは、アイドルとファンの関係があるからです。別にお付き合いする条件っていうほどではないですけど、絶対に必要なことだと思っています」
「でも、俺が現場に行く限り、これからもっとこういうことが起きるよ? 認識される前なら良かったけど、良くも悪くもみんなの特別になっちゃったし」
「はい。だから、離れる方向に行ってはダメです。むしろみんなに好かれてください」
まったく予期しない言葉に、俺はポカンとなった。たった今、みくちゃんが俺を好きになる可能性を恐れていた卯月ちゃんが、みんなに好かれろとはどういうことなのか。問いただそうとしたら、当然俺の考えなど理解しているように卯月ちゃんが続けた。
「もちろん、私は嫌です。でも、考えれば考えるほど、今のみくちゃんの路線しかないと思うんです」
「みくちゃんの路線?」
「つまり、私と○○さんは付き合ってると薄々感じてるけど、○○さんならまあいいかって、信頼されることです。さっきまで未央ちゃんと凛ちゃんと話していても思いました。あんまりきつく聞かれなかったのは、たぶん二人とも、会場で喋って○○さんを気に入ったからだと思います」
それは、俺には到底考えつかない内容だった。卯月ちゃんが思うほど良い案とは思えなかったが、俺の提案よりはだいぶ現実的だった。
卯月ちゃんは眉をひそめて、一度唇を舐めた。それから、少しだけ苦しそうに息を吐く。
「リスクはあります。さっき言った通り、みくちゃんは本当に従兄弟だと思ってるかもしれないし、私は何があっても○○さんを従兄弟だと言い続けます。みんながそれを信じて、本当に○○さんのことを好きになっちゃうかもしれない」
「いや、それは別にリスクじゃないから。そんなことは有り得ないし、そもそも俺は卯月ちゃんにしか興味ないよ?」
「でも今日、握手会で手を握られて鼻の下を伸ばしてたんですよね?」
「握手会に行けって言ったの、卯月ちゃんじゃん!」
「これからますます、○○さんがみんなに好かれて欲しい気持ちと、○○さんにみんなを好きになって欲しい気持ちと、その正反対の気持ちがぐちゃぐちゃして、私はもう病みそうです」
大げさに頭を抱えて首を振る。明らかに冗談を言っているようにも見えるし、本心を冗談で誤魔化しているようにも見える。
「俺は卯月ちゃんだけを愛してるよ」
正面からしっかり目を見つめて言うと、卯月ちゃんは何事もないように頷いた。
「それはわかってるんですけどね……」
「もっと喜んでよ! 前はもっと照れてくれたのに!」
「なんだか慣れちゃいました」
「あんまりだ!」
俺が抗議すると、卯月ちゃんは楽しそうにふふっと笑った。その笑顔がいつも通り可愛かったら、ひとまずそれで良しとした。