夕暮れ時。遅い時間ではないが、天気のせいもあって薄暗い。
俺は帽子をかぶった卯月ちゃんと、駅までの道を歩いていた。繋いだ手が温かい。ふと見下ろすと、数時間前の険しい顔が嘘のように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
できればもう、ああいう卯月ちゃんは見たくないが、激しく怒って、機嫌を損ねて、理不尽なことを言い散らす卯月ちゃんも魅力的だと思う。前に卯月ちゃんが、あまり遠慮しなくていいと言ったが、良くも悪くももっと普通の女の子として扱っていいのかもしれない。
卯月ちゃんが俺を彼氏として認識してくれているのなら、俺がいつまでも天上のアイドルという目で見続けるのはいけないことだと思う。
「それにしても、美穂ちゃんとのお話、せっかく○○さんにも新鮮な気持ちで楽しめるようにと思って、言うのを我慢してたのに、どうしてああなっちゃったんでしょうね」
卯月ちゃんがにこにこしながら、イベントの時の話をする。
「俺たちはどうも、お互いのためにと思ってすることが、ことごとく裏目に出てる気がする」
俺がそう言うと、卯月ちゃんはちらりと俺を見上げてから、嬉しそうに微笑んだ。
俺はよくわからずに、首を傾げて尋ねる。
「今なにか、笑うところだった?」
「いえ、『俺たち』っていう括りが嬉しかっただけです。Weですね」
「あ、ああ」
言われてみれば、無意識に自分と卯月ちゃんを一括りにしていた。女の子はそういうことが嬉しいのだと、新鮮な発見がある。
それにしても、卯月ちゃんは相変わらずいつも通りだった。先ほどまで部屋で裸で抱き合っていたとは思えない。
初めてキスをした日も、卯月ちゃんは今と同じように、まるで気にした様子もなく振る舞っていた。結局それを俺が悪い意味で勘違いしてしまったわけだが、俺が意識しすぎているだけだろうか。
なんとなく、卯月ちゃんの口からその話をさせたくなった。意地悪100%の俺の趣味だが、たぶん怒りはしないだろう。
「卯月ちゃんって、エッチなの?」
「い、いきなりなんですか!?」
直球をど真ん中に叩き込むと、卯月ちゃんが目を丸くして声を上げた。俺は努めて平然と次のボールを放る。
「いや、すごく痛そうだったのに3回目をせがんできたし」
「せがんでませんから!」
「いやいや、俺がもうやめておこうかって言ったら、卯月ちゃんからもっとしたいってすがりついてきた」
淡々と事実を伝えると、卯月ちゃんは手を振り払って両手で顔を押さえた。
「違いますよ! 大体、1回目とか2回目とか、それは男の人の発想です。私は別に3回目とか、意識してませんでしたから!」
「なるほど。新鮮な意見だ。じゃあ、卯月ちゃんは全体として1回だったの?」
「もういいじゃないですか。やめましょうよ、この話は」
耳まで赤くして、卯月ちゃんが首を振った。少しいじめすぎたかもしれない。やっぱりこの子は、ただ恥ずかしいから話を逸らしていただけだったのだ。
「初めてキスした日も、卯月ちゃん全然気にしてないみたいだったから、俺はちょっと悲しかった」
「気にしてないわけないじゃないですか。私だけ平然としてたみたいに言いますけど、私から見たら、○○さんも同じですからね?」
「なるほど。じゃあ卯月ちゃんも、家に帰って思い出したりしてくれたの?」
「当たり前です。毎日思い出して赤くなってたのに、○○さんはその時、私のことを彼女だって思ってなかったんですよね」
ふんっとわざとらしくそっぽを向く。
その点については反論のしようがない。あの島村卯月を彼女と思う方が無理があるが、それを言ったら、彼女でもない女の子とキスをしたのかと糾弾される。一生からかわれるネタになりそうだ。
駅に着いてからも名残惜しくて、電車を何本も見送った。
「でも良かった。3時間ですよ? 3時間も待ってたんですから、私が怒るのはしょうがないことです」
今日のスタートを振り返り、卯月ちゃんが得意げに胸を張る。怒りすぎたことを申し訳なく思っているようだが、謝るよりも正当化したいらしい。
「LINEをくれればよかったのに。帰らなかったらどうする気だったの?」
「そこでLINEが送れるなら、とっくに送ってますよ。もう後1時間遅かったら、たぶん悲しくて泣いていたと思います」
「それはもったいないことをした」
「もったいないってなんですか! やめてくださいよ? 今度から、私を悲しませたら罰金ですからね?」
新しいルールだ。できるだけ悲しませないよう努力はしたいが、一度泣かせてみたい。そう言ったら足を蹴られた。
それから笑いながら顔を上げる。
「じゃあ、そろそろ帰りますね。切りがないし」
「うん。今日はありがとう。来てくれて嬉しかった」
「次に喧嘩したら、○○さんの方からなんとかしてください。貸し1です」
そう言って、卯月ちゃんが背を向ける。
俺は思わず呼び止めた。
「卯月ちゃん」
足を止めて怪訝な顔で振り返る。いつかと同じ光景。
俺はポケットから財布を取り出して、一枚のチケットを引き抜いた。あの日使えなかった握手券。
「えっと、これで握手してほしいんだけど」
両手で差し出すと、卯月ちゃんは思わず噴き出して、今日一番楽しそうに笑った。
「あははははっ! いいですよ。期限、書いてないですしね!」
笑顔のままぎゅっと手を握った。柔らかくて、温かくて、すべすべして、さっきまで手を繋いで歩いていたのに、まったく違う感触がする。
そっと手を離すと、卯月ちゃんが明るい声で言った。
「CDはありませんか? サインしますよ?」
「さすがに持って来てない」
「じゃあ、手を出してください」
サインペンを取り出して、卯月ちゃんがいたずらっぽい目で俺を見る。
言われるまま手を差し出すと、卯月ちゃんは手の平にサインペンで名前を書いた。
「くすぐったいんだけど」
「我慢してください」
見慣れたサインと一緒に、ハート付きで「大好き」の文字。
「よしっ。消しちゃダメですからね!」
弾んだ声でそう言って、卯月ちゃんは手を振った。
改札の向こうに消えていく背中を見送ってから、改めて手の平を顔の前に広げる。
消すなと言われてもどうしようもない。
記念にスマホで写真を撮って、ぶらぶらと歩き出す。
今日の色々なことを思い出しながら卯月ちゃんのことを考えていると、スマホが震えた。あの子はいつでも、別れた後すぐにメッセージをくれる。
開くと、まったく想定外の内容に俺は思わず固まった。
『ずっと我慢してたけど、結構深刻に股間が痛いです。○○さんが乱暴したから……><』
抱きしめたことにもキスしたことにも、恥ずかしがって触れなかった卯月ちゃんが、俺にこれを送ってきたのは、きっと俺が卯月ちゃんにエッチなことを言わせたいのを理解した上でのことだろう。
恥ずかしいだろうに、その心遣いが嬉しくなり、もっと意地悪してやろうと決意した。
『だから3回目はやめようかって聞いたのに』
『物足りなかったんです。1回目は5秒で終わっちゃったし』
眩暈がした。これは、意地悪されているのは俺の方なのではなかろうか。
『次は10秒に挑戦します』
実に適当な内容を送ると、瞬く間に返事が返ってきた。
『次があるといいですね』
『あるから! ください!』
『どうでしょう。すごく痛かったから、私はもう、エッチ恐怖症です』
『せがんできたくせに』
『せがんでません!』
いつもと同じ空気で、だらだらとメッセージを送り合う。
これからもずっと、仲良くしていきたい。
そして、アイドル島村卯月を応援したい。
ファンと彼氏の二つの立場で揺れることもあるかもしれないけれど、卑屈にならず、真っ直ぐに信じればきっと幸せな日々を過ごせる。
見上げた空は、ようやく晴れて来て、雲の隙間に明るい星が小さく瞬いていた。
明日からはいい天気になりそうだ。
─ 完 ─