とんでもないことになった。
翌日、俺は過去最高に緊張しながら、30分も早く待ち合わせ場所に立っていた。もちろん、卯月ちゃんと街で会ったあの春の日はずっと緊張しっぱなしだったが、あれは嬉しい緊張だった。今日は違う。例えるなら、職員室に呼び出されたような緊張だ。
今日智絵里ちゃんと会うことは、もちろん卯月ちゃんにはすぐに話した。卯月ちゃんはしばらく考えるように唸ってから、はっきりと言った。
『私は反対です。でも、李衣菜ちゃんの気持ちもわかるし、○○さんがその提案を断れないのもわかります。李衣菜ちゃんとの関係を考えたら、断らなくて良かったと思います』
「でも反対なんだ」
『もう約束したのに、今さら私が反対だって言うのは、○○さんを困らせるだけだとは思いますが……私はそんなに大人じゃないんです』
「嫉妬の類?」
『いえ、むしろ○○さんが智絵里ちゃんに全然興味がないのが不安なくらいです。今からでも智絵里ちゃんのことを調べて、少しでも好きになってください。○○さんの方から仲良くなりたいって思わなかったら、明日は私でもフォローできない一日になると思います』
電話を切った後、俺は絶望的な気持ちになった。スマホの向こうで、明らかに卯月ちゃんは困っていた。李衣菜ちゃんや響子ちゃんの時の反応とはまるで違う。いっそ仲良くなって嫉妬される方がましだ。
正月から智絵里ちゃんの曲をたくさん聴き、346のサイトでプロフィールやブログを読み、だいぶ知識を蓄えた。元々容姿は好みのタイプだし、ニュージェネのゲストで何度か生でも見てもいる。CPの中でも気に入っている方だ。ただしそれは、ステージの上と下での話である。
こちらも待ち合わせより随分早く李衣菜ちゃんがやってきて、俺を見て驚いたように眉を上げた。
「早いね」
「3年前から待ってた」
「足に苔が生えてるよ? この人が○○さん」
李衣菜ちゃんが軽く手を広げて、すぐ後ろの女の子に俺を紹介する。初めてステージの下で見た智絵里ちゃんは、ふわふわの白いコートを着て、髪の毛は下ろしていた。少し李衣菜ちゃんの背中に隠れる角度でペコリと頭を下げる。
「初めまして、緒方智絵里です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。○○です。だいぶ前だけど、CINDERELLA PARTY!、すごく楽しかったです!」
だいぶ前と言ってもまだ4ヶ月だが、暑さの残る8月の終わり。CP全員が参加したあのライブが智絵里ちゃんを生で見た最後のステージになる。もっとも、卯月ちゃんしか見ていなかったから、詳細な感想を聞かれても困るが、無用な心配だった。
「えっと、ありがとうございます」
智絵里ちゃんはそう言って作り笑いのような微笑みを浮かべると、そのまま口を開かなかった。
一瞬の沈黙。俺は回した歯車が噛み合わなかったのを肌で感じ取った。会った瞬間から話が弾んだ李衣菜ちゃんの時とは空気が違う。あれは所詮俺ではなく、李衣菜ちゃんの社交性が高かっただけだ。
俺が次の言葉を探していると、智絵里ちゃんも同じような心境だったのか、顔を上げて胸の前で指を合わせた。
「○○さんは、ライブとかお好きなんですか?」
「あー、うん。現場派。卯月ちゃん経由でCPとかピンチェとか追っかけてる」
「そうなんですね」
智絵里ちゃんがぎこちなく微笑む。なんとなく気まずい空気が流れて、隣で見ていた李衣菜ちゃんがポンと手を打った。
「わかった。二人とも、友達同士じゃなくて、アイドルとファンになってるんだ」
「それは李衣菜ちゃんにしては的確な分析かもしれない」
「私にしてはってどういうこと!?」
「いい意味で」
「絶対違うし!」
李衣菜ちゃんが頬を膨らませる。俺が苦笑いを浮かべると、智絵里ちゃんも自然に笑った。
冗談はともかくとして、本当にそれは的確な分析だった。空気が初めての握手会みたいになっていた。憧れのアイドルを前にしてしどろもどろになるオタクのムーブだった。
「初対面だから緊張してる」
自分に言い聞かせるように頷くと、李衣菜ちゃんが半眼で俺を睨んだ。
「おっかしいなぁ。私の時はすごくテキトーな感じだったけど。やっぱりアイドルに見られてない?」
「智絵里ちゃんはキュートアイドルだから」
「プロダクションのプロフィールで反応が変わるの!?」
李衣菜ちゃんが目を丸くする。いちいち反応が大袈裟で可愛い。実際のところ、李衣菜ちゃんは一緒にいてとても楽しいが、異性をまるで感じない。そんなことを言ったら怒られそうだから言わないが、その点みくちゃんや響子ちゃんは女の子を意識してしまう。つまりは、キュートアイドルということだろう。
「俺は李衣菜ちゃんの親友になりたい」
「このタイミングで言われても嬉しくないし! でもまあ、ありがとう」
李衣菜ちゃんが声を上げて抗議した後、照れたようにはにかんだ。急にそんな女の子っぽい顔をされても困る。俺は空気を変えるように時計を見た。
「これからどうする? とりあえずご飯?」
時刻は11時。卯月ちゃんと会う前に食事でもしながら謎解きゲームの話をすることにしたが、この空気は一体どうすればいいのだろう。李衣菜ちゃんと喋っているのが一番楽だが、それが最悪の選択なのは間違いない。それを見越した上で、卯月ちゃんは言ったのだ。俺の方から智絵里ちゃんと仲良くなろうとしなかったら終わると。
ブラブラとレストランに向かって歩きながら、果敢に話しかけてみる。
「智絵里ちゃんはいつもは実家に帰ってるの?」
「はい。今年はお仕事があって」
「そうなんだ。俺もいつもは帰るんだけど、今年は初めて東京で過ごした」
「そうなんですね」
そこで会話が途切れる。心が折れそうだ。当たり前だが、智絵里ちゃんは俺に興味がない。だから、俺の話をそれ以上掘り下げようとしない。
だからと言って、質問しまくるのは質疑応答や尋問みたいになってしまう。無難な話をしたいが、女子高生が普段どんな話をするかなどまったくわからない。
「昨日の仕事は、キャンディアイランド?」
「かな子ちゃんと二人で、バラエティ番組の現場リポートをしました」
「暇してたから見ればよかったなぁ」
「○○さんは、どうして今年は帰らなかったんですか?」
智絵里ちゃんがオドオドとそう聞いてきた。なんとか会話をしようという意思を感じる。興味がないことを無理に質問させて心が痛む上、その質問に対する答えを用意していなかった。もちろん卯月ちゃんと過ごすためだが、それをそのまま答えていいのだろうか。
俺が言い淀むと、李衣菜ちゃんが不思議そうに俺を見た。
「卯月ちゃんと初詣に行くためじゃなかったの?」
「いや、まあ、そうなんだけど」
あっさりバラされて嫌な汗が流れた。変な反応をされないか不安だったが、智絵里ちゃんは安心したようにほっと息を吐いた。
「今日、卯月ちゃんと会えるの、楽しみです」
「そうだね。卯月ちゃんっていうと、だいぶ前に智絵里ちゃんが勧めてくれた原宿の切り絵展に一緒に行ったよ」
「あっ、行ったっていう話は卯月ちゃんから聞きました。○○さんとだったんですね」
智絵里ちゃんが何とも言えない微笑みを浮かべる。嬉しそうにも見えるが、どこか警戒しているようにも見える。それは俺の心がそう思わせているだけかもしれないが、従兄弟とはいえ卯月ちゃんが男と二人で原宿で遊んでいたことに思うところがあったのかもしれない。そもそも従兄弟であることも信じているかわからない。
「切り絵展って?」
李衣菜ちゃんが興味深そうに身を乗り出した。あの時はまだ李衣菜ちゃんのことは全然知らなかったし、そう言えばみくちゃんと初めて会ったのはあの日だった。あの最悪の出会いを思えば、今日の智絵里ちゃんとの出会いはイージーモードという気もする。
「切り絵の展示だよ」
「そのまんまじゃん! 説明能力はどうしたの?」
「切り絵の説明から必要?」
「それはわかるから! もっとこう……ロックな説明をしてよ!」
「切り絵がバーンって、キラキラッ、ジャーンって感じ」
「ロックをナメてるでしょ!」
「ロックってなんだよ!」
李衣菜ちゃんの勢いに付き合って言葉を投げ合っていると、智絵里ちゃんがクスッと笑った。
「二人とも仲良しですね」
「親友だから」
俺が即答すると、李衣菜ちゃんが白けた顔で俺を睨んだ。
「ロックがわかるまでは友人止まりだね。むしろ、知人」
「李衣菜ちゃん、親友はいるの? 大丈夫?」
「大丈夫だから! ほら、みくとか……」
「あの猫耳娘は絶対にロックを理解してない」
「ぐっ……」
言いくるめた。俺がガッツポーズをすると、李衣菜ちゃんが悔しそうに地団駄を踏んだ。思ったよりも仕草が可愛い子だ。
李衣菜ちゃんとはこれでいい。元々何も問題はない。それよりも智絵里ちゃんだ。その一点に頭を悩ませながら、レストランのドアを押し開けた。