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卯月ちゃん──島村卯月はアイドルである。頻繁にテレビで目にするとか、アイドルに興味がない人でも知っているとか、そこまで有名ではないけれど、俺たちの界隈では人気急上昇中で、小さなライブ会場だとチケットが完売するし、雑誌や地域のイベントで目にすることも増えてきた。
もっとも、ピンでの知名度はやはりまだそれほど高くはなく、多くのアイドルがそうであるように、卯月ちゃんも他のアイドルとユニットを組んで活動している。凛ちゃん、未央ちゃんと一緒にニュージェネレーションズというユニットで登場することが多いが、同じプロダクションの他の子と共演することもある。シンデレラプロジェクトという、所属プロダクションのアイドル企画の一員で、そのメンバーとの活動も多い。
俺はそんな卯月ちゃんを、デビュー当時から追っかけている。正確には養成所の頃から応援していたのだが、本人曰く、現存する最古のファンらしい。当時いた多くのファンは、卯月ちゃんが有名になったことで離れて行ったか、卯月ちゃんの他にも好きなアイドルがたくさんいるかのどちらかで、当時から一貫して卯月ちゃんだけを応援しているのは、俺くらいだという。
元々、アイドルに興味があるわけではなかった。ただ、偶然知った卯月ちゃんがあまりにも可愛くて、一心に追いかけていたら「特別なファン」になっていた。
そんなこととは露知らず、街で偶然見かけた卯月ちゃんに思わず声をかけてしまったことを皮切りに、たくさんの偶然が重なった結果、卯月ちゃんとお付き合いすることになった。もちろん秘密裏だが、舞い上がるほど嬉しかったのは言うまでもない。妄想ですら、そんなことは考えたことがなかった。
俺には奇跡のような出来事だったが、卯月ちゃんに言わせると自然な結果らしい。前にその日のことを二人で思い出していたら、卯月ちゃんが笑いながらこう言った。
「あの時○○さん、最初からグイグイ来たから、私、口説かれてるって思ってました。全然そんなつもりじゃなかったんですね」
駆け出しのアイドルがファンと付き合うという話は、世間で聞かないでもないが、もちろん俺にはそんな勇気はなかった。むしろ、30秒で終わるはずだった出会いを引き延ばしのはそっちだと指摘すると、卯月ちゃんは「そうかもしれませんね」と曖昧に笑って誤魔化した。
結局、卯月ちゃんも俺のことを意識してくれていたから今があり、卯月ちゃんだけを見つめて、たくさん手紙を送っていたから卯月ちゃんの特別になれた。偶然なのはあの日すれ違ったことだけで、後はすべて俺の努力の結果ということらしい。
そんな、卯月ちゃんと初めてキスをした日から、ふた月近く経つ。その間、LINEは毎日して、電話好きの卯月ちゃんが夜に電話をくれることも多かったが、会える時間はほとんどなかった。平日は学校とレッスン、土日はライブやイベントの予定がぎっしりで、しかも初のCM出演が決まってその準備も忙しいらしい。
もちろんそれは寂しいし、欲を言えば毎日だって会いたいが、そこはわきまえて自重している。卯月ちゃんはあまり我慢しなくていいと言ってくれるが、どう考えても対等な付き合いではないし、無理を言って困らせたくない。少しでも卯月ちゃんが負担に感じるような言動はしたくない。時々夜に時間を作ってくれて、たったの30分でも会ってお茶や立ち話ができれば、それ以上望むのは贅沢というものだ。
それが謙虚なのか卑屈なのかはわからない。ただ、自分から声をかけても時間が作れない卯月ちゃんを困らせるだけだと、受け身の付き合いを続けていたら、なかなか会えないまま雨の季節になった。
夏休みになったら、会える日が増えるだろうか。仕事は忙しくなるだろうが、学校が休みになれば時間も取れるかもしれない。
ある日の夕方、そんなことを考えながら、壁に貼った卯月ちゃんのポスターをぼんやりと眺めていたら、不意に電話が鳴った。
ディスプレイに表示された最愛の人の名前を見て、思わず姿勢を正す。電話は頻繁にしているが、今でも慣れないし、慣れてはいけないとも思う。
「もしもし」
努めて気楽な口調で出ると、受話口から卯月ちゃんの弾んだ声がした。
『あっ、○○さん、今よかったですか?』
「もちろん。部屋で退屈してた」
『急なんですけど、今週の土曜日って空いてますか? 私、丸一日空けられることになったから、もし空いてたら会いたいなって!』
はにかむ仕草が、声から伝わってきた。
喜びで全身がむずむずするのとは裏腹に、つい余計な心配が首をもたげて口をつく。
「せっかくの休みなのに、俺なんかと遊ぶのに使っていいの?」
本当に親切で言ったつもりだったが、一瞬で反省した。訂正するより先に、卯月ちゃんの不機嫌な声が耳朶を打った。
『○○さんは、私を怒らせたいんですか?』
「いや、違う。ごめんなさい。全力で空いてるから、会ってもらえたら深甚の謝意を表します」
『よかった。じゃあ、デートのプランは甘えちゃってもいいですか?』
「もちろん!」
失態を取り戻すように元気に答えると、卯月ちゃんは明るく笑って電話を切った。俺はほっと息をついた。
どうしても、未だに卯月ちゃんが俺のことを好きだというのが信じられず、つい探るようなことを言ってしまう。俺と会いたいと思ってくれる卯月ちゃんの気持ちを、もっと素直に受け止めなくてはいけない。
電話を切ってからしばらく、呆けたように幸せに浸っていたが、ふと我に返った。
今週の土曜日というのは、具体的には後3日しかない。3日後に卯月ちゃんと会えるのはもちろん嬉しい。しかも丸一日だ。そんなにも長い時間一緒にいられるのは、付き合い始めてから初めてである。
問題は、卯月ちゃんが何気なく口にした「デート」という単語。考えてみると、俺はまだ卯月ちゃんと一度もデートをしたことがない。いつも夜にお茶をしたり、少し公園を歩くくらいで、取り立ててプランを考えたりしたことはなかった。
つまり、今度の土曜日が二人の初デートということになる。なかなかにロマンチストなあの女の子が、それを意識していないはずがない。
言うまでもないが、俺は女の子とデートをしたことなどなく、身近にそういう話ができる友達もいない。今時の高校生は何に興味があるのか、そもそも女の子はどういうものが好きなのか、一般的なデートコースとは、食事はどの程度のクラスが適当か、何一つわからない。
ごくりと息を呑む。この上なく幸せなはずの一日が、まるで重要な選考試験のように思えてきた。
間違いなく、この先ずっと、二人の記憶に残る記念日になる。なんとしても卯月ちゃんを楽しませなくてはいけない。
時間はあまりない。俺は早速パソコンを立ち上げて、若い男女のデートなるものについて調べ始めた。
土曜日当日は、朝からぐずついた天気だった。季節がら仕方ないが、どうせだったら晴れて欲しかった。
デートのプランはなんとか完成したが、正直なところ自信はない。俺は卯月ちゃんのことならなんでも知っている気になっていたが、いざ卯月ちゃんを喜ばせようと思ったら、何も知らないことを思い知った。
例えば、デートと言えば遊園地と、至極シンプルな発想で都内の遊園地を調べていたのだが、あの卯月ちゃんがジェットコースターではしゃぐ姿が想像できない。意外と好きかも知れないが、もし苦手だったら取り返しがつかない。バッドコミュニケーションで親愛度も急降下である。
やはり無難にショッピングだろうか。また何か夏に向けて好きな服でも買ってあげたい気持ちはあるが、卯月ちゃんは未だに春に買ったワンピースのお礼が足りないと言っているし、あまり買い過ぎても押しつけがましい。そもそも卯月ちゃんはそれなりの収入があり、本当に欲しいものは自分で買うことができるのだ。
ぶらぶらと可愛いものを眺めているだけでもきっと楽しいだろうが、卯月ちゃんは人の多いところを喜ぶだろうか。いつも無防備だが、誰かに見られて噂になっては困る。かと言って、始終警戒して過ごすのも楽しくない。大体、初デートがウィンドウショッピングというのはどうなのか。
考えれば考えるほど卯月ちゃんがわからなくなり、前日夜のぎりぎりまでプランを考えていたら、格好のことをすっかり忘れていた。元々アイドル島村卯月の隣で釣り合う容姿ではない上、オシャレに気を遣ったこともない。似合う似合わないはともかく、せめて新しい服でも買って努力の跡を見せるべきだったが、時すでに遅し。
ジーンズにTシャツ、その上に一番ましな上着を羽織って待ち合わせの駅に向かう。卯月ちゃんはきっとオシャレしてくるだろうと思ったら、なんだか自分が恥ずかしくなってきた。もちろん、俺の自己満足の問題であり、卯月ちゃんが俺の容姿や服装をけなしたことは一度もない。
駅前の有名な像の前に、待ち合わせ時間の15分前に着いた。卯月ちゃんはまだ来ていないようで、胸を撫で下ろしてからスマホを取り出す。連絡しようとLINEを開いたところで、ポンと肩を叩かれた。
振り向くと、自分とは縁遠い世界のギャルっぽい格好の女の子が立っていた。少しヒールの高いサンダルに、裾にダメージの入ったショートパンツ。上はシンプルな白のカットソーで、腰にシャツを巻いている。つばの短い麦わら帽子の端を上げると、薄くメイクをした卯月ちゃんが照れたように微笑んだ。
俺は思わず唖然として、上から下まで卯月ちゃんの格好を3回ほど見た。決して似合っていないわけではなく、むしろ卯月ちゃんのスタイルの良さが強調されていてかっこいいのだが、こういう卯月ちゃんを見るのは初めてで、咄嗟に言葉が出て来なかった。
卯月ちゃんが俺の発言を遮るように、両手をパーにして前に伸ばした。
「わかってます。似合ってないのは私もわかってるんです」
「いや、そんなことはないけど」
俺が生足を凝視しながら言うと、卯月ちゃんはカットソーの袖を軽くつまんで、照れたように笑った。
「一応、変装です。パンツって全然穿かないから、こういうのなら気付かれないかなって思って、一式買ってみたんですけど、どう着こなしていいか全然わかんないまま、今日になっちゃいました」
どうやら、俺がぎりぎりまでプランを悩んでいたように、卯月ちゃんも色々と考えてくれていたらしい。それは嬉しく思うと同時に、やはり今日をとても楽しみにしてくれているプレッシャーを感じた。
「確かに、卯月ちゃんっていつもスカートで、パンツは穿かないイメージがある」
勝手に感じているプレッシャーは表には出さずに、なるべく軽い口調でそう言うと、卯月ちゃんはいたずらっぽい目で俺を見上げた。
「いつもノーパンでスカートって、私完全に変態ですね」
「いや、ズボンのことだから!」
「わかってますよ。冗談です」
明るく笑って、卯月ちゃんは俺の隣に立った。そして、はにかみながら俺の手をぎゅっと握る。
その温もりと、ふんわりと鼻腔をくすぐるいい香りに、俺は昇天しそうになった。もうこのまま10時間くらい、人のいないベンチで肩を寄せ合って座っていたいと思ったが、元気いっぱいの17歳にその提案はないだろう。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
言葉にしなくても伝わってくる期待の眼差し。一抹どころか、動悸がするほどの不安を抱えたまま、俺と卯月ちゃんの初デートは幕を開けた。