結局軽く食事もして、店を出たらすっかり夜だった。もっとも、夏ならまだ明るい時間だ。門限が緩い卯月ちゃんはまだまだ時間は大丈夫だろうし、これからようやく二人の時間を楽しめる。
そう思ってにこにこしていたら、そろそろ帰るという智絵里ちゃんの後に、卯月ちゃんが予想外の言葉を発した。
「私も寮の子に会いたいから、一緒に行こうかな。まだ時間あるし」
思わず声が出そうになるのを堪えて卯月ちゃんを見ると、卯月ちゃんは俺にだけわかるよう小さく頷いた。智絵里ちゃんともう少し喋りたいということだろう。今日は元々卯月ちゃんと二人で遊ぶ予定だったことを考えると不完全燃焼だが、こうなった今止むを得ない。
「李衣菜ちゃんはどうする?」
智絵里ちゃんがそう言ってから、少し気まずそうな顔をした。今のは李衣菜ちゃんが行くと言ったら、俺を一人にしてしまう発言だ。
幸いなことに、李衣菜ちゃんは秒で首を横に振って明るい笑顔を浮かべた。
「私はみくが帰ってきたら行くよ。今日は帰る」
「うん。今日は誘ってくれてありがとう。○○さんもおやすみなさい」
智絵里ちゃんがほっとした表情で頭を下げる。背中を向けて歩いていく二人に手を振ってから、李衣菜ちゃんが小さく息を吐いた。
「今日は楽しかったけど疲れたね」
「智絵里ちゃん?」
「それは○○さんでしょ? 初詣だよ」
駅に戻るとまだ人でごった返していた。別れようとすると、李衣菜ちゃんが俺の服の袖をつまんでからかうように微笑んだ。
「暇してるんでしょ? 送ってよ」
「いいけど、駅とか知られてもいいの?」
「別に家まで来てくれていいよ」
当然のようにそう言って、人の流れに沿って改札をくぐる。はぐれないように隣に並ぶと、李衣菜ちゃんが服の上から腕を掴んで引っ張った。
ホームは初詣客と遊びに来た若者で溢れ返り、1本見送ってようやく乗れた。相変わらず人の数に対して輸送力が足りていない。背中を押されるように電車に乗り込むと、すぐ目の前に李衣菜ちゃんがいて妙に緊張した。冬に感謝する。薄着だったらえらいことになっていた。
「結局、何をお願いしたの?」
なんとなく沈黙を嫌って耳元で囁くと、李衣菜ちゃんはチラリと俺を見上げた。わずか数センチの距離で見つめられて思わず身を反らせたが、実際にはすぐ後ろに人がいてできなかった。
「今年も楽しく仕事ができるようにとか、そんなのだよ」
「そっか」
「○○さんとももっと仲良くなれますようにってお願いしておいたから、今度みくも入れて遊ぼうね」
勝気な瞳で微笑む。やはりこの子の社交性が高いのだと、今はっきりとわかった。もし智絵里ちゃんだったら、俺の「そっか」で話が終わって微妙な空気になっていたはずだ。
「李衣菜ちゃんはみくちゃんと仲良しだね」
「まあ、相棒だからね。ケンカもよくするけど」
「ケンカするほど仲がいい?」
「迷信だよ。私は○○さんとケンカしてないけど、親友だって思ってるよ」
「それはどうも」
会って早々に使ったネタをここで持ち出してくる。この子は思ったよりも頭がいいのかもしれない。失礼な感想ではあるが。
見上げるのに疲れたのか、李衣菜ちゃんが視線を落として俺の肩に額を当てた。厚手のジャケットのせいで体温は感じないが、さらさらした髪が頬を撫でてくすぐったい。
どこかの駅で大量に人が降りて、ようやく二人の間に空間ができた。李衣菜ちゃんが手を伸ばして吊り革を掴み、ゆらゆらと子供のように体を揺らした。
「今日は一日立ちっぱなしだね。私は若いから平気だけど」
「俺も若いし平気だから。ライブで鍛えられてる」
「スタンディングライブは、始まるまでがツライよね」
「特に俺は孤軍奮闘だから、トイレにも行けない」
「ライブ仲間は? みくが、○○さんは大暗黒さんと知り合いだって言ってたけど」
李衣菜ちゃんがみくちゃん推しのオタク仲間の名前を挙げた。ピンチェのライブで知り合ってから時々やり取りしているが、積極的にライブに行くほどの仲ではない。元々昔から一人で参戦していたのもあるし、最近は会場でアイドルの子と一緒になることもあるので、意図的に気付かれないように振る舞っていたりもする。
そんな話をしながら電車を一本乗り換えると、並んで座ることができた。俺の想像した正月の電車だ。みんな、正月から遊びすぎだと思うが、それは完全にブーメランだろう。
「李衣菜ちゃん、今日はよくみくちゃんの名前を出してたけど、アスタリスクとMasque:Rade、どっちに軸足を置きたい感じ」
電車の音がうるさいのと、一応周りに聞かれないように耳元に顔を寄せて聞いてみる。去年、謎解きイベントの後、みくちゃんがアスタリスクでの仕事が減っていると嘆いていた。それを李衣菜ちゃんはどう思っているのだろう。
李衣菜ちゃんは不思議そうに俺を見て首を傾げた。
「来た方の仕事をするよ。みくの話は今日だけじゃなくて、結構いつもしてると思うけど」
「それは確かに。みくちゃんはMasque:Radeみたいなユニットがないから、李衣菜ちゃんがMasque:Radeで活躍すると、寂しいんじゃないかなって思って」
あくまで俺の意見として言ってみると、李衣菜ちゃんは困ったように微笑んだ。
「みく、そんなこと気にするかなぁ」
「それはわからないけど……」
「一応、今度みくに聞いてみるよ。確かに、待ちの姿勢だと、シンデレラの仕事はどんどん減ってるような気がする」
実際に、あの夏のライブが集大成だった。あの後、ポジパ、ピンチェ、そしてMasque:Radeと、CPのメンバーを含めたユニットが次々と結成されている。あの長身のプロデューサーの問題ではなく、プロダクションの方針だろう。新人を集めたCPは一定の成果を上げ、アイドルたちは次の場所に羽ばたこうとしている。
「○○さんは、卯月ちゃんにニュージェネとピンチェ、どっちに軸足を置いてほしい?」
「ニュージェネかな。響子ちゃんは好きだけど、それとは別問題として」
自分でも驚くほど即答した。ただ、それはユニットの方向性とか曲の問題ではない。単に昔から知っている場所の方が落ち着くというだけだ。卯月ちゃんはそういう古参の心理を好ましく思っていないし、新しいことに挑戦したがっている。俺としても、色々な卯月ちゃんを見たい気持ちはある。
「みくにも別のユニットがあればいいのか、それとも私とやりたいと思ってくれてるのか」
李衣菜ちゃんがあくび混じりにそう言いながら、俺の肩に寄りかかった。見ると柔らかくまぶたを閉じて、安らいだ顔をしている。わずかに開かれた唇は艶があって、女の子のように色気があった。女の子だけど。
少しの間くつろいで、李衣菜ちゃんは寝起きのように腕を伸ばした。降りた駅はよく知らないが、辺りは閑静で上流な雰囲気を感じた。
冬の夜道を家の近くまで送る。しばらく歩くと、李衣菜ちゃんが急に寂しそうな目をして俺の手を取った。不意な温もりに思わず息を呑む。
「○○さん、今日はごめんね」
情けなく眉をゆがめて、李衣菜ちゃんが謝った。一体何のことだろう。指が温かくて冷静な判断ができない。この子はスキンシップが多い気がする。
「何のこと?」
「智絵里ちゃんを呼んだこと。今日は、私の想像とは違う一日だった」
なるほど。俺と智絵里ちゃんが噛み合っていなかったことを、李衣菜ちゃんも気にしていたらしい。もっとも、俺が李衣菜ちゃんに嫌われたくないと言ったことで、余計に意識させてしまった可能性はある。
「俺は智絵里ちゃんが嫌いじゃないし、人見知り同士の初対面なんてあんなもんだよ」
「学園祭の時、初対面だったけど思いっ切り楽しかった」
「李衣菜ちゃんが人見知りじゃない上に、社交性があったから。今日も、色々聞いてくれたし」
「それは普通でしょ?」
「興味がない相手には質問しないし、義務的な質問はすぐにわかる。李衣菜ちゃんは、ちゃんと俺のことを知りたそうにしてくれるから、それがすごく嬉しい」
ギュッと手を握り返して真っ直ぐ目を見つめると、李衣菜ちゃんは慌てた顔をした後、何やら頬を赤くして俯いた。普段、少年感がある分、時々女の子っぽい表情をするとギャップがすごい。そういうところはとても可愛いと思うが、ロックなアイドルになりたい李衣菜ちゃんは、可愛いと言われても喜ばないだろう。
「じゃあ、とにかく、智絵里ちゃんのことは良かったってことでいい?」
「もちろん。色々考えてくれてありがとな、李衣菜」
なんとなく冗談めかして気障っぽく言うと、李衣菜ちゃんがわかりやすく驚いた顔をした。
「な、なんで急に呼び捨て!?」
「いや、ロックかと思って。みくにも時々する」
「びっくりした。でも、うん。そういうの、嫌いじゃないよ」
そう言って手を離すと、李衣菜ちゃんは一度軽く自分の頬を両手で叩いてから、にっこりと笑った。
「じゃあ、家すぐ近くだから、ここでいいよ。親に見つかると面倒だし。送ってくれてありがとう」
「うん。おやすみ。今年もよろしくね」
「もちろん。こちらこそ!」
元気に走っていく李衣菜ちゃんの背中を見送ってから、スマホを確認した。もうじき21時だが、卯月ちゃんからの連絡はない。まだ寮にいるのか、それとも帰る途中か。別れた時間を考えると、まだ家には帰っていないだろう。
今日もまた盛りだくさんな一日だった。李衣菜ちゃんは想像とは違う一日だったと言っていたが、それを言ったら俺も、今日は元々卯月ちゃんと二人で初詣の予定だった。けれど、李衣菜ちゃんや智絵里ちゃんと過ごす一日も悪くなかった。智絵里ちゃんがどう感じたかは気になるが、卯月ちゃんに任せておけば大丈夫だろう。
正月三が日。明日は約束していないが、また昨日のように少しだけでも会えたら会いたい。そんなことを考えながら歩いていたら、スマホが震えた。もちろん、卯月ちゃんからだ。すぐに通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
『卯月です。もう家ですか?』
「いや、外。李衣菜ちゃんを送って、これから帰るところ。卯月ちゃんは?」
『寮の最寄駅です。○○さん、李衣菜ちゃんの家まで行ったんですか?』
「近くまで。家の場所は知らない」
『そうですか。明日はどうしますか? もちろん、言うまでもなく、今日はものすごく物足りなかったのですが』
いきなりそう言われて、俺は思わず噴き出した。先に言われたのは不甲斐ないが、言うまでもなく俺も物足りなかったのは、別れ際の視線だけで十分伝わっている。
「会えるなら会いたいよ。俺は暇してる」
『じゃあ、福袋とか見に行きましょう。○○さんの部屋にも少し行きたいです』
「それはエッチしたいってこと?」
『時間とかはまた後でメールしますね。少しだけ今日の内に智絵里ちゃんの話をさせてください』
完全に俺の台詞は黙殺されたが、智絵里ちゃんのことと言われたらそちらを優先せざるを得ない。姿勢を正して続きを待つと、卯月ちゃんは大した話ではないと前置きした後こう言った。
『智絵里ちゃん、友達といるっていうより、ファンの人といるみたいだったって言ってました』
「俺が緊張してたからかな?」
『話題とかもじゃないですか? 合流する前は知りませんけど、ずっとライブとかアイドルの話ばかりしてましたし』
それは当然そうなるだろうと思ったが、考えてみると新年早々みくちゃんとは初詣の話をしたし、李衣菜ちゃんとは牛丼の話をしていた。もちろん、付き合いがそれなりに長いからできることで、初対面の智絵里ちゃんとは共通の話題に始終しても仕方ない。そもそも俺は、ただのドルオタに過ぎないのだ。
わざわざ主張することでもないので無難な相槌を打つと、卯月ちゃんは俺の言いたいことなどお見通しだと言わんばかりに笑った。
『まあ、智絵里ちゃんと○○さんなら、あんなものでしょう。上出来です』
「褒められた? 初詣ではたくさん喋ってくれて助かったよ」
『喋りたかっただけです。李衣菜ちゃんはどうでした?』
明るい声で質問されて、つい今し方の会話を思い出す。智絵里ちゃんを呼んだことを気にしていたからフォローしておいたと伝えると、卯月ちゃんは満足そうに頷いた。
『李衣菜ちゃんとは大丈夫そうですね。智絵里ちゃんも、二人はとても仲良しだったと言っていました』
「好かれるよう頑張ってる」
『はい。でも、好かれすぎないでくださいね? 私はそんな展開を1ミクロンも望んでいません』
随分小さな単位だ。もちろん、俺もそういう展開は望んでいないが、心配しなくてもそんなことになるはずがない。卯月ちゃんは俺が今までどれだけ女の子に縁のない生活を送ってきたかわかっていないのだ。
安心させるようにそう言うと、卯月ちゃんは呆れたように言った。
『モテないことを力説されても、彼女の私としては反応に困ります。じゃあ、そろそろ切りますね。あんまり遅いと明日外に出してもらえなくなります』
そう言って、卯月ちゃんは通話を切った。もう十分遅い時間だと思うが、お嬢様の割には放任だ。外泊には厳しそうだが、帰って来さえすれば問題ないのだろう。
ひとまず明日も会えるようで安堵する。親には悪いが、実家に帰らなくてよかった。新学期が始まったら、またなかなか会えなくなる。
今の内に会えるだけ会おう。今年も卯月ちゃんを人生の中心に据える。