綺麗に体を洗って部屋に戻ると、エアコンが少し暑かった。温度を下げてから、卯月ちゃんのバッグを風呂場に持って行く。脱いだついでに生理用品を替えると言っていた。どんなものか見てみたかったが、本気で不機嫌になられるのは望むところではないので、大人しく部屋に戻った。
やがて卯月ちゃんが疲れた顔で戻ってきて、重たい息を吐きながら俺の隣に座った。ぐったりと俺の体にもたれて、非難げな眼差しを向ける。
「凌辱されました」
「俺の記憶だと、卯月ちゃんが先にエッチしたいって言い出した」
「するとは言ってません」
「そういう、政治家の答弁みたいなのはいいから」
呆れたようにそう言うと、卯月ちゃんはくすっと笑った。一連の行為の割には機嫌が良さそうだ。軽く肩を抱き寄せると、卯月ちゃんは卓上のカレンダーを引き寄せて1枚めくった。
「話をしてもいいですか? エッチな時の○○さんには日本語が通じないと思って、特別に先に性欲を満たしてあげました」
「随分な言われようだけど、満たしてもらったから聞き流そう。いや、でも卯月ちゃんも気持ち良さそうにしてたよね?」
「私、ここの土日、奇跡的にお休みが取れそうなんです。今日は少しその話もしたいって思ってたんですが、いきなり襲われました」
俺の発言をガン無視して、卯月ちゃんが指先でクルッと円を描いたのは、3週間後の土日だった。さっきから随分扱いがひどいが、切り出された話の方が遥かに大切だったので突っ込むのは止めた。
アイドルの卯月ちゃんが、一番活動の多い土日に連続して休みが取れることは滅多にない。休めるというのは、逆に言えば仕事がないということだが、まだ高校生の卯月ちゃんはそこまでひたすら仕事をしたいと思っているわけではない。特に俺と付き合い始めてからは、もう少し私生活の時間を取りたいと時々ぼやいている。幸いにも、今のところ仕事をセーブしている様子はないし、俺もそんなことは望んでいないが、自然とできた休みを俺のために使ってくれるのは嬉しい。
「じゃあ、久しぶりの2Days?」
他に解釈のしようのない振りだったが、念のためにそう確認すると、卯月ちゃんは俺の予想を上回ることを言った。
「旅行に行きたいです」
「家庭の諸問題は?」
「なんとかします。実はなんとかなるんです。たぶん、私が難しく考えすぎていただけです」
そう言いながら、自信に満ちた顔で力強く頷いた。
島村家は門限は緩いが、外泊には厳しい。もちろん、友達やアイドル仲間の家に泊まるのは問題ないのだが、男の部屋に泊まることなど許されるはずがなく、口裏を合わせようにも俺のことは誰にも話せない。
もっとも、そうは言いつつ、卯月ちゃんは何度もうちに泊まっている。急じゃなければ大丈夫なのだ。卯月ちゃんが家にどう言うのかは知らないが、今回も3週間も前からならアリバイが作れるのだろう。
「旅行か。富士急とか? もっと遠く?」
急なことで咄嗟に何も思い付かなかった。身近な屋内のスポットは10でも20でも挙げられるが、それは過去の反省とこれまでの経験によるものである。旅行の趣味はないし、卯月ちゃんと具体的な旅行の話をしたこともないので、何も出て来ない。どこか行きたい場所があるか聞くと、卯月ちゃんはそっと微笑んだ。
「まだきっと外は寒いし、温泉でのんびりとかでいいです。とかが、かな」
「地味だね」
「都会に住んでますからね」
きっぱりとそう言い切る。遊べる場所も何もかも身近にある。年齢を考えたら、観光地を回るとか、各地のグルメに興味がないのも頷ける。あるいは興味があったとしても、貴重な1回の旅行を、宿でのんびり過ごしたいと考えるのは、極めて妥当な選択に思えてきた。ましてや若くして学業と仕事を両立していて、忙しい日々を送っている。のんびりへの欲は、常にのんびりしている俺の比ではないだろう。
「じゃあ、また調べておくよ」
「いえ、今から二人で調べましょう」
楽しそうにそう言って、卯月ちゃんは俺のノートパソコンを開いた。元々これをするために俺の部屋に来たのかはわからないが、一緒に旅行の計画を立てるのは楽しそうだ。
「私、お仕事で色んなとこに行ってますし、泊まったこともありますけど、自分で旅行を計画したことってないんです」
「初体験か」
「そうですね。この部屋では色んな初体験をしますね」
卯月ちゃんがふふっと笑う。思わず真顔で見つめると、卯月ちゃんは驚いたように眉を上げてから、俺の顔を押し退けた。
「今のこそ、さらっと流すところです」
「いや、すごいこと言い出したなって思って。あの日も血が出てた」
「うわぁ……ドン引きです。寒気がしたから帰ろうかな」
わざとらしく体を震わせながら、旅行サイトを開く。通常、旅行を計画する時、まずは予算から入ると言ったら、卯月ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「まず行きたい場所とか、条件とかじゃないですか?」
「お嬢様か!」
「いえ、普通に」
確かに、考えてみるとまず行き先かもしれない。有名な温泉地はたくさんあるが、移動に時間とお金がかかるのは望ましくない。この際、旅行感があれば近場でも全然いいと卯月ちゃんが言った。
「旅行感……。それは、距離とニアイコール?」
「ちょっと違いますね。近くてもディズニーなら旅行感がありますけど、それより遠くても、船橋には旅行感がありません」
「観光地としての格とか、宿のランクの話?」
「そういう総合的なことだと思います」
関東の温泉地を検索したら、草津温泉や伊香保温泉など、有名な温泉がズラリと並んだ。
「有名であることは重要? 旅行感は高くなりそうだけど」
後で振り返った時、有名な温泉地の方が思い出レベルは高くなりそうだ。感覚的な話が続くが、それをすり合わせていくのは楽しい。
「ぶっちゃけ、泉質とかよくわかりませんし、たったの1回だから効能とかも気にしなくていい気はします」
「卯月ちゃん的重要ポイントは?」
「貸し切りのお風呂に二人で入りたい気持ちはありますけど、小さな旅館だとちょっと恥ずかしいですね。敢えて人の温かみを感じない、大きな旅館やホテルで、一緒にお風呂に入れたらベストです」
なんとなくわかる要望だった。ペンションなどでは風呂が時間ごとに貸し切りになるが、宿の人や他の客との距離が近すぎると、気恥ずかしい。こっちが気にするほど向こうは気にしないだろうが、年頃の女の子がそこを気にするのはごく自然なことである。
検索して候補を絞る。食事も部屋でしたいと言うのでそれも条件に入れたら、さすがにヒットした件数が少なかった。その上、とても高い。全室部屋風呂があり、食事も部屋で食べられるいい雰囲気の温泉があったが、1泊3万とあってそっと閉じた。たまの1回でも高すぎる。
「卯月ちゃん、実は年収が800万くらいあるとか、ない?」
「○○さんがプロマイドを500万円くらい買ってくれたらあるかもしれませんね。CDと違って、取り分が多い商品です」
「取り分か。最近346が始めた動画配信の投げ銭って、儲かるの?」
「どうでしょう。私はあまりやりたいと思わないので」
「そうなの?」
「なんでしょうね……。私の中でまだあの企画に対する考えがまとまっていないので、また今度にしましょう。それより宿です」
卯月ちゃんが強制的に話を打ち切って、ディスプレイに顔を戻した。配信の話は気になるが、明らかに脱線なので一度引っ込める。そんな話はいつだって出来る。
予算は1泊1万円前後で探すことにした。その代わり、優先順位として部屋での食事は諦める。結局部屋に人が入ってくるのは落ち着かないし、お酒を飲むわけでもない。食事くらいは食堂で構わない。
部屋風呂には憧れるが、元々貸切風呂を調べていた。時間は制限されるが、妥協は必要だ。その分、ある程度の規模と、清潔感と、周辺の賑わいを条件に加える。部屋は和室。もちろん禁煙。広くなくてよい。食事は悪い評判がなければよしとする。
「鎌倉とか熱海とか、そっちの方ですかねぇ。一応観光もできますし。せっかく次の日もお休みなので、少しくらい観光もしたいです」
「アクセスもいいしね。そう考えると、チェックインは15時くらいだから、割と土曜日も時間があるよね。問題は、鎌倉は湘南新宿ライン1本で1時間で行けることだな。旅行感はどう?」
「それこそ今日今からでも行けるレベルですね。それに、自分で言っておいて何ですが、私は行ったことがあります」
「男と……」
「女と。もちろん、○○さんと行くのは全然別物ですけど、少し他を探しましょう」
そう言って、検索範囲を広げる。鴨川温泉とか良さそうだったが、南の果てだったので諦めた。やはり箱根だろうか。念のため調べてみたら、鴨川のアクセスは思ったより悪くなかったが、心はすでに西にあった。
箱根一本に絞って、良さそうな宿を探す。周辺の観光はどこも問題ないし、眺望の優先順位は低い。貸切風呂があり、部屋数が多めで、食事や全体の評価も低くない宿を検索すると、少し予算オーバーだったがいい宿が見つかった。
早速俺の個人情報を入れて予約する。届いた予約確認メールを見て、卯月ちゃんが柔らかく微笑んだ。
「なんだか、意外とすんなり決まるものなんですね。私、旅行を大仰に捉え過ぎていたかもしれません」
「難しい言葉を使うね」
「今度は合ってました?」
卯月ちゃんが俺の腕を胸元に引き寄せながら、口角をキュッと上げた。先程の一周忌の失態を思い出して苦笑いを浮かべる。何にしろ、挑戦は大事だ。
しばらくキスしてから観光名所を調べる。天気がよければ大涌谷は鉄板だろう。雑誌やテレビでは何度も見ているが、もちろん行ったことはない。
他にはいくつか美術館があり、綺麗な公園がある。ストリートビューで見てみたら、意外と田舎だった。芦ノ湖まで足を伸ばしてみてもいいかもしれない。
「小田原で乗り換えますし、ついでに寄りましょう」
「もっと何もなさそう感」
「何かありますよ。有名ですし。それに、どこに行くかより、誰と行くかが大事なんです!」
そう言って、にっこりと微笑む。とても嬉しい台詞ではあるが、これまで一貫して言い続けてきた旅行感全否定である。
ふんわりと、卯月ちゃんの髪の毛からいい香りがする。軽く抱き寄せながら髪を撫でると、卯月ちゃんは不思議そうにまばたきしてから、何も言わずにマウスをクリックした。
これまで旅行という選択肢はなかったが、こうして二人であれがしたいこれがしたいと相談するのはとても楽しい。計画段階で、すでに旅行は始まっているのかもしれない。
きっと楽しい旅になる。エッチもたくさんしよう。モノローグを語るように小声で言うと、卯月ちゃんがそれはそれは冷たい目で俺を見た。
「今、ご飯を食べてお店を出た瞬間に、ご飯が食べたいって言われた気分でした」
「ご飯が好きなんだよ」
「まあいいですけど。順調ならエッチができる日なので、私も楽しみにしてますね」
「女の子の日にもエッチができることが、今日証明された」
「もうしませんから。絶対にしませんから」
そっけなく卯月ちゃんが言った。2回言うとフラグめいて聞こえるから不思議だ。
何にしろ、卯月ちゃんも楽しみにしているらしい。いつも自分を棚に上げるが、この子も大概エッチだ。
旅行まで3週間。その間にももちろん会う約束はしているし、ピンチェのインストアイベントも控えている。そして、卯月ちゃんの言うところの一周忌が待っている。
卯月ちゃんのおかげで、毎日がとても楽しい。
そんな、付き合って1年の集大成とも言える箱根旅行は、しかしこの一週間後、キャンセルすることになってしまった。