旅行まで2週間、ピンチェのインストアイベントが終わった翌日の夕方、俺がまた溜めてしまっていたネットラジオの配信を消化していた時のことだった。何の前触れもなく卯月ちゃんから電話があり、何気なく出るとスピーカーから卯月ちゃんの固い声がした。
『○○さん、これから少し会えませんか?』
窓の外はすでに暗く、これから外に出てもほとんど時間はない。どうせ食事もまだだったし外の出るのは構わないが、一緒にご飯を食べようという明るい感じの声ではなかった。
「行くのはまったく構わないけど、どうしたの?」
声のトーンを合わせると、卯月ちゃんは少しだけ逡巡してから、やはり緊張感のある声で言った。
『直接会ってお話したいです』
「深刻な話? 仲に関わる? それとも、病気とか怪我とか?」
『あっ、いえ……ごめんなさい。そう言われると、そこまで深刻でもないかもしれません』
卯月ちゃんはほっと息を吐いて、力なく笑った。とりあえず行った方が良さそうだ。俺が腰を上げかけると、卯月ちゃんが意を決したように息を吸った。
『結論から言うと、旅行に行けなくなりました。ごめんなさい』
驚きはなかったが、予想もしていなかった。忙しい子だが、事前に決めたデートの約束が潰れたことはほとんどない。
「仕事?」
厳しい口調にならないように、努めて穏やかに尋ねる。スマホの向こうで卯月ちゃんが頷く気配がした。
『はい。お仕事以外で○○さんより優先する用なんてありません。いえ、お仕事でもこの旅行より大事なお仕事なんてほとんどありません』
「そのほとんどが入ったの?」
『テレビ出演の打ち合わせが入ってしまって。土曜日の午後から夕方までですが、終わる時間はわかりません』
「そっか。翌日は大丈夫?」
『日曜日は、はい。大丈夫です』
それなら仕方ない。幸いにもまだキャンセル料のかかるタイミングではないし、日曜日に一日遊べるならそれだけでも有り難い。
気にしないでと伝えようとしたら、卯月ちゃんが震える声で続けた。
『私から誘ったのに、ごめんなさい。せっかく一緒にプランも考えて、私も本当に楽しみにしてたんです!』
辛そうに卯月ちゃんが唸る。俺は慌てて言葉を遮った。
「卯月ちゃん、大丈夫だから。俺も楽しみにしてたし、もちろん残念だけど、仕方ないよ。確かに今までは順調だったけど、これくらいのことはいつも覚悟して付き合ってるよ」
『目が覚めたら、お腹の中の赤ちゃんがいなくなっちゃったみたいな喪失感が……』
「いや、たぶんそこまでじゃないと思う」
冗談なのか何なのかわからないが、取り乱すほど落ち込んでいるのは確かなので、しばらく言いたいことを言わせてから通話を切った。直接会っていたら泣き出していたかもしれない。そういえば、卯月ちゃんが泣いているところはほとんど見たことがない。一度見てみたいものだと思いながら旅行サイトを開き、予約をキャンセルする。
確認ボタンを押すと、確かに言い知れぬ喪失感が胸に込み上げてきた。俺の家には何度か泊まっているが、二人で他の場所に泊まったことはない。ラブホテルですらだ。そんな初めての旅行がなくなってしまった。
また次があると思いたいが、果たしてどうだろうか。外泊については、卯月ちゃんは去年より希望があるようなことを言っていたが、とにかく休日に続けて休みというのは、ごく稀にしかない。こんなことなら年末にどこか行けば良かったとも思ったが、あの時は家族行事の合間を縫って会っていたので、とても旅行などできなかっただろう。
希望があるとすれば春休みだ。すぐに次の計画を立てるべきか、それともしばらく旅行のことは話題に出さない方がいいか。とりあえずスマホを取ってメッセージを送ってみる。
『しょんぼりしてる卯月ちゃんが見たいから、自撮り送って』
送信ボタンを押してから改めて文面を見ると、結構攻めた文だったかもしれない。しばらくしてから、卯月ちゃんからがっくりと項垂れた、顔も見えない写真が送られてきた。大丈夫そうな気もするが、今日のところはそっとしておこう。
その数日後、夜だけ会える時間があったので、何度か行っている洋食屋に入ってハンバーグとチキンカツを注文するや否や、卯月ちゃんが頭を抱えて絶望的なため息をついた。
「旅行のことは本当にごめんなさい」
「いや、割と大丈夫」
「○○さんにとって、その程度のことだったんですね」
「怒っていい?」
「やめてください」
なんだか変なノリだが、未だに心に折り合いがついていないようである。テレビ出演を楽しみにしていると伝えたら、卯月ちゃんはむすっとした顔で唇を尖らせた。
「あんまり楽しみじゃないんです。私が出たくて仕方ない番組なら、もっとしょうがないって諦めもつくんですけどね」
「クイズ系? 歌番組じゃなさそうだね」
「芸人の食べ歩き番組の賑やかしですね」
「ピンチェ?」
「シンデレラです。未央ちゃんと莉嘉ちゃんと一緒です」
それはまた珍しい組み合わせだ。もっと突っ込んで聞きたかったが、卯月ちゃんはもうその話はいいと言わんばかりに手を振った。
「今回はこんなことになってしまいましたが、私はまた休みが取れそうな日を伝えて、積極的に計画をしても大丈夫ですか?」
「それはもちろん。俺もどうしようか迷ってた」
「良かったです。これが原因でぎくしゃくして、1周年を迎える前に破局したらどうしようって、夜も眠れませんでした」
それはどうも嘘っぽい。
運ばれてきたハンバーグを頬張る。相変わらず美味しい。庶民的な店で若者からは見向きもされていないが、ネットで調べると30位くらいに入るマイナーな名店だ。
卯月ちゃんは初めて頼むチキンカツを口に運んで、満足そうに頷いた。こういう時に、食べたことのある無難なものを頼むか、初めてのメニューに挑戦するかで、性格が出る。交換を申し出ると、さも当たり前のようにカツを半分俺の皿に移した。思いの外ジューシーで美味しかった。
「それで、日曜日はどうしよう。酸素バーでも行く?」
「酸素バーはいいです。日曜日はなんでもいいんですけど、土曜日の夜が……」
中途半端に言葉を止めて、卯月ちゃんは難しい顔をした。元々泊まる予定だった夜である。すでにアリバイ工作をした後なら、部屋に来てもらうのは大歓迎だ。
「ホテルでもいいけど」
周囲に聞こえないようにぽそっと言うと、卯月ちゃんはしばらく考えるそぶりをした後、パッと顔を上げた。
「そっか。ホテルっていう手もありますね」
何か光明でも差したのだろうか。俺はラブホテルという意味で言ったのだが、卯月ちゃんは普通のホテルと解釈したようだ。
正直なところ、旅行ではないなら、すぐに行ける場所に泊まるのはもったいなく感じる。ただ、卯月ちゃんが満足できそうなプランがあるのなら、それに乗ることはやぶさかではない。
「終わる時間はわかりませんが、夜中になることはありません。素泊まりなら、遅くチェックインしてもいいかもしれませんね」
「都内の近場を考えてる? 箱根まで行こうとしたら、3時間近くかかるよ?」
「そこまで遠くなくてもいいです。翌日少し観光できるところなら、旅行感が出ると思います」
喋るごとに卯月ちゃんの声が明るくなっていく。ただ、そのプランでは、当初ののんびりするという大きな目的が達成されない。そこは問題ではないのだろうか。
皿の上のものをすべて平らげると、卯月ちゃんが自分の隣の椅子をポンと叩いた。店は混んでいないので、しばらく長居しても大丈夫だろう。隣に移動すると、卯月ちゃんがスマホをテーブルに置いた。
「貸切風呂も捨てましょう。温泉、和室、翌日観光できそうな場所。この3つに絞れば、行けそうじゃないですか? プランの縮小分、金額も安くなると思いますし、交通費に振ってもいいです」
「貸切風呂があって食事付きでのんびりするっていうのが、最初のプランだったと思うけど、そこはいいの?」
「私は構いません。○○さんは嫌ですか? 無理に私に合わせないでくださいね?」
「卯月ちゃんがいいなら大丈夫。十分楽しそう」
不安げに眉をゆがめた卯月ちゃんに笑いかける。最初のプランと比較すると物足りないが、一度ご破算して考えれば、十分魅力的な提案だ。
改めて、東京の近場の温泉地を調べると、どこも大体電車で2時間ほどかかった。ここに来て鎌倉プランが再浮上したが、そもそも温泉地ではなかった。
「熱海ですかねぇ。本数は限られますが、新幹線を使えば40分で行けます」
「新幹線か。まあでも、素泊まりにする分、安くなるだろうし、元々土曜日は何をするでもないプランだったし、いいかもしれない」
熱海という場所は名前しか知らなかったが、改めて調べてみると、ビーチや店の建ち並ぶ中心地は駅から少し離れていた。ただ、駅の徒歩圏内にも大きなホテルがいくつかあるので、そこに泊まって、翌日ビーチの方に行ってみるのはいいかもしれない。
少しワクワクしてきた。それが顔に出たのか、卯月ちゃんがくすっと笑った。
「○○さん、楽しそうです」
「絶望からの再起」
「そうですね。旅行感、出てきましたね」
ノートパソコンと比べると検索能力が落ちるが、熱海の検索結果で表示されたホテルを、一つずつタップしていく。食事や駐車場の評価は気にしなくてよい。和室で大浴場が遅くまで開いていて、値段はそこそこで。どうせ着くのが夜なので、景色も優先度が低い。貸切風呂を捨てたので、部屋数もそんなに多くなくてよい。駅から歩いて行けるといいが、最悪バスで市街地まで出てもいい。
そこまで条件を緩和したら、駅から徒歩圏内で、オーシャンビューの和室のあるホテルが見つかった。値段は素泊まりにしては少し高いが、卯月ちゃんは大丈夫だと頷いた。
「年収が800万あるから、全然平気です」
「すごいね。美穂ちゃんとか、それくらいもらってそう」
「たぶんないですね。美嘉ちゃんならもしかしたらあるかもしれません。雑誌でモデルもしてるし、テレビにもよく出てるし」
卯月ちゃんが可愛らしく顎に指先を当てて視線を泳がせた。
城ヶ崎美嘉についてはあまり知らない。美穂ちゃんに関して言えば、確かに346プロの中では売れているアイドルの一人ではあるが、テレビではほとんど見ないし、比較的活動範囲は狭い。往年のアイドルのように、歌手寄りの活動をしているが、国民的アイドルというほどでもない。
卯月ちゃんはどうなのだろう。思い返すと、街で出会った日、卯月ちゃんはピピッと来た春色のワンピースを値段で断念した。あれから1年、俺から見ると躍進したが、所詮は小さな世界の中での話という気もする。あの美穂ちゃんですら、世間的には大して知られていないのだ。
じっと見つめていると、卯月ちゃんが困ったように微笑んだ。
「なんですか?」
「いや、あのワンピースを、もし卯月ちゃんが自分で買ってたら、今はなかったなって思って」
「その発想はなかったですね。良かったですね、私が貧乏で」
「新幹線を使おうとか言い出す女子高生は、貧乏とは言わない」
「普段あまりお金を使ってませんからね。○○さんと遊ぶ以外はコスメとお洋服に全振りしてますけど、それはお仕事のためって感じがしますし」
卯月ちゃんがそう言って、そっとため息をついた。女の子は大変だ。
残り部屋数が少なかったので、俺のスマホでログインしてその場で宿を押さえた。到着時間は遅めにしておいたが、なるべく早く着けたら嬉しい。いや、この際もう、この旅行が実現すればそれ以上は望まない。
「今度は大丈夫です。この打ち合わせの後に仕事が入ることは考えられません」
「日曜日に仕事が入るとか」
「そうなったらもう、アイドルを辞めます!」
「辞めないで!」
慌てて押しとどめると、卯月ちゃんは楽しそうに頬を綻ばせた。もちろん冗談に決まっている。たぶん。
卯月ちゃんを完全に独り占めしたい欲もなくはないが、今はまだ、アイドル島村卯月を追っかけさせてもらえたらと思う。