会場から少し離れると、すぐに住宅地が広がっていた。それをさらに進むと大きな公園があり、その奥の方のベンチに響子ちゃんは座っていた。髪を下ろして野暮ったい服を着ていたので、一瞬誰かわからなかったが、正面に立つと紛れもなく響子ちゃんだった。ただ、いつもの穏やかな笑顔ではなく、思い詰めたような表情をしている。
「遅くなってごめん」
そう言い終わらない内に、響子ちゃんはベンチから立ち上がり、いきなり俺の体をしがみつくように抱きしめた。ふんにょりと押し付けられる胸やお腹の柔らかな感触。背中をグッと引き寄せられる力強さ。俺は混乱して思わず硬直した。
一体何が起きたのか。何かのドッキリだろうか。そういう空気ではないが、どこかで卯月ちゃんが見ていて、何かを試されているのではないかと冷や冷やする。
わけがわからずたじろぐ俺の背中に、響子ちゃんが強く指を立てた。そして、俺の肩に顔を押し付けたまま、くぐもった声を漏らした。
「こんなはずじゃなかった……」
何のことだろう。まったくわからない。ライブのことなのは間違いないが、ファンもそれなりに入っていたし、十分盛り上がっていた。物販も列が出来ていたし、ほぼネネちゃんのライブ中、ファンが途切れることはなかった。
それでも、物足りなかったのだろうか。昔ニュージェネのライブで、あまりの観客の少なさに、未央ちゃんがショックを受けたことがあると聞いた。響子ちゃんもピンチェでデビューして、満員のフロアしか見たことがないので、あのガランとしたフロアにショックを受けたのだろうか。
そっと肩を抱き寄せると、思いの外華奢でドキリとした。舞台に立つとその存在感の強さに大きく見えるが、数値通り卯月ちゃんよりずっと小柄だ。次の言葉を待ったが、響子ちゃんは俺の肩に顔を埋めたまま、何も言わなかった。声をかけた方がいいのか、それとも言葉を探しているのか。
髪撫でながら周囲を窺う。人がまったくいないわけではないが、とても少ないし、わざわざ抱き合っているカップルにちょっかいをかけてくるような者はいない。空気はひんやりしているが、響子ちゃんの体は温かかった。友達相手に邪なことを考えてはいけないが、胸部の弾力があまりにも心地良い。
「前のイベントとかSNSとかで、行くって言ってくれた人たちが、全然来てなかったんです」
響子ちゃんが辛そうな声でそう言った。なるほどそういうことかと、俺は心の中で頷いた。発表があったインストアイベントで、俺自身歓声を上げたが、行くかどうかは決めていなかった。イベント中の「行く」という言葉は、ただの社交辞令である。この子はきっと、それを真に受けてしまったのだ。
「ああいう場所は盛り上げなくちゃって、ファンとしては思う」
慎重に言葉を選んでそう言うと、響子ちゃんは身じろぎをしてから小さく頷いた。
「それは、わかっています」
「わかってたけど、やっぱりショックだった?」
どう言えばいいだろう。傷付けたくはないが、ファン側の心理は伝えたい。響子ちゃんも、適当な慰めは求めていないだろう。
またしばらく、響子ちゃんは何も言わずに俺の体を抱きしめた。あまり強く体を押し付けられると、生理的な反応を止めることができないが、どうにもならない。しかし、ここでいきなり引き剥がすという選択肢はない。卯月ちゃん、どうかわかってください。
俺がなるべく無の境地を探求しながら背中を撫でていると、響子ちゃんは俺の首筋に顔を押し付けて吐息を漏らした。
「私は、ガッカリした自分にショックを受けました」
それは理解できた。つまり、ファンが盛り上げるために言っただけの言葉を、その意図も理解していたにもかかわらず、実際に現場を見てガッカリしたことに驚いたのだ。
「それは期待の裏返しだよ。期待を裏切られたら誰だってショックだし、期待させたのはファンだから」
「私、やっぱりどこかで少し、自惚れてたのかなって」
響子ちゃんが熱っぽく呟いた。それが今の俺の発言に対するものか、それともただ自分の気持ちを言葉にしているだけなのかはわからない。髪を撫でながら次の言葉を待っていると、響子ちゃんが顔を上げた。
潤んだ瞳と紅潮した頬、湿った唇。こんなにも可愛い女の子に5センチの距離で見つめられて、平静でいられるはずがなかった。もう今すぐここに卯月ちゃんが現れて引き離してほしいとさえ思ったが、今はこの子の悩みを聞いてあげなくてはいけない。大体、この子はただ甘えているだけで、この行動に深い意図はまったくない。
「私、○○さんが最前列でペンライトを振っているのを見て、すごく安心しました」
吐息が顔にかかる。髪の香りに頭がクラクラする。これは間違いなく仲達の罠だ。
「行くって約束したから」
「はい。○○さんがいなかったら、私、歌えなかったかもしれません」
「大袈裟だよ」
「本当です。ありがとうございました。お礼と、それから、ちょっと愚痴を聞いてほしくて……。ライブ中だったのに、ごめんなさい」
それだけ言って、響子ちゃんは薄く目を閉じると、もう一度俺の肩に顔をうずめた。両手で俺の背中を引き寄せて、脱力するように大きく息を吐く。
声が途切れると、自分の胸の鼓動が妙に大きく聴こえた。ドキドキしているのが響子ちゃんに伝わらなければいいが、果たしてこの子は何をどこまで意識してこうしているのだろう。もちろん幸いにも、この子が少しでも俺のことが好きだなどと自惚れてしまうような人生は送ってきていないが、何分こんなふうに女の子に抱きつかれた経験がないのでよくわからない。
しばらく髪や背中を撫でていたが、響子ちゃんが一向に動こうとしないので、耳元で囁くように聞いてみた。
「もう大丈夫?」
この場から離れたがっていると誤解されないよう意識はしたが、ここでそれを聞くこと自体、離れたがっているのと同義だった。
「ライブの途中でしたね」
響子ちゃんが残念そうに呟く。ふっと背中に回された手の力が抜けたので、俺は慌てて首を振った。
「いや、それはいい。今は響子ちゃんが元気になってくれるのが一番大切」
腕に力を込めてそう言うと、響子ちゃんは安心したように息を吐いて、もう一度俺の腰に手を回した。
「じゃあ、もう少し」
「うん」
もう自分は、巨大なぬいぐるみか何かだと思おう。空を見上げると、だいぶ日が西に傾いていた。風が冷たさを帯びてきたが、火照った体は汗ばむほど熱い。
一体これを卯月ちゃんにどう説明したらいいだろう。細い腰と肩をギュッと抱きしめながら頭を悩ませていると、やがて響子ちゃんがくすっと笑った。
「ハグって気持ちいいですね」
「あっ、うん」
咄嗟に頷くと、響子ちゃんが顔を上げて微笑んだ。相変わらず距離5センチでドギマギしたが、響子ちゃんはいつもの純粋な瞳で俺を見つめていた。
「欧米の人が羨ましいです。日本だと、あんまりこういうの、ダメですよね?」
一応ダメという意識はあるらしい。いや、ダメとわかっていてやっているとも思えないので、あくまで欧米式のハグの範疇なのだろう。あまりにも顔が近くて、もはや正常な思考ができない。背中を引き寄せたまま立ち尽くしていると、響子ちゃんがいたずらっぽい表情を浮かべた。
「二人の時はこっそりやりましょうか」
「いや、それは悪いし」
「誰にですか? 私は大丈夫ですよ?」
そう言って、響子ちゃんが艶っぽい笑みを浮かべた。何か試されているのだろうか。からかっているだけならいいが、本気で言っていたらだいぶ問題だ。
誰に悪いかと言えば一人しかいないが、それは言えないので、ひとまずファンということにしておいた。響子ちゃんが仕方なさそうにため息をついてから、そっと俺の体を離した。
「じゃあ、そういうことにしておきますね。でも、一度ハグの気持ち良さを覚えちゃったから、隙あらば抱きつきます」
「小学生みたいなこと言わないの」
軽く指で頭をつつくと、響子ちゃんは子供っぽく笑った。どうやらもう大丈夫そうだ。脱力して安堵の息を漏らすと、響子ちゃんが情けなく眉を曲げた。
「今日のこと、恥ずかしいからみんなには内緒にしておいてください」
恥ずかしいというのは、もちろんハグのことではなく、相談内容のことだろう。元よりみくちゃんに言うつもりはないが、一人だけ隠すわけにはいかない相手がいる。
俺が一瞬渋い顔をしたのを、響子ちゃんは見逃さなかった。困ったように微笑んで胸の前で手を組んだ。
「そうですよね。いきなり相談しておいて内緒にしろって、勝手ですよね」
「いや、普通だと思うよ。俺も言うつもりはないけど……」
言葉に詰まって視線を落とすと、響子ちゃんは探るように俺を見つめて口を開いた。
「卯月ちゃん?」
「どうしてそう思うの?」
「仲が良さそうだから」
なんでもないように響子ちゃんが言った。
どこまで気付いているのだろう。表情からは読み取れないが、ここはその言葉に乗ることにする。響子ちゃんのことは本当に可愛い妹のように思っているが、響子ちゃんのために一番大切な人を失うわけにはいかない。
「まあ、そう。色々、約束事があって」
言葉を濁しつつそう伝えると、響子ちゃんは仕方なさそうに頷いた。
「わかりました。卯月ちゃんには話しても大丈夫です。どこまで話すかは○○さんにお任せします」
「ありがとう。卯月ちゃんも本当に響子ちゃんのことが大好きだから、大丈夫だよ」
「知ってます。だから心配かけたくなかったんですけど、私はもう大丈夫なので、卯月ちゃんにもそう伝えてください」
やれやれと腰に手を当てて、おどけた仕草をする。その響子ちゃんがあまりにもいつも通りだったので、俺も思わず笑みを零した。
本当にもう大丈夫そうだ。この後まだ修羅場が続くが、ひとまず響子ちゃんが笑ってくれたので、俺は来て良かったと思うことにした。