会場を後にして少し歩くと、住宅街はとても静かだった。すっかり暗い時間である。民家に明かりは灯っているが、路地に人影はない。静寂の中に、二人分の足音が規則正しく響いている。
「みくちゃん、怒ってた?」
沈黙を破るように尋ねた。みくちゃんとはつい先程、貸し3を約束して別れた。会って早々放置した上、食事の約束まで反古にしてしまった。激怒されてもおかしくないのに、みくちゃんは結局、俺が何をしていたのか一切聞かずに帰っていった。
卯月ちゃんが俺の隣で、少しだけ怒った顔をした。
「どちらかと言うと、心配してましたよ? 彼女としては複雑ですが、今日のことはしっかりとフォローしてあげてください」
「緊縮生活を送ろう」
苦笑混じりにそう言うと、卯月ちゃんは呆れたように肩をすくめた。
「あんなのは建前ですよ。みくちゃんは○○さんと遊びたいだけです」
「いや、それはないだろ」
「○○さんは、自分で思ってるよりずっと、一緒にいて面白いんですよ」
それは誉め言葉なのだろうか。よくわからないが、俺と一番長くいる卯月ちゃんがそう言うのなら、あながち嘘でもないのだろう。
響子ちゃんと一緒にいた公園に戻ってくると、同じベンチに腰かけた。ここは人目につかないしいいだろうと思って選んだが、夕方のことが脳裏をよぎってもぞもぞした気分になった。
「こんなとこ、よく知ってますね」
卯月ちゃんが感心したように呟きながら、自分のお腹に手を当てた。俺もそうだが、卯月ちゃんも昼から何も食べてないらしい。会場を出てすぐ食事にするかも聞いたが、遅い時間だし、話が先だと断られた。確かに、みくちゃんを帰しておいて二人で食事に行くのも気が引ける。
「抜けてた時間、ここで響子ちゃんと話してた」
「響子ちゃん?」
「そう。秘密にしてほしいって言われたから、みくちゃんには言えなかったけど……」
静かに切り出すと、卯月ちゃんが慌てたように手を振った。
「ちょっと待ってください。秘密にしてほしいって言われたんですよね?」
「そうだけど?」
急に落ち着きをなくした卯月ちゃんを怪訝な顔で見つめると、卯月ちゃんは困ったように眉尻を下げた。
「それは、私にも秘密にした方がいいんじゃないですか?」
「どうして?」
「どうしてって……。その、私、今から聞くことを、私は知らないっていうふうに振る舞う自信がありません」
しろどもどろになりながら、卯月ちゃんが俺に訴える。俺は大丈夫だと大きく頷いた。それはもちろん、俺も考えなかったわけじゃない。
「そう思って、卯月ちゃんには話すって言っておいたよ」
安心させるようにそう言うと、卯月ちゃんは呆然としたように目を丸くしてから、両手で頭を抱えて唸り声を上げた。
「待ってください。それ、おかしいですよ。社交性ゼロなんですか?」
「いや、待ってほしいのは俺の方だから。何がおかしかった?」
「私だったら、秘密にしてほしいことをいきなり誰かに喋るって言われたら、泣きますよ?」
「卯月ちゃんにしか話さないから、その仮定はおかしい」
実際、みくちゃんには秘密にしたのだし、一体この子は何を問題視しているのだろう。俺が怪訝な顔で見つめると、卯月ちゃんはしばらくの間、落ち着かないように腕を組んだり首をひねったりして、最後に額を押さえてため息をついた。
「わかりました。今の話はまた今度ゆっくりすることにして、本題に入りましょう」
何か怒られるようなことだっただろうか。とにかく卯月ちゃんには隠し事をしないのが一番だと思っているが、もしかしたらその認識がズレているのかもしれない。
もっとも、今はそれを考えている時間はないし、今さら響子ちゃんとのことを話さない選択はできない。
「響子ちゃん、ライブのことで悩んでて、感情が溢れたっていうか、そんな感じで抱きつかれて……」
卯月ちゃんにじっと見つめられて、思わず視線を逸らせた。嘘はついていないが、内容がやましすぎて直視できない。
「どんな悩みでした?」
抱きつかれたことはスルーして、卯月ちゃんが冷静に聞いてきた。俺は呼吸を落ち着けるように一度深く息を吐いてから、響子ちゃんにされた話を伝えた。元より、悩んでいた本人には悪いが、内容自体はそう大したことだとは感じていない。卯月ちゃんも同じことを思ったのか、全部聞いてから、どこか安心したように息を吐いた。
「それは、少なからずみんな感じてる悩みですね。響子ちゃんにそれを吐き出せる相手がいたのは良かったです」
そう言ってから、卯月ちゃんは何を考えているのかよくわからない顔で、じっと遠くを見つめた。思っていた反応と全然違うが、まだ油断できる空気ではない。襟を正して次の言葉を待っていると、卯月ちゃんは公園の奥に目を向けたまま言った。
「要するに、今日色々おかしかったのは、響子ちゃんに抱きつかれたせいってことですね?」
「えっと、そうです。それを卯月ちゃんにどう伝えようか、ずっと考えてて……」
「伝えないっていう選択肢はなかったんですか?」
「それは、まったく」
咄嗟にそう答えると、卯月ちゃんは実に複雑な顔をした。ものすごく不機嫌に見えるが、もしかしたらそれは俺が怯えているからそう見えるだけかもしれない。
かなり長い時間、卯月ちゃんはそのまま口を開かなかった。断頭台に首を入れたまま、頭上の刃を眺めていると、やがて卯月ちゃんがわざとらしく息を吐いた。
「色々思うところはありますけど、9割方私の問題のような気もします」
「そんなことはないと思うけど……」
一体今の沈黙の間に、どんなことを考えたのだろう。良かったら教えてほしいと頼むと、卯月ちゃんは少しだけ俺にもたれかかって、もう一度ため息をついた。
「とにかくまず、○○さんが私に一切隠し事をするつもりがないのはわかりました。十分わかりました。ちょっと度が過ぎてるとは思いますけど、どちらかというと嬉しいですし、安心です」
「それは、もちろん」
「響子ちゃんの件も、相談に乗ってくれたのは嬉しいです。私からもお礼を言います。私やみくちゃんに言わなかったのは、友達でもアイドル仲間には言いにくかったんだと思います。だから、○○さんがいて本当に良かったです。ただその程度のことは、内緒にしておいて良かったです。響子ちゃんもいきなり私に言うって言われて、ショックだったと思います」
違和感を覚えて卯月ちゃんを見ると、卯月ちゃんも真面目な顔を俺を見つめていた。もしかしたら、わかった上で言ったのかもしれないが、俺は敢えて訂正した。
「秘密にできなかったのは、話の内容じゃない」
「わかっています。抱きつかれたことですよね? それを私に話すためには、内容も言うしかなかった。でも、響子ちゃんは抱きついたことを問題だと思ってないから、いきなり私に言うって言われたら、当然内容のことだと思いますよね?」
「あっ……」
ようやく意味を理解して、俺は頭を抱えた。欧米式のハグのインパクトが強すぎて、そのことしか考えていなかった。確かに響子ちゃんは、あのことは一切気にしていなかった。アイドル仲間には話しづらくて相談したのに、それを俺がいきなり卯月ちゃんに話すなどと言えば、響子ちゃんがショックを受けるのは当然だ。
「間違えたかもしれない」
「かもじゃないです。完全に○○さんのミスです。その点については、全力で響子ちゃんをフォローしてほしいですけど、問題視していたのはハグの方だったなんて力説したら、完全に変態です。しかもそれを私に話さなくちゃいけないとか、意味がわかりません」
詰んだ。唯一納得させられる方法があるとすれば、ありのままを話すことだが、卯月ちゃんと付き合っていることだけは言えない。全力でフォローしろと言われても、もはや何を言っても取ってつけたような言い訳にしかならないだろう。
俺が頭を悩ませていると、卯月ちゃんが低い声で言った。
「それで、本題ですね。○○さんが気にしてる以上、問題にしないといけませんね」
もちろん、ハグのことだ。俺が姿勢を正すと、卯月ちゃんは困ったように俺を見上げた。
「実際のところ、響子ちゃんに恋愛的な意図はなさそうだし、○○さんがそんなに深刻に考えてること自体が、響子ちゃんを少しでも性的な目で見てしまった裏返しだと思うのですが」
もっともな意見だ。俺も単なるハグとして流せば、大した話ではなかったのかもしれないが、卯月ちゃんに申し訳ないと思ってしまった以上、謝りたかった。
「やっぱり、俺がやめさせるべきだった」
「いえ、そういう意図もなく抱きついたのに、いきなり引き剥がされたら、私なら泣きます。それに、この人はそういう目で自分を見てたのかって、ショックを受けるかもしれません」
それもまたもっともだった。話が難しくなってきた。結局、今日の俺の響子ちゃんに対する対応はあれで良かった。ベストではなかったかもしれないが、間違いではなかった。響子ちゃんが俺に相談しようと思った時点で、あの展開は避けられなかった。
「相談を断るという選択肢はなかった」
「はい。それは最悪ですね。響子ちゃんやみくちゃんが、私が思う以上に○○さんに甘えているのは計算外でしたが、自分の彼氏が慕われているのは、そこまで悪い気分でもないです」
ぽつりとそう言うと、卯月ちゃんはすっと立ち上がった。俺も立つよう促されたので腰を上げると、卯月ちゃんは俺の背中に手を回して、ぐっと俺の体を引き寄せた。いつもの柔らかな感触に胸が熱くなる。
「さっき、9割は卯月ちゃんの問題って言ってたのは?」
背中を撫でながら聞くと、卯月ちゃんは俺にキスをしてから疲れたように言った。
「全体的に○○さんの教育を間違えた気もしましたけど、やっぱりこれで良かった気もするし、私にもわかりません。恋愛って楽しいですね」
ちっとも楽しくなさそうにそう言ってから、卯月ちゃんはいきなり俺のズボンの中に手を突っ込んだ。そのままパンツの中に手を入れて、包み込むように握る。慌てる俺を、卯月ちゃんがジトッとした目で睨んだ。
「これは今日の罰です」
「むしろご褒美に思えるけど」
「今夜は響子ちゃんでエッチなことをしようと考えてましたよね?」
考えてない。脳裏をよぎりもしなかったと訴えたが、卯月ちゃんは片手で俺に抱きついたまま、もう片方の手で強く俺の股間を刺激した。
「あの、イキそうなんだけど」
「どうぞ。そして、ベタベタのパンツで帰ってください」
1ミリの情けもなく卯月ちゃんがそう言って、手の動きを速める。俺は周囲に人がいないことを確認してから、慌ててズボンとパンツを下ろした。細い肩を引き寄せながら、卯月ちゃんのスカートをたくし上げて、そのまま下着の上に放出する。
しばらくきつく体を抱きしめてから体を離すと、卯月ちゃんは実に納得のいかない顔で俺を睨んだ。
「どうして私がこんな目に……」
「いや、知らない」
俺が下着を上げようとすると、卯月ちゃんはそれを制して俺の前に屈んだ。そして俺の股間をくわえて、丁寧に舐めてから顔を離した。
「まあ、いいです。感触は上書きされましたか?」
「元々上書き禁止モードになってる」
「どうだか」
機嫌が悪そうにそう言って、白い液体で汚れた指を口に含んだ。ズボンを戻して卯月ちゃんを見ると、太ももがべったりと汚れていた。それを指ですくって卯月ちゃんに舐めさせると、卯月ちゃんがそれはそれは冷たい目で俺を睨んだ。
「最低ですね」
「いきなり股間に手を入れてきたのはそっちだから」
「そうですね。今冷静にこの結果を見ると、ちょっと自分でも何がしたかったのかわかりません」
指ですくえる分を全部舐めさせて、もう一度ベンチに座った。卯月ちゃんが投げやり気味に俺にもたれかかってきたので、そっと抱き寄せて髪にキスをした。
「ライブの話はまた今度聞きますね。今日はもう遅いし、疲れました」
「俺も疲れた」
「たくさんハグしましたしね」
「それ、しばらくからかわれるネタになりそうだね」
「それくらいは我慢してください。○○さんが考えてるよりは、心中穏やかではないんです」
それが一番問題である。しばらく舌を絡め合ってから、卯月ちゃんが潤む瞳で俺を見上げた。
「私のお友達と、これからも仲良くしてください」
「どっちだよ」
「私はいつだって、○○さんが私のために全員をばっさり切り捨てないか不安なんです。○○さんは私だけを愛してる。だから私は、○○さんを強く怒れない。贅沢なもどかしさですね」
そう言って、俺の体を強く抱きしめた。こうして抱き合っていると、やはり夕方のあれは単なるハグだったような気もしてくる。
とりあえず、みくちゃんへの放置と、響子ちゃんへの失言のフォローをしなくてはいけない。それをじっくり考えられる程度には、大きな懸念は払拭された。
何事も、土台が安定していないとダメだ。まずはこの子を大切にする。気持ち良さそうにしている卯月ちゃんの髪を撫でながら、改めてその思いを強くした。