・FF14漆黒のヴィランズネタバレあり/空想考察成分過多
・エメトセルク☓あの人♀とヒュトロダエウスの幼少期~終末に至るまで+α長編
・途中話からR-18展開あり
・某ぴくしぶ公開分(Augustwal名義)の再掲
<<これは雄が雌に食物を与えるもので、鳥類、昆虫にその典型的な例がみられる。…>>
「またこむつかしーごほんよんでるー」
芝生の上に寝転んでの読書にもってこいな、うららかな陽射しに溢れた午後のアーモロートの街の片隅で。
いずれエメトセルクの称号を受けることとなる少年ハーデスは、気怠げに瞳を細めるつつ、光遮る陰となった存在を本の向こう側に認めた。
「『ナマモノのおお…せい』…?ふーん…ねえ、そんなのいいからあそぼ?」
「『生物の多様性』、だ。馬鹿」
ここアーモロートにおいて市民権を認められている人々は永遠にも等しい時を生きるが、その反面とも言えるほど出生率が低い。
入滅(生に飽いて自我を薄れさせ、自発的に消滅)する数と、生まれてくる子供の数がほぼ同等であるため人口は常に横ばい状態。
それゆえ子供らは一定の歳になると社会全体で庇護され、また、同年代は1クラスに纏められて然るべき教育を施されるのだが。
「またばかってゆった!ばかじゃない!こないだは『シャキるイデアナントカ』…えっと、そのまえが『おうよーエーテルに』……でしょ?」
「…『社会におけるイデアの存在意義』『応用エーテル制御論Ⅱ』だ。その馬鹿っぽい棒読みやめろ。煩くするならあっちいけ」
声を荒げる幼い少女に、少年はにべもなく応じる。
彼の自由時間は、アナイダアカデミアに併設された全寮制の学校に編入された時から数えて数年後、ほぼ無くなっていた。
せめて己がもう数年早く生まれていれば、今頃上級生のクラスで静かに学術に励めていただろうに、最年少の新入生に一番歳が近いというだけの理由で彼ともう一人が、幼い彼女のお守り役を任される羽目になったからだ。
英明すぎる彼にとって、同じクラスにあてがわれたこの少女は、まったくもって理不尽の塊であった。
「むー、デスのいじわる!ばかっていうほうがばかなんだからね!」
日々口だけは達者になってゆく少女が涙目で大声をあげるので、周囲の大人たちが苦笑いしつつ視線を向けてくる。
世界の中心たるアーモロートの住人は、論理的思考と静謐であることを美徳としているが、子供たちの戯れを受け入れないほど狭量ではない。
大人がいつの間にか失っていく純真な感情もまた、彼らの尊ぶべきはずのモノであるのだから。
「あ、トロ!」
ぱっと顔を上げた少女が、寝そべった少年の体を飛び越えようとして。
飛び越しきれずに彼の横腹に足をひっかけ、見事なまでに顔から芝生にめり込んだ。石床でなかったのは幸いだ。
勢いでフードがはずれ、癖のある髪が頬にかかる。
うわあああああああああああああああああん!!!
止める暇もあればこそ、次の瞬間、火のついたような泣き声が一帯を震わせる。突然のことに大人たちも固まって動けない。
「お、おい…」
「大丈夫か?!」
泣き叫ぶ少女を前にして、おろおろと取り乱す少年を尻目に、先程名を呼ばれた者が、慌てて彼らのもとに駆け寄ってきた。
「えっく、えっく、トロ…トロ…あのね…あのね、またデスがわたしのことばかってゆったの…うっ…うっ…それに、あそんでくれないし…」
「うんうん、泣かない泣かない。ああ、下が草と土で良かったね。怪我が無くて何よりだ。…転んだ痛みよりそっちがショックだったんだね」
少女に怪我の無いことを即座に確認したヒュトロダエウスは、上気して真っ赤になった頬や、子供らしい柔らかな髪にからんだ土や枯れ草を払いつつも、その心根を冷静に分析した。
周囲の大人たちも、その様子を見て胸をなでおろすと、余計な手出しをせずにその場を立ち去っていく。
「しかし…また「あそぼ、あそぼ」かい?ハーデスだって課題があるんだから邪魔をしてはいけないよ」
「だって、だって…せんせいがゆったんだよ…デスにあそんでもらいなさい、いろいろおしえてもらいなさいって…」
「そうだったのか。…ごめんよ、二人共。僕がもっと一緒に居られたらいいんだけど」
やっぱり教師の入れ知恵か、と少年たちはため息をついた。
同じクラスに同性がいれば良かったのだろうが、片手で数えるほどのクラスメイト達は彼女以外全員男だ。
間の悪いことに、ヒュトロダエウスも論文の提出や、討論会の準備で忙しい時期であった。
彼女の面倒を見てやるのはやぶさかでは無かったので、もう少し時間を取れる状態であればもっと側に居てやれるのに。
「ね、今から僕が良いものを見せてあげるから、もう泣かないで。ほら、注目」
ハーデスよりも年長の少年は急に伸び始めた身長を考慮して少女の前に跪き、目線を合わせてやると同時に、両の手の平を合わせて集中する。
自身の魔力で環境エーテルを束ね、かつて覚えたイデアをなぞるようにして物質化させていく。
手と手の間に、可視化できるほどのエーテルの玉がふたつ、ふわりと輝いた。
段々と形を成していくひとつは、ヒュトロダエウス自身が纏うエーテルに似た仕上がりとなった若草色の布切れ、いや、ハンカチか。
そしてもうひとつは、純粋な複合元素としてのH2O…もとい、水である。
創造主は顕現したハンカチを片手で掴むと、水の塊の下にそれをあてがい、重力に引かれて落ちる前に全てを吸わせてしまった。
少々量が多く、彼の手の平までもじわりと湿してしまったのはご愛嬌であるが。
本を閉じ、二人にかける言葉を考えあぐねていた少年までもが今起きた出来事に見とれ、瞳を見開いた。
「布と水の同時制作…?お前、それは」
「すごい…すごーーーい!トロすごい!!それソーゾーまほう?だよね??トロってやっぱりデスよりすごい!」
今泣いたハシビロコウがもう笑った。ではないが。
少女は破顔するとヒュトロダエウスの服の裾をしっかと掴んでぴょんぴょん跳ねた。
将来はともかくとして、今はまだ子供の域を出ないハーデスは、年上の少年と比較される言い草に内心穏やかでない。
ヒュトロダエウスの使った創造魔法は、ひとつずつであれば自分もとっくに使えるのだが、たった今彼がしてみせたように片方の顕現をわざと早めつつ、同時に制作するというのは相当に高度な技だ。
同級生はもとより、上級生でもこれが出来る者はいないのではないだろうか。
「はは、でも論文の評価じゃもうハーデスには敵わないんだ…だからこれくらいは、ね。ほら、顔こっちむけて」
「んー」
苦笑しながらヒュトロダエウスは幼い少女の目元や頬をぬぐい、最後に鼻の下を拭いてやった。
汚れだけを直接浄化する技はまだ人体にかけられるほど精度が高くないんだよな、と呟きながら、用済みになった布切れを綺麗さっぱりと消滅させ、環境エーテルとして還元する。
「これで良し。ハーデスもすまないね。結局君にばかり負担をかけてしまってるようで」
「いや…俺も、割と逃げてる、から…」
申し訳なさげに、年下の友人へ謝罪するヒュトロダエウス。
たった今見せつけられた創造魔法の並列行使という高等技術に、内心穏やかでないハーデスはぼそぼそと言い訳をしつつ首を横に振る。
「ねえねえ、トロもきたし、みんなであそぼ?こないだ、かくれんぼしたらすっごくたのしそうなとこ、みつけたんだよ!」
「また脱走したのか…それより、宿題は済ませたのかい?それが終わらないとダメだよ」
「おわったよ!だからもうあそんでいいんだもん!」
「そっかそっか。じゃあ一緒にお茶を…おやつを食べに行こう。僕も見つけたんだよ、お菓子の美味しいお店をね。君もどうだい?ハーデス」
「ああ、そうだな…喉も渇いたし、俺からも頼む」
ありがたい提案に、一も二もなくハーデスは頷いた。
まったくもって理不尽ではあるが、授業時間以外はなるべく彼女と一緒にいてやらないと、夜の構って攻撃が更に酷くなるのだ。
少なくともヒュトロダエウスが同行してくれるなら、まだ我慢できる範囲で済む筈だ。
学生の身分を保証し、ほぼ全てのサービスを無償で受けられるようになる、水色のクリスタルのペンダント。
それを店員に見せて、三人はそれぞれ思い思いの注文をした。
人一倍気の良さそうな店員は、「こんな小さなお嬢ちゃんがもう学生さんなのかい」と微笑みながら、保護者代わりと見定めたヒュトロダエウスにプリンとアイスクリームを持った器を渡してくる。
「ここの生活は…まだ慣れないかい?」
手の平ほどもある大きなクッキーを半分割り、少女に手渡しながらヒュトロダエウスはそう問うた。
小さな唇の横にクリームがついているのに気づき、親指の腹でぬぐってやる。
甲斐甲斐しく幼女の世話を焼く友人の姿を、ハーデスはいささか面白くない心地で眺めながら、よく冷えた果汁をストローでずるずると啜った。
「だって…いまのおへやはおもちゃもないし、ごほんもおもしろくないし…せんせいはあれもだめこれもだめってばっかりだし…」
片手に銀のスプーン、片手にクッキーを握ったまま、彼女はしおしおと萎びた風にうつむいてしまった。
編入される子供たちは、家庭から何も持ち込めないのが規則となっている。服も、学用品も、何もかもが支給品だ。
この少女がやってきた時、大事に抱えていたボロボロのぬいぐるみを大人たちに奪われ、半日大泣きして教師たちを困らせたのはそう遠い記憶ではない。
「ごめん。でも、もう数日だけ我慢してほしい。今書いてる論文が終わったら、しばらく一緒に居てあげられるから…ね?」
「…俺も、あと2日で課題が終わるから…終わらせるから。それまで大人しくしてくれると助かる…頼む」
重たい目をした少年二人に言い含められ、渋々納得したのだろうかか。少女はしょんぼりとした表情のまま、こくりと頷いた。
日が傾きかけた頃、学生寮に向かってふたつの人影がとぼとぼと歩みを進めていた。
ひとつはハーデスの、そしてもうひとつは、お腹が膨れてすっかり寝入ってしまった少女を背負ったヒュトロダエウスだ。
むにゃむにゃと唇を動かして、幸せそうに眠る少女をみやりながら、彼は重い口を開いた。
「調べてみたけど、この子は学院に来させれられには少々早すぎるよ。最年少記録を更新してた」
「それは…何か特別な事情があったってことなのか」
「さあ、そこまでは何とも。ただ、この性格と…魂の色からして、色々予想はつくけどね。…可哀想な事をするよ」
「無茶苦茶だ。そもそもだ。よくもそんな大事、俺達みたいなのに任せるな。教師共は何考えてるんだ」
ハーデス少年はまるで子供らしくない、憮然とした表情でうそぶいた。
「うーん、同年代の子供と一緒にいれば自然と振る舞いが身につく、くらいにしか考えてないんじゃないかな。困ったもんだ」
「ふん、俺が偉くなったら、こんな現場を省みない状況、絶対に変えてやる」
「頼もしいね。確かに君なら将来アカデミアの学長に…いや、委員会入りも夢ではないだろうな。その時は是非頼むよ」
年下の友人の決意に、ヒュトロダエウスはふふ、と微笑んだ。
「…この子も、もう少し大きくなったら、人の名前を変に略すの、卒業してほしいなあ」
その言葉に、ハーデスがぴくりと反応する。
「………ヒュトロダエウス、お前もか」
「ん?…………君も、か?…まあ、だよね、うん…」
幼さゆえの突拍子もない行動に振り回される少年ふたりが、思わず顔を見合わせて頷きあう。
この時初めて、心の底からの同志を得たがゆえに。
夢うつつの少女はそんな会話を聞くこともなく、年かさの少年の背中でゆらゆらと揺られていた。
ヒュトロダエウスが少女をハーデスと同室の寝台に横たえた後、ふたりはまだ空腹ではなかったが、食堂での夕飯をどうにか詰め込み、それぞれの部屋に戻った。
彼女が大人しく眠ってくれているおかげで、ハーデスの課題は大変素晴らしく進捗し、後は明日纏めるのみとなったが、そこで気が緩んだのかふっと机に突っ伏してしまったらしい。
気がつくと、時間はもう夜半を過ぎようとしていた。
「まあいいか、終わったも同然だ、し………?、……は?!」
2つ並んだ寝台をふと視線に収めた彼は、片方に乗っかっているはずの姿を認めることができずに一気に覚醒した。
慌ててシーツの間に手をつっこむと、温もりはほとんど消え去っている。
きっと少女は、机の上で眠っている彼の姿を理解していた筈だ。
いつもなら鬱陶しく構って構ってと縋り付いてくる癖に、今回に限って「大人しくしてくれ」と頼んだ為に、まさかこんな結果になろうとは。
「くそ…。分かる範囲に入ればいいが…」
ヒュトロダエウスの部屋はだいぶ離れているし、無闇に訪問すると彼の同室者に余計な詮索をされかねない。
可能な限り、自分ひとりでの対処が望ましいと考えたハーデスは、最近覚えたばかりのエーテル感知術を即座に展開させた。
探すのは、彼が今まで見た中で一番不可思議だと感じた色。
水色のようで、橙のようで、緑のようで…まるで虹を内包したかのような蛋白石(オパール)の輝きを放ち、年上の友人ですら「今まで見たこともない」と評した、美しい魂だ。
(…見つけた。遠くはない、が、ここは…)
見紛うはずもないその輝きは、幸いにもほどなくして少年の能力の及ぶ範囲内で発見することが出来た。
しかし。
「この位置は…?!、まずい、落ちてくれるなよ」
人々が理性的な行動を常とする弊害か、それでなくても空き部屋の多い寮に、寮監や夜間の警備員などという無粋な役職は存在しない。
結局、教師に言いつけられたことを放棄できるほど不真面目になれない少年は、慌てて靴を履き替え、ローブを纏うのであった。
(良かった…ミトロン院でなくて…)
息を切らせてたどり着いた先は、アナイダアカデミアの本棟であった。
巨大なガラス水槽に囲まれた区画のその奥に、巨大な水棲生物を放つこともある柵の無い貯水槽があることを知っていたハーデスは、少女が誤って転落する可能性が無くなったことを確認し、ほっと胸をなでおろす。
さらにその奥の、緑の植物溢れるハルマルト院の区画に入ってすぐの片隅で、彼はようやく目当ての人物を実視界に捉えるのであった。
「うっ…うっ…、おかーさん…おとーさん…ぐすっ…」
やはり彼女は色々と規格外だ。少年は深くため息をつく。
彼とて家族への思慕が無いわけではないが、ここまで顕著に親への執着を露わにする者は他にそう居ない。
ならせめて親元から引き離す時期を考慮すべきだったろうに、残念ながら彼女の両親は至って「普通の」感性の持ち主だったのだろう。
ひょっとしたら、この感情の起伏を御しきれずに、他の子供たちよりも早く手放した可能性すらあるのではないだろうか。
そうであるのなら、それは、紛れもなく不幸だ。
「おい」
小さな肩がびくっと震え、涙でべしょべしょに濡れた顔が少年の方を見る。
自分が最後にこんな風に泣いたのがいつだったか、ハーデスは覚えていない。
だがアーモロートの子供たちの精神発達は非常に早い傾向にあるため、それは何も彼に限ったことではないのだ。
再びため息を付きつつ、少年はふと視線を下げた。そして少女が両腕にしっかと抱いている物体を見て、驚愕する。
「お前、それは」
全身を覆う水色の毛並みと、長いふたつの耳、ふかふかの尻尾が特徴的な、とある生物ののぬいぐるみ。
「!、だめ、あげない!!」
はっとした少女はぬいぐるみを慌てて背中に隠した。
「そ、そんなものいるか。それより、何故それがここにある?…もう、無いはずだろう」
消された、と言いかけて、ハーデスはとっさに言葉を選んだ。
そう、少女の腕から奪われたそれは、執着心を制御するための一環と称してすぐ裏手で環境エーテルにまで分解・還元されたのだ。
無意識に自身のエーテルを染み込ませていたぬいぐるみが消滅した瞬間、彼女は真っ青になって激しく泣き出し、泣いて泣いて…ひきつけを起こした挙げ句に高熱を出し、数日間寝込んだのはすでに学院の語り草と化しつつある。
「…できちゃった。おひるにトロがやってたソーゾーまほう?をおもいだして、うーん、って、このコのことをいっぱいかんがえたら、できちゃったの」
「!!」
この少女が、自分ともヒュトロダエウスとも違う種類の天才である事を、少年は世界で初めて知ることとなった。
安全面を考慮してか、子供たちの創造魔法の訓練用に配布されるイデアは学院の審査を通った、ごく簡単な物質のそれに限られていて、当然ながらその構成素材の内容と種類によって難易度が異なってくる。
そして、既成のイデアを使用せず、まったくゼロの状態から環境エーテルを束ねて物体を創り出すタイプの創造魔法は、純粋に想像力と物質把握・構成能力を非常に高いレベルで求められるため、ヒュトロダエウスですらまだ無理だというのに。
「でもおへやにおくとせんせいにまたとられちゃうから、ここにかくそうとおもって…」
ああ、とハーデスはひとりごちた。昼間に言っていた「かくれんぼに最適な場所」とやらはここの事であったのだと。
もっとも、彼もヒュトロダエウスも、他者の魂の色を見分け、追跡が出来る能力がすでにあるからして、その遊びはまるで無意味なのだが。
それよりも。
少年はおそるおそる少女に近づいた。剣呑な雰囲気を感じたのか、少女は後ろ手で座ったままじりじりと後ずさる。
「逃げるな。それを取ったりしないから…だからちょっと待ってろ」
「…?」
むすっとした表情のまま、ハーデスは屈み込んで両手を合わせ、環境エーテルを束ねた。
昼間のヒュトロダエウスが使ったのと同じ、繊維を創造し、組み合わせて布地とし、ハンカチを作る。
その色は彼の纏うエーテルと同じ、紫紺色。
しかし、あの時の出来事よりも更に衝撃的な事実を目の当たりにして、少年の心は激しく動揺していた。
彼女の創り上げた物に比べたら、既成のイデアをなぞるだけのこんな創造など、それこそ子供だましだ。
「!、すごい…デスも、まほうつかえたんだ。すごい、すごいね。むぶっ」
目の前でまたも行われた創造魔法を見て、少女の目がきらきらと輝き出した。
青より濃く、藍色よりも鮮やかなその瞳の色は、旧い言葉に習って瑠璃色、と呼ぶべきか。
納得いかない気持ちのまま、少年は淡い金色の瞳をすっと細めると無言で手を伸ばし、昼間の友人のそれよりもいささかぶっきらぼうにぐいぐいと彼女の顔を拭いていく。
「何度も言ってるだろ。ハーデス、だ。勝手に縮めるな」
「むぐ…だって、いいにくいん…ぐむう…だもの」
ごしごしと顔中を擦られながら、とぎれとぎれに少女は反論した。
「…ちゃんと呼んだら、馬鹿って言うの止めてやる。そのぬいぐるみの事も、黙っててやる」
「………ほんと?」
「ああ」
「ほんとに、ほんと?」
「くどい。とにかく、大人達に見つかる前に戻るぞ。…立てるか、っと、それは、ここに置いておけよ?」
手を取って立たせてやるも、少女のもう片方の手が未練がましくぬいぐるみを抱いているのを見て、ハーデスはそう指摘する。
彼女は困った顔できょろきょろと周囲を見回すと、片手を少年に拘束されたまま、なんとか最寄りの木陰に宝物をそっと座らせた。
「そんな顔するな…また、来ればいいだろう」
少女がまた泣き出しそうな顔をしたため、彼は慌ててたしなめた。
「だって…おこってるでしょ…?」
「怒ってない。ただ、次は勝手にひとりで来るなよ?今度は俺もついてきてやる、から…」
咄嗟に出た言葉に、ハーデスは内心しまったと臍を噛む。
だが、人知れず脱走されるほうがよほど彼の自由時間を無意味に消費する筈なのだから、間違った発言ではないはずだ。多分に。
驚いた表情を浮かべる少女から、ふいと視線を外すと、少年はその手で彼女の手をしっかと掴んだまま緑の帳を駆け抜けた。
誰にも秘密の、幼いふたりの拙い逃避行。
人口の湖の上を抜け、ガラスの檻を横目に流し、深夜の片隅をただ、走る。
それほどの距離ではない筈だが、子供の記憶と足にはしっかと染み付く程には強烈な道行きであった。
生け垣の隙間(これは彼女がとんでもない場所に見つけていた)をくぐりぬけ、守衛のいない門扉をこっそりと開いて滑り込む。
ようやく自室にたどり着き、ほっと一息ついたハーデスは、水差しの水を少女に飲ませてから有無を言わせず寝台に押し込んだ。
同じコップで自分も一杯あおると外套を脱ぎ、汗ばんだ夜着を新しい物に着替えてから、床につく。
ふと、視線を横に向けると、少女がじーっと自分を見つめているのに気づいた。
…着替えを、ずっと見られていたらしい。
「な、なんだ?」
なんとか動揺を押し殺して、返事をする。
「えっと、あのね…えへへ。きょうはありがとハーデス。おやすみなしゃい」
明け方の夜の闇よりも明るい、瑠璃色の瞳を細めてにこっと笑うと、少女はほどなくして寝息をたて始めた。
普段は互いにフードを被っている事も多いうえ、役職のある大人は仮面を付ける風潮があるため、学院内の人々の瞳の色を驚くほど知らないことに、ハーデスは思い至った。
しかも彼女とは同室になってからそこそこ経つというのに、そんなことすら自分は気に留めていなかったのか。
「…おやすみ、********」
ようやく少年は口を開き、初めて彼女の名を呼んだ。胸の内でめばえはじめた感情にはまだ気づかぬまま。
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