・FF14漆黒のヴィランズネタバレあり/空想考察成分過多
・エメトセルク☓あの人♀とヒュトロダエウスの幼少期~終末に至るまで+α長編
・途中話からR-18展開あり
・某ぴくしぶ公開分(Augustwal名義)の再掲
あの、たわいもない逃避行の夜はすぐに終わり、朝が来る。
それからというもの、週に一度ほどはアナイダアカデミアの「見学」と称した少女の宝物のお参りにハーデスは突き合わされる事となったが、その代わりに彼女は大変聞き分けと行儀の良い子供に様変わりし始めた。
あまりの変貌ぶりに、教師たちが口々に「君たちの指導のお陰だ」などと少年達を褒め称えるものだから、彼とヒュトロダエウスは毎日のように苦虫を噛み潰す羽目になったのだが。
「しかし、イデアも持たずに見様見真似で創造魔法を行使するとは…。余程あのぬいぐるみに強い感情…執着、があって、それを昇華させたって所かな。ハーデス、この事を僕以外の誰かに話したかい?」
「まさか、お前だけだヒュトロダエウス。こんな事を教師共に言ったら、あいつはきっとまた誰かに泣かされる。そうに決まってる」
「確かにね…。あの歳で複合素材が用いられた物質を補助もなく顕現するなんて知れたら、アカデミアの中でも選りすぐりの変人共の玩具にされかねないだろう。一応確認するけど、人前で二度としないように言ってはあるよね?」
「もちろんだ。念の為、あれ以外に固執してる物が無いことも聞き出してる」
「それは重畳」
年上の少年はほっと胸をなでおろすとしばし考え込み、やがて再び口を開いた。
「しかし。彼女、近頃じゃすっかり僕より君になついてるね。言うことも良く聞くみたいだし、やっぱり、秘密を共有するっていうのは仲を深めるにはもってこいなのかな。…これはうかうかしてられないか」
「!!、な、仲ってなんだ。あと、なついてるとかいうな。あいつは動物じゃない」
たわいのない言葉に珍しく動揺する年下の友人の姿に、ヒュトロダエウスは一瞬きょとんとした顔をするが、やがて口を抑えて必死に笑いをこらえ始めた。くっくっと肩を震わせるその姿に、ハーデスは眉をしかめて憤慨する。
「ハーデス」
やがてそれが収まると、彼はひとつため息をついて、口調をがらりと変えた。
「…なんだ」
「今のあの子が本当に欲してるのは、ぬいぐるみなんかじゃない」
「…だろうな」
「うん。彼女が必要としてるのは、側にいてくれる誰かであって、今現在、君をその立ち位置に定めている事は理解してる?」
「何だいきなり。そんなことは分かってる。分かってる…つもりだ」
議論の始まりだ。
いつもヒュトロダエウスは的確に事実を付いて、相手の機先を制するのを得意とする。
「本当の意味で?大人の言葉を借りるなら、あの子は間違いなく『面倒な子』だよ?これまでは僕の方に分があると感じていたから黙っていたけど、もしも抱えきれないと思う心がわずかでもあるのなら、傷が浅くて済むうちに一日でも早く距離を置いたほうが良い。後のことは僕がなんとかする」
そして概ね、彼の述べる主張はあまりに正しすぎて、覆されることがほとんどない。
人生経験において未だ足らざるハーデス少年は、年上の友人が授業で行う討論会で負けた姿を見たことがない。
同学年の生徒はもとよりそこいらの大人達よりも遥かに思慮深く、そして物事の本質を見抜く能力に長けた彼は、間違いなくある種の天才肌の持ち主であった。
だからこそ、誰に習うでもなく創造魔法の術式を我流で読み解き、この若さで二重詠唱[ダブル]という離れ業をしてのけるだろう。
ひょっとすると、三重詠唱[トリプル]すら、そう遠くない将来に身に着けてしまうのではないだろうか。
「教師たちの言いつけで、嫌々お世話を続けているのならもう止めたほうが良いってことさ。それとも、君だけではあの子を守るには力が足りないと、こう言ったほうが分かってもらえるかい?」
「待て。言うに事欠いてヒュトロダエウス、お前は俺達をそんな風に見ていたのか」
「事実だろう?それに、僕は一応君のことも心配しているんだよ。その若さで、手に負えない物を背負い込むのはあまりに危険だ。それが分からない君ではないだろうに」
「偉そうに。お前だって立場は俺と対して変わらない筈なのに、何故そこまで上から目線で物が言えるんだ。…馬鹿馬鹿しい」
「僕は」
本来なら年端もいかぬ少年にする話ではないはずだが、それでもヒュトロダエウスは決心して言葉を続けた。
「僕は叶うことなら、将来彼女を伴侶にしたい」
ハーデスの眦がきりきりとつり上がった。聞き捨てならない言葉に胸が早鐘を打ち、脳髄にがんがんと衝撃が駆け巡る。
「!?、ばっ、馬鹿かお前、あいつがいまいくつだと…!」
「気が早いと笑うかい?でもあの子は、今どき珍しいまでに無垢で、純粋で…とても稀有な色のエーテルの持ち主だ。君だって、何だかんだ言ってあの子から離れないのは、あの美しさに魅せられたからだろう?他の学生達が皆、まだ魂の見分けに不慣れだったから、当初は君もそうだと思いこんで安心してたのに、とんだ伏兵だ」
拳を握りしめ、年下の少年は心根を見抜かれていた羞恥でわなわなと震えた。
事実ゆえに否定できないし、年上の友人はそこまで見越して反論を封じていることを嫌でも理解してしまう。
「ふふ…良くも悪くも、穏やかであることを潔しとしないあの感性は、彼女をきっと誰よりも素晴らしい創造主とするだろうね。僕はそれを…あの綺麗な魂が輝く様を、一番近くで見ていたいんだ。さっきの君の話を聞いて、ますますそう思った」
唯一の友人とよべる男が、こんなにも饒舌に、嬉しそうに何かについて語るのを、ハーデスは聞いたことがない。
「………本気、なんだな」
ともすれば理不尽な幼子の行動すらヒュトロダエウスの瞳には好ましく映っていたからこそ、あれ程にまめまめしく世話を焼いていたのかと思い至る。
「ああ。君にはまだ話してなかったが、僕はラハブレア院の先代に縁があるんだ。彼にお願いすれば、きっとあの子を余計な雑音から守ってくれるだろう。…意地の悪い言い方なのは百も承知だが、今の君にそこまでの力があるかい?」
「…それは」
ある筈がない。
どれだけ優れた能力を持っていたとしても、今はまだ社会の庇護を受けるだけの少年に、年上の友人は容赦なく現実を突きつける。
ハーデスはごくりと喉を鳴らした。考えはまとまらず、口の中が干上がって、体すらどう動かすべきか分からない。
反論しなければ、このまま討論が終わってしまったら、ヒュトロダエウスはやすやすと彼女を攫ってしまうだろう。
「ハーデスみつけたー!あ、トロもいたんだ!わーい!」
もうすっかり聞き馴染んだ声がして、小さな人影がてけてけと二人の少年に向かって駆けてきた。
勢いもそのままに、ハーデスの懐にぼふっと音を立てて抱きついてくる。衝撃で、彼はようやく体の硬直を解くことが出来た。
「ねえねえ、きょうでカダイがおわるっていってたよね?だからいけるよね?わたしずっとイイコにしてまってたんだよ、はやくいこう?」
「あ、ああ…」
「ん、何の話…ふふ、そうか。……ねえ、行くって、一体何処へ?僕も一緒に行っていいかい?」
期待に満ち満ちた瞳で見上げてハーデスに問いかける少女に対し、ヒュトロダエウスが澄ました風に問いかけた。
何を言いだすんだお前は、とハーデスは言いかけて、はたと沈黙する。
ハルマルト院に隠してある彼女の宝物の事は、自分との秘密ということになっているが、少女の尋常ならざる能力の件を相談した際に洗いざらい友人に喋ってしまっていた事をすぐに思い出したからだ。
もしそれが明るみになれば、せっかく信用を勝ち得たばかりだというのに、全てが水の泡になりかねない。
「…えへへ、トロにもひみつ。ね、ハーデス」
「んっ?」
にひゃっと笑って人差し指を口に当てる少女を見たヒュトロダエウスは、たった今感じた違和感の正体に気づくと、ほんの一瞬あからさまに驚いた顔をしたが、その唇はすぐに剣呑な笑みを浮かべた。
「へえ…いつの間に君のことはそう呼ぶように…そうかそうか、成程ね」
「…うるさいぞヒュトロダエウス」
唸るように返事を絞り出しながら視線を逸らし、しまった、という表情をありありと浮かべる少年。
「?、トロどしたの?」
小首をかしげ、罪のない瞳で少年ふたりを交互に見つめる少女。
どうせ遅かれ早かれ知れる事であったのだろうが、ハーデスは居心地の悪いことこの上ない。
「ねえ、ハーデスは良くて、僕には教えられない事なのかい?」
「うん、そうなの。えっと、ごめんねトロ。でもやくそくだから…」
「約束なら仕方ないか。でも悲しいな、どうしても駄目なのかい?……もう僕のこと嫌いになった?」
3人の中で一番年上の少年は、即答する少女の側に跪くと、芝居がかった口調でさも哀しげにそう押してくる。
「えっ、そんなことないよ!わたしトロのこともだいすきだよ!」
「はは、嬉しいことを言ってくれるね。そうだ、今度またあのプリンのお店に連れて行ってあげる。それでも駄目かい?」
「えーっ、でもぉ……うーん」
情と食欲に訴えかける、えげつないまでのヒュトロダエウスの手管に、彼より年下の少年は面くらって言葉も出ない。
それでも。
(言うな、言うんじゃない)
それでもハーデスは、内心で大変焦っていた。明らかにヒュトロダエウスは面白がって少女を焚き付けている。
とはいえ口を挟んで余計な失態を冒すリスクが分からないほど、少年は愚かではなかった。
彼女との秘密を守らなかったことへの後ろめたさもあるが、この意外と腹黒い友人が、自分たちのどちらがより彼女の心を掴んでいるか試している行為に酷く落ち着かない。
「うーん、うーん……やっぱりダメ!あのコのことは、ハーデスとわたしだけのひみつだから、トロにもおしえない!」
ぷいっと横を向いて誘惑をはねつけると、少女はハーデスに再び強くしがみつき、その懐に顔を埋めた。
ほっとする反面、自分達は人の往来もある街角で一体何をしているんだろうという羞恥心と、そんな言い方をしたら秘密が秘密ではなくなってしまう事に気づかない彼女の残念っぷりに、思わずぐらりと頭が傾ぐ。
「わたしさきにいってる!ハーデス、トロにぜったいゆっちゃだめなんだからね!ぜったいだよ!」
ぱっとハーデスから離れると、立ち尽くす少年をそのままに、少女は来た時と同じ様にてけてけと走り去った。
そんな彼女の後ろ姿を、ヒュトロダエウスはこれ以上なく優しい瞳で見送っている。
「ふむ、君もずいぶん彼女に信頼されたもんだ。参ったなあ…すっかり先を越されたか。…いや」
声音を少々落とし、彼は年下の友人の方を向いてにやりと口の端を上げた。
普段は人当たりの良いこの少年が、ただそれだけの人間ではないことを、ここぞとばかりにハーデスに見せつける。
「「だいすき」、か。僕にもまだチャンスはあるみたいだから、せいぜい用心するんだね」
「…勝手に言ってろ。それに」
ふん、と鼻を鳴らして少年は年上の友人を…彼女へのあからさまな好意を隠すことを止めた相手をじろりと睨めつけた。
「一緒にいる時間は、俺のほうがずっと上だ。あの程度の論文に追われてるお前と違ってな」
先程の衝撃的な告白からようやく立ち直った途端に胸の奥底から湧き上がった対抗心を、もう押さえられない。
「おっと、余裕だね。でも、量より質ってこともあるだろう?君においそれと負けるつもりはないからね」
「ぬかせ。それよりも、無能共から本気であいつを守りたいならお前も力を貸せ。俺を力不足と見定めてるのなら、当然そうしてくれるよな?」
ヒュトロダエウスは思わぬ反撃に目をしばたたかせると、降参するかのように両手を肩まで上げて、やれやれと首を振る。
「ははは、これは一本取られたかな。とはいえ、元よりそのつもりだ、安心しておくれ。それより…そろそろ行かなくていいのかい?なんなら今日は僕が代わりにハルマルト院まで」
「結構だ、じゃあな」
余計なお世話だ、と付け加えたいのをぐっとこらえ、当初の相談時に宝物の隠し場所まで喋ってしまった己の浅はかさに舌打ちしつつ、ハーデスは少女の後を追って駆け出した。
数日後、ハーデスはヒュトロダエウスの目をかいくぐるように少女を引き連れて、もう何度目になるかわからないハルマルト院を訪れていた。
彼女の宝物の件は、ここの研究者達にすぐに知れることとなるが、皆が好意的に受け止めてくれ、食虫植物のエリアに近づかないことを条件に、学院の教師には黙ってくれていることを約束してくれている。
今日は研究員に案内されたうちのひとつで、食用となる植物とそれらを餌とする生物を放し飼いにしている、子供向けの見学を想定した安全な区画にて、二人は授業の無い午後のひと時を過ごしていた。
「あ、またとりさん。……?、ねえねえ、あのとりさんたち、なにをしてるの?」
「何だ?…ああ、あれか」
彼らからほど近い、紅い木の実のなる木の上で、数羽の小鳥がチチチ…と愛らしい声で鳴きながらじゃれ合っていた。
一羽は鮮やかな緑色をしていて、その嘴に挟んだ木の実を、地味な茶色のもう一羽に受け取ってもらおうと、アピールを繰り返している。
よく見ると、すぐ近くにもう一羽、やや青味がかった鳥が留まっており、隙あらば二羽の間に入り込もうとして元から居た緑の鳥に追い払われていた。
どの色の小鳥も、図鑑で見たことがあった少年は、すぐにその行為の意味を理解した。
「多分つがいになろうとしているんだろう。おそらく求愛給餌行動だな」
「つがい?きゅー…あい?」
「オスがメスに…男が女に、餌を渡すことで自分と一緒になってくれ、と求める事だ。ああ、成立したみたいだな」
やがて、茶色の鳥は最初からアピールを続けていた緑の鳥から、木の実を受け取り、嬉しそうに飲み込んだ。
相手に甘えるような柔らかな声音で鳴くと、緑の鳥の首の付根を嘴で甘噛みし、緑の鳥もそれに応えるように茶色の鳥の嘴をかしかしと喰む。
勝者となった鳥の羽色が、どことなく年上の友人の纏うエーテルのそれに似ている気がして、ハーデスは少々面白くなかった。
「ふーん…いっしょに、かあ。…ねえ、それってとりさんしかできないの?」
その様子をじいっと見つめていた少女は、くるりとハーデスの方を振り向き、真剣な眼差しで問いかけた。
「そういう訳では………。何が言いたい?」
「えっと、ニンゲンは、ああいうことはやらないの?」
「いや、大人になれば近しい事はみんなしているだろうが……ん、ちょっと待て。まさかお前」
「やってみたいなあっておもったんだけど…だめ?んと、おとなにならないと、しちゃいけないこと?」
「ぐ…ああいや、別に年齢は…だがしかしな…その、なんだ」
どんな討論会にも臆すること無く堂々と挑んでいた秀才の姿はどこにも見受けられなかった。
ごにょごにょと言い淀む少年の姿を、拒否と捉えた少女は、やがてすうっと表情を曇らせてうつむく。
「…だめなんだ。じゃあ、こんどトロにおねがいす…」
「!、待て、わかった、やってやる。だからここでちょっと待ってろ、いいな」
慌ててそう言い募ると、ハーデスは不承不承、紅い実がたわわに実る木に向かって小走りに駆け寄った。
(くそ、なんでこんな事に)
元はと言えば、馬鹿正直に知識をひけちらかして説明してしまった自分のせいなのに、心が落ち着かない。
だがここで断れば、彼女はすぐさまヒュトロダエウスの所に駆け込むだろう。先程の発言からして確実に。
そして、少女を大層愛おしんでいる事を宣言した友人は、正しくその願いを叶えてやることが用意に想像できてしまう。
昨日、自分を出し抜いて彼女をいつぞやのカフェに連れ出した男の姿を思い出して、少年はぎりっと奥歯を噛み締めた。
(…嫌だ。そんなのは絶対に)
先程の小鳥たちが留まっていたポムグラニテ、別名、柘榴の木に近づくと、ハーデスは真っ赤に熟れてはぜた実を一つ、慎重にもいだ。
自然にめくれた果皮の裏側には、透明感のある果肉に包まれた種子がいくつもついていて、少々グロテスクに見えなくもない。
案内してくれた研究者からは、この区画の果実は全て食べられる物だから好きなだけおやつにして良いよ、と言われてはいたが、これから行うことを思うとなぜだか罪悪感が生まれてならなかった。
「んーと、これ、わたしがハーデスにあげればいい?あ、でも、わたしオンナだから…ぎゃくになっちゃう?だめ??」
戻ってきた少年の手の上の果実をしげしげと眺めながら、うーんうーんと悩む少女。
その姿を前に、どうしたものかと躊躇するハーデスは、ふと視界の端に先程の鳥を認めた。
つがいになった方ではなく、追い払われて孤独に打ち震え、鳴くことも出来ずに木陰でひっそりと惨めにうずくまっている方を。
(俺は、あんな風にはなりたくない…!)
そして決心してしまうのだ。
「…俺がやる」
「え?」
「その代わりお前はこれからも、俺と一緒に居るんだ」
「!、わたしハーデスといっしょにいていいの?ほんとに?」
少女の表情が、これまでにないとびきりの笑顔で、輝いた。少年の服の裾を握るとぐいぐいと顔を近づける。
「ま、待て。あと、その、ヒュトロダエウスと同じことをしたら、許さないぞ?言うのも駄目だ、いいな?」
「うん、わかった!だからハーデス、して!ねえはやく!わたしもハーデスといっしょにいたい!」
「…ッ、わかった。わかったから落ち着け。じっとしてろ」
どうにか少女を制しながら、ハーデスは震える指で種子をひとつ剥ぎ取って唇に挟むと、ままよとばかりに突き出した。
ためらうことなく、小さな生き物は両手を伸ばすと彼の顔を挟み、己の顔をするりと近づけて赤い木の実を前歯で噛み取る。
「!!」
必然として、柔らかな唇が相手のそれにふわりと触れることとなるのだが。
あっという間に種子は甘酸っぱい果肉ごと少女の口内で噛み砕かれ、小さな喉がこくりと鳴ってそれを飲み干した。
その間、少年はあまりの状況に全身を強張らせ、動けずにいる。
もう少し冷静に予想していたら、あり得ない出来事では無かったはずなのだが、そこはやはり彼の若さゆえか。
片手で口を覆い、この理解不能で傍若無人な生物を、目を見開いて呆然と見下ろす。胸が痛い。
「?、ハーデス?…どしたの?」
男女の接吻の意味をすでに理解している少年と、知るはずのない幼女の知識の差が、ふたりをひたすらに戸惑わせた。
やがて耐えかねて背を向け、言葉もなく駆け出したのはハーデスの方だった。残った柘榴の実を力任せに投げ捨てる。
「あっ…まってハーデス。おいてかないで、まって、まってようー!」
不穏な空気を感じて、少女も慌てて後を追うが、身体能力差ゆえにみるみる引き離された。
すれ違う研究員たちの視線を振り切って、少年はひたすら外へと続く通路を走り抜けた。
(馬鹿なことをした…!あんな、あんな本を読んでたせいだ…!)
街の片隅で、おさまりの悪い髪を両手でがしがしと掻きむしりながら、少年ハーデスは激しく後悔していた。
課題の一環で読んだ、多種多様な生物の有り様を知るための書物の一節に記された単語、先程得意げに少女に説明したばかりの言葉が彼の脳裏に蘇る。
年上の友人であれば、もっと上手くあしらったのだろうか、それともやはり、彼女の求めるまま受け入れたのだろうか。
そんな事をちらりと考えたが、かえってますます少年の心を苛立たせるばかりだった。
こんなにも胸が苦しいのは、走り続けたせいだけではないようにすら思える。
(でも…)
一人の時は静かに本を読んでいた、いつもの芝生の上にずるずると崩折れるように寝そべると、深く深く息を吐き出した。
(間違いなく俺を選んで…受け取った。俺の側にいたいと、確かに言った…)
これまで淡々と生きてきた少年の人生にたった今起こった出来事は、何よりも尊い光景として焼付き、やがて激しい歓喜となってその理性を揺さぶるのだ。
「ハーデス!」
はっと上半身を起こすと、泣きながら駆けてくる少女の姿を認めた。勢いもそのままに抱きついてきた小さな体を、少年はどうにか受け止める。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、もうわがままいわなから、もっとイイコにしてるから、だから」
えぐえぐと泣きじゃくりながら、少女はハーデスの懐に取り縋った。
「だから、ひとりにしないで…おいてかないで………おねがい…」
涙に濡れた顔が、少年の胸をどくりと高鳴らせる。
未だかつて、こんな顔でこんなお願いをする少女の姿を、誰も見たことがない筈だったから。きっとヒュトロダエウスすらも。
確かに、間違いなく、彼女は自分を求めている。ただ、自分だけを。
「…また、泣かせたな」
ハーデスの両腕が自然と上がっていき、やがてそれは温かな生物をゆっくりと抱き締めるに至った。
「お前は何も悪くない…驚かせてすまなかった」
片方の手で少女の背中をさすりながら、少年はようやく素直に心根を吐露した。
「…はーです…?」
「泣くな…俺がずっと一緒にいてやる。だから、もう泣くな」
「…………うん」
慰められているのを理解した少女が、すんすんと鼻を鳴らしながら、ハーデスに抱きつく腕にきゅっと力を込めた。
「ね、ハーデス」
「何だ?」
「だいすき。いちばん、すき」
「そ、そうか」
俺もだ、とはまだ言えなかったが。
この時の少年の胸の内には、まちがいなく恋とも、愛とも呼べる感情が宿っていた。
…やがてそれはいつしか、気の遠くなる未来にまで彼の心を縛ることとなる、美しくも残酷な鎖のひと紡ぎと化すのだけれど。