・FF14漆黒のヴィランズネタバレあり/空想考察成分過多
・エメトセルク☓あの人♀とヒュトロダエウスの幼少期~終末に至るまで+α長編
・途中話からR-18展開あり
・某ぴくしぶ公開分(Augustwal名義)の再掲
「また、小難しいご本読んでるね」
いつか聞いたような言葉が頭の上から降ってきて、すっと伸ばされた手が視界に割り込んだ。
あの頃とは場所こそ違えど、居心地の良い芝生に寝転んでいたハーデスは、その手を掴んでゆるゆると体を起こす。
「ごめんなさい、ずいぶん待たせちゃった?」
「それほどでも。読書が捗ったのは確かだが」
一歩間違えれば憎まれ口にも聞こえかねないが、それはただの照れ隠しだと、少女は分かっていた。
ふふっと微笑みかけると、彼の手の内でぱたんと閉じられた本の表題に興味を示す。
「『流動的都市空間構築の考察』、か。委員会入りを目指してるって噂、やっぱり本当なんだ」
「ああ、もうお前の耳にも届いていたか。行政府が主催している今度の学会で、論文に一定の評価が貰えれば、やっと正式な研究員として認められるんだ。そうすれば、報奨として研究費や住居も支給されるし…それに」
一度途切れた言葉を、ハーデスは意を決して続けた。
「…これでやっと、お前を迎えに行ける」
「えっ!」
両手で口を覆い、目を見開いて青年を見つめる娘。
ハーデスはしてやったりと微笑を浮かべながら、彼女の瑠璃色の瞳と、その体をふんわりと巡る綺麗なエーテルの色を眺めていた。
ヒュトロダエウスの紹介で、先代のラハブレア院長への直訴が叶い、その権限を持って学院内での少女の立場を保護できるように尽力した事が遠い昔のように思える。
イデア無しで創造魔法を行使した件についてはすぐに他人の知る所となり、何人かの研究者が少女の「教育」と銘打った身柄の引き渡しを求めたが、ラハブレア院から派遣されていた現院長の側近の一喝により、あえなく潰えることとなった。
少年たちの努力は、間一髪で彼女を救ったのだ。この時は、確かに。
「で、でも、大丈夫なの?あなたもまだ成人って歳じゃないのに…その、家族でもないのに…異性が一緒に住むなんて…」
「ふん、お前でも、人並みにつまらない心配をするんだな」
大仰にやれやれと首を振り、意地の悪い顔つきをするハーデス。
「いいか?研究員になるってことは、一市民として社会にきちんと貢献するってことだ。その見返りとして然るべき望みを叶えることは、義務を果たした市民の至極真っ当な権利に決まっているだろう」
「そうかもしれないけど、でもなんだか無茶苦茶なこと言ってる気もするよ…?」
自信たっぷりに自論を展開する若い青年に、娘は小首をかしげつつ反論した。
ハーデスにしてみれば、それでなくとも飛び級を挟みつつ学院を卒業した後は、年が経つに連れて彼女と過ごす時間が減っていたのに、先だってようやく卒業を果たした少女が、同時にラハブレア院の研究員居住棟へ半ば無理やり移住させられた事を知ってからは、気が気ではない毎日を過ごしていたのだ。
よりにもよって、ヒュトロダエウスの膝下にあまりにも近い場所。よくも今まで我慢し続けたものだと、彼は内心自画自賛する。
いつかの強烈な事件はハーデスにとって甘く切ない想い出として、彼女との将来に向けた計画の原動力となっていたが、実は存外に腹黒い友人の事を思うと、絶対にここで手を緩める訳にはいかなかった。
少女はしかし、今日は自分も彼に重大な事を伝えなければならないことを思い出して、ローブの裾をきゅっと握りしめる。
「…ハーデス、あのね」
「?」
今から告げる内容はきっと彼を怒らせ、また、どれ程に悲しませることとなるのだろうか。
最近になって発現したとある能力が、ハーデスの心根から放たれる甘く優しい精神の波動を捉えていて、彼女は尚更にそれが辛かった。
「ほんとはもっと早く言わなきゃいけなかったんだけど、その…なかなかその機会がなくて…」
人生を賭けたと言っても過言ではない学会に向けて、彼女と会う機会をますます減らしていたのは確かにハーデスの勝手な都合だった。
とっさに浮かんだのは、未だに彼女を諦める気配のない男の存在だったが。
「どうした?…ヒュトロダエウスと何かあったのか」
「違うよ、そんなんじゃなくて…あの、北の小大陸に、独自の進化を遂げた知的生命体が新たに発見されたニュースは知ってる?」
「ああ、それなら」
一月ほど前だったか、いくつもの研究誌を賑わせた内容は、ハーデスの記憶にも当然残っていた。
「彼らは私達と全然違うエーテル構造の肉体のせいか念話を受け付けなくて、えっと、言語体系も複雑でよくわからなくて…こちらからの呼びかけが通じなくて困っていたんだけど、彼らの精神…思念に直接共感して、何を考えているのか創造魔法で映像化して読み解けば、解決の糸口になるんじゃないかって提案した学者さんが居て、それで」
しかし、いつにない娘の態度と、先の見えない話の内容に、彼は不穏なものを感じはじめる。
「共感能力と、イデアなしで創造魔法を使う能力、それを同時に使える能力者がいれば、うまくいくだろうって話になったらしくて…その話が巡り巡ってラハブレア院まで来ちゃって…」
一呼吸おいてから、紡がれた言葉は。
「……わたし、14人委員会が次に派遣する調査隊に、付いていくことになったの」
「何だって?」
ハーデスは息を呑んだ。
脳裏でぼんやりと思い描いていた、幸福の予想図が急速に崩れていく。
「ば、馬鹿言うな。共感能力だと?優秀な学者や能力者ならもっといるだろうに。どうして研究員でもない、お前みたいな子供が行かなきゃならない?…ヒュトロダエウスは?あいつはこの事を知ってるのか?」
「うん、ヒュトロはもう知ってる。もちろん止めるように言ってきたけど、でも、最後に決めたのはわたしだから…」
がらがらと、音を立てて。
「お前、はっ…!」
獣が唸るような声が、ハーデスの喉から絞り出された。冷静を旨とせねばならない筈の青年の心の仮面が、あっというまに剥ぎ取られる。
「なんでもっと早く相談しなかった?しかも北の小大陸だと?気象の変動も激しい未開の地じゃないか。命の危険だってあるのに、お前みたいな温室育ちが行ってどうにかなるものかよ。自分が何を言ってるのか分かってるのか…!」
娘がびくっと肩を震わせ、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
激しい怒りのこもった紫紺色のエーテル波動が、共感能力に目覚めて間もない彼女の全身を、無数の蛇のように纏わりついて締め上げていることなど、青年は知る由もない。
「わか、分かってるわ。…分かってないのは、ハーデスのほうだよ!」
それを振り払うかのように、少女は声を張り上げた。しかして、紫紺の蛇は怯んだかのように霧散していく。
「みんながあなたのことなんて言ってるか知ってる?知ってるよね?学院屈指の秀才、行政府の若手ホープ、次代の委員候補。ヒュトロだって、その気があればどこかの院長になれるくらいのすごい人だって、聞いたわ。それなのに」
驚く青年の前で、娘もまた「イイコ」の仮面をとうとう脱ぎ捨てた。
幼児期を脱し、周囲の何もかもを理解し始めた彼女は、彼らの知らぬ間に多大な鬱屈を貯めていたのだ。
「わたし、わたしだけ、何もない。ちょっと人より魔法が使えるのが早かっただけで…学院の成績だって中途半端。あなた達みたいに褒め称えられたことなんて一度もなかった!」
憧れ、嫉妬、無力感、そして。
「人の考えてることがなんとなく分かるようになったのだって最近の事。共感能力だって言われても、こんな力なんの役に立つのか全然わかんなかった。だけど、今度の調査でわたしの力が鍵になるかもしれないって…そう言ってもらえた時の気持ちが、あなたに分かる?!」
肯定の、渇望。
(なぜだ、なぜだ、どうしてだ。いつからこんな事に…!)
いつもハーデスとヒュトロダエウスの前ではふわふわと笑っていた少女が、いつの間にか彼らの与える優しさだけでは生きていけない存在に成長していたことを、青年は思い知らされた。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、そのどちらも今は選べない。
やがて、彼女の愛らしい顔がくしゃくしゃに歪んで。
「わたしにしか出来ないことがあるなら…この訳のわかんない力が、何かの役に立つのなら、試してみたい。ねえ…それって、おかしなことなの?ばかなこと、なの…?」
とうとう涙がぽろぽろと、その瞳から溢れて、いくつも地面にこぼれ落ちた。
本来であれば、少女の持つ能力はもっと早くに評価されて然るべきで、それが叶っていたならばこんな劣等感を抱くことなどなかったのだろうが、相談を持ち込んだ少年たちの当初の願いと、彼女の能力の伸びしろを測りあぐねていた院の決定によって、已む無く隠蔽され続けていたのだった。それがほぼ最悪といっていい形で、ハーデスとヒュトロダエウス、そして当の本人を苛むことになろうとは。
「ねえ…わたしもちゃんと、ハーデスに見合うようになりたいんだよ……?」
白い手がおずおずと青年の方に伸ばされる。
だが、少女の精一杯の背伸びに、プライドを踏みにじられた気がしたハーデスは、耐え難いまでの理不尽さで顔を朱に染めた。反射的に、彼はその手を撥ねつけてしまう。
「…ッ、知るか!勝手にしろ!」
「……!」
予想だにせぬ出来事を理解するには若すぎた青年は、自分の計画が破綻した苛立ちを、今はただ元凶たる相手にぶつけるしか出来なかった。
しまった、と頭が冷える頃には、すでに少女は踵を返し、泣きながら走り去ってしまった後で。彼はその場でしばらく、己の発言の迂闊さと、乱れる感情のやり場に苦悩することとなった。
陽が傾いて、星がまたたき始める頃。
心の整理がつかぬまま、ハーデスは愛しい輝きを追ってふらふらとアカデミアの本棟に向かっていた。
水の区画を抜け、幼い想い出の溢れる緑の区画を抜け、幻想動物の彫像が立ち並ぶ最奥の区画。そこは時々ヒュトロダエウスが余暇を過ごしている場所でもあった。
人気の絶えた院内にて、求める姿と、予想の範疇に収まる人物が共に立ち尽くす場面に、やがて彼はたどり着く。
「そろそろ話す気になったかい?…ハーデスはやっぱり怒っただろう?」
「………うん…とても怒って…すごく、悲しんでた。なぜ、どうして、って、心の中でいっぱいそう叫んでた…」
「だろうね。それで、どうなった?許してもらえたのかい?」
少女はふるふると首を左右に振った。ヒュトロダエウスはそれを見て、深く深く息を吐く。
次になんと言葉を繋げるべきか、しばし戸惑う彼の鋭敏な知覚が、やがて感じ慣れたある人物の魂の輝きを捉えた。
目を細めて、一呼吸してから、青年は重い口を開く。今度は少しばかり声量を上げて。
「ひとつ、確認しておきたいんだけど」
「?」
「共感能力が最近発現したって言ってたね。本当は、もっと前から兆しがあったんじゃないのかい?」
ヒュトロダエウス自身もようやく思い至った疑問を、彼は素直に少女にぶつけることにした。
「それは…」
「思えば、君はある時から妙におどおどし始めた。卒業する数ヶ月前くらいから…かな。ハーデスの前では上手く隠していたようだけど、僕には分かってたよ。その力のせいで、何かあったのかい?僕や彼に関係があること?」
「…………」
「大丈夫、君が望むなら彼には秘密にしておくから、話してごらん。ああ、もしかして今回の調査隊の件を迷わず引き受けた事にも、きっと関係が……そうなんだね?」
問いかけながらヒュトロダエウスは、そしてやや離れた場所で聞き耳を立てるハーデスは、それぞれの考察を完成させていく。
「だ、だって…」
「ん?」
「みんなが…みんなが思ってるんだもの。わたしは、ヒュトロや、ハーデスの側にはふさわしくない、って……」
蚊の鳴くような声で、娘はとうとう告白し始めた。
「そんな風に思ってる心が、急に分かるようになっちゃったんだよ…?びっくりして先代様に相談したら、それは心の壁を超えてその有り様を感じ取る力…共感能力だって言われて。でも、時期が来るまでは誰にも…創造魔法の件と同じくらいむやみに人に知られちゃいけないって…だから二人にも言えなくて」
<<今日はお砂糖いらないんだね。はい、どうぞ>>
<<ああ、目を覚まさないとならんしな……ん、俺さっきそう頼んだか?>>
<<!、そ、そんな気がしただけ。だって、徹夜明けって…だから>>
<<…ふむ、お前もようやく気を利かせるという行為を学んだか>>
<<ひどい、どういう意味>>
いつかのカフェで交わされた、他愛もない会話。あの時の彼女が妙に慌てていた事を、今更ながらに思い出す。
「…それとも、こんな気持ち悪い力があることを知ったら、ヒュトロも…ハーデスも、わたしから離れていっちゃうんじゃないかって。そう思ったら、怖くて怖くてたまらなくなって…」
うつむいて、両手で顔を覆って、肩を震わせて、必死に堪えていた言葉を、吐き出していく。
「だって、わたしには二人しか…!わたしの事、『面倒なヤツ』って思わないでいてくれるのは二人しかいないのに、もし嫌われたら、わたし…わたし今度こそひとりに…!そんなの、そんなのいやだ……!」
(ああ、だから…)
二人の青年は、ようやく彼女の劣等感の本当の理由を知って、胸を痛めた。
相互理解の討論と、平静平穏を好む傾向にあっても、わずかばかりの悪意や恐怖は、アーモロートの住人の精神構造から拭い去れていない。
感受性の強い少女は、望んだわけでもない能力に目覚めたがゆえに、不幸にも品行方正な人々の心の憶測に渦巻く矛盾に晒され、そして導き出した仮説に、ただ震えるしかなかったのだ。
たまらず、ヒュトロダエウスは愛しい娘の体を引き寄せ、抱きしめた。
(あっ…)
そしてハーデスは、そんな二人の姿に、姿を表すことも出来ずに心の中で声を上げる。
「ごめん、ごめんよ。もっと早く気づいて、いや、少なくともあの時にもっと真剣に考えていれば………すまない、許してくれ」
「ヒュト、ロ………ふぇ……」
優しい抱擁が声もなく涙を流す少女をふわりと包み、だいぶん大きくなった手が髪をなぜ背をなぜ、そして頬を寄せてきて。
「………その力、使っていいよ。いま僕が何を考えてるか、当ててみせて?」
「…え?」
「僕が君を嫌うなんて、世界が滅んでもあり得ない。だってこんなにも、ほら」
柔らかくしなやかに、じわじわと溢れいでて、綿毛にくるむかのように青年と少女を包む感情の波。
(僕もね、彼に負けないくらい)
たった一つの想い。
(…君の事が好きだよ)
少女が、青年の服をぎゅっと掴んだ。幸せは、ここにも確かにあった。だけれども。
「……………ヒュトロ、わたしは」
「…わかってる。だからもう少しだけ、このままでいさせてほしい」
突き刺さるような視線を背中に受けながら、青年は愛しい少女をその胸に収めて、なかなか離れようとしなかった。
どのくらいそうしていただろうか。
ヒュトロダエウスはようやく腕を解くと、またいつもの優しい微笑みを浮かべて、袖口でごしごしと目元を擦る少女に向き直った。
「良いことを教えてあげるよ。流石にこのままじゃフェアとは言えないからね」
「?」
「ハーデスは黙ってるだろうけど、君を迎えに行くためにどれだけ頑張ってたか知ってる?あの秀才君が、それはもう誰もが舌を巻くほどの努力を、ずっと…ずっと重ねに重ねてたって事を」
「………そんなに?色々頑張ってるのは、分かってたつもり、だけど…」
どんな困難な課題もやすやすとこなしていたはずの青年が、ここしばらくは会う度に、眠そうで不機嫌な顔をしていたのを、思い出して。
「後ろ指をさされない程に周囲を黙らせるための地位と名誉を手に入れようとして、本当に必死なんだよ、彼は。でないと、未成年の女の子を堂々と引き取ることなんて出来やしないんだから」
「…そっか。そう、なんだね。そんな事も知らないで、わたし…」
「どんな事があっても、ハーデスが君を嫌うことはあり得ないよ。今はきっと少し混乱してるだけだ。それだけは、理解してあげて」
少女は頬をさっと桃色に染めると、こくりと頷いた。そして青年は、人当たりの良い茶色の瞳を細めて苦笑する。
「…さ、ちょっとばかり屋上へ行って、夜風で頭を冷やしておいで。心を落ち着けて、明日もう一度、彼と話し合うんだ。いいね?」
「うん、そうする。……ありがとう、ヒュトロはいつも優しいね」
「ふふ、どういたしまして」
「…物語にでてくる「おにいちゃん」て、こんな感じなのかな。優しくて、強くて、何でも知っていて…」
出生率が恐ろしく低い彼らの社会において、兄弟や姉妹という存在は、ほぼ都市伝説と化していた。
子供向けのおとぎ話や、古典芸術の中に辛うじてその単語が残るのみで、一種の憧れをもって語られることが少なくない。
(…おにいちゃん)
(…兄)
(兄と……妹…)
((…………家族?))
二人の男が、少女の放った衝撃的な言葉に、しばし思考を巡らせてやがて同じ結論を導き出し。
「…そうか、家族か。なら…僕からはこれを贈ろう」
「?」
ふらりと距離を縮めて、背を丸めると。
(!、…あいつ、ッ)
ヒュトロダエウスは、少女の額に口づけた。途端、彼女ともう一人が息を飲むのを感じながらも、しばらく離れない。
心ゆくまでそうしてから唇を離すと、彼女は顔を真っ赤にしてぷるぷると震えていた。
「ヒュ、ヒュトロ、い、今のは…」
「家族としての口づけくらい、いいだろう?それにしても「オニイチャン」か。いいね、悪くない」
ヒュトロダエウスが優しく優しく「妹」の頬をなぜ、甘く微笑むものだから、深刻な告白も泣いたことも忘れて、少女はあたふたと慌てるばかりだ。
そのおかげか、物陰でぎりぎりと奥歯を噛み締め、拳を握りしめる存在に、彼女はこれっぽっちも気づかない。
「可愛いなあ、こんなに真っ赤になっちゃって。…ハーデスには秘密だよ?きっと怒り狂うだろうから」
「…も、もう」
「ははは。ではおやすみ、僕の可愛い「妹」さん。また明日」
「うん。あ、あの、ありがと。…おやすみなさい」
照れた笑顔を浮かべた娘は踵を返し、一度だけ振り向いて小さく手を降ると、屋上への階段に向かった。
ヒュトロダエウスはその姿を、すっかり視界から消え去るまでずっと見つめた後、すいっと目線をとある一点に切り替えた。
「ふう。あの子のエーテル感知能力が低いことに感謝するんだね。まさか盗み見されてるなんて思いもしてなかっただろうに」
「…………」
「君が嫌われてくれるのは一向に構わないんだよ?むしろそうしてやっても良かったかな」
やはりこの男は気づいていた。隠れる意味を無くしたことを悟り、ハーデスは無言で彫像の陰から姿を表した。
「なんて怖い顔をしているんだ君は。頼むから、あの子の前では控えてくれよ」
「…気を付ける。が、お前だって俺がいるのを分かっていて、よくもあんな真似を」
「僕は振られたばかりだというのに、容赦ないね?せめてあれ位は、甘んじて受け止めたまえよ」
「ふん、何が「オニイチャン」だ。そんなタマか、この腹黒が」
ハーデスの悪態もなんのその、涼しい顔で受け流すヒュトロダエウスは、夜も更けたことを感じ取ってふわぁと欠伸をした。
「あーあ。ちっちゃい時も、今も、あの子はいつも君に泣かされてるっていうのに、それでも最後は君に攫われるんだ。かくも世の中は理不尽なものか」
「………」
「でも、あんな泣かせ方を何度もさせるなら、いくら僕でも許さないよ。どんな形であれ、僕は彼女の側にいることを諦めるつもりは毛頭ないんだから、夢々忘れないでほしいね」
「……………すまん」
視線を外したまま、ようやく大人しく謝罪した友人の背中を、年上の青年は結構な力を込めて平手で叩いた。
許しと、激励を受けて、ハーデスはゆっくりと、少女の後を追って歩き始めるのである。
「悔しいけど…認めたくなかったけど、彼を想う時の…彼と共に在る時の君は、本当に綺麗だよ。何もかもが」
友人の姿までもが視界から消えてようやく。今度こそ無人となった館内に立ち尽くして。
「愛しい僕の情動…そして我が親愛なる友。君たちに良い結末が訪れんことを」
ヒュトロダエウスは二人の進んでいった方向に向けて、深い想いのこもった声音でそう呟くのであった。
ゆるやかな夜風が通り過ぎる、ラハブレア院の屋上にて。
額に手を当ててぼんやり座りこんでいた少女は、人の気配が近づいたのを感じて振り返った。
「あれ?どうしたのヒュトロ、何かほかに……っ!?」
「残念だったな、あいつじゃなくて」
予想外の青年が苦虫を噛み潰した表情で、困惑する娘の隣にどかっと腰を降ろした。
「ど、どしてハーデスがここに?えっ、えっ??」
「俺がいたら悪いか」
「そ、そんなことない。でも、その…」
居心地がわるそうに、もじもじと両手を揉み合わせ、少女は視線を彷徨わせる。しばらくの沈黙がすぎて。
「その、今回のこと、ごめんなさい…勝手に色々決めて…あの…それで」
おずおずと口を開く姿に、ハーデスは深くため息を付いて、彼女の言葉を遮った。
「…どの位なんだ」
「え?」
「調査の期間だ。いつまでだ」
「えっと…半年、だったかな。長引いたら、一年くらいかもって、係の人が言ってた」
「いくらお前でも、表層意識の…それも他人のそれの具現化なんて高等技術が早々出来るとは思えんが。…何か手はあるのか」
冷静に考えて考えて考えぬいて、青年は彼女が今回のことを決して軽く考えている訳ではない、との結論にすでに達していた。
「…この話が来てから、先代様直々の訓練が始まったの。凄く厳しいけど、わたしなら出来るって言ってくれて…だから、きっと大丈夫」
「そうか。…体の方は?未開の地ならそれなりの身体強化も必要になるだろう?間に合うのか?」
「魔導守備隊の人たちが同行してくれることになってるわ。だから、最低限の生存技術と…いくつかの魔具の使い方さえとりあえず覚えたら問題ないんだって。学術員の人はみんなそうなんだって」
淀みない回答は、ようやく悩める青年の救いとなった。
「…良く分かった」
軽く息を吸い込み、そして深く深く吐き出す。
「危ないことはしないと約束しろ。…………そしたら、行っていい」
「…うん、わかった。ありがと、ハーデス」
いたわるような、どこか寂しげな、青年の心の震えを感じ取った娘は、素直に感謝の言葉を口にした。
安心して気を緩める彼女は、この後にまだ続きがあるとは思いもせず、すぐに翻弄されることになるのだが。
「あと…な」
「え?…きゃ!」
急に抱き寄せられて、娘は小さく悲鳴をあげた。
「戻るまでに、お前の帰る場所を作っておく…から。だから」
女性らしい柔らかさを備え始めた体を、青年は腕に力をこめて、彼女の逡巡などおかまいなしに抱き締める。
ヒュトロダエウスのそれとはまるで違う、強引にすぎる抱擁は、残念ながら男女の機微を知る由もない娘を、ただただ動揺させているのに。
「俺の側に、いてくれ。もう、離れていかないでくれ」
瑠璃色の瞳がまん丸に見開かれた。男のそれより小さな唇が、空気と理性を求めるようにはくはくと動くが、言葉は出てこない。
ただ、彼の深い想いが、まだ未熟なはずの共感能力を強く強く震わせて、真心であることを彼女に伝えてくる。
(こんなにも、俺は、お前を)
返事の代わりに一粒だけこぼれた涙を、ハーデスは金色の瞳を細めながら己の唇ですくった。
「…愛してる」
たった一人の耳にだけ響いた、この世界でも尊いとされる言葉のひとつ。
それを紡いだ唇が柔らかな温もりを添えて、少女期の終りを迎えつつある娘の唇をやがて塞いだ。