私は今、パリのルーブル美術館を一人で見学している。
二十二歳の誕生日を迎え、彼が旅行に誘ってくれた。本当はイタリアに行きたかったけれど、先生の勧めでここパリを選んだ。
現在暮らしているロシアからはそんなに距離もなく、気軽な気持ちで来てみたものの、市内観光中にちょっとしたトラブルが起こって、先生と別行動する事になってしまった。
何のトラブルなのかは良く分からない。先生は今まで絶対に私を、外でこんなふうに一人にする事はなかったのに……?
とはいえ、せっかく来たんだし一人でも満喫しよう。特にこの美術館は絶対に見たかったから、堪能しなきゃ損だ。
混雑を避けて(先生は人混みはNGなので)夕方に二人で来る予定だったのが、こんな形で大混雑の中に一人ぼっちで見る事になってしまったのが、残念でならない。
「あ~あ。新堂先生と一緒に観たかったのに!」
かの有名な馬に乗ったナポレオンの肖像画(これが意外にデカイ!)の前で一人愚痴っていると、後ろから流れるような英語で声をかけられた。
[以下、カッコ内英語]
「(その絵は、この美術館の中では二番目に大きいものだよ)」
「えっ……?」
「(突然声をかけてしまってごめんね。これを、落としませんでしたか?)」
振り返ると、展示されている絵画から出て来たような紳士(まるで中世の貴族!)が立っている。
スラリと高いその背に羽織った、濃いベージュのロングコートがとても似合っていて、ただただ圧倒されるばかり。
気配が全くしなかった。しかも、この人からはムスクのような甘い香りがする。それは、先生から発せられる香りに良く似ていた。
「(あの?)」反応しない私に、男性が首を傾げている。
「(あ!えっとっ、すみません!あれ?ピアス、そういえば片方ないかも……)」
自分の両耳に触れて確認すると、確かに右側のピアスがない。
男性の差し出した、金色の小振りなフープピアスに目を落とす。
「(良かった。付けてあげよう。ちょっといいかい?)」男性は僅かに距離を詰めると微笑んだ。
私よりもずっと背の高い男性が、身を屈めて同じ視線になる。
その拍子に、濃いブロンドの柔らかそうな前髪がその整った顔にかかった。
あまり経験がないこんなシチュエーションにうろたえ、伸ばされた手に身を竦める。
「(じっとしていて)」
「……っ!(す、すみません)」
そして男性は器用にピアスを着けてくれた。
……冷たい。この人の手、物凄く冷たい!まるで先生みたいに。
「(はい、できたよ。今日はひと際お客が多いようだから気をつけて。お一人ですか?)」
「(ありがとうございます。……はい、一人です)」今は一人で間違いない。
だって彼はここへは来ないもの。こんな大混雑の今は特に!
周囲を見渡すと、先程まで詰め掛けていた団体客がようやく鑑賞を終えたらしく、幾分喧騒が和らいだようだ。
ふいに甘い香りが強くなった気がして視線を戻す。
男性はまだ私の顔ををまじまじと観察している。
「……もしかして、日本の方ですか」
驚いた事に、その男性は日本語で言った。
「えっ、日本語分かるんですか?はい、日本から!」嬉しくなって日本語で返す。
「私にはいろんな国に友人がいてね。少しだけ話せます、ほんの少しですが」
そんなの謙遜だ。だって完璧な発音なんだから!
そんな事よりも気になる事が……。
周囲のお客は誰も私達を気に留める様子はない。私はさておき、この異質な紳士にもまるで興味を持っていない。
この人の瞳は黄金色に煌いている。吸い込まれそうな瞳には慣れっこだけど、それが意味するものはやはり……。僅かに触れただけのあの肌の感触だって、それを表している。
でもこの人から敵意は全く感じない。私を狙った敵ではなさそうだけど……。
「君は、随分と甘い香りがするね」
「……え?私、ですか?……そうかな」そっちこそ、と言いかけて思い留まる。
思ってもいなかった指摘にしどろもどろになっていると、男性は後ずさるように一歩下がった。
「それでは。どうぞ美術鑑賞、楽しんで」
そしてにこやかに微笑むと、ロングコートの裾を優雅に翻して背を向け、人ごみに消えて行った。
「あっ!あの!待ってくだっ……さい」
私の声は届かなかった。聞きたい事があったのに。
だってあの人は間違いなく先生と同じ……。
こんなふうに偶然出会うくらい、先生と同じ存在はこの世界にいるっていうの?