「ユイ、起きてますか?入りますよ」
ドア越しにセバスさんの声が聞こえた。
もう朝か……って、あれ?私、昨夜どうしたんだっけ?
盆に水を載せてセバスさんが現れた。
「お体の調子はいかがですか?喉、渇いてませんか。お水を持ってきましたよ」
「体は何となくだるいけど、大丈夫です。喉、からっから……いただきます!」
奪うようにコップを受け取り、一気飲みする。
「ふう……。ねえ、私昨日、どうやって帰って来た?」
「伯爵とレオナルドさんとご出発同様、馬車で戻られましたよ。それが何か」
「何かって……私、意識なかったのっ!」
「その事ですが……聞きましたよ?お酒の飲み過ぎで酔い潰れたと。自己管理をしっかりしていただかないと困ります。あなたは女性なのですから?」何かあってからでは遅いでしょう、とセバスさんが続ける。
まるで親に説教されている子供みたい。「その節は……済みませんでした」
「落ち着かれたら伯爵のお部屋へ。お話したい事があるそうです」
「はぁ~い……」
これは確実に怒られると思った。頭のどこかに、二階から飛び降りている事を暴露した記憶があったから。それに、酔っ払って何かしでかしたのかも?どうしよう、ここから追い出されたら!
身支度を整えて食事を済ませてから、恐る恐る伯爵の部屋へと向かった。
ドアをノックして名を告げると、内側からドアが開いてサンジェルマンさんの姿が目に入った。
「やあ。おはようユイ、待っていたよ」
「失礼します……」
俯き加減で中へと足を踏み入れる。ドアが閉まる音を聞きながら、緊張はピークに。
「どうしたんだい?顔を上げて、早く君の可愛い顔を見せてくれないかな」
可愛くなんてないです!どんなに温和な性格でも、さすがに愛想が尽きたでしょ?
もう一つ思い出したけど、私昨夜この人に、どうして言う事を聞けないんだって叱られた気がする。ああ……もうこうなったらこっちから謝ろう。
「あの、ゴメンなさいっ!」言った後に勢い良く頭を下げる。
「一体、何を謝っているのかな?」
恐る恐る顔を上げると、いつもの穏やかな笑みを称えたサンジェルマンさんの姿が、朝日に輝いているだけだった。
「あのっ、ですから昨夜、私何か……粗相を」
「何の事かな?」
促されてソファに腰を降ろす。
「ワインに酔ってしまった事なら、気にしなくていいよ。ユイを一人にしてしまった私達にも責任があるんだ。こちらこそ、済まなかったね」
「そんな!お二人に責任なんてありません!」
「あんな終わり方になってしまって……。それで、昨夜の事はどの辺りまで……覚えているのかな」
どこか探りを入れるような聞き方だった。
「ええっと、踊っていたら目が回ってしまって……レオナルドさんが個室へ連れて行ってくれて」
「それで?」
「う~ん……赤か、白か、選べって言われて」
「何て答えたのかな?」
「赤と」
サンジェルマンさんから笑みが消える。
「あれって、何なんですか?今、そういう何かが流行ってるとか?」
こう尋ねると、彼は再び笑顔を見せた。
「流行ってないよ。きっとレオナルドのお遊びだろう。私も知らないよ。それで?」
「さあ……。あっ、その後、サンジェルマンさんも来てくれましたよね。済みません、ご迷惑をおかけして」
「それで、私は君に何かしたかな」
「はい?」質問の意味が分からなくて聞き返す。
「……いいや、何でもないよ。迷惑だなんて思わなくていい。それより、初めての夜会は楽しんでもらえたのか、それが心配でね。感想を聞かせてくれないかな」
「それはもう!夢の中みたいにステキでした。レオナルドさんとのダンスもとっても楽しかったですし」
「ああ。見ていたよ。いい雰囲気だったね」私も申し込みたかった、と伯爵に言われて戸惑う。
あの華やかな夜会の主催者サマとダンスだなんて?恐れ多くてとんでもない!
「伯爵のお相手になりたいって女の人なんて、山のようにいたじゃないですか」
「そうだね……だけど私は、ユイと踊りたかったな。今度は是非お願いするよ。今から申し込んでおこうかな」
朗らかな笑みが私に向けられて、たちまち動けなくなった。
何て魅力的な微笑みなの?これなら、全ての女性が恋に落ちるに違いない!
「サンジェルマンさんは恋人とか……いないんですか?」
この人の年なら、絶世の美女の奥さんや、天使みたいな子供がいてもおかしくない。
「今はいないよ。運命のお相手に、なかなか巡り合えなくてね」
「それはきっと、理想が高いんですよ。だって、より取り見取りじゃないですか!」
つい本音を口にしてしまった。「ごめんなさい……失礼な事を」
「いいんだよ。実際そうなのかもしれないし。私の理想が高いのかもね」
伯爵が私に、意味あり気な視線を向けている。えっと…………何でしょう?
「呼び出した理由は、もう一つあるんだ。これを返そうと思ってね」
そう言って取り出したのは、私が着けていたはずの指輪だった。
いつの間に?ない事にさえ気づいていなかった。「あっ、それ……どうして?」
「……何かに引っ掛かって、取れてしまったみたいでね。見つけたんだよ」
「済みません、預かっていただいてたんですね」
「着けてあげよう、左手、出してくれるかい?」
私は自分の左手を見つめた。
「ユイ?」
「それ、着けていないとダメですか?」
「どういう意味かな」
「もうしばらく、預かっててもらえませんか」
私はどこか、その指輪が好きになれない。その贈り主に縛り付けられているようで、見張られているようで……。どんな人かも分からないのに!
「それは別に構わないけど……。いいのかい?」
「だってほら!セバスさんのお手伝いする時、邪魔なんです、ぶつかって指輪に傷を付けたりしたらいけないし!」
本当はそんな事どうでもいいけど、そういう事にしておこう。それに、自分では着ける事も外す事もできないんだから!あれ……って、それなのに引っ掛かって勝手に落ちたの?
私の疑問など知る由もなく、そういう事ならと、サンジェルマンさんが快く預かってくれる事になった。
・・・
ああしかし。昨夜の事をユイが何も覚えていなくて救われたよ……。
その上、思わぬ朗報だ。彼女の方からリングを預かってくれと言ってくるとは!
傷が付く事を気にしていたようだが、この鉱物はそうそう傷など付かない。むしろ、当たった側が心配だ。そしてユイの体の方が。
こんなものは彼女には似合わない。ユイは人間なんだよ?いっそこのまま捨ててしまおうか!
今手の中にある宝石は、私の知っている輝き、つまり暗く怪しげな色に煌いている。
やはり、彼女が着けていたから輝きが変化したのか……。これは興味深い!意外と大発見かもしれない。次の研究対象にしようじゃないか。
リングを光に
「サンジェルマン、ちょっといいか」
「何だい、レオナルド」
「おい、……それ、まだ返してないのか?」
私は先程の彼女とのやり取りを聞かせた。
「ほお……。それはもしかして、脈アリなんじゃないのか?彼女も案外お前の事、想い始めてたりしてな!」
「冗談はよせ。それより、これを見てくれ」リングを差し出して見せる。
早速、たった今発見した興味深い事実を話してみよう。
「へえ……。面白い変化だな!何が影響してるんだ?」
「無難な線で行けば体温か、もしくは脈動などだろう。この石の本来の輝きがどちらなのかによるがね」
「魔物のオーラが怪しい光を作り出すって線はどうだ?」愉快そうに肩を揺らすレオナルド。
私は肩を竦めた後、リングをポケットに仕舞った。
これ以上の議論は意味がないのでやめにしよう。「それで。お前の用件は何だ」
「ああ。ふと思ったんだが……ユイのお相手がヴァンパイアなら、そいつはこの時代にも存在してる可能性があるよな」
「そうだね。まさか、会いに行けとでも?」
「今そいつを亡き者にすれば、ユイを手に入れられるじゃないか!」
「物騒な事を言わないでくれ。私は極力平和的に解決したい方でね」
それに、彼女の記憶が戻った時にどう説明する気だ?そんな事をすれば、ただ恨みを買うだけじゃないか。……だが、一理ある。
「第一、いないかもしれないじゃないか」
このリングを手していたからには、若いヴァンパイアとは思えない。恐らくこの時代にも彼は存在しているのだろう。あるいは転生前の人間として。
「いずれにせよ、情報が少なすぎて探しようがないよ」
「そうだよなぁ。ちょっと思いついただけだ、忘れろ。じゃあ俺は出かけて来るよ」
「ああ。気をつけて」
レオナルドの去った後に改めて考える。
もし今ユイのお相手に会えたとして、この時代の彼はまだユイと出会っていない。
彼女の事を知らないのに、話のしようがないじゃないか?よもや、有無を言わさず殺せとでも?おお怖い!
昔の自分ならばやり兼ねないか。だが、これだけ長い年月を生きていれば、さすがに大人にもなる。いつまでも、やんちゃではいられないよ。
・・・
ここへ来てからというもの、どういう訳か異様にお腹が空いていつも以上に食べてしまう。
このままじゃ太っちゃうじゃない!と、いう訳でトレーニングも兼ねて、率先してセバスさんのお手伝いをしている。
「ユイ、そんな事まであなたがしなくてもいいんです、危ないので降りてください!」
「もう、ちょっとで……終わるからっ!」
私は今、屋根に登って雨どいに溜った落ち葉を取り除いている。またも業者のオジサンの仕事を奪って!
「ああ……こんな事を伯爵に知れたら!ユイ、早く降りてください!」
「はい終~わりっと!」そこから華麗に飛び降りて着地を決める。
「本当にあなたという人は……」
「キレイになったよ。これで嵐が来ても安心ね!」
そこへナポレオンがやって来た。
「こいつ一人いりゃ、業者雇わなくて済むんじゃないか?セバス!」
「ナポレオンさん!感心していないで何とか言ってください」
「煙と何とかは、高い所が好きなんだよ。好きにさせてやれ」
「ムカッ!それってバカって事?ナポレオン!そんな事言ってただじゃ済まないんだからね?」
あはは!と高らかに笑うと、ナポレオンは私のパンチを右手で呆気なく受け止めた。
「あなたがケガでもしたら、身柄を預かっている私の責任になるんですよ?」
「だ~か~ら~。ケガなんてしないったら」
「セバス、心配するな、コイツは俺が守るから。落ちそうになったら呼べ」どこか冗談めかしてこんな事を言う。
「あら。私をキャッチするのは、レオナルドさんの方が得意かもよ!」
「何だよ、それ」
「内~緒!」
「おい、何だよ内緒って!」
私は着けていたエプロンを外して背伸びした。
澄んだ三月の空が広がっている。もう太陽があんなに高い所にある。
「手伝いはもう結構ですから、ナポレオンさんとお出かけされてはいかがですか?」
「あらそう?」
その提案に便乗するようにナポレオンが言う。「そうだ、お前に会いたがってたぞ、ガブが」
「ああ……あの子、元気にしてる?」あんな事件があって、ずっと気になっていたんだ。
「まあ、そこそこな。会いに行ってやれよ」
「そうね。じゃ、セバスさん、出かけて来ます」
「はい。行ってらっしゃいませ」
私からエプロンを受け取ると、セバスさんは笑顔で送り出してくれた。
「俺の馬で行こう」
「やった!この間乗せてもらった時、堪能できなかったから。もう一度乗りたいと思ってたの!」
何しろ先日は左腕の痛みと格闘していたので、それどころではなかった。
変な傷跡はあるけれど、あれ以来痛みはない。何だったんだろう?
自分の過去に関しての記憶は全て戻っている。でも、この傷とか例の指輪の事は未だに分からないままだ。
「ん?お前、あの着けてたリング、どうしたんだ?」
考えていた矢先に指摘されたので驚いた。ナポレオンが指輪の事を知っていた事にも。
「外した。邪魔だから。でも、良くそんな事気づいたね」
「……ああ、まあな。外したって自分でじゃないよな?」
「それがね、いつの間にか落としてたみたいで、サンジェルマンさんが見つけてくれてたの。そのまま預かってもらってる」
「ふうん……。邪魔か!ははは!そうかそうか!」
何か考えていたみたいだったけど、ナポレオンは愉快そうに笑って言った。
「何よ。……やけに嬉しそうじゃない?」
「あ?いや、別に。さあ、行くぞ!」
彼に腕を取られて引き上げられ、馬に跨る。
私が楽しみにしていたと知ったからか、前に乗せてくれた。後ろから回された腕は、私のウエストにしっかり回されている。
密着しているせいで、ナポレオンの体温を大いに感じる。
「……ちょっと、近いよ!」
「何だって?」
彼の息遣いが耳元で聞こえる。やっぱり後ろが良かったか……。ドキドキして心臓が持たない!
「おいユイ、胸、どうかしたのか。苦しいのか?」
「え……っ!何で?別にっ!」
ちゃんと否定したのに、ナポレオンはどこか信じていない。
何で分かったの?この胸の高鳴りが。
しばらく走って、ついに訴える。
「ねえナポレオン、悪いんだけど、やっぱり後ろに乗せてくれない?」
「何だ、前はお気に召さないってか?」
「そういうんじゃないの。ちょっとさ……」
あと少しだって分かっているのに、どうしても我慢できない。心臓がどうにかしそうなくらい脈打っているんだもの。
言い訳が思いつかずにいると、彼は勝手に解釈した。「そうか、寒いよな。悪い、気がつかずに」
「そう!そうなの!」良かった。全然寒さは感じないけれど、そういう事にしておこう。
そうこうするうちに、ガブの家の近所までやって来た。
馬の蹄の音を聞きつけたのか、早速ガブが姿を見せる。
「ナポリオーネ!待ってたよ、今日は早いじゃないか」
「おお。お待ち兼ねのヤツを連れて来たぞ」
ナポレオンの後ろにしがみ付いていた私に、ガブはまだ気づいていない。
「ガ~ブ!こんにちは!」私はガブに向かって笑顔を向けると、ポンッと馬から飛び降りた。
「ユイ!来てくれたんだね、会いたかったんだ!」
「元気そうで良かった。私も気にしてたのよ」
「ユイ、ユイに言われた事、俺、頑張ってるよ。それでさ……アイツは、死んだの?」
新聞には犯人が死んだとは出ていない。真相は闇、なんだった。私達以外には。
ナポレオンを振り返って、どう答えるべきか判断を仰いだ。
小さく首を横に振る彼の姿が見えた。
「ねえユイ!教えてよ!ナポリオーネったら教えてくれないんだ。本当の事を、教えてくれよ!」
「……人を殺した人間は、死ぬべきだと思う?」私は自分に尋ねるように、少年に問いかけた。
場合によっては、私が殺していたかもしれないのだから。
「もちろんだよ!父ちゃんが死んで、アイツが生きてるなんて不公平だろ?」
「そうね。じゃあ私がアイツを殺したとして。そうなると今度は、アイツの家族が私を憎んで殺しに来るわ。そうやって、憎しみの連鎖がどこまでも続くの。これについてはどう思う?」
ガブが小さな拳を握り締めて、私に強い視線を向けている。
「それを繰り返していたらどうなるか、あなたにも分かるわね」
「死人でいっぱいになる?」
「その通り。死の裁きを認められてるのは、裁判所だけだ」ナポレオンがようやく口を開いた。
私の肩にそっと手を乗せて、説得を交代してくれる。
「いいかガブ。殺しは犯罪。例え復讐のためでもダメだ。今回は俺達が制裁を加えたから安心しろ。もう二度とお前にも家族にも手を出す事はない」
ガブは必死に涙を堪えて、真っ直ぐにナポレオンを見て言う。
「うん。ありがとう、ナポリオーネ!」
納得してくれて良かった。
やがて、私達を恋人同士だと思い込んでいるガブは、気を利かせたのかこんな事を言う。
「お二人さんのデートの邪魔は、しないでおくよ。じゃあな!」
背を向けて元気に帰って行くガブを見つめながらナポレオンが零す。
「何だ、あいつ!途端に大人びた事言いやがって」
私は無意識に大きなため息をついていたらしい。
「ユイ?」ナポレオンが私の顔を覗き込んだ。
「ん、何?」
何事もなく顔を上げた私に安心したらしく、ナポレオンは話題を変えた。
「あいつに、殺したと言わないでくれて感謝する」
「やめてよ、改まって。当然よ。あんなに無垢ないい子に、そんな血生臭い話なんて?」
本気でそう思ったから言った言葉だった。
けれど、ナポレオンは不思議そうに私を見下ろしている。
「……なあ。ずっと思ってたんだが、お前、一体何者だ?女だてらに軍隊出身とか」
「まさか!私、集団で行動するの苦手なの」
「だろうな!一人で勝手に動き回るのを散々見てるから分かるよ」
いつもの私なら、ここで倍返ししてるところだけど。「はぁ……もう、何とでも言って」私は何だか疲れを感じていた。
まだ心臓は激しい動悸を繰り返している。右手を胸に持って行く。
「おい、やっぱり痛むんだろ、そこ……」
「違うの。痛くはないんだ。ただ、何だか違和感がね……大した事ない。さ、帰ろ!」
ナポレオンは無表情で何かを考えているみたいだったけれど、私を馬の背に乗せると、その前に跨ってすぐに走り出した。