夕方、私の書斎にナポレオンが現れた。
「伯爵、いるか?」
「ナポレオン。どうしたんだい?」
どこか不安そうな様子のナポレオンを安心させるべく、笑顔で招き入れる。
「ユイとどこかに出かけていたんだってね。セバスチャンから聞いたよ」
「ああ。先日父親を切り裂きジャックに殺された、子供の所にな」
「そうか……。その子は大丈夫なのか」
「ユイの心に沁みる言葉が功を奏して、すっかり吹っ切れたみたいだ」
「ユイの言葉って?」
ナポレオンは何かを思い返しているのか、一点を見つめてしばし動きを止めた後に言った。
「不思議なヤツだな、ユイって女は!伯爵もそう思ってんだろ?」
彼女の言葉がどんなものだったのか気になるが、きっと女性らしからぬ叱咤激励でも飛び出したんだろうね。
「ふふ……そうだね。この私でさえ、振り回されている状況だよ」
苦笑しながら答える私を、ナポレオンが不思議そうに見ている事に気づく。
おっと。余計な事を言ってしまったな。
「……いや、こちらの話だ。それで、何か話したい事があるんだろう?」
しばし目を瞬いていたナポレオンだが、本題を思い出してくれたようだ。
「左胸を気にしてたのが気になってな。痛みはないらしいが、違和感があるんだとか」
「それは心臓だね。彼女の心拍は少々乱れがちなので、私も気になっていたんだ」
「そうなのか?!」
おいおい、驚きすぎだろう?全く気づいていなかったのかい?
私は深いため息をついてから、小さく頷いた。やっぱり私の予感は的中か。
「一度、きちんとした検査を受けさせよう」
「ああ。そうしてやってくれ」
「その後、彼女は左腕は痛がっているか?」こっちの件も気になるところだ。
「いや。俺の知るところでは、ないな」
「そうか」
リングを外した事と関係があるのだろうか?どうやら同じ事を考えたようだね。
ナポレオンが難しい顔で再び動きを止めている。
「時に。君の方は大丈夫なのかな?」
「俺か?何でそんな事聞く」
そんなに面倒そうな顔をしないでくれ。私は君の事だって心配しているんだよ?
私は淡々と言葉を繋げる。「ここのところ、食事の量が減っているそうだね」
「セバスのヤツ、余計な事しゃべりやがって!」
「本当なんだね」
「っつ~か、アイツ!ユイが大食らいだから、そう見えるだけじゃねぇの?」
細いクセに良く食うんだ!と続ける姿は、都合の悪い真実を隠そうとしているようにしか見えない。
私は静かにナポレオンを見つめる。
「……ユイとの食事は気に入ってる。食事が楽しいと思った事など、今までなかったんだがな」
「いい事だよ」それだけ言って、再び彼を観察し続ける。
「私に隠し事をしてもムダだよ。ナポレオン」
ナポレオンは黙り込んだまま口を開こうとしない。
「その様子じゃ、変化が、現れ始めたんだね」
「なあ……どうにかして、これを止める事はできないのか?」
「できる事ならば、協力してあげたいんだが。手立てはなさそうだよ」
以前にも話したが、ナポレオンはヴァンパイアと人間の狭間にいる、言わばハーフ。転生の段階で、どういう訳かそうなったと思われる。
その彼の体に残っている人間の部分が、徐々に失われてきているのだ。時期に完全なヴァンパイアとなるだろう。
「俺の人間の部分がなくなったら、どうなる?」
「今よりも強靭な肉体になる。食物を口にする必要はなくなり、睡眠も必要ない。特に悪い事はないと思うんだがね」
「体温が、なくなるんだろ?あんた等みてぇに冷たくなる。そうなれば、アイツに容易に触れられなくなるじゃないか!」
気にしていたのがユイに関する事と知り、戸惑いを隠せない。
「逆にそれが、いい刺激になるかもしれないよ。彼女の記憶を取り戻すのにね」
「それがいい事とは限らないだろ!……もういい、とにかくユイの検査、頼んだぞ」
ボソリとこう呟くと、ナポレオンは部屋を出て行った。
やれやれ。彼はどうやら、ユイに記憶を戻してほしくはないようだ。予想通り、彼女に熱を上げているようだね……。
護衛を任せたのは誤算だったかもしれない。
・・・
お夕飯の後、サンジェルマンさんに呼ばれて伯爵の部屋を訪れている。
「大袈裟ですってば。こんなに食欲もあるし至って元気ですよ?そう見えませんか」
精密検査を受けろと言われて、必死に抵抗している最中だ。
「見た目では分からない事が、世の中にはたくさんあるんだよ」
「もし病気だったら、屋根に登って雨どいの掃除なんて、できないと思いますけど?」
「ん?……何だって?」
ああしまった!また墓穴を掘った……。節目がちにサンジェルマンさんを見て、どう言い訳しようか考える。
いつもなら笑って聞き流してくれるのに、今日は違った。
「ユイ。何度も言うようだが、危ない事はしないでほしい。君は、未来からの大切な預かりものなんだ。何かあると困るんだよ」
「預かりものって……誰かに頼まれたの?勝手にそう思われているだけでしょう?」
だって私は、勝手にここへ来たんだから。
「どういう経緯で来たのであれ、君が誰かのものである事に違いはない。私には責任があるんだ」
「私は誰のものでもありません!」つい声を荒げてしまった。
それって、あの指輪をくれた人って事でしょうけど。誰かも分からないっていうのに?
異様に頭に血が上って、まるで顔から熱が噴き出しそうだ。
「ああユイ……怒らないでくれ。申し訳ない、気分を害するような言い方をしてしまったみたいだ。済まなかった、許してほしい」
サンジェルマンさんは心から謝罪してくれて、とても悲しそうな目をした。
こんな打ちひしがれた色男を前に、強硬姿勢を取れる女がいる?
当然熱は一気に冷めて、戦闘意欲は呆気なく消失。むしろこんなに怒り狂う必要、あった?
自分の気性の荒さに、久しぶりにうんざりした。
「もう……いいです、分かりました。検査に行きます。それでサンジェルマンさんの気が休まるのでしたら」
「ありがとう、ユイ」一転してその表情は神々しい微笑に変わった。
さっきまでの怒りはどこへやらで、すっかり見惚れてしまう。変わり身が早すぎない?
「私が付き添うからね。心配しなくていいよ」
サンジェルマンさんが私の肩に手を置いた。
「……あぁ、はい。んん……っ!」触れられた途端、自分の口から変な喘ぎ声が漏れた。
あの部分が疼いて仕方がない。ヤダ、私ったらこの人に抱かれたいとか思ってる?!何でよ!
下半身に力が入らなくなって、その場にくず折れそうになったところを支えられる。
「大丈夫かい?疲れているようだね。部屋まで送ろう、連れて行ってあげるよ」
「……もっと、一緒にいたい。あなたと……」
こんな懇願にサンジェルマンさんは何も言ってくれない。
私は一体、何を言ってるんだろう?心と体が相反する事をしている。それが分かっているのに止められず、私は彼に強く抱きついた。ひんやりと冷たい、その体に。
「どうしたの?またお酒でも飲んだのかな」
お酒なんて飲んでない。そう答えようとしたけれど、今思い出しかけている大事な事を中断したくなくて黙り込む。
このひんやりした感触。ムスクのような良い香り。そして何よりこの安心感……。
私は前にも、こんな状況を何度も経験していたような気がする。
「ユイ?大丈夫かい?」
しばらく様子を見てくれていたサンジェルマンさんだけど、私が動くつもりがないのを見て取ったのか、軽々と横抱きにされた。
抵抗なんてできない。されるがままとなり、密着できた事にこの上ない喜びを感じる。
「本当に困った子だね、君は……」
「子供扱い、しないで……。私はもう大人よ?」彼の首に腕を回してさらに密着する。
「そうだね。これはまた失敬した」
こんな言い合いもまた、どこか懐かしく感じる。
「ううっ……!」
次の瞬間、サンジェルマンさんの腕の中で呻き声を上げる。強烈な何かを思い出しかけて、強い頭痛を感じたからだ。
「ユイ?どうした、どこか痛むのかい?」
サンジェルマンさんは急いで私の部屋に向かってくれたようで、気づくといつの間にかベッドに寝かされていた。
離れて行こうとする彼の腕を、とっさに掴む。
「……イヤっ!もう少し一緒にいたい」
「ユイ。もう休んだ方がいい。私はここにいない方がいいと思う」
「どうして?お願い、あと少しでいいから!何か思い出せそうなの……。あなたのその感触の全てが、なぜか懐かしくて……その理由、を」
彼は何も言わずそっと私の手を解くと、シーツの中に入れた。
「明日、病院に行こうね。それじゃ、お休み」
「ああ……!待っ、て……」
その夜は、頭痛といつまでも消えない疼きのせいでなかなか寝付けなかった。
こんな事は、今まで一度だってなかった。
・・・
私が触れた時のユイの反応を思い返す。
あれは間違いなく求められていた。安易にあの行為は不味かったな……。夜会の日の終盤に自分が取った行動には、今も後悔しきりだ。
彼女の体が本人の意思とは裏腹に、私に反応してしまうのは仕方のない事だ。何せ例の行為の(吸血も然り)快楽といったら、人間の性行為の何倍もの恍惚を伴うのだから。
念のため断っておくが、私が彼女に入れたのは指と舌だけだよ?
「済まないね、ユイ。私はもう君を手に掛ける気はない。あれは間違いだったんだ」
翌朝を迎え程なくして、サヴリー医師が邸にやって来た。
「今日はよろしく頼むよ」
「お任せください。私の病院は検査機器が揃っております。詳細にお調べします」
サヴリーを客間に待たせ、ユイの部屋に向かう。
彼女の部屋にはナポレオンがいた。
「ユイ。準備はできているかな?そろそろ行くよ」
「サンジェルマンさん、あの、お願いがあるんですけど……」
「何だい?」
「付き添い、ナポレオンにお願いしたいの」
「…………。どうしてかな?」
おやおや。何を言い出すかと思えば。なぜ私でなくナポレオンなんだ?少々ムッとしたが、ここは大人の余裕で応対しなければ。
「伯爵は忙しいだろ。俺なら別にする事もねえし。それにだ。護衛の俺が行かずにどうする?」
ナポレオンの横でユイが大きく頷いている。
そう来たか……。まあ、却下する理由もないし、また彼女を疼かせても悪いから、今回のお役目は譲るとしよう。
「そうだね。それじゃ任せるよ。よろしく頼むよ、ナポレオン」
余裕の笑みで部屋を後にすると、中からユイの安堵のため息が聞こえてきた。
……何とも複雑な気分だ。
・・・
要望が叶って良かった。私はナポレオンに手を引かれて馬車に乗り込む。
「だけど、何で伯爵の付き添い断ったんだ?」
「だって……あの方といると本音も言えないし、緊張するじゃない?」
「つまり、俺となら無礼講って訳か!」
「いい意味でよ?いい意味で!」
体を仰け反らせてハハッ!とナポレオンが笑う。
だって、またおかしな気分にでもなって、変な声でも出したらどうするのよ……。病院ってだけでも緊張するのに!ああでも、あの瞳の催眠術で麻痺させてくれたかもしれないか。
「緊張なさらなくても大丈夫ですよ。私が責任を持って、滞りなく進めますので」
伯爵の大事なお客様ですから!と続ける。……だ、か、ら~、私はお客じゃないってば!
病院に到着して、先に降りたナポレオンが再び私の手を取ってくれる。今日の彼の手は、何だか冷たい。どんよりの天気ではあるけれど、手がかじかむ程寒くはないはず。
「ねえナポレオン。手、冷たくない?寒いの?」
ナポレオンは何も言わない。無表情で固まっている。
「ナポレオン?」
「あ?そうか?別に寒くないけどな。俺も緊張してるのかもな~!」
「何でよ!ムダに緊張するくらいなら代わってよ」
「俺を調べたってしょうがねえだろ。さ、とっとと行くぞ。早いとこ終わらせて、スッキリしろ」
「スッキリね。言えてる」
今の私の心はこの空模様のように、ど~んより!
腹を
一旦個室に通されて、検査着に着替える。
ここでまた、ふと何かを思い出しかける。こういう時に、いつも誰かがいてくれたような……?
「終わったか~?」
「あ……うん。入っていいよ」またも考え事は中断されてしまった。
廊下で待っていてくれたナポレオンを部屋に入れる。
「ごめんね、つき合わせて。一日かかるみたいだし、何だったら途中で帰ってもいいからね」
「阿呆が。護衛の対象を置いてどこも行かねえよ。ちゃんと守ってやるから、安心しろ」
「ここ、病院だよ?そうそう襲われないと思うけど!」
平然と言い返したけれど……本当は泣きそうになっちゃった。乱暴な言い方だけど、彼の優しさがひしひしと伝わってきたから。
「何て顔してんだ?だいたい、何が怖いんだ?子供じゃあるまいし!」
ナポレオンが私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「ちょっと……やめてよ!泣いてないもんっ」
「ああ、まだな。泣く一歩手前ってとこだろ?」
「バカ!」
こんな言い合いだってありがたい。きっとサンジェルマンさんとじゃ、できなかったから。終始いい子(!)になってなきゃならないでしょ?
検査室に入って、様々な検査を受けた。
私の時代のよりもゴツくてデカくて、やっぱりここは十九世紀なんだと実感させられる感じの機械で、心臓を中心に調べて行く。
「痛くないですか?」
「……少し」
来た時よりも私の心臓はバクバクしていて、緊張と恐怖はピークに達していた。
「写真に良く写るように、お薬を入れますね」
「それって……注射?」注射器が目に入ってさらに青ざめる。
体を固定されているにも関わらず逃げ腰になる。だって昔の注射針ってば太いのなんのって!
「すぐに済みますので」
「イヤ……それだけはちょっと!」
「動かないで下さい?」
助けて!ナポレオン!心で叫んだつもりが、どうやら声に出していたみたい。
廊下で待っていたナポレオンが、ナースの制止を振り切って中に飛び込んで来た。
「ユイ!大丈夫か?」
「ナポレオ~ン……。ええ~ん……!」本気で泣きに入る私。
「ちょっと君、困るよ?付き添いは入らないで!」ナポレオンに向かって医者が訴える。
「先生、彼に付いててもらいたいの、ダメ?」透かさず私は医者に懇願した。
手を握っていてもらいたい。それだけでいいから!
やっぱり私は子供だ。分かっているけど、不安で押し潰されそうなんだもの。
しばし考えた末、医者がオーケーを出した。
「頑張れよ。すぐに終わるって、な?」
ナポレオンはベッド横にひざまづいて、私の手を握っていてくれた。
その手はやっぱり冷たかった。
その後の記憶はない。気がついたら、最初に通された個室に寝かされていた。
「起きたか?」
「……ナポレオン。今何時?」
「三時過ぎだ」
「外、酷い雨ね……」
窓の外から激しく打つ雨音が聞こえていた。
「もうすぐ帰れる。今、検査結果を待ってるとこだ」
「そう」
「体、大丈夫か?」
「うん。さっきは、本当に死ぬかと思った」
そのくらい心臓が脈打っていた。打ちすぎて止まるんじゃないかってくらいに。緊張と恐怖だけであんなになるのかな……。本当に病気だったらどうしよう?不安がどんどん募って行く。
「顔色、悪いな……。本当に大丈夫か?」ナポレオンが心配そうに私の顔を覗き込む。
「……分かんない。私、どうしちゃったんだろう」
「ユイ?」
「こういう時、側にいてくれてた人がいるはずなの。……誰なの?どうしていないの!」
ふいに心臓に痛みが走って、左手でその部分の着衣をきつく掴んだ。
・・・
「あっ……!く、……何、なんなのっ……ホントに!」
「ユイ!しっかりしろ、すぐにサヴリーを呼ぶからな!」
立ち上がったナポレオンが再度ユイを振り返る。意識はすでに朦朧としている様子。そして何かを言いかけた。
「どうした?」
「しん、どう、先生を……呼んで……」彼女は再びこの名を口にした。
記憶が戻ったのだろうか?ナポレオンは一瞬ドキリとする。全てを思い出せば、彼女は自分の元からいなくなる。
その不安が、ナポレオンの心を埋め尽くした。
彼はユイを愛し始めていた。