昼過ぎから降り出した雨は次第に激しくなり、今や嵐のような天候となっている。
病院に行っている二人の事を考えていると、外から甘い血の香りと一風変わったヴァンパイアの気配を感じた。ユイとナポレオンだ。
どうやら帰って来たようだ。出迎えるために、一足先に玄関へと向かう。
ナポレオンに抱きかかえられているユイを見て、少々の不安を覚える。
「ご苦労様、ナポレオン。ユイは、どうしたんだい?」
「まあ、ちょっとな。検査は滞りなく済んだ。これが結果の報告書だ」
「ああ、ありがとう」
取りあえず、ナポレオンの脇の間に挟まれた封書をいただく。
「特段、治療が必要な病気の類は見つからなかったとさ。……こんなザマだけどな」
自分の腕の中で眠りに就いているユイを見下ろして言う。
「そうか。それならば良かったよ。ナポレオン、彼女を寝かせたら私の書斎へ来てくれ」
「分かった。俺も話したい事がある」
頷いて見せて、歩きながら封書の中身を取り出す。大した内容ではないと分かっていても、気が急いてしまってね。
書斎に戻り、デスクにもたれて改めて目を通す。
激しく降りしきる雨音を排除するのは簡単だった。私の全神経は今、書類に向かっているから。
「心臓は健康そのもの、……脈が速いのは若い証拠?おいおい、子供はともかく、彼女は立派な成人女性だよね?」
一人、書類に突っ込みを入れながら読んで行く。
人間の感覚では所詮この程度か。私が医者ならば、こんな回答はしないがね!
ユイの心臓は、まるで何かに突き動かされているように激しい拍動を続けている。それが強くて健康な心臓なのは認める。だが…………。
自分の乏しい医学の知識を駆使して考え込んでいると、ナポレオンがやって来た。
「ユイは大丈夫かい?」
「ああ。眠ってる。実は、検査の後にちょっとあってな……。また、例の男の名を呼んだんだ」
「シンドウ、か」
ナポレオンが顔をしかめながら頷く。
その気持ち、分かるよ……!目の前で別の男の名を呼ばれるのは、良い心地はしないよね。
「思うんだが、その男は医者なんじゃないか?」
「なぜそう思うんだい?」
「ユイは病院で何かを思い出しかけた。あの場所だから、何かを感じたとすれば?それから、苦しみながらそいつを呼んでくれと懇願した。つまりそいつは、痛みを取り除ける人物、って事にならないか?」
ああ、一理ある。だが疑問点が一つ。
「そうだとして、彼女は相当、病院関係を嫌っているように見えるが……」
「ああ。検査の最中も泣き叫んでたしな!」
「おや、そうなのかい?」
あいつには内緒だぞ?とナポレオンはニヤリとしながら打ち明けた。
「そこまで嫌う職業の男を、愛せるものなのか?」
謎だ。恋愛事情、特に女性の心理については、それ程詳しくないものでね。
「それについては、一概には答えられないが……。だとすれば、ユイの深層心理が男の存在を消したとも取れるね」どこかに、そうあってほしいと願う自分がいる。
「だったら、無意識下でそいつの名を呼ぶ説明がつかないだろ」
こんなナポレオンの指摘を受けて冷静になった。その通りだな。
私は再び書類に目を落とす。最終診断結果として上げられていたのは、心因的理由。
今の議論の流れで考えれば、シンドウという最愛の男が側にいない不安が心臓の痛みを生み出している、という事になる。
「もし本当に彼が医者ならば、ユイのあらゆる苦痛を取り除く
「例の傷跡の方もだろ?」
私は頷いた。
「それにしても、ヴァンパイアが医者とはな!」
ヴァンパイアは病気にはならないし、滅多な事ではケガもしない。つまりこの場合、対象となる患者は人間という事になる。
人間の命を奪うはずのヴァンパイアが、逆に命を救っているとしたら……。
なかなかに興味深い。
こうなったら、二十一世紀に行って彼を探し出すのが得策か。だが気は進まない。この男に興味はあるが、会うイコール、ユイを引き渡す、なのだから。
「困った事になったね……」
「俺が探しに行こうか?」
「本気で言っているのか?あの扉をくぐるのがどれだけリスクを伴うか、分かっているだろう?」
私以外の者は自由に出入りできない。例え一緒に行ったとしても、その者だけ別の時代に迷い込む可能性だってある。そうなれば、二度とここへは戻って来られない。
私と離れた時点で、扉は閉ざされるのだから。
「だが!」
「私が行くよ。君はユイについていてあげてくれ」
君の姿が見えなくなれば、ユイは不安になるだろう?数日私がいなくても、それはいつもの日常だからね!……少々自虐的だったかな?もうヤケだよ。
・・・
ふいに目が覚めた。……ここはお邸の自分の部屋のようだ。
「そうだ、私、病院に行っていて……」
だんだん記憶が甦ってきて、ベッドから起き出して窓辺に寄り、カーテンを開けた。
酷い雨だ。まだ夕方のはずなのに、外はとても暗い。
ふいにどこからか、声が聞こえたような気がした。とても懐かしい声が……。
「誰かが私を呼んでる……誰なの?確認しなきゃ」
何かに導かれるように、寝間着のまま廊下に出る。
窓を開けて身を乗り出し、外を見渡す。耳を澄ますけれど、雨音以外は何も聞こえず。
ふと我に返る。ブルッと身震いをした。
「……寒い。イヤだ、私、何してるの?これじゃ精神異常者じゃない!」
頭を振って、急いで部屋に戻る。誰にも見られてなかったよね?
「せめてちゃんと着替えて。傘持って出かけよう」
・・・
伯爵の書斎から出たナポレオンは、その足でユイの部屋へやって来た。
「ユイ、入るぞ」
返事も待たずにドアを開ける。
ベッドは
「あいつ!どこ行きやがった?……こんな雨だってのに」
ナポレオンは舌打ちをして部屋を飛び出し、廊下に出る。
「おや~?ナポ君。鬼の形相でどうしたの?」
「アーサー、ユイを見なかったか?」
「ユイ?見てないけど。いないの?」
「見つけたら教えてくれ。じゃあな」
ポカンとするアーサーを残して玄関に向かうと、今度は出先から戻ったと思われるレオナルドに出くわす。
「よおナポレオン。こんな雨の夕刻に、出かけるのか?」
「好きで出かけるんじゃねえ。その辺でユイを見なかったか?」
「あの小娘か?いいや、見てないな」
この雨では彼女の芳しい香りも消し飛んでしまう。ヴァンパイアにとっても雨は邪魔な存在だ。一番便利な嗅覚は使えない。視覚と聴覚だけを頼りに探すしかない。
「お前、だいぶ渇いてるな。食事はきちんと摂ってるのか?ジャンヌ二号は困るぞ」
「……分かってるよ。クソっ!」ジャンヌ二号とは上手い事を言う!痛いところを指摘されて毒づくナポレオン。
ジャンヌ・ダルクは必要最低限しか血を飲まない。そのせいでユイが襲われかける事態にもなった訳だ。
もはや人間としての食事では満たされなくなっていたナポレオン。血が必要だった。
ユイを探すのに、ヴァンパイアの研ぎ澄まされた感覚が必要だ。食事は必須か、そう思い直す。
仕方なく厨房へ足を向け、ルージュを摂取する事にする。
「ナポレオンさん。食事の時間はまだですが?」
「悪い。先に済ませたいんだ。一本くれ」
「一本、という事は、お食事は……」
「俺の分は必要ない。お前とユイのだけ用意してくれ」
セバスからルージュの瓶を受け取り、すぐさま飲み干す。
無言でその様子を見守るセバス。
執事というものは、常に遣える者達のあらゆる情報を持っていなくてはならない。
ナポレオンがルージュやブランをどこか避けていた事も知っている。それが今彼は、自ら要求してきた。それが何を意味するのかも。
「……ああ、全然ダメだ。もう一本もらおうか」
「お言葉ですがナポレオンさん。あまり急激に摂取なさると、気分がお悪くなりますよ」
「そうか。ならやめとくか。どうにも加減が分からねぇや」
この様子を見て、彼が完全なヴァンパイアになる覚悟を決めた事を、セバスは確信した。
「これからどちらかへ行かれるのですか?」
「ユイを探しにな」
「何と……ユイがいなくなったのですか!今さっきあなたに抱えられて帰って来たというのに?」
「大した玉だろ?」
「……言葉になりませんね」
あのユイならやりかねない、と二人の顔は言っていた。
・・・
飛び出したはいいものの、行くあてもなく途方に暮れる。呼ばれているような気がしたのは気のせいだったようで、外に出た途端に聞こえなくなった。
「さっきのは一体、何だったんだろう……」
どんより暗い重々しい雲から、止め処なく降り続ける雨を見上げる。
無意識に大きなため息をついていた。
「そうだ、あの雨どい、ちゃんと機能してるか見てこよっと」
雨の度に詰まって溢れていたあの雨どいの事をふと思い出す。ついこの間、私が叱られながらも掃除した場所だ。
裏庭に回って、屋根を見上げた。どこからも漏れていないみたい。
「よしよし!完璧!」
一人満足して頷いていると、いきなり後ろから冷たい何かに拘束された。誰かが近づいて来た気配はなかった。
「何なのっ?!」持っていた傘が手から落ちて、私は反撃の隙もなくただ固まる。
けれど耳元で聞こえてきた声に、緊張は解けた。
「心配するじゃないか!黙っていなくなりやがって。護衛、付け忘れてるぞ?」
「ナポレオンか、ビックリさせないでよ……」
すぐに裏口に連れて行かれ、濡れた髪を自分のマントで拭いてくれる。
「ちょっと気になってさ」
「何も雨ん中、見に来なくてもいいだろうが?」
「バカね、雨の中じゃないと確認できないでしょ」
「……それもそうか」
私達は顔を見合わせて笑い合う。
ナポレオンの顔に滴る雨粒を、そっと拭った。
彼に触れた手がビクッとなる。何だが肌の感じがおかしい。雨に濡れて冷えたにしては冷たすぎるし、人間の皮膚にしては硬すぎる。
「ナポレオン、何だか……いつもと違うよ?」
彼は何も言わない。
私の手をそっと自分の顔から外して、ナポレオンは顔を背けてしまう。
「サンジェルマンさんも、そんな感じだった。……あなた達、何なの?」
「風邪引くぞ、中に入ろう。……あんま、余計な事考えるな。また腕とか心臓、痛くなるから」
ナポレオンは私の手ではなく、衣服の上から腕を掴んで引っ張った。
手を握ってもらえない事が、何だかとても悲しかった。
食堂に向かうと、いつものようにセバスさんが配膳を済ませて待機していた。
「あれ?私の分だけ?ナポレオンは……」
「悪いな、腹減りすぎて先に済ませた。さあ、遠慮なく食えよ」
「…………うん」寂しい。何だかナポレオンが、私から遠ざかっている気がする。
心がざわついたまま一人で摂る食事は、いつもよりも美味しくない。
「食ったら真っ直ぐ部屋に行く事。出歩く時は俺に言う事。いいな?」
「それ、ここに来て始めに言われたよね。懐かしいなぁ……!」
「守られた試しはねえけどな」
彼の口調はいつものぶっきら棒なものだけど、どこか壁を感じる。サンジェルマンさんやここの住人達と同じ、どこか決定的な壁を……。
なぜかここの人達には、どこか強い仲間意識(そんなに仲がいいようにも見えないけど!)みたいなのを感じる。そしてそこに踏み込んではいけないと、私の中の何かが警告を発している。
一人ぼっちの味気ない食事を終えて、食器を厨房に運ぶ。
洗い物をしながら、厨房で食事を始めたセバスさんと会話する。
「ねえ?今度から、私もここであなたと一緒に食べてもいい?」
「ここでですか?私は別に構いませんが、伯爵が何というか……」
「伯爵の事はどうでもいいじゃない。私がしたいって言ってるんだから」
「しかし、ナポレオンさんは?」
「……私、あの人に嫌われたのかも。いっつも言う事無視して、困らせてるからかなぁ」
「なぜそう思うのです?」
「手、繋いでくれないの……あっ!別に変な意味じゃなくてね?それに、食事も一緒にしたくないみたいだし。要は、避けられてるのよ!」
段々語気が強まって、手元が荒くなる。バシャンと水が撥ねて顔にかかった。
そこで手を止める。
「思い違いかもしれませんよ?本人に確認したのですか?」
「確認なんてできるワケないじゃない!あなたはできる?私の事嫌いになったから避けてるんですか~って聞けって言うの?」
「ユイは、ナポレオンさんの事が好きなのですね」
改まって第三者に言われて気がついた。私はナポレオンが好きなのかも、と。
「そうかもしれない。でも変なの。こんな事は初めてで……」
「変、とは?」
私ったらどうかしてる!異性に恋愛相談なんて?
それに気づいて黙り込んでいると、セバスさんが口を開いた。
「言いたくなければ結構です。ですが、こんな私でも、話を聞く事くらいはできますよ。話す事で少しでも楽になるのなら、お役に立ちたいです」
「セバスさん……。ありがとうございます」
私はこの完璧な執事に向かって、心からのお礼を伝えた。本当に彼は、私の母親のようだ。ここへ来た時から思っていた。とても不思議な存在だと。
「ここの方達は本当に皆ステキで、ミステリアスで魅力的で、目のやり場に困るんだけど……」
「私もそう思います」
こう同意されて、思わず笑みが零れてしまう。
「中でも、サンジェルマンさんには、どういう訳か体が反応してしまって……ゴメンなさい、こんな話を……」
「いいえ。どうぞ続けて下さい」
「あの人に触れられただけでおかしくなりそうなの。どこか懐かしくて……。でもそれが恋愛感情とは思えなくて」
セバスさんが真剣な表情で聞いてくれる。
「でもナポレオンの事は、心が求めてるっていうか……彼といると楽しいし、何でも話せて楽で。かけ替えのない存在なの」
「一度に複数の人に惹かれる事は、珍しくないと思いますよ。運命の相手は一人なのかもしれませんが……。人は人生の中でいろいろな人と関わる。その中で興味を引かれる相手に出会う事は、有意義な事だと私は思います」
一期一会。この言葉が浮かんだ。セバスさんの言葉はとても説得力がある。きっとこの人自身が、良い出会いをたくさんしているのだろう。
「私の個人的な予想ですが、あなたは今も、一人の方を想い続けているのではないでしょうか」
「一人の人?」
「ええ。伯爵はきっと、その方に良く似ているのでしょう。体は記憶を失っていないんですよ」
「体が覚えてるって言うの?」
「……ああ、済みません。始めに断ったように、私の勝手な予想です。私は専門家でも何でもありませんので。ご容赦くださいね」
「いいの。ありがとう、参考になったわ」
恐縮です、とセバスさんがはにかんだ。