寒さを感じて目を覚ました。
薄暗い部屋で、手足を紐で縛られて転がされている自分に気づく。
「っ!ご丁寧にきっちり結んでくれたわね。さすがイギリス人、やる事が細かい!」
胸元で両手を纏められ結ばれた紐を見下ろして毒づく。後ろ手にされなくて幸いだ。
口元まで手を持ってきて噛み切ろうとしたけれど、さすがに無理みたい。
「ここ、どこかしら……」
肘を使って移動して抜け道を探すも、室内に隙間さえ見当たらず。とにかく薄暗くて埃っぽい。
全く!この私をこんな雑に放置だなんて?腹が立ってきた!
私は怒りに任せて足で何度もドアを蹴ってやった。
「おい!やかましいぞ、静かにしろ!」
「もう目が覚めたのか?やけに早いじゃないか」
二人の男の声がした後、ドアが開いて光が差し込み、私の目を貫いた。「眩し……!」
シルエットが私に近づいて来て、目の前でしゃがみ込んだ。
「さすがはあの男の恋人。じゃじゃ馬だな!」
「恋人?誰のよ!」
「ナポレオン・ボナパルドだよ。俺達は気づいたのさ。あいつは正真正銘のかつてのフランス皇帝、ナポレオンだってな」
「何言ってるの?そんな訳ないじゃない……」待って、そういうお芝居だったっけ。
混乱しつつも、ナポレオンが本物かもしれないと思い始める自分もどこかにいる。
「あの男は、俺達の曽祖父が流刑にした。どんな死に様だったかは知らないが、まだ生きているなんて事はあり得ない!」
この言葉でこの人達がウェリントンの子孫だと判明した。
「しかも若返っていると来た!どう考えても化けモンだろ?」
「だからそれは……」
私と同じようにタイムスリップしたのかもよ?……とは言えない。
ここは逆に、話に乗ってみる事にしよう。
「バケモノだったらどうなのよ」
「バケモノはこの世に存在してはならない。即刻退治しないとな!」国を治める者としては、と続ける。どうやら官僚をしているのは本当らしい。
「ここ、あなた達の国じゃないでしょ」
「どこからどう波及するか分からんだろう!」
「敗者のヤツがこの時代に甦り、さも幸せそうな顔で笑ってる。我々にとったら血を煮えたぎらせる事態なんだよ」
「戦った後の人生をどう生きようと勝手でしょ」
「黙れ!命が惜しければ、大人しくしていろと言ったはずだ」
「何せじゃじゃ馬ですから?分かってて攫ったんじゃなかったの」
「黙れと言ってるんだ!」
頬を平手打ちされる。
「……痛い、じゃない!」負けずに向き直って睨みつける。
勝手な言いがかりもいいところだ。ナポレオンが可哀想!だってあの人、そんなに幸せそうじゃないもの。私はなぜかそう思った。
どうしてか分からないけれど、彼はいつもどこか悲しげに見える。
「それで。あのリンゴはどういう意味?」
「我らが紋章入りのあの短剣を見れば、闘志が湧くのではと思ってな」
「ああ!腑抜けになり果てたかつての英雄ナポレオンに、少しでもあの頃を思い出してもらわんとね」そう答え、視線を交わして頷き合う。
「彼を再び戦場に誘き寄せようって言うの?あなた達は軍人じゃないでしょ!」
「これは名誉奪還のための戦いだ。お前というエサをチラつかせれば、イチコロだろう?」
「意味分かんない!ふざけ、ないでよ!」私は男に頭突きを食らわせた。
「お役人がこんな事して、いいと思ってるの!」
男はよろめき、もう一人にぶつかる。その拍子に、ポケットから落ちたナイフが床に転がる。
いただき!急いで拾って、手首に巻きついている紐に当てがうけれど、起き上がった男が私に馬乗りになって邪魔をする。
「重い……っ!どいてよ」
「クソ!女、いい加減にしろよ?」
ついに私の手からナイフが奪われた。
「別にお前の命なんぞどうでもいいんだ。どうせなら、ヤツの絶望した顔でも拝むか!」
「きゃっ!」
私に向かってナイフの刃先が振り下ろされた。
体の向きを変えて避けたものの、その先端は私の右腕を掠める。
「くっ!」これは芝居なんかじゃない。男の目は本気だ。殺される……!
その時、建物が揺れた気がした。男達も手を止める。
「そこまでだ。そいつから離れろ!」
「ナ、ポ、レオン……?」
「ユイ。もう大丈夫だ……ケガしたのか」
私の腕から滴る血を目にして、一瞬ナポレオンの表情が歪んだ。
「出たな、化け物め!退治してくれる」
ナポレオンは男達の言葉を無視し、すぐさま私の元にひざまづくと、手足の紐を容易に素手で千切った。……凄い力だ。相当強度のある紐のはずなのに?
そしてポケットから出した布で腕を縛ってくれる。
「血が出てる、押さえてろ。外へ出るぞ。立てるか?」
「うん、ありがと」
ナポレオンの手を取って立ち上がる。彼の手はとても冷たい。かけてくれる言葉はこんなに温かいのに。
私達が外へ出ると、男達も追って来た。
「離れてろ」
私が頷いたのを見届けてから、男達を前にナポレオンが剣を抜いた。
「そんなに俺と戦いたいなら、相手してやる。この女を巻き込むまでもない。関係のない人間を……!この落とし前、つけてくれるんだろうな?」
「お前は一体何者だ?悪魔にでも魂を売り渡したか!負けて悔しかったんだろう?」
「ふっ!笑わせるな。そんな事をする程落ちぶれちゃいない。負けは負けだ。別にお前らのひい爺さんを恨んじゃいないさ」
「ウソだな。そんな事信じられるか!」
「ウソじゃない。張本人の言葉でも信じられないのか?」
薄笑いを浮かべて答えるナポレオンからは、生気が感じられない。本当に人間じゃない……?ふいにそんな不安に襲われる。もはやこれが、本当に現実の出来事なのか分からなくなってきた。
お芝居にしては力が入りすぎだし、現実にしてはあまりにメチャクチャだ。
きっとこれは夢だ。おかしな夢を見るのは日常茶飯事だったもの!
「ウェリントン公爵は立派な軍人だった。敵でなければ、いい同志になれたかもな」
「心にもない事を!」
「何とでも言え。確かに無念だとは思うが、どの道俺にあの先の未来などなかった。潮時ってヤツさ。戦いでどちらかが負けるのは定め。あいつの力が
「ならばなぜ、我々はいつまでもお前の亡霊に悩まされる?いつまでも付き纏う!」
「は?」
目の前の会話にひたすら聞き入る。こんな演劇があったら間違いなく大ヒットだ。もはやただの一観客に成り下がる私。
「俺達にはいつだって、あの偉大な英雄ナポレオンを倒した、という枕詞が付く。お前のお陰で、ウチの家系は政界に身を置いているようなもの」
「そりゃ良かったじゃねぇか。なら、恨まれる筋合いはねえよな?」
全くその通りだ。
「そうだ。偉大なナポレオン様に感謝しないとな!それで?この世にまた舞い戻って、どんな魂胆がある?才能もないのに、お前の恩恵でこの職に就けている俺達を笑いに来たか!」
「は?そんな事俺が知るかよ。言っておくが、俺は好きでこうしている訳じゃない。自分でもなぜここにいるのか……分からないんだ。別に、お前達に付き纏ってるつもりはない」
「勝手な事を……バケモノめ!」
憎しみのこもった二つの視線が、ナポレオンに浴びせられ続ける。
「何であれ、お前のような存在を放っておく訳には行かない!」
「ああそうかよ。一体誰に何を吹き込まれたか知らねえが、俺はもう、人殺しはしないって決めたんだ」
ナポレオンは構えていた剣を降ろしてしまった。
ウソ、戦闘放棄?!「ダメよ、ナポレオン!剣を構えて!」
敵は二人。どちらも剣を手にしている。まさか死ぬつもり?例えこれが現実じゃなくても、ナポレオンを見殺しになんてできない。しかもこんな変な言いがかりを付けられて?
こうなったら私が……!
彼の元へ駆け寄ろうとしたその時、背後から突然声が降って来た。
「そこまでだ」
振り返ると、そこにはサンジェルマンさんが険しい表情で立っていた。
「……サンジェルマンさん?何でここへ」
心臓が止まるくらい驚いた。全く気配がなかった。一体、いつからいたのか。
「ユイ、ケガをしたんだね。……大丈夫かい?」
サンジェルマンさんは、心配そうに布が巻かれた私の右腕を見下ろす。
「大丈夫です、ナイフがちょっと掠めただけですから」
そう答えて、巻かれた布に滲んだ血をもう一方の手で覆い隠した。
「……その割には出血が、多いようだ」
そう呟いたサンジェルマンさんの表情にいつもの穏やかさはない。
私の肩にそっと手を置くと、逸る私をその場に押し止める。
「君はここにいなさい。いいね?」高みの見物に来た訳じゃないんだ、と後方にチラリと目をやって続ける。
そこにはシェイクスピアさんの姿もあった。
「ナポレオン。この落とし前は、私が代わりにつけてもいいかな?」
「伯爵が?何でだよ」
腑に落ちない様子のナポレオンに、サンジェルマンさんが続ける。
「やはり、君の手を煩わせる訳には行かない。少しは冷静さを取り戻したつもりだったんだが……」そう呟いてもう一度私の方を見る。
「大事な預かりものに傷を付けるとは……全くどうしようもない人間達だね」
そして伯爵は後ろを振り返り、シェイクスピアさんの方に束の間視線を走らせた後、男達に向けて言い放った。
「秘密を守るのは
私は突然の展開にただただ呆然。
我々の、存在?まさか本当にモンスターとか?それに、消えてもらうしかないって言った?!それってどういう意味?
「出ましたね!これですよ、私が言っていたのは!これが本来のサンジェルマン伯爵です」
シェイクスピアさんの熱を帯びたこんな声が聞こえた。
目の前のサンジェルマンさんは、別人のように殺気を全面に放出している。
「……まさか、あの人が殺しを?ウソでしょ!」
「お前は見るな」
いつの間にかナポレオンが私の隣りにいて、視界を遮られた。
「ちょっと!邪魔しないで、どいてよ!」いいとこなのに!
けれどナポレオンはビクともしなくて、肝心のシーンは見そびれてしまった。
「ユイ。私の友人が、迷惑をかけてしまったみたいだね」
サンジェルマンさんが、ゆっくりと私の方に歩いて来る。
伯爵が目の前まで来ると、私を庇うように前に立っていたナポレオンが横に移動した。
「私は別に平気ですから……。お気になさらず」
「ケガは本当に平気かい?」
「ええ、もうさすがに血も止まったと思うので……」
傷を確認しようと巻いた布を取ろうとするも、サンジェルマンさんに制止される。
顔を上げると、何かに耐えてでもいるような表情のサンジェルマンさんがいた。
ナポレオンとシェイクスピアさんも、似たような顔をして固まっている。
「あの……皆さん、大丈夫ですよ?そんなに痛くないですから!」
辛そうにする三人に向かって、そう訴える。
「……ああ、それであっても、外してはダメだよ、ばい菌が入ったら大変だからね。さあウィル。君からも、きちんとお詫びしてくれるかい?」
サンジェルマンさんはどこか忙しなく答えた。
この伯爵の言葉に、シェイクスピアさんは元の表情に戻ると、肩を竦めながら私に近づいた。
「ユイさん。楽しんでいただけましたか?」
「ウィル!」
聞いた事もないようなサンジェルマンさんの鋭い声が、夕暮れの空き地にこだまする。
今日の伯爵は、何だか様子がいつもと違う。
「失礼。腕の傷は大丈夫ですか?右の頬も、少し赤いようです……。あなたに危害を加えるつもりはなかったのですよ、申し訳なかったですね。お許しください」
いいえ、と応じつつも、こんな言葉はウソだと見抜く。
だってあいつらは、本気で私を殺そうとしていた。ナポレオンが来なかったら、確実に刺されていた。箇所によっては致命傷となるはずだ。
本当にシェイクスピアさんが全てを操っていたの?
朗らかに微笑みながらこんな事をするなんて、恐ろしい人……。どうしてサンジェルマンさんはこんな人と友達なのだろう。
「ウィル、ナポレオンにもだ」
「もういいよ。口先だけの謝罪なんていらねぇし!」
ナポレオンも気づいたみたい。右に同じ!まあ、私の場合は、大してダメージにもなっていないけど?むしろ刺激を与えられて嬉しかったりして。
「ウィル。いいか?今度また我々の秘密を暴かせるような真似をしてみろ。次は君に制裁を加えねばならん。これは脅しじゃないよ」
この気迫の籠もったセリフに、さすがのシェイクスピアさんも真剣な表情になった。
「重々、心得ておきましょう」
今日のサンジェルマンさんはやっぱり怖い。この人だけじゃない。ここにいるナポレオンも何だか別人みたいだ。
彼等を見ていたら、急に寒気がした。それはホラー映画を観ている時に背筋がぞくっとする類いの、あの寒気だ。
体を震わせている私にすぐにサンジェルマンさんが気づいたらしく、自分のコートを脱いで羽織らせてくれた。
「さあ、帰ろうか」
「ねえ?秘密って?」
私の背に手を当ててエスコートしてくれるサンジェルマンさんに、思い切って尋ねた。
けれど、私と視線を合わせる事もなく、答えてもくれない。
「ねえ。ナポレオン!シェイクスピアさん!どういう事?あなた方、本当に人間じゃないなんて事……ないよね?」段々声が小さくなる。
「ユイ。頭が混乱しているようだね。もう大丈夫だから。少し休むといい」
サンジェルマンさんにフワリと抱き上げられ、目を覗き込まれた。
いつも以上にゴールドの瞳は輝いている。感じた事のない怪しい光を放って……。
何だか胸がザワつく。私を抱き上げている伯爵の腕は凍るように冷たい。衣服の上からでもジンジン伝わってくる程に。ゾッとして、底知れぬ恐怖のようなものを感じる。
「っ……イヤ、降ろして!寒い…………」
「ああ、困った。私の腕では凍えさせてしまいそうだ。ナポレオン……も、無理か」
ナポレオンも無理?何を言っているんだろう。
「悪かったな。ここへどうやって来たんだ?馬か何かないのかよ」
「急いでいましたので……」シェイクスピアさんも会話に加わる。
「使えねぇ~なぁ!」
伯爵がナポレオンに視線を向ける。「そういう君は何で来たんだい?」
「俺か?……急いでたからな」
「人の事言えないじゃありませんか!」突っ込んだのはシェイクスピアさんだった。
三人はああでもない、こうでもないと言い合いを続けている。私の意識は朦朧としていて、もはや夢でも見ているような感覚だった。
・・・
自分の腕の中で、次第に唇を紫色に変えて行くユイを見下ろしつつ思う。これは誤算だった。食事を済ませてくれば良かったと。
「目の前に二人もいたのに!戴いてしまえば良かったんですよ」
「……いい加減にしないか、ウィル。安易にそれが出来ない事くらい、分かるだろう?」
一番お手軽な方法ではあったがね。だがそんな事をすれば、血液を吸い取られた謎の死体発見!とかいうニュースになってしまうじゃないか?
そうならないようわざわざ、死体に細工を施して(あの短時間でだよ)兄弟心中に見せかけてきたというのに!怒りのあまり引き千切って肉片の塊にするのを抑えて、綺麗に体を残してやるのには苦労したんだ。
「とにかく、俺のマントも使え」ナポレオンが自分のを脱いで差し出してくる。
「それじゃ、私のも使ってください」続けてウィルも上着を脱いだ。
「二人ともありがとう。早々に邸に戻ろう」
二人から借りた衣類でユイを包み、再び抱き上げた。
「ウィル、君も一緒に来てくれるよね?」
「ええ、もちろんですよ。ユイさんの事も心配ですしね」
「心にもない事を!」ナポレオンは透かさず罵った。
こうして大急ぎで帰途に就いた。馬車よりも我々の足の方が遥かに早い。
あっという間に門の前に辿り着く。そこで右往左往している者が一名。
「伯爵!ナポレオン、ウィルも!ユイは?無事だったの!」
「フィンセント。待っていてくれたんだね」
「本当にごめん……。僕何も知らなくてユイを街に連れ出しちゃったんだ。僕のせいだ」
酷く動揺した様子の彼が憐れだ。チラリとウィルを見た。
「フィンセント。あなたが連れ出さなくても、彼女は飛び出していましたよ」
「珍しく意見が合うな、シェイクスピア!」
「君達。決め付けるのは良くないよ?」
「とか何とか言って、伯爵だってそう思うだろ?」
……残念だが、否定はできない。
「とにかく……すぐに彼女を部屋へ。傷の手当を優先して。もし必要ならサヴリー先生に連絡を入れる。フィンセント、セバスにそう伝えてくれ。あと、ユイの部屋は十分に温めるようにね」
矢継ぎ早に伝えた私の言葉に大きく頷いた後、フィンセントの姿は一瞬で消えた。
「おいおい!そういう動きは、ユイの前ではいけないよ?」
「今は緊急事態なんだからいいだろ。勘弁してやれよ」
どんな時でも人間らしく振る舞う。これは人間と共存するために不可欠な事だ。
住人達には邸内であっても極力そうするようにしてもらっている。そうでないと、いざという時にボロが出てしまうからね。
彼女を寝かせて、談話室に移動して一息つく。
「ユイに、我々の正体を打ち明けるのですか?」
「ああ……そうするしかないだろうね」
ユイは明らかに我々を疑っている。疑惑の芽は、放っておけば大きくなるだけだ。
「この事を話せば、例の記憶も戻るかもな」何の感情も示さず、ナポレオンが口にする。
「例の記憶とは?」
ウィルはユイの細かな事情を知らない。話したら最後、間違いなくネタにされる事だろう。
だが、時にこの男は良いアイディアを提供してくれる。思いもしない突拍子もない案を!そんな事を期待して、彼女の事を打ち明けてみた。
今回の事があったのに、まだ彼を友人として受け入れているのは変だって?それはこの男に悪気が全くない事を、知っているからだ。
彼はね、純粋に悲劇の舞台を愛しているだけなんだよ、心から、見境もなく……。
「なるほど……。これはまた、どこまでも興味の尽きない方ですね、ユイさんは!」
「君はまさか、この時代のシンドウを探し出して葬れなんて、物騒な事は言わないよね?」
二人が凍りついたのが分かった。
そうだよ、普通はこういう反応をするんだ。分かったかい?レオナルド!私は間違ってないよ。
「……冗談だよ。それで、君はどう思う?」
「失礼。あまりに驚いてしまって……。そうですね、私ならば、やはりその方の元へ帰しますね」
「そいつが悪人だったらどうするんだ」ナポレオンが透かさず突っ込む。
「善人だろうと悪人だろうと、彼女のお相手なのであれば、帰すのみですよ」
「彼女が苦しむ結果になったとしても、かい?」
「そうとは限らない」
「仮に、の話だよ」
そんな悲劇も見てみたい、とでも答えると思ったが、ウィルは意外な事を言った。
「そもそも人間は、我々と共に暮らして幸せにはなれません。人間である以上は……」
「……俺達は、生きる世界が違いすぎる、という事だな」
ナポレオンの言葉にウィルがゆっくり頷いた。
ここに留まるにせよ、シンドウの元に戻るにせよ、ユイは幸せにはなれないという事か?
「つまり君は、仲間に引き入れない限り、彼女に幸せは訪れないといいたいのかい?」
「率直に言えば」
「もしくは、俺達と全く関係のない世界で、普通の人間として暮らすんだ」
ナポレオンの意見が正当なのは分かっているが……。
彼女の体には、幾つものヴァンパイアの痕跡がある。その上、私の与えてしまった消す事のできない厄介な感覚も……。「恐らくそれは、すでに無理だ」
「幸せは、自分で探すものだよ。ユイが自分でね」自分に言い聞かせるように、こう口にしてみる。
きっと彼女もこう言うだろうと思ったから……。