息苦しさが少しずつ和らいできた。何が起きたんだろう?
目を開くのが怖くて、まだ瞼はきつく閉じたままだ。
「ユイ、君のお待ち兼ねの人が来ているんだよ。早く目を覚ましてくれ。……と言っても、若干別人なんだけどね」
枕元でサンジェルマンさんの声が聞こえる。
お待ち兼ねの人って誰の事?私の好きな人は、もうここにいるよ?ナポレオンはここに。
誰かがゆっくりと私に近づいて来る。何となく視線を感じるだけで、何も起こらない。
甘いムスクのような落ち着く香りがする……。
しばらくして、どこかで聞いたような声が降って来た。
「点滴を入れ直そう。血管が硬くなって来ている。これでは痛いと思う」
その声は、私の思っていた事をズバリ言ってくれた。
嬉しくて思わず答えてしまった。「うん……痛いの。もうやめて……」
「一旦外すよ。じっとして」
針が抜けた開放感から、ベッドの上で寝返りを打とうと体を動かしたけれど、その誰かに押さえつけられた。その手はそれ程冷たくはない。
好きにさせて……体も痛いの、どこもかしこも!「ああん……やだったらっ、離して!」
暴れる私を何かが強く押さえ、次に聞こえたのは日本語だった。
「言う事を聞け!もっと痛くするぞ?」
私は目を開けた。
とても懐かしくて、叱られたというのにとても心地いい。その声の主が誰なのか、どうしてもこの目で見たかった。
「……新堂、先生?」
「ユイ、記憶が戻ったんだね。彼の事が分かるのかい?」
私はサンジェルマンさんの質問そっち退けで、先生に釘付けになる。
「新堂先生!……来てくれたのね。ああ、会いたかった!先生……」
堪らず先生に腕を伸ばして抱きつく。
彼の体が硬直したのがすぐに分かった。
これも懐かしいなぁ。出会った頃は良くこうやって石みたいに固まって……待ってよ?今はもう、そんな事はなくなったはず。久しぶりに会ったからかな。
「ユイ!離れるんだ、今すぐに!新堂!」サンジェルマンさんが切羽詰った声で叫んだ。
先生の瞳が不自然に光った事に二人も気づいたようだ。こうなる時は大抵良くない展開になる。
それが分かっていても離れたくない!「新堂先生……」
呼びかけに答える事もなく、先生の唇は私の喉元へと寄せられて行く。
「ねえ先生、どう、したの……?」
ひんやりした吐息を首筋にかけられて、ゾクッとする。
「新堂!しっかりするんだ!彼女は獲物じゃない、君の患者だぞ?」
サンジェルマンさんが警告を続けるも、先生は動きを止めない。
いつの間に部屋にいたのか、ナポレオンが後ろから先生を羽交い絞めにした。
「おいっ、ホントに大丈夫かよ?こいつっ!クソ、何て力だ」
「ナポレオン、止めてくれてありがとう。……ここは、新堂の理性に賭けるしかない」
「はっ!賭け事かよ?何て無責任な!」
私を怪しく煌く漆黒の瞳で見つめ続けていた先生が、ふと姿を消した。
その拍子に彼に腕を回していたナポレオンの両手が、対象物を失って空を切る。
……今の、何だったの?私は夢を見ていたのか。まだ心臓がドキドキしている。またあの嫌な動悸が始まったみたいで気分が悪い。
「……新堂先生?どこ?サンジェルマンさん、彼はどこに行ったの!」
「いろいろと事情があってね。とにかくユイ、今みたいな急な動きをしてはダメだよ」
「おい、本当にシンドウはどこ行ったんだ?」
「私にも見えなかった。新生者のスピードは脅威だね!」
「感心してる場合かよ!やる事はちゃんとやったんだろうな?」
「ああ。ユイが処置の最中に抱きつかなくて良かったよ……。ここを頼む、彼を探して来る」
サンジェルマンさんが部屋から出て行った後、私はナポレオンを側に呼び寄せる。
「ナポレオン。もっと近くに来てよ、いつもみたいに」
「あ?……何だよ、いつもって。お前、今まで意識なかったろうが」
「知ってるよ。ずっと側にいてくれた事。凄く嬉しかったんだから。……ありがとね」
「だが、お前のお相手が現れたんだ。記憶も戻って、めでたしめでたし!邪魔者は退散するよ」
ナポレオンは一人でペラペラとしゃべった挙句に出て行こうとする。
「待ってったら!……お願い、行かないで」
「欲張りなヤツだな。どっちも、は、許されないんだぞ?」
「分かってるよ……でも、こっちへ来てからずっと私の心の支えになってくれてたのは、ナポレオンなんだもん」
ようやくナポレオンが私の枕元に腰を降ろしてくれた。
「あいつが戻ったら、俺は行くからな?」
「……うん。でも先生、何だかおかしかった」
「そりゃそうだ。伯爵が最初に言ったろ?若干別人だって」
そういえばそんな事を言っていたような……。「どういう意味なの?」
「あいつは、この時代のシンドウなんだ。まだユイと出会ってない頃の、ヴァンパイアになりたてのな」
「二十一世紀から、連れて来たんじゃなかったの!」
同じ場所に同じ人物が二人存在する事はあり得ないと、ナポレオンが教えてくれた。
「苦肉の策だった。あいつが元から医者やってて良かったって話だ」
こう最後に締めくくる。
新堂先生が人間の頃からお医者さんだった事は聞いていた。あまり優秀じゃなかったとも。それが事実か謙遜かは分からないけど、こうして助けてもらったのは事実。
「そっか……。だから私が急に近づいたら、逃げたのね」私を傷つけないために。
何も知らなかったとはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「出会った頃も、彼は私の血の香りに苦戦してた。
「ヴァンパイアなら誰もがそうさ。お前はそれくらい魅力的なんだ」
真面目な顔でこんな事を言われると、告白されているみたいじゃない?
「だ、だから!誰でも、って言ったからな?」
私が思ってた事、読んだの?新堂先生じゃあるまいし!「別に何も言ってないよ?」
「お前の顔に書いてあんだよ、分かりやすい女!」
「相変わらず失礼ね!」
久々にナポレオンと言い合いした。少し前まではこんな気力すらなかった。すぐに疲れてぐったりするんだもん。でも今は違う。まだぼんやりするけど、何だか楽しい。
新堂先生に会えて、不安が消えたのかな。大いに問題はあるけれど……。
・・・
一通り二階を見て回り、階下を探す。
「お~い、新堂?どこだい!誰も君を責めたりしないよ。出て来てくれないか」
「ダメだ、無理だ!満たされた状態のはずなのに……あれ程の血の魅力には耐えられそうもない……。やっぱりもう帰らせてもらう」
声だけがホールに響いた。姿が見当たらない。
「まあ待ちなさい。まだ結論を出すのは早いんじゃないかな?君はちゃんと耐えたじゃないか。私達だって最初はとても戸惑ったんだよ。実際彼女は、恐ろしく魅力を放っているんだからね……」
ユイがあの扉の前で倒れていた日の事を思い出す。
私なんて息を止めて彼女に近づいたんだから!おっと。この心の声は丸聞こえなんだったね……お恥かしい限りだ。
新堂がようやく姿を現した。
彼を見て改めて思う。人間的にもまだ若そうだ。戸惑っても仕方がないよ……。もうすでに君に情が湧いてしまったようだ。この性格、何とかしなければなぁ。
こうやってここの住人が増えるのだから?
「私の書斎へ行こうか」
「申し訳ない」
彼を連れて部屋へと移動して一息つくと、新堂が話し始めた。
「やっぱりあの女の考えが何も見えない!こんな事は初めてだ」
そういえば以前、ユイは切り裂きジャックの攻撃をシールドしたと、ナポレオンが言っていたな。
「何か、知っているのか?」
「前にも、能力者のヴァンパイアの力が通用しなかった事がある。理由は分からない」
「一体何なんだ?あの人間は!」
何か特別な存在なのかな。もちろん君にとってはそうだろうが。我々ヴァンパイアにとっても?
私の考えを読んだのか、新堂は押し黙った。
「きっと本人にも分からないんだろうけどね」あまり混乱させたくない。どうか騒がないでくれと、心で要求を出した。
それに同意してくれたのか、新堂が別の話題を持ち出した。
「しかし、あんな薬剤が開発されるのか。未来は明るいな。あの病は致死率五十パーセント。半数が死ぬ計算だ。それを知れただけでも、来て良かったよ」
「君はとても使命感が強いんだね。それに、好きだよ、そういう向上心溢れる姿勢は!」
控え目な彼はもちろん否定した。
真摯に医療に取り組む姿勢は、とても素敵だよ?また否定されると困るので、心の中だけで言っておいた。こういう時になかなか役に立つね、心を読んでもらえるのは!
「そもそも、この病の原因を特定されるケースも稀だそうだね」これは未来の新堂から得た情報だ。
「見落とすさ。人間の医者ならば間違いなくな」
「ヴァンパイアの医者は遥かに優秀という訳だ」
「そういうつもりで言ったんじゃない、特に俺は」
彼はいつもどこか自虐的だ。いけないよ、自分を悪く言ってはね。
「もっと自分に自信を持ってみたらどうだい」
「その根拠がない」
「あるさ。人間の頃はどうあれ、今君はヴァンパイアだ。超越した感覚神経を持っている。何でも見えるし、聞こえるだろう?」
それに手先だって器用だ。その上、相手の考えも分かると来れば?無敵じゃないか!
未来の新堂が言っていた。昔の自分は役に立つか分からないと。こういう事か……。
未来で会った新堂という男は威圧的で恐ろしい印象だったが、この時代の君に会えて良かった。
お陰でとても好感を持てたからね。
「全て聞こえているんだろ?」
「……未来の自分が恐ろしいよ」新堂は頭を抱えた。
「大丈夫。ユイが惚れるくらいだからね」
「あの女か……。まだ子供に見える。どう見てもタイプじゃない」
「彼女は立派に成人だよ。日本人は童顔なんだ」
「そんな事は言われなくても知っているがね」
「これは失礼!だけど、可愛くて堪らないよね、ユイは……!」
もはや心の声なのか、口にしているのか分からなくなる。どっちでも一緒だけどね、君の前では!
君がいらないなら、私がユイをもらってしまうよ?
ここまで考えた時、新堂が咳払いをした。これは拒絶と取るべきかな?
「あの威勢のいい青年はどういう?」
「ああ、ナポレオンか。とても親身になってくれていてね。彼女も信頼しているようだ」
「ナポレオン?また大層な名前だな!年も近いし、あいつとならお似合いじゃないか」
あえて彼が本物のナポレオン皇帝だとは告げなかった。面倒な話は抜きにしよう。
「それは私とよりも、という事かな?」
新堂は笑って、ああそうだとあっさり答えた。
ストレートだね、君も!かくいう自分でもそう思うけれどね。所詮は叶わぬ恋だよ。
「そんな事を言っていると、本当にナポレオンに取られてしまうよ?」
未来の君が激高する姿が思い浮かぶようだ!目の前の彼は何ら気にも留めていないようだが。
ユイの恋の行方は今後、どうなる事やら……。私は側でそっと見守る事としよう。