新堂が邸に来て一週間が過ぎた。
未だにユイの香りに慣れず苦戦する新堂に、伯爵はある提案をする。
「街に出て、不特定多数の人間と接触してみてはどうだろう」
「街には夜出てる」
「夜じゃなくて。人間達が多く活動している時間にさ。君にはきっと、免疫が足りないんだと思うんだ」
「免疫とは!上手い事を言うね、伯爵」
一理あると思ったのか、新堂は意を決して日中の人混みにチャレンジする事にする。
お供はジャンヌだ。新堂自らが指名した。
「なぜ俺を?」
「一番、容赦なさそうだから。いざとなったら本気でやるだろ、君なら!」基本、自分を信用していないからと新堂が続ける。
「なるほど。間違ってはいないな」満足気にジャンヌが笑った。
「そうは言っても、俺だってそんなに人間慣れしてる訳じゃない。その必要性もさほど感じられんしな。災難だったな、医者なんかしてたばっかりに巻き込まれて!」
「そうだな」
あんな小娘など見捨ててここを去る事もできるのだが、新堂はそうしなかった。
彼女に好意を持っている訳ではない。ただ、彼女は将来自分にとって大切な存在になるという。どうにも信じがたい事だが、知ってしまった以上は無視できない。
「さて。一番人で溢れ返っている場所は……市場だろうか」思案の後にジャンヌが言う。
「行こう、案内を頼む」
二人が玄関口に差しかかった時、セバスが呼び止めた。
「ジャンヌさん達、市場へ行かれるのですか?」
振り返る二人にセバスは淡々と要求する。
「でしたら、ついでに買って来ていただきたい物が……こちらにリストアップしてあります。お願いできますか?」
「人遣いが荒いな、いつもながら!」苦笑したジャンヌが突っ込み、負けじとセバスが返す。
「何しろ、ユイが使い物にならないものですから」
こう言った後に新堂のポーカーフェイスを目にして、慌てて言い直す。
「あ!申し訳ありません、新堂先生の大切な方を無下に……」
「別に何も思ってない。分かった、買って来よう。世話になっている身だ、それくらいさせてくれ」
新堂は怒りの片鱗も見せず、セバスは少々面食らう。本当に彼女に何の感情もないのだと。
「助かります。ではお願いします」セバスは新堂にメモを渡した。
邸を出て、人間のスピードで歩みを進める二人。
「しかし!人間を雇うだなんて、あの伯爵とやらは何を考えているんだ?」
「知らん。もう慣れた。それにあいつは人間らしくないしな!肝が据わり過ぎている」
「確かに。心音と血の香りがなければ、ヴァンパイアで通用するな」
「まあそのうち、伯爵が転生させるんだろう」
こんな会話をしつつ目的地に到着する。予想通りそこは買い物客でごった返していた。
「大丈夫か?」
「ああ。思いのほか楽だ。こんなに大勢いるというのに!」
「あの小娘一人の方が辛いと言うのか?」
「おかしな話だが、そうらしい」
顔を見合わせて固まる二人。
その空間だけ時間が止まったようになる。それは彼等が微動だにしなかったから。
「おっといけない、そんなふうに静止するな。怪しまれる」ジャンヌが気づいて指摘しながら、自ら体を動かした。
「勉強になるよ」
「俺もしょっちゅう怒られる。何十年経っても慣れん!」
「こんな俺達二人での外出は、不味かったんじゃないか?」
「かもな」
今度は顔を見合わせて笑う二人。案外気が合うようだ。
滞りなく買い物も済ませ、邸に戻ると玄関先でナポレオンに出くわした。
「ん?ジャンヌ、出かけてたのか……新堂と」
「頼まれてな」新堂が持った紙袋に目をやって、ジャンヌが答える。
「ったく!セバスのヤツ、客人にまで手伝いをさせてるのか。全くどういう神経してんだか!」
「俺から申し出たんだ、気にしないでくれ」コメントしたのは新堂だった。「それで、彼女の様子は?」と続ける。
「ああ。変わりない」
そう答えたナポレオンだが、表情はあまり明るくない。
「これは俺がセバスの所に持って行く。お前はユイの所に行け」
「ああ、悪いな」
ジャンヌに紙袋を預けると、新堂はナポレオンに目を向ける。
「……なんだよ。俺の心読んでも、何もないぜ?」
「いや……そういうつもりじゃない」
「俺の事はいいから、早く行ってやれよ」
「ああ」
失礼、と一言断ると、新堂はナポレオンの前を通り過ぎた。
その後ろ姿を今度はナポレオンが見つめる。「あ~あ!どうも意識しちまうなぁ」
新堂はユイの部屋の前で立ち止まり、必要のない息を整えてからノックする。
「新堂だ、入るぞ」
「どうぞ」
ドアを開くと、ベッドに上体を起こしたユイが顔をこちらに向けている。
「具合は?」
「大丈夫です。あの、先生?無理、しないでくださいね……」
「それはこちらのセリフだと思うが?」
「ああ、それもそうですよね。ふふふ……!」
ユイが笑った。一瞬、新堂はその笑顔に見惚れてしまう。やっぱり彼女が考えている事は読めない。それもあって動きが止まる。
「先生に出会った頃、良くそうやって彫刻になってたの、思い出しました」
「……ああ、済まん。静止するのは良くないと、今さっき指摘されたんだった」
「そうなの?」
「ああ。ちょっと街へ出てみた」
「そう。どうでした?」
「どうも。ごく普通だった。つまり分かった事は、普通じゃないのが君だけだって事」
「私は普通じゃない、ですか……」
「別に、悪い意味じゃないよ」
何しろ、恐ろしく魅力的というだけの話なのだから?そこに流れる血が!新堂は心の中だけで続けた。
「それより、食欲は?」
「あんまりなくて……。セバスさんが持って来てくれたのも、半分くらい残してます」
「食べないと、良くならないよ」
もともと細かった彼女の体は、さらに痩せてしまった。
「食べられないなら、また点滴だ。栄養剤のね」
「……え。それは嫌ですっ!」
身構えるユイに、新堂が迫る。「仕方ないだろ。さて、すぐにしようか」
「ま、待って!分かった、食べますから……点滴だけはやめて……っ」
背を向けた新堂が秘かに笑みを浮かべた事に、彼女は気づいていない。こんな脅しがクセになりそうだと、彼は思う。
「もう例の特効薬は品切れだ。ちゃんと食べて力を付けて、再発は何としても封じなくては」
「そうですよね……」これ以上この時代の彼に迷惑はかけられないとユイも思う。
新堂は今では、単独で彼女と接触できるまでになった。とはいえ極力近づかないように努めている。診察は触れずにできる。ある程度距離を取れば何とか理性を保てる。
彼女も状況を察して、極力彼に触れないよう気を遣っているのだ。
・・・
一時回復傾向にあると思われたユイだが、どうやら悲劇は終わらないらしい。
ここへ来て、再び悪化してしまった。
「もう一度あの薬剤を入手してくるよ」それが一番の策だろう?
「それがいい、頼む!」
ナポレオンが同意するも、新堂はただ難しい表情で沈黙している。
「新堂、何か意見があるのかい?」
「おい新堂。何考えてる?何かあるのか」
「……確信はないんだが、今回のは再発なんだろうかと……。どうも、そうじゃない気がしてね」
「どういう事だい?」
彼女の食欲が減退している事、心音のリズムにどこか違和感がある事を説明された。
私は全然気がつかなかったよ。やっぱり君は優秀な医者だね。
「なら、別の病にでも罹ったのか?」心配そうなナポレオン。
「分からない。もしかすると、薬の副作用か……」
「確かに可能性はあるね。君が来る前から、彼女には強い薬剤が長期間使われていた」
「強い薬はリスクも大きい。彼女の弱った体には大きな負担になる」
「だとしたら厄介だね……」
「ならどうすればいいんだ!」
短気なナポレオンはすぐに怒鳴る。いけないクセだね。
「薬剤の使用は、当面避けたいところだが……」
「新堂、君の判断に従う。指示をくれ。例の薬を手に入れた方が良ければ、取りに行く」
「ああ。もう一度血液検査をしてから判断しよう」
早速ユイの自室に移動し、採血をする事になる。
「私が代わりにしようか?」
彼女の血液採取は、新堂にとっては試練だからね。
「医療行為を資格のない者にさせる訳には行かない。大丈夫だ、俺がやるよ」
「そうだね。その方がユイも安心するね」そう言ってくれて良かった。前に点滴針を入れた時、ユイがとても痛がっていたから。
「悪いが、採血をするよ」
「どうぞ」新堂の言葉にユイはあっさり応じていた。
「随分と聞き分けがいいじゃないか」
ベッドサイドでのやり取りを後ろで見守る。
「本当はね、新堂先生がしてくれるならいいの。上手だから、他の人のより全然痛くないんだ」
こんな言葉に、新堂は手を止めて耳を傾けた。
きっと今、驚いてるんだろう?何しろユイの心だけは読めないらしいからね。
嬉しいはずの言葉に、新堂は素っ気なく返した。「未来の俺の方が、もっと上手いんだろ?」
「もちろん。その他いろんな意味でもね」
ユイの言ったこれの意味が、今の彼に分かるだろうか!
それは、未来の新堂はユイの心を鷲掴みにして(!)事を運ぶのが上手い、という事だろう?
私はクスリと笑いながら、そっと部屋を出た。
・・・
目の前に会いたかった人がいるっていうのに。この人は、私の知っている彼じゃない。
「……!!ほら、やっぱり、痛くない……っ!」
「やせ我慢するな。本当は痛いんだろ?もう終わる、……あと少しだ」
先生には見抜かれていた。アルコール消毒の匂いから始まり、針が皮膚を突き刺す感覚。どうしたって慣れない。冷たくて鋭い痛み。さらに悪い事にこの時代の針はとっても太い!
新堂先生、会いたい……抱きしめてほしいよ!気づかないうちに、私の目から涙が落ちた。
「泣くほど痛くはないと思うんだが……大丈夫か?」
先生に心配させちゃったじゃない……私のバカ。「ごめんなさい、痛くて泣いたんじゃないの」
「済まないね。君の会いたい俺じゃなくて」
「いいえ!先生は先生よ。昔のあなたに会えて、凄く嬉しいんだから」
「気を遣わなくてもいい」
処置を終えて、先生が私から目を離す。
「血、見ても大丈夫?」ただの素朴な疑問だったのに、彼にとっては違ったみたい。
「意識させるな!」
突然怒鳴られてビクッとする。
「……済まない、大声を出して」
「こっちこそ、無神経に聞いてごめんなさい……」
「それじゃ。失礼したね」
声がした時には、すでに彼は部屋を出た後だった。
凄く冷静に見えたのに、本当は凄く我慢してたんだ……申し訳ない。お詫びのしるしに、私の血を少しあげたいくらい。
「はぁ~……」
新堂先生の去った後、耳を澄ましてみる。
この邸には多数の住人がいるはずなのに、まるで気配がない。一人ぼっちになった気がして不安になる事も多々ある。
庭にも生き物の影はないし、鳥のさえずりとか虫の声とかもしないから本当に静かだ。
時折聞こえるのはモーツァルトのピアノ。それから、ごくたまにサンジェルマンさんのヴァイオリンかな。
今は何も聞こえない。ナポレオンはまたも、あまり来てくれなくなったし。
「あ~あ、つまん、ない、うっ!……何?」
またも心臓が不穏な動きを見せた。でもすぐに戻った。また若干の動悸を感じる。
彼が急に血液検査をしたのが気になる。何かを察知したのだろうか。
私、……また悪くなったの?
気のせいよ、きっと気のせい。私はもう治ったのよ。だって新堂先生が来てくれたんだもの!
そう、自分に言い聞かせた。
・・・
邸には部屋が余っているので、新堂に分析用の部屋を提供した。
彼が手慣れた様子で試薬をスポイトで吸い上げ、彼女の血液に滴らせる。顕微鏡は必要ない。我々の目は集中さえすれば、すでに細胞までも見透かせるのだから。
「それにしてもこの血液型は……本当に珍しい」
「ああユイの型か。そうみたいだね」サヴリーも言っていたよ。
だからユイからはあんなに魅惑的な香りがするんだろうね。心で言って同意を求めるも、新堂は反応しない。そう思いはしつつも、血液型で味の差を感じた事はこれまで一度もない。
「君は病理の方もやっていたのかい?」
「全般だ」
「益々手放しがたい人材だね。是非とも医者を続けてもらいたいものだ」
「それしかできないからな。今となっては、俺もその線で考えているよ」
「案外、人間の世界でもやって行けそうだろ?」
「ああ。思ったより楽だった」
「ユイで鍛えられたんじゃないかな」
最初に会った人間がユイなら、他の人間の香りなど酷く薄く感じるだろうからね。
「そうかも」
ようやく彼も、笑顔を見せてくれるようになった。良かったよ。
「彼女の血液にも大分慣れて来たみたいだね」
「割り切ればいい事が分かった。これは血液じゃなく、何か別の液体だとね」
「仕事熱心な君らしいね。職人気質というのかな」
「言いすぎだ。俺はそんなに熱心に仕事をして来たつもりはない。ただの生計を立てる術だったに過ぎない」
「謙虚な男は嫌いじゃないよ」
「それはどうも」
会話をしながらも、彼の手は淡々と動いている。やがて結果が出たようだ。
「どうだい?」
「やはり数値は上がっていない。問題は別のところにあるようだ」
「それは?」
彼の説明によると、ユイの内臓全般が薬剤の影響で蝕まれているとの事。これでは食欲など出る訳がないそうだ。
「薬は使わない方がいい。だが、心機能が不安定だ。安定させるにはやはり薬が必要になる」
新堂が結論を出す。
「未来に、負担の少ない薬はないだろうか……」
「どんな薬でも負担は少なからずある。未来であっても、それは変えられないだろうね」
確かに。その通りかもしれない。私の考えは浅はかだね……。
新堂はまたも私の心の呟きをあっさりスルーした。
「少しでも臓器の状態を落ち着かせてからが理想だが……その前に急変されると困る」
私に何かできないだろうか。何か力になりたいと、心で訴えた。
今度はちゃんと答えてくれた。
「伯爵、お気持ちだけいただいておきます。かくいう自分も、……何もできそうもない」
「彼女に頑張ってもらうしかないようだね」
我々のこんな願いも虚しく、彼女の容態は良くない方へと進んでしまうのだった。