朦朧とした意識の中、サンジェルマンさんの声がすぐ近くで聞こえる。
「ユイ。君の意向を確認したい。ユイはどうしたいか、教えてくれないかな」
「どう、したいか……?」浅い呼吸の合間に声を出す。久しぶりにしゃべった気がする。
どうもこうもないと思う。自分はもう死ぬんだと思っていたから。
でも、サンジェルマンさんは思わぬ事を言ってきた。
「ユイをヴァンパイアにする事もできる。君が望むのならね。もちろん、このまま人間として終わりを迎えたいのなら、それでもいいんだ」
「お、わ、り……?」
「酷な事を言うようだが……君が人間として生き続けるのは、もう不可能に近い」
やっぱり私は死ぬんだ。
どうしてこうなっちゃったんだろう?私がタイムスリップなんてしたからか。先生と離れ離れになったのが運の尽き?
「イヤ……イヤ!終わりなんて……私を仲間にして!でも新堂先生は……」きっと反対する。
最後まで言えなかったけれど、サンジェルマンさんは分かってくれたみたい。
「ユイの気持ちは分かったよ。未来の新堂と相談してくるね」
お願いします!私は心の中で叫んだまま、再び暗い闇の底に落ちて行った。
その後、どのくらいの時が経ったのか分からない。
ふいに瞼に強烈な明かりが当たっている気がして、眠りを妨げられた。
「なん、なのよ……」
目を開けると、やっぱり強い光が私に浴びせられている。
目を開けていられず、何も確認できずに再び目を閉じた。
「ユイ。待たせたな」その光の中から、愛しい人の声が降って来る。
「新堂、先生なの?ここはどこ?何をしてるの」
「何も心配しなくていい。……ただ、とても辛いかもしれない。耐えられるか?」
「何のこと?」
まるで現実とは思えない。自分の体が自分のものじゃないような気がする。意識が体を離れてしまっているのかもしれない。
「あの日、すぐに迎えに行ってやれなくて……済まなかった」
「いつの話してるの?その事なら……皆がいたから、私は全然大丈夫だったよ」
「そうみたいだな」安心したような声が響く。
「それで、皆は?サンジェルマンさんは、ナポレオンは?」
「ああ。すぐ近くにいるよ。皆お前を見守ってる。だから頑張るんだぞ」
「頑張るって、何を……?」
これの答えはなく、代わりに熱烈なキスが落とされる。
差し入れられた冷たい舌が私を確めるように口内を優しく動いて、思わず吐息が漏れる。氷のように冷たい舌が触れた場所からは、熱が生まれる。
「ああ……新堂先生だ、本物だ!私の愛する、先生……だ」このキスが何よりの証明。
「俺も愛してるよ、ユイ……」
これはきっと夢に違いない。
でも、もう夢でもいい。だって目の前の彼は間違いなく私の知っている新堂先生だから。
しばらくキスを堪能してから、先生が囁いた。
「済まない、少し我慢してくれ……」
この言葉の後、横たわったままの私の首筋に何かが突き刺さる。先生の牙だ。深く皮膚に食い込み、血を吸われているのが分かる。
「ううっ!い、痛、い……!」
肩に置かれた先生の指までもが、私の皮膚に食い込んで行く。
私はただただ彼の衣服を強く掴んで、この痛みに耐えた。
次第に体中が麻痺して、感覚が鈍くなり始める。
「ユイ、眠るな!……もう少しだ、もう少し……」
「先、生。……私の血、美味しい?」何を血迷ったのか、こんな時にこんな感想を求める私。だって先生、あんなに熱望していたでしょ?
「…………バカ野郎っ」
ちょっと、先生?答えになってないけど!
こんな軽口はもう声にはならなかった。力尽きて、彼に回した腕がダラリと下がる。
「ユイ!眠るんじゃない!まだダメだ。これからが本番なんだぞ?」
相変わらず容赦ないなぁ、新堂先生は。私、もうこんなに頑張ったじゃない?
そう思った時、下半身のあの部分に何かが触れた。それが先生の指だとすぐに分かる。久しぶりの感覚に、ぐったりだったはずの私の体はたちまち反応してしまう。
「んっ、んっ!先生、急に、どうしたの……」
指は周辺の
「久しぶりすぎて、……少し痛みが強いかもしれないな」
先生ったらそんな感想?そう思った瞬間、裂けるような痛みが走って悲鳴を上げる。
「ああぁぁっ!!!痛……いっ!」
「少しずつ、少しずつな……ほら、力を抜いて。俺を見ろ、ユイ」
「痛いよ、先生……っ」訴えた私の声はすでに涙声だ。
私に覆い被さる先生の顔を見上げる。逆光のはずなのに、その顔はほのかに光っていて良く見えた。とても美しい顔が。先生の瞳は未だかつてない程に煌いていた。
それに釘付けになって、一瞬痛みの感覚がなくなる。
「はあっ……!あ……ん!」
「どうだ、まだ痛いか?」
「いいえ、気持ち、いい……」
痛みはいつの間にかゾクゾクとした刺激に変わっていた。
指が抜き取られ、いつものように先生がそれを口に含む。
「最後の晩餐、か……」
「え?」
「何でもないよ。ユイ……ずっと、したがってたろ?さあ本番だ、行くぞ」
「なんで今、なの……?」
「今だからこそさ。堪能してくれ。そして、どうか耐えてくれ……」
どういう事?彼の言っている意味が全然分からない。でも今はこの、例えようのない快感を手放したくない。もう何でもいい、何でも……!
先生は行為をしつつ再び私の首筋に強く吸い付き、血を吸い始めた。
そして最高の瞬間が訪れ、私は意識を手放しかける。もう、思い残す事はないと。
「ユイ、これを飲むんだ」
ふいに私の口元に、先生が自分の手首を差し出した。ぼんやりとだけど、そこに銀色の液体が滴るのが見える。
意識がはっきりしない。それは……先生の血なの?人間には毒と言われる……。
「さあ。早く、飲むんだ!お前の体からほとんどの血を抜いた。早くしないと死ぬぞ!」
「あ……あ、せん、せい、……んん!」
先生は私の口に手首を押し付けた。甘苦いドロドロしたものが口の中に流れ込む。
それが舌に触れた瞬間、焼けるような熱さを感じた。
「い、いやぁ!飲めない、こんなの飲めないよ!痛いし、熱いし……」
「それでも飲むんだ、ユイ、頼むから……飲んでくれ!」
「んん……!んぐ、ゴホ、ゴホホ!」無理に流し込まれて咳き込む。
すでに喉も焼けるようにヒリ付いている。
「ダメだ、全然足りない。もっとだ!」
「む、り……」
先生は諦めたのか、手首を私から離した。薄っすら目を開けて確認する。目を開けて後悔した。だって、先生の手に握られた太い太い注射器が見えてしまったから!
「何で、それ?……や、イヤだ!」逃げたい、ここから今すぐに!
「飲んでくれないなら仕方がない。別の手を使うまでだ。お前が何と言おうと、絶対にやり遂げるからな?」
「イヤだぁっ!離してっ、やめて……お願いよ」
私の懇願はあっさり無視され、その太い針は私の心臓目がけて突き刺さった。
心臓がビクンと跳ねる。針が刺さった痛みも酷かったけれど、その後に襲ったのはもっと激しい痛みだった。今度はあの部分だけじゃなく、体全体が引き裂かれるような、それは酷い痛みだ。
「いやあぁぁぁーー!!!!」
自分の絶叫が耳を聾する。
……静かにしてよ、うるさいなぁ。まだ自分にこんな力が残っていた事には驚きだ。
次の瞬間、どういう訳か私は、そんな横たわる自分を上から見ていた。
……やっぱり、幽体離脱してたんじゃない!
淫らな格好で果てたように見える自分。首筋と、左胸、それにあの部分からは血が流れている。枕元には呆然とする先生がいる。
新堂先生?大丈夫?顔を覗こうとしたけれど、どうやら立ち位置は変えられないらしい。残念。
不思議と今は何も感じない。痛みは感じたくないけれど、あの快感だけはもう少し感じていたかったなぁ。
ちょっと待って。これって私、死んじゃったの?ダメよそんなの!早く戻らなきゃ……。
私は下で横たわる自分に向かって飛び込んだ。
・・・
「大丈夫かい、新堂」
「あんな絶叫は二度と聞きたくないぜ……」
ナポレオンと共に席を立っていた私達は、新堂の様子を見に来ている。
「無事に済んだのか?」ナポレオンがユイに近寄り尋ねる。
「手は尽くした。だが妙なんだ。彼女はあまりに静かすぎる」
「何が変なんだ?」
ナポレオンには分からないだろう。彼はヴァンパイアに転生した時の事を全く覚えていないらしいから。その上、つい最近まで人間とヴァンパイアの狭間にいたレア中のレアだ。
「大抵はヴァンパイアへの変化の過程で、もがき苦しむんだ。それは壮絶な痛みとの闘いだからね」
こんな私の説明にナポレオンの顔が引きつる。
「おい、マジかよ!皆そんなに過酷な思いをしてまで、ヴァンパイアになったってのか?」
私は静かに頷いた。
「一度、死の恐怖を味わった人間は、怖いものなどないと思うんだ。この転生の痛みに直面して後悔する訳だけどね」その時にはもう手遅れさ。
だから私は女性を変身させた事はない。理由など分かり切っているだろう?女性の苦しむ姿なんて、見ていられないじゃないか。
私は新堂の隣りに立って、遠巻きに見守る。「ユイはちゃんと飲んだのか?」
「いや。なので、注射器で直接心臓に注入した」
何とも医者らしいやり方だ!新堂らしいね。
「それならば、毒が回るのは通常よりも早いだろうね」
「そのはずなんだが……」
静かに横たわるユイを見る限り、まるで死んでしまったように見える。せめてもの救いは、その表情が穏やかな事か。
「もし失敗したなら、彼女から心音は聞こえないはずだよ」この段階で心臓が止まれば転生は完了しない。イコール死だ。
まだ力強い心臓の鼓動が、ここにいる三人には聞こえている。
「心配ない、ユイはきっと大丈夫さ。変化は徐々に現われるものだよ」
三、四日かけて徐々に変化が進み、最終的に心臓が止まり完全なヴァンパイアとなる。
これまで何人も転生させてきたこの私が言うんだから、間違いないよ?そう心で言って新堂に笑顔を向けた。
さて。それじゃそろそろ、ここはどこかという疑問に答えようか。
ここは、十八世紀初頭のパリだ。
ユイの意向を伝えに二十一世紀の新堂の元へ行った私は、彼がどうしても手を下したいという願いに答え、この十八世紀の場を提供した。
十九世紀に新堂は来られないし、二十一世紀にユイを戻すのはリスクがある。レオナルドがジェーンを引き付けているとはいえ、油断はできないからね。
という訳での代替案。いいアイディアだろう?
どうしても行くと聞かないナポレオンと共に、ここへユイを運び、そこへ新堂を招いたんだ。
そして、儀式は無事に終了したようだ。
私とナポレオンが部屋を訪れた時には、彼女は綺麗に体を拭かれて衣服を身に着けていたから、ここで成されていた事の痕跡は何もない。
だが私には大方の想像はつく。途中で新堂がした、愛し合う者同士だからこそできる行為についても。
「……気休め、だったでしょうがね」私が全てを悟ったと知ったのか、新堂がポツリと言った。
「いやいや。そんな事はないさ。今後、参考にさせてもらいたい手法だ」
「何の話だ?」
一人、分かっていない者がいるようだね。
「こっちの話。ね、新堂先生!」
彼は咳払いをしただけで何も答えなかった。やはり謙虚だね、日本人は!
それから四日が経っても、ユイは目覚めていない。
新堂に焦りの色がありありと浮かんでいる。
「まあ、落ち着こうじゃないか。君が取り乱しては、ユイが困ってしまうよ」
「なぜ目覚めないんだ?彼女の心臓はまだ動いたままだ!何かミスを犯したのか?」
「君の取った方法はむしろ、スマートなやり方だったと思うよ。ミスは考えられない。だが、一つ言えるとすれば……」
「何だ?」
新堂が私に強い視線を向ける。ナポレオンもしゃがみ込んだまま私を見上げた。
「ユイの心臓はとても強いという事だ。体が変化に抵抗しているのかもしれない」
「変化に、抵抗、か……」
「思い当たる節があるという顔だね」
「実際、彼女が罹った病は、我々からの防御反応とも言えるものだ」
「やっぱりそうなんじゃねぇか!俺達がユイを苦しめてたんだ」
「ナポレオン。嘆くな。これがユイの運命なんだよ。新堂を愛した時点でのね」
「っ!運命だと?勝手に決められて堪るか!」
憤るナポレオンを慰めてくれたのは新堂だった。
「ありがとう。ユイの事、そんなに想ってくれて嬉しいよ。俺と彼女が出会ったのが運命なら、俺は最後まで彼女を守ると誓うまでだ」
こんな一途な愛の告白に無言になるナポレオンを見て、憐れに思う。
残念だが、ユイの運命のお相手は新堂なんだ。君ではなく。
私は話を戻した。
「以前ユイは、ヴァンパイアに襲われた事はなかったかい」
なぜそれを?彼がこう言いたかった事は、心が読めなくても分かった。
私に代わって、ナポレオンが例の古傷の事を話してくれた。酷く痛がった事が何度もあったと。
「そうだったのか……」新堂は意外だとでも言うように、顎の下に手を持って行く。
そんな姿は
「確かにユイは一度、ヴァンパイアに襲われている。あの時、毒は全て吸い出したはずだ。痛がった理由は心因的なものだろう」
説明しながら、新堂は彼女の左腕に触れてその時の傷跡を確認する。
「おい、傷、治ってないぞ?」ナポレオンが一緒に覗き込んで指摘した。
「本当だね。どういう事だろう」私もそれを見て呟く。
新堂は何か考え込んでいるようだ。顔をしかめて彼女から手を離した。
「なぜ治ってない?転生してないのか!」
騒ぎ出すナポレオンに対し、新堂は冷静に答えた。
「いや。俺の付けた咬み跡は完全に消えている。転生は始まっているはずだ」
「そうだね。彼女からはもう、あの芳醇な血の香りが消えている」
もう彼女の甘い血の香りがしない。……ん?だがブランの濃厚な香りは健在のようだ。
こんな事を考えながらふと顔を上げると、新堂と目が合った。おっと……これは余計な事を!
私は気を取り直して新堂に問いかける。
「その時の毒が、免疫を作り出していたとは考えられないだろうか」
「あり得ない話ではないが…………」またも考え込む新堂。
その時、ふいにナポレオンが叫んだ。
「おい、ユイ!いつまで寝てんだ。いい加減起きろよ!」
「ナポレオン、よせ。ムダだ」さすがに止めたよ!無謀にも程がある。
「
「済まないね、彼はまだ子供なんだ」
「っだよ、ザケんな!子供じゃねえよ!」
「まあまあ!是非、声をかけてやってくれ。きっと聞こえているはずだから」
新堂のこんなセリフは、ナポレオンの気持ちに心から感謝しているように見えた。
「ユイは皆に、こんなにも慕われているんだな……」
さらに、穏やかな表情で呟く姿はとても好感を持てる。
「君は、不思議な男だね」
「ん?何か言ったか」
「いいや。独り言さ」
無意識に表情が緩んでしまった。
普通の男ならば、愛する自分の女に群がる男達に、こんな好意の目を向けたりはしない。
とても嬉しいよ、ユイのお相手がこんなにも寛大な心の持ち主である事が。新堂と私が似ているとユイが感じるのも、不思議はないかもね。だって、私ほど寛大な心を持っている者が他にいるか?
今彼が口にしたのと全く同じ感想を、私も何度も思っていたんだ。
誰もがユイの魅力に惹かれてしまう。だがそれは仕方のない事。誰だって感情に嘘はつきたくないからね。
「感情に嘘をつく、か……」
私の心を読んだのか、新堂がこんな事を呟いた。
「どうしたんだい?新堂」
「……いえ。こちらも独り言です」
さては。君は嘘をついていたようだね。
チラリと新堂を見やり、思わず顔が笑ってしまった。