これと言ってやる事もなくベッドでうとうとしていると、またドアがノックされた。
「はい!どうぞ……っ」
答えてから、急いで身の回りを整えて髪を撫で付ける。
入って来たのは執事さんと、初老の男性だった。
「失礼します。そのままで結構です、お医者様をお連れしましたので、診ていただきましょう」
「あの、それはお断りしたはずですが……?」
「伯爵のご命令です。それではサヴリー先生、お願いします」
上質なウールのスーツを着こなした、なかなかダンディな男性が私の前に進み出た。
「初めまして。アンドレ・ド・サヴリーと申します。こちらのサンジェルマン伯爵には、日頃大変お世話になっておりますので。お気になさらず。どうぞ、リラックスしてください」
「は、はあ……」ここまで来たら断るのは難しいだろう。観念するかぁ。
早速診察が始まる。
「朝食は召し上がられたそうですね。今、どこか具合の悪いところはありますか?」
「いいえ。自分が誰か思い出せない以外は」
仕方なくこう打ち明けると、失礼、と断った後に頭を細かく調べられる。
せっかく撫で付けた髪がまた絡まるじゃない!
「特に外傷は見当たりませんね。……熱もありませんし。心臓の音を聞かせてくれますか?」
「どうぞ!」こうなったらヤケよ。どうせガウンだし?簡単に前を肌蹴る事ができて助かるわ。
入り口の所でセバスチャンが待機している。どうせあの人は私が着替えた時も、ああしていたんだろう。今さら恥も外聞もないって感じ?
聴診器を当てたまま、かなりの時間が経つ。
「あの……何か、ありました?」そんなに時間をかけられたら不安になるじゃない?
「何か持病などは?ご家族に心臓を患っている方など」
質問にはどれも首を横に振る。
覚えていないって意味もあるけど、どう考えてもこの心臓に欠陥があるなんて思えないから。
「少々お顔の色が悪いようです。息苦しさはないですか?」
「特には」
「自覚症状がないのでしたら、様子を見ましょう。食欲もおありのようですし」
ようやく診察から解放された。
だから何ともないって言ってるでしょ!どうして皆分かってくれないの?
何かあったらいつでも呼んでくださいと言い残して、医者は出て行った。
「何よ、私ってばそんなに顔色悪い?若干白すぎるってだけでしょ!」
色白のため、よく虚弱体質に見られた幼少期の頃が、ぼんやりと浮かんだ。
そうだ、自分は母親似で色が白くて……お母さんは、どこにいるんだっけ?
何気なく手元に目が行く。そこにはキラキラと自然光に輝く指輪。これは何なんだろう?得体の知れない指輪に恐怖を覚え、外そうと手を掛けるもビクともしない。
「えっ……な、なんで?ぬっ、抜け、ないっ!」
決してサイズが合っていなくて抜けない訳じゃない。だって動くもの。なのに抜けない。
真っ赤な顔で指輪と格闘する私のところへ、サンジェルマンさんが現れた。
「ユイ。……ああ、やっぱり熱があるのかな」
これは真っ赤な顔の私に対する率直な感想だろう。
「ち、違います!これを、外したいんだけどっ……取れなくて!」
彼が側にやって来て、私の手元を覗き込む。
「貸してご覧」
私の左手をそっと持ち上げると、事も無げに指輪を外してくれた。
サンジェルマンさんの手は、とてもひんやりしていた。
「はい。抜けたよ。でも、外すと失くしてしまうよ?着けておいた方がいい」
せっかく外れたのにまた嵌められてしまう。
「……ああっ!何でっ?」
改めて自分で抜こうとするけれど、やっぱり抜けない。コツとかあるの?教えて!と目で訴える。
「それは、とても特殊なものなんだ。私の口からは教えられないが……。なかなか、君にとっては厄介かもね」
「それ、どういう意味ですか?」
この質問の答えはもらえなかった。
「ああ、そうそう、病気でなくて良かった。きっと緊張しているだけだね。寛いでくれていいんだよ?自分の家だと思って」
無理です!こんなコメントは口には出さない。だってこの人は、相変わらず屈託のない笑みを称えて、私を見下ろしているんだもの。困らせるような事を言える訳がない。
「ナポレオンには会ったね」
「はい。ここへ来てくれました。その事ですが!私に護衛は必要ありません」
自分の身くらい自分で守る。こう見えて、私結構強いのよ?だって鍛えられて来たから。
……そうよ、私は幼い頃から鍛えられて……その割に華奢な体つきだけど?自分の体を見下ろして首を傾げる。記憶はあやふやだ。
そうそう思い出した、教育係がいたっけ。色黒で怖い顔の大オトコが!とても頼りになって、私が尊敬する人物で……。顔も名前も思い出せないけれど、まさかその人がシンドウ先生?
私の考え事は、サンジェルマンさんの言葉で中断された。
「まあまあ。いいじゃない。悪い男じゃないよ、彼は。正義感はここの誰より強いからね」
「ある意味、お手合わせはしてみたいですが」なぜかこんな言葉が口をついて出た。
「ん?」
「あっ!いえ、何でも!」こんな事を言ってしまった自分に戸惑って、笑って誤魔化す。
私って、こんなに勇ましい女だったのかなぁ?
もし彼が本物のナポレオンなら、絶好のチャンス。ナポレオン皇帝と勝負なんて夢のよう!なぁんて、やっぱりどうかしてる、私!
絶対からかわれているに違いない。例えここが十九世紀のパリだとしても、あんな若いままのナポレオンがいるはずがないんだから。
ああだけど、もし彼もタイムスリップして来たとしたらアリ?
…………ああっ、頭が混乱する!!
「それでユイ。その後、何か思い出せたかな?……ユイ?」
答えない私に、不安そうな顔で聞き返してくる。
「あっ、スミマセン!えっと、はい、自分の事は段々思い出してきました。子供の頃の事とか、家族とか」
「それは良かった。じゃ、その調子だね。頑張って。何でも力になるから」
素直にお礼を言って視線を交わす。
本当に親切でいい人、サンジェルマンさんって。怪しさ満天なのに、そんなのどうでも良くなるくらい魅力的で、好きになってしまいそう。
「さて。それじゃ私は仕事に戻るよ」
「ごめんなさい、貴重なお時間を……」
「いいんだよ。いつでも呼んでくれて。今日はずっと書斎にいるから」
在宅で仕事してるのか。何のお仕事なんだろう。そもそも、伯爵って何する人?
そんなこんなであっという間に夕方になる。何にもしないで一日が終わってしまいそうだ。
こんなんでいいのかと訳もなくソワソワしてしていると、ドアがノックされてセバスさんが現れた。セバスチャン、は長いから、セバスさんて勝手に呼ぶ事にする。
「ユイさん。服、こちらに置いておきますよ」
「ありがとうございます!待ってました!」
入って来たセバスさんから引っ手繰るように服を取ると、まだ彼がいるのも構わずガウンを脱ぎ始める。
「……それでは失礼します」
気を遣ったのか、セバスさんはすぐにドアを閉めてくれた。
「ここへ缶詰なんて勘弁して!十九世紀?パリ?どういう事なのか、この目で確認してやろうじゃないの」
着替えを終えてすぐに廊下に出てみる。似たようなドアが幾つも並ぶ、薄暗い廊下が続いている。
「どっちが玄関?迷子になりそう……」
気の向くままに足を進める。
角を曲がると外が見えた。もう夕方で、辺りは分厚い雲に夕陽が当たって、不気味な感じで橙色に染まっている。
下に目を向けると、馬車が止まっていた。そこから誰か降りて来た。
長身で、ステキなスーツにダークブラウンのマントを羽織っている。
その人が顔を上げたので、目が合ってしまう。その琥珀色の瞳がまた、飛び切り魅惑的な輝きを放っていて、どういう訳か目が反らせない……。
そんな時、後ろから声をかけられた。
「おい」
振り返る事もできないくらい、階下の瞳に囚われてしまっている私。
「お~い、お前だよ、オ・マ・エ。無視かよ!」
私が下の男性に釘付けになっているのに気付いたのか、一緒に身を乗り出して同じ方を見る。
舌打ちが聞こえた。
そして次の瞬間、肩を掴まれて振り向かされる。
「痛いじゃないっ!そんなに強く掴まないでよ」
「お前が無視するのが悪い。勝手に一人でうろちょろするな。迷惑だ」
な!何て言い草?「あなたに迷惑なんてかけてません!それと護衛の話だけど、なしでお願いします。私には必要ないんで。それじゃ」
「ちょっと待て!そうは行くか」
肩に置かれた手を振り切って背を向けたはずなのに、なぜかナポレオンは私の正面にいた。
何て機敏な動き!まるで瞬間移動……瞬間移動?誰かも、そんな事ができたような。
「邪魔しないでください」
「お前が大人しくしてないからだろ?」
「逆に!何で大人しくしてなきゃならないの?」
私が盾突く姿に、またも彼が舌打ちした。
「やっぱ厄介な女じゃねぇか!だから言ったんだ、普通じゃないって。……黙ってりゃ十分お嬢サマなのになぁ?残念だよ、全く!」
「今何て?ブツブツ言われると、よく聞き取れないんだけど」
どうせ悪口だろうけど!フランス語って聞き取りにくい。
「っ!何でもねえ!とにかく部屋に戻るぞ」
一瞬バツの悪そうな顔をした後、腕を掴まれ強引に引っ張られた。
どうしてこう威圧的なの?反発したくなるじゃない。
気がつくと私は、その腕を持ち上げて反転させ、器用に外していた。無意識に体が動いた。何でこんな事ができるの?私ってば凄い!
「……あ!おいコラ!何してる」
「私、ちょっと外を散歩して来ます。すぐに戻るのでお気遣いなく!」
今度は何とか振り切った。全く油断も隙も……。
「行くなら俺を連れて行け」
いつの間にか、ナポレオンは私の隣りに並んで歩いていた。何で?!
「で?玄関は逆方向だが。いいのか?」意地悪な笑みを浮かべて言ってくる。
「それ早く言ってください!……外に出ても、いいの?」
「行きたいんだろ?それに、俺の言った事、まだ信じてねえみてぇだし。自分の目で見た方が早い」
「……ありがとう」
イヤなヤツだと思えば、こうして物分りが良くなったり。掴みどころないなぁ、ナポレオン皇帝ってば!
「夕飯の時間までには戻るぞ。今夜は晩餐会が開かれる日なんでね」
「バンサン、カイ?」
「ああ。伯爵たっての希望で、ここの住人対象に月に二、三度開かれるんだ。滅多に全員集まる事はないけどな」伯爵がいつも嘆いてるよ、と続ける。
どうすれば全員集まってくれるだろうかと、悩んでいるそうだ。
こんな会話をしながら外へ出ると、さっき馬車で戻って来た住人と思われる人がいた。
物凄く大人の魅力が溢れ出ている。この人もかなりのイケメンで目力が半端ない。さっきの二の舞にならないよう、今度は目を合わせないように頑張ろう。
この人はかなり背が高いから、私が上を見なければいいのよ!
「よおナポレオン。カワイイ子連れてるな」
「まあな」
ナポレオンの返した言葉に驚いて、見上げてしまったじゃない!バカバカ!
視線が合った瞬間、案の定動けなくなる。……ダメだ。
「さっきから……。こいつに手ぇ出すんじゃねぇよ、レオナルド!」
その視線から守るように、ナポレオンは私を体ごと自分の方に引き寄せた。
それでようやく我に返る事ができたのは良かったけれど。お陰で、ナポレオンの熱を帯びた体と密着する羽目に……。
「おや~?独り占めとは穏やかじゃないな。今注目の、サンジェルマン伯爵イチ押しの人間だってのによ!」
「何だよそれ。伯爵はそんな事言っちゃいねえが?」
「……まあ、境遇的にはお前が一番近いんだろうがね。お嬢さん、俺はレオナルド・ダ・ヴィンチ。以後、お見知り置きを」
「れ、れおなるど、だ……びんち?!」あまりに驚いて、後ずさってしまった。
瞬間的にナポレオンの手が私の腰に回り、支えてくれる。こういうところは気が利く紳士だ。
「残念だが今は時間がない。是非今度、ゆっくりと親睦を深めようじゃないか。名前、何だっけ?」
「ユイ、です。よろしく……」こう返すのだけで精一杯だった。
世界史の教科書に出てくる人達ばっかりじゃない!ニックネームったって、良く名乗れるわ。そんな偉人の名前を?
それにダ・ヴィンチって言ったら白ヒゲのじいさんでしょ?全っ然似ても似つかないじゃない。何?あの猛烈なイケメンっぷりは!
「……おい、大丈夫か?」
予想外の人物の登場に、出鼻を挫かれた感じだ。
「ねえ、ホントに名前、合ってる?あなた達」何なら私、クレオパトラとか名乗っちゃう?
「何言ってんだ?お前、足、震えてるけど」
「へ?はは、あははは……っ!」
おかしな私の言動に、しばし沈黙するナポレオン。
「ちょうどいいから、あの馬車借りるぞ」
ナポレオンは私の手を引いて、馬車に乗せてくれた。
御者にその辺を一周してくれと指示を出して、馬車が動き出す。
「あの、ナポレオンさん……。ありがとうございました」
「ん?何が」
「さっき、カワイイ子ってとこで、否定しないでくれたでしょ」
「そこかよ!」
一瞬の間の後、顔を見合わせて吹き出す。
「でも、これだと散歩にならないんですけど?」馬車から外を眺めて言う。
「よく言うぜ!散歩できる状態か?お前、足腰立たないって感じだったろうが」
「決めつけないでほしいんですけど!」間違ってないけど……。
「もう日も傾いてる。この辺り一帯は森だ。薄暗いし散歩には適さない」外を顎で示しながらナポレオンが言う。
「お邸の外がこんな森の中だったなんて!」
確かに外は鬱蒼とした森。なんでこんな辺鄙な所に建てたのかな。……辺鄙な、所?誰かも、こんな場所に家を持っていたような……。
「分かってくれたみたいだな」
「ええ、まあ……」考え事はまだ続いていたけれど、返事はしないとね。
「全く!お前ってヤツは素直なのかそうじゃないのか。掴みどころねぇな!」
「何よ……それなら、ナポレオンさんにそっくり返しますっ!」
少しムッとして言い返すと、彼は黙って私を睨んでくる。
「な、何ですか?」
「おい」
「はい?」
「さん付けと敬語をやめろ。鬱陶しい」
「でも……、恐れ多くて!」初対面だし、見た感じ怖いし?
「お前さ~、言い分と態度、合ってねぇけど?」
「ふふ、確かに!」私は笑っていた。
どうも皇帝のイメージが抜けなくてね。かのナポレオンを本人の前で呼び捨てだなんて?でも、目の前の彼は身分の差なんて感じさせない雰囲気で。
そもそもホンモノな訳がない。
「で?どうすんの」
「やめる。敬語もさん付けも!正直、私も面倒くさかったんだ」
こんな私の雑な返答に、ナポレオンが鼻で笑った。
日本人てのは律儀だな~って言いながら。それはセバスさんの事かな。あの人に比べたら、私は足元にも及ばないと思うけど?
それからしばらく森の中を走って、ようやく目の前が明るくなった。
「本当に、外国なのね……」高台になっているらしく、街が一望できる。
そこに広がっていたのは、明らかに日本とは違う街並みだった。
「だから言ってるだろ」
やがて馬車は街中に入り、会話もないまま付近を一周して邸に戻った。
もうすでに暗くなっていたから、ガス燈の照らす石畳の道と、映画とかで見るあのレンガ積みのレトロな街並みはとても幻想的で、やっぱり夢の世界にいる感覚は消えなかった。