翌朝、どこからかピアノの音が聞こえる。何だかとても体がだるい。最初にこのお邸で目を覚ました朝に良く似た気だるさだ。
それを振り切って体を起こし、伸びをしてから立ち上がる。
「最近、動いてないしなぁ~。運動不足かもね」
軽く筋トレでも、と窓枠に手を掛けた時、ドアがノックされた。
「ユイ、起きたかな?入るよ」
「はい!どっ、どうぞ!」
現れたのはサンジェルマンさんだった。今日も美しいお顔で!
自分の無防備な姿を思い出して慌てる。ガウンの前は思いきり肌蹴ているし、下着姿も同然だったから……。
それを見て、サンジェルマンさんは申し訳なさそうに言った。「これは失礼……出直すよ」
「いいえ、大丈夫です!どうせもう、見られてるんでしょうし……」
「ん?何か言ったかな」
「いいえっ、何でもありません!」
ナポレオンが見たって事はこの人だって見てるはず。でもいいもん、別に!
「ユイ、今日は一緒に街へショッピングに行こう。君の服、それだけじゃ困るだろう?」
「そうなんです。助かります。でも私、お金持ってなくて……」
「そちらの心配は無用だ。私に任せなさい」
「でも……」
「いいんだよ。娘ができたようで、案外私も楽しんでいるんだ。させてくれないかな」
娘、か……。確かに年齢は離れてるか。でも、十歳位じゃない?親子は言いすぎだ。ちょっぴりショックだなぁ。
けれど困っていたのは事実なので、そういう事ならと甘える事にした。
こうして、四輪馬車で大通りの商店街にやって来る。
「わあ……。ホントに映画の世界みたいっ!」
建物の中は豪華でレトロで素敵だった。でも、どう見ても庶民向けの店ではない。
「あの、サンジェルマンさん。私、本当にそんな高価なものは……」
「これ、似合いそうだね。着てみて。それとこれも。そこの君、彼女に試着を」
「あ、あのぉ……」全く聞く耳持たぬ伯爵なのだった。
その後私は彼の着せ替え人形と化し、煌びやかなドレスから普段着(これが普段着?)、寝間着まで入手。店を出る時には、品物で詰まった紙袋やら箱の山が出来上がった。
お姫様になった気分。しかも隣りを歩くお相手はこんなにステキな紳士。つい顔がニヤける。
「楽しんでくれているようで、良かったよ」
「っ!はい!こんなに買っていただいて、ありがとうございます」
ニヤケ顔は戻せるはずもなく、満面の笑みを彼に向けた訳だけど。それが逆に良かったみたい。なぜなら彼も、本当に幸せそうな笑みで返してくれたから。
馬車に戻り帰途に就く。面食いの私は、終始サンジェルマンさんの美貌に釘付けだ。
あれ……?心なしか、顔色が悪いように見える。
「あの、サンジェルマンさん、お疲れではないですか?」
「ん?どうしてかな」
「朝よりも、少し顔色が良くないように見えたので……」
彼はしばし無言で私を見つめた。何を考えているのか分からない瞳で。
「……ああ、大丈夫だよ。ごめんね、心配させて」
柔らかな笑みが向けられたけれど、よくよく見れば瞳は笑っていない。
私、何か余計な事言っちゃった?「そうじゃないなら良かったです。私も色白だから、良く具合悪そうに見られて。困っちゃうんですよね~」
ちょっぴり不安になってこんな事を言ってみると、サンジェルマンさんは表情を緩め、穏やかな顔に戻った。
さっきの違和感は何だったんだろう?
男の人って、ショッピングとか苦手だったりするから、疲れさせたなら申し訳ないと思ったんだけど。本当はお疲れなのかも。
こんな心配をし始めた時、サンジェルマンさんが口を開いた。
「話は変わるが……ユイ、一つ言っておくよ。一人では出歩かないでもらいたい」
「どうしてですか?」
「今、世間を騒がせている凶悪犯がいてね」
一八○○年代と言えば、有名どころはジャック・ザ・リッパーか。でもあれはロンドンに現れた犯罪者。ここはパリ。他に何かあったかな……。
「君も聞いた事があるかもしれない。切り裂きジャックの話は」
「それ、思い浮かびましたけど国が違いますよね?」
「いいや。実は今、その模倣犯が各地に現れているんだ」
「え?模倣、犯……?そんな話は聞いた事がなかったと……」
「それは、伝えられていないだけだ。現時点でここに現れた人物は、殺人を犯してはいないけれど、十分注意してね」君にはナポレオンがいるから大丈夫だね、と伯爵が一人納得する。
「そう言えば、昨夜、私……」
誰かに襲われて、ナポレオンに助けられた事をぼんやりと思い出す。
「ああそうだった。ナポレオンが少々、落ち込んでいるようだから、帰ったら話をしてあげてね」
「何で落ち込んでるんですか?」
「君に嫌われたと、思い違いをしているようなんだ」
サンジェルマンさんはこんな曖昧な説明しかしてくれない。私、何かしたのかな……。またも記憶はあやふやだ。
邸に着いてサンジェルマンさんと別れると、早速ナポレオンを探す。こんな真っ昼間に、あの人が部屋にいる訳がないだろうけど!
歩いて行くと、廊下で男の人にすれ違った。男、だよね?とても綺麗な顔立ちだ。女でも十分通用すると思う。
すれ違った後に、この人が昨夜私を襲って来た人物だとようやく気づいた。
「お前は昨夜の……」その人も私に気づいたのか、振り返って声をかけられた。
「失礼ですが、薬物でもやられてるんですか?」
「何だと?」
今日はやられないんだから!きっとあの目が悪いんだ……。どういう訳か動きを封じられる。レオナルドさんの時もそうだった。何なの?
「血が欲しいなんて、吸血鬼の真似事を!初対面でしたよね、私達」
「……ああ。その節は済まなかった。本当に申し訳なく思っている。何か償わせてくれ」
怒り心頭で向かっていた私に心から詫びてきた彼に戸惑う。だって、本当に悲痛な顔をするんだもの。この顔を見るに、悪い人ではなさそう。
ああ~もうっ!「……もういいです。それで、あなたはジャンヌ、さん?」
「ああ、ジャンヌ・ダルクだ。よろしく頼む。お前はユイだな。伯爵から聞いている」
ジャンヌ・ダルクか……。この顔を見て思った。だからこのニックネームになったのだと。女みたいだけど男!実際のジャンヌ・ダルクは女のはずだけど。
昨夜の燃えるような面影はどこにもなく、けれどあのミステリアスな雰囲気は顕在。
「ジャンヌさんて、剣、お強いんですよね?」
相手が女だったら勝負を挑むような事はしなかったけれど、男ならいいよね?名乗るからにはそれなりに強いって事。運動不足を一挙に解消と行こうじゃない!
「償いたいって言ったでしょ?お願いします!」
困った顔のジャンヌさんを引っ張って庭へ向かう。
掴んだ彼の手が、手袋越しにもやけにひんやり感じる。冷え性なのかな?
「ジャンヌさん、手、冷たいですよ?顔色も悪いし、ちゃんと食べて、ちゃんと動いて、血行良くした方がいいですよ!」
人一倍顔色が悪いこの私が言うなって?だけど私、こんなに手冷たくないもの!
芝が広がる開けた場所まで来て、向かい合う私達。
「正気か?ユイ。だとしたら、俺も舐められたものだ!」
「確かにそうかもね」あなたの力がどれ程か、未知な以上は。「西洋の剣は初めてなの。日本刀なら経験があるんだけどね」
そうなの。私ってば武道全般大得意?一体どんな暮らししてたんだか……。記憶はあやふやだけど、こんな状況に血が騒いで仕方がない!
「剣は使わない。どうしてもやるならこれを使う」
彼が私の方に放って寄越したのは、日本でいう竹刀のような木製の棒。
「全く子供騙しね!テンション下がるじゃない……。まあいいわ」
私はそれを掴んで高く振り上げ、そして振り下ろしてみた。それなりに重さはある。ちょっと物足りないけど、鈍り切ったこの身には十分か。
「……なかなか、腕力はあるようだ」彼は私がその重い棒を振り回せた事にまず驚いた。
もっと度肝、抜かせてやるわよ?「いざ、尋常に勝負!」
間合いを一気に詰めて、斜め下から振り上げる。こうする事で懐がガラ空きになるのを防ぐ。意表を突かれた様子の彼に、間を置かず今度は真上から攻撃する。
横向きにした棒で防御されたので、続けて棒の柄で脇腹を狙う。
「くっ!やるじゃないか……」
「まだまだ!本気出してないんでしょ?」
立て続けの攻撃を受け、ジャンヌさんがついに動いた。構え直す私に、不敵な笑みが向けられる。
……しまった、目を見ちゃったじゃない……ああ、また。催眠術が!
後ろに後ずさった時、下に転がっていた石に躓いて体が傾く。お陰で視界から彼が消えて、晴れ渡った青空が見えた事で、自由を取り戻す事ができた。
いつの間にか至近距離にいたジャンヌさんの胸倉を掴んで、そのまま後ろへ共に倒れ込み、巴投げをお見舞いする。
「っ!痛いじゃないか……反則だぞ、今のは!」
「あら。そんなルールありましたっけ?」
二人で芝に転がって言い合っていると、どこからか拍手が聞こえてきた。
「ケンカしてるのかと思ったよ。ユイ、君は強いんだね。驚いたよ」
「サンジェルマンさん!いやだ……、いつから見てたんですか?」
「君達が連れ立ってここへ来るくらいからかな」
それって最初からって事じゃない!それにしてもこの人は、いつも邸にいるのかしら。
「ジャンヌ、珍しいね。こんな事に付き合う君じゃないだろうに」
「昨夜の詫びに付き合ったまで。まさか、試合を申し込まれるとは思わなかったが」
「そして君が負けたんだね。ふふふ!とても面白い物を見させてもらったよ」
上機嫌の伯爵に対し、不機嫌な様子のジャンヌさん。
ジャンヌさんが私に手を差し伸べた。
「ユイ、剣術では負けない。もう一度、今度は純粋に剣で勝負だ」
「おいおいジャンヌ、見苦しいよ、やめないか」伯爵が苦笑しながら止めに入る。
「しかし!」
「ほら、ユイ。服が汚れてしまっているよ。着替えて来なさい」
「え、でもまだ……」
もうひと勝負やっても良かったのに!そうよ。催眠術さえ使われなければ、剣術だけでも勝てるかも?
けれど武器を伯爵に奪われ、有無を言わさず邸へと誘導されてしまった。
「ああん!またやりましょうね、ジャンヌさん!約束よ!」
後ろ姿のジャンヌさんに向かって叫ぶと、後ろ手を振って彼は消えた。
「ユイ。君がそんなにお転婆だとは知らなかった。もう少し、大人しくしていなさい。私は君の体が気がかりなんだ」
「私の体?……別に何ともないけど」
立ち止まってこんな事を言うサンジェルマンさんに、首を傾げながら答える。
「それで、ナポレオンとは話せたのかい?」
「あ~っそうだった!!忘れてた」
肩を竦めたサンジェルマンさんが力なく笑った。呆れられたかな……。猪突猛進って、仏語で何ていうの?思い立ったらそれしか見えないんです!
サンジェルマンさんと別れて自室に戻り、着替えを終えてナポレオンを探しに邸内を歩き回る。
前方に人影が現れた。あの風貌は昨日の晩餐会に出ていた……確か、アイザック・ニュートンさんだ。一対一なら、目も合わせてくれるだろう。
「あの!済みませんっ、アイザックさん、ですよね?」
声をかけると、私を見た途端にまたも目を反らす。
構わずに話を進めた。「ナポレオンを探してるんだけど、知りませんか」
ポケットに手を入れてそっぽを向いたままのアイザックさんだけど、立ち去る気はないらしい。
しばらくして彼が振り返った。初めて目が合った気がする!若干嬉しい……。
この人の目もとても美しい。ここの人達はどうしてこう美形揃いなの!俳優養成所か何かか。
それにこのキラキラの瞳は一体……?またも釘付けになる私。日本人とは瞳の色が異なるからという理由だけでは、片付けられない気がする。
「ナポレオンさんなら、いつもの場所に行ってる」
「っ!……えっと、いつもの場所って?」突然聞こえた返事に、ビクッと我に返る。
「俺もこれから行くから、一緒にくれば」
「え、いいの?」
「嫌だったら誘ってないと思うけど」
それもそうだ。どこか照れくさそうに言う彼。もしかして、人見知り?なら良かった、嫌われていた訳じゃないって事だ。大体、意味もなく嫌われたりしないよね。
意味もなく……嫌う?
この時、何かを思い出しかけた気がする。もう少し粘れば良かったのに、私はアイザックさんについて行くのに必死で、それ以上は考えなかった。
彼と共に馬車に乗り込み、辿り着いた場所は街の路地裏の一角だった。そこは煌びやかな雰囲気は全くなく、庶民的な場所だ。
「ここ?」
「そう。少し遅れた。子供達が待ちくたびれてるな」
「子供達?」
「ここで学問を教えてる。学校に行けない貧しい子達にね。ナポレオンさんは剣術を」
「そうだったの」
一気にアイザックさんへの見る目が変わる。
何て奉仕精神に溢れた人だろう。ステキ!私も何かお手伝いできないかなぁ。
とある建物から、子供達が飛び出して来た。
「アイ先生、遅刻だぞ?遅刻したら廊下に立たされるんだからな!」
「ああ、悪い悪い、さあ、中に入って。昨日の続きをやろう」
早く早くと急き立てられて、アイザックは行ってしまった。
ナポレオンはどこにいるんだろう。辺りを見回すと、その先の路地で数人の子供相手に仁王立ちしている彼が見えた。
「いたいた。私も混ぜても~らおっと!ねえ、ナポレオン!私も入~れてっ」
声を張り上げて手を振ると、振り返ったナポレオンは酷く驚いていた。
「ユイ?何でいるんだよ」
「アイザックさんに連れて来てもらった。子供達に剣術教えてるって?私も混ぜて!」
「おお~、ナポリオーネの恋人か?やるぅ~!」
「ナポリ、オーネ?」
彼は子供達に別の名前を使っていた。どうしてナポレオンと名乗ったらいけないの?
「お前、伯爵と出かけたんじゃなかったのかよ」
「出かけたよ。身の回りの必要な物を買っていただいたの。ほら私、何も持ってなかったから」
「それだけ?」
「そう。それだけ。何で?他に何かある?」
「っ!…………いや」
「も~、何よ、ナポ……リオーネったら!」
子供達の前でナポレオンはマズかったんだ。ここはとにかく合わせよう。
「細っせ~ネエちゃんじゃ、相手になんねぇよ。なあ?ナポリオーネ」
「あら。言ってくれるじゃない?試しにかかって来なさい」
「おいおい……ユイ、やめとけって」
「平気。任せて」
苦い顔をするナポレオンをよそに、私は子供達と向かい合って立つ。
「皆纏めて来てくれてもいいけど、手加減できなくなるから一人ずつにしよっか」
「ハハッ!よく言うぜ!」
お手並み拝見と、ナポレオンは傍観する事に決めたようだ。見てなさいよ?
まず始めの子が私に掴みかかって来た。中腰になって受け止め、軽く足を掛ける。
「うわぁ!」
「はい、次っ!」
次の子はレプリカの剣を持っていた。私は素手だったけど、剣先に集中している男の子の横に並んで手首を掴み一捻り。剣は地面に転がった。
「次!」
「ダメだな、お前ら!よ~し、負けるもんか!」
最後の子はちょっと筋が良かった。一番大きな子で、なかなかの剣捌き。なので、さっき転がした男の子のレプリカ短剣を拾って応戦する事にする。
「ダメじゃない!ほら、懐がお留守よ!」
「ゲ!やられたぁ……!」
「ガブ、だからいつも言ってるだろ?脇を締めてかかれって。やるな、ユイ!驚いたよ」
どうやら彼と同じ箇所を指摘できたらしい。こちらこそ光栄です!恭しくお辞儀してみた。
「お姉さん、強いね。何で?」最後に戦った子が、目を輝かせて私に聞いてくる。
「それは決まってるでしょ。……ああそれと、私、ユイね。よろしく!」
「ユイか。変わった名前だな。俺はガブローシュ。ガブでいいよ!ねえ、それで決まってるって何?」
ナポレオンまで興味深げに答えを待っている。
「鍛錬を重ねているからよ。あなたも頑張って!」
ガブは私の単純な答えに舌打ちした。もしかして、一瞬で強くなる方法があるとかって期待した?か~わいい!
「ナポレオン、こんな事いつもしてたのね。知らなかった」
「時間は腐るほどあるからな。他にこの世界に対して、有益な事は何もしちゃいない」
どことなく愁いを帯びた言い方だった。まるで、好きで生きている訳じゃないとでも言うように。この人は何か、とても深い闇を抱えていそうだ。
だけど時間が腐るほどあるなんて、どうも違和感を覚える言い回し。
「ユイ?どうかしたか。ポケーっとして」
「……え!ううん、何でも!ところでナポレオン、私の事で何か落ち込んでるって聞いたけど。私、昨夜何かしちゃった?」
ナポレオンはバツが悪そうに頭を掻いている。
「覚えてないけど、もしそうならゴメンなさい!」
「別に何もねぇよ。それに、覚えてないのに謝られてもな!」
ナポレオンが私の頭に手を乗せてきた。
「ちょっと……やめてよ、そういうの!」
私はなぜか頭を撫でられるのが好きじゃない。背が低い事をコンプレックスに感じているからかも。私の背はナポレオンの肩くらいまでしかない。
「ちっちゃくて可愛いよ、お前は!あはは!」
ナポレオンがこんな事を言って笑った。
って何?って事は、この間のレオナルドさんとの会話の時も、小さい事を可愛いって言っただけ?失礼しちゃう!