セバスさんのお手伝いに精を出しては、不安を紛らわせる毎日が続く。相変わらずここへ来た経緯も判明せず。何か大事な事を忘れているようで、不安は募る一方だ。
けれど、こんな不安の中でも何とかやって行けてるのは、ここの人達が皆親切でいい人だから。とにかく今はここで頑張るしかない。
とは言え、結構楽しくやっているのよ、これが!
「そろそろ、庭の水遣りでもしよっかな~」
二階の廊下から下を覗く。誰もいない事を確認して、窓枠を乗り越えた。
「よっと!」
勢い良くジャンプして、いつもなら華麗に着地するんだけど……今日は違った。
私は誰かに抱きとめられていた。
「きゃあ!ご、ごめんなんさいっ!誰かいたなんて、分からなくて……っ」
「何が降って来たのかと思ったら……可愛らしい小娘じゃないか!ユイ、だったな。大丈夫か?」
「あのっ、降ろして、ください、ませんか……?」
いつまでも抱き上げられたままで、目のやり場もなく両手を胸の前で握り締める。
レオナルドさんは軽々と私を横抱きにしたまま、降ろしてくれる気配がない。
「身を乗り出しすぎて落ちるなんて、どうなんだ?アンタ、案外慌てん坊だなぁ!」
「お言葉ですが、落ちたんじゃなく、飛び降りたんです!」ここは訂正しないと。
「飛び降りただって?自殺でもする気か。太宰といい、日本人は自殺願望が強いのかね?」
「違いますっ!玄関に回るの面倒なので。手っ取り早く移動しただけです」
ここのお邸が広すぎるからよ?
あ~あ、とうとう見られた。誰もいないと思っていたのに。これはさすがに怒られるでしょ……。
そう思った時、豪快な笑い声が響いた。
「実に愉快だ、ユイ!気に入った。今度の夜会のお相手に、アンタを指名しようじゃないか」
「や、かい?」
「そのうち伯爵から招待状が配られる。楽しみにしてるよ、じゃ、急ぐんで失礼」
ようやく降ろしてもらえた。
相変わらずのキラキラ光る魅惑的な瞳で私を動けなくさせたまま、レオナルドさんは颯爽とマントを翻して去って行った。
「絶っ対に誰もいなかった!……あの人、一体どこから現れたの?」
腑に落ちない。しかもキャッチされるなんて!レオナルドさんて何者?
腰が抜けたのか、私はしばしその場に情けなく座り込んだ。
それからすぐに、レオナルドさんの言っていた招待状が私に手渡された。
呼ばれて向かった伯爵の書斎にて、封書を手に戸惑う。
「本当に私なんかが、いいんですか?サンジェルマン伯爵のお知り合いって、政治家とか著名人とか……とにかく凄い方達ばかりでしょ?」
「そんなに気負う事はないんだ。私が主催する会だからね。気軽に出席してくれればいい」
「でも……そんなのに、出た事もないし」
気軽にって言われても私は一般庶民、そもそも住む世界が違いますから!
「君もここへ来て二週間だ。大分この時代にも慣れてきたよね。せっかくの機会は楽しまないと!それにほら、この間買ったあのパーティドレス、まだ着てないだろ?君のドレス姿、是非見たいな」
こんな彼の話し振りをどう表現したらいいだろう。一見強引な言葉に聞こえるけれど、説得されている感じは全然なくて、いつの間にか引き込まれているの。
何事も楽しむのは私のモットーでもあるけれど。でもこれ、ある種の催眠術かも?ただひたすら骨抜きにされた、とも言える……。
「大丈夫、私がちゃんとエスコートするから」止めの一言が降って来る。
エスコートだって!どうしよう、本当に社交界デビューしちゃう感じ?
ほらこの通り、私ったらすでにその気になっているんだから。大した催眠術だ。
「他にこのお邸から、誰か出られるんですか?」
レオナルドさんが言っていたのはこの夜会だろう。サンジェルマンさんのエスコートを受けたらまずいかなぁ。私をお相手に、とか言っていたし……。
「ああ。レオナルドが来るよ。一緒に会場まで行くつもりだ。だからユイも、いいよね?」
やっぱりだ。どうしよう……。言っといた方がいいだろうな。
「あの!実はレオナルドさんが、私をお相手にって言ってたんですけど、どうしたら……」
「おや。もう申し込みを受けていたのかい?レオナルドめ侮れないな、いつの間に!」
こんな事を言いつつ、サンジェルマンさんはとても楽しそう。
それについての答えはもらえなかったけれど、私は出席する事にした。大人な二人だから、きっと上手くやってくれるだろうと思ったので?
こうして夜会当日の昼過ぎ。
食堂に運ぶよう命じられた飲み物を、盆に載せて持って行く。
「お待たせしました。……あれ?グラス用意してませんでしたね、スミマセン!今お持ちしますね」
テーブルにはグラスはなかった。てっきりセッティングされてあると思っていた。
「必要ない。それをそこに置いてくれればいいよ。ありがとう」
サンジェルマンさんが柔らかい笑みを浮かべて言ってくれる。
ビンはやや大きめ。いつでも優雅な伯爵がラッパ飲みする姿はあまり想像できない。
気を遣ってくれたのかな。
そこへレオナルドさんが入ってきた。
「ああ喉が渇いた。お?いいところに来たようだ」
そう言って、真っ先に白い物が入ったビンを手に取るレオナルドさんに、伯爵が目配せをしたように見えた。どちらも口を開かない。その光景は、何だか異様に見えた。
「ユイ、悪いが、やっぱりグラスを持ってきてくれないかな」伯爵が私を見て言った。
「はい、ただいま!」
そうでしょ?やっぱりラッパ飲みは下品だって気づいたのよ。まあ、私なら間違いなくやるけど。
私はすぐに食堂を出て厨房にグラスを取りに戻った。
・・・
「レオナルド!気をつけてくれないと困るよ。彼女は何も知らないんだよ?」
「俺が何かしたか?これを飲んでる姿を見ても、何も気づきはしないさ」
「しかしだね、それの主成分は……」
「何もあの小娘のって訳じゃないんだ。気にしすぎだ、この心配性め!」
レオナルドは鼻で笑いながら、一気にブランを飲み干す。ほんの一瞬、彼の瞳が怪しく揺らめく。
この二人は昔ながらのヴァンパイア仲間。彼等を転生させた生みの親は別々で、永遠の命を与えられてから出会っているのだが、気の遠くなる程昔の事だ。
それだけ長い付き合いの二人だが、性格は全く違う。
伯爵はため息をつくと、ドアを見つめた。グラスを取りに行かせた以上、自分は飲むのを待たねばならない。
「あいつのいないうちに飲んじまえよ」
「そういう訳にはいかないだろう?」
「あいつの前で飲むなって言ったのはアンタだぜ」
しばし沈黙した後、伯爵が目の前のブランの入った瓶を手に取った。
その時、バタバタと廊下を走る音が響き、勢い良くドアが開いた。
「これはまた威勢のいい……。フフ!こういうところが気に入ってるんだ」
「ユイ。そんなに急がなくてもいいんだよ?」
息を切らせた彼女がテーブルの瓶を凝視する。
……何か気づいてしまったのだろうか?とにかく彼女の言い分を待つとしよう、伯爵は思う。
「それ!もう飲んじゃったんですか!グラス持って来たのに……ってそんな事はいいんです!」
「何だ何だ、どうした?」
面白そうに尋ねるレオナルドだが、伯爵は真剣そのもので次の言葉を待つ。
「その中に、毒が……」
「毒?」思いがけない言葉が出て、レオナルドが首を傾げる。
「惚れ薬っていうけど……毒に決まってる!吐いて、今すぐっ!」
ユイはレオナルドに詰め寄り、両手を顔に当てて覗き込む。その拍子に未だ揺らめいている彼の瞳をもろに見てしまう。
そしてレオナルドも、彼女を見つめて時が止まったように動かない。
「また……やっちゃった……じゃない」この一言の後、レオナルドとともに固まるユイ。
そこへ珍しくセバスが息を上げて駆け込んで来た。「ユイ!回収できましたか!?」
「セバスチャン、これは一体どういう事かな?」
「伯爵、飲まれませんでしたよね?」
「まだだが。レオナルドは飲んだよ。一気にね」
セバスの顔が蒼白になる。「そんな……。ユイ、レオナルドさんから離れて!」
「む、無理……みたい」
先程運ばせたブランにどういう経緯か、惚れ薬が混入していた可能性があると仕入先から連絡が入った事を、セバスが説明した。
「惚れ薬?なぜそんな物が。そもそも……」我々ヴァンパイアには効かないと言いかけて口をつぐむ伯爵。そして、レオナルドに向かって改めて口を開く。
「レオナルド、おふざけはやめるんだ。冗談好きの君がやりそうな事だな」
「あ~あ、バレてたか!しかし、惚れ薬を飲んだら一体どうなるのか?お前だって興味あんだろ。ここにいる異性はユイしかいない。好きになって困る事もないしな!」
「それは確かに、一理ある。実に興味深い」
「伯爵まで!ご冗談はおやめください!ほらユイも、ボーっとしてないで回収してください」
彼女はまだレオナルドの瞳に囚われている。すでに下半身に力が入らないらしく、その腰をしっかりとレオナルドが支える。
それを見ていた伯爵は、おもむろに瓶を掴み上げると一気に飲み干した。
「ああ、伯爵まで!何という事を……」
嘆きの声をあげたのはセバスただ一人。
「……どうにも、癪に障るんだよ!ユイ、こっちにおいで」
伯爵がユイの手を取ると、レオナルドはあっさり解放した。たちまち自分の元に引き寄せる。
今度は伯爵と見つめ合う羽目になるユイ。
「サンジェルマンさん……、足に、力が入らなくて……私、どうしたら……」
「もう大丈夫だよ、私の膝に座りなさい」
ユイは抗う術もなく、伯爵の上に腰を落とす。
「これじゃまるでユイが惚れ薬を飲んだみたいだな!セバス、心配するな。どうやら俺達には効かないらしいよ」
「そのようですね。驚かさないで下さい、お二人とも。伯爵、ユイをお願いしても?」
「ああ。構わないよ。君は仕事に戻りなさい」
一礼の後、セバスは部屋を出て行った。
「接近戦は、マズイんじゃないのか?」
「飲んだばかりなら、体温に関しては問題ないさ」
「……ねえ、何の話?」
膝の上に大人しく収まるユイに、まるで子をあやすように優しく答える。
「大人の話だよ。寒くはないね?ユイ」
「はい。とても、気持ちがいいです……んん……いい匂い」
息を大きく吸い込むと、ユイは本当に気持ち良さそうに伯爵の胸に頭を預けた。
「その姿、まるで飼い猫だな!」レオナルドがおかしそうに呟く。
少しして、ふと我に返るユイ。瞳から目が反れたからだろう。
「ヤダっ、私ったら!ごめんなさいっ、伯爵にこんな事……今降りますので!」
「行かないでくれ」
懇願するような瞳に、再び囚われてしまうユイ。「……あ、あの……」
「おいおい!伯爵サマまで、お戯れがすぎるぜ?」
「バレたか」
レオナルドの指摘に、伯爵がユイの体に回していた腕を解く。
不意に触れた彼女の左手で、例のリングが光っている。無表情でそれを見下ろす伯爵。
「……なあレオナルド。この石は、こんな輝き方をしていたか?」
レオナルドが腕組みを解いて二人に歩み寄る。
ユイの左手を覗き込むと、眉根を寄せて考え込んだ。
「いや~、どうだったかなぁ。何せ俺は、その手のモンにだけは疎くてね」永遠の愛など誓った事はないんで、と続ける。
「あのぉ……」ユイが困った様子で二人を交互に見る。
「ごめんごめん。今降ろしてあげよう」
伯爵は彼女を軽々と持ち上げて立たせた。
「おっと。そういえば、葉巻が切れてたんだった。俺は行くぜ」
「私も夜までに仕事を終わらせなければ。ユイ、部屋に戻って夜会に行く準備を。いろいろあるよね?女性は」
急な展開に戸惑うユイ。「え?ええっと……準備……?」
去り際に伯爵に、再び真正面から瞳を覗かれる。
「君のドレス姿、楽しみにしているよ」
すでにレオナルドの姿はなく、そして神々しい笑みを称えた伯爵も出て行った。
呆然とするユイだけが食堂に取り残される。
「何だったの、今の……。この指輪の石って、何か変なの?」
先程の二人のやり取りが、全く理解できないユイなのだった。
・・・
ぼんやりしながら自室に戻る。
結局、惚れ薬なんてなかったんじゃない!何でもありのこの世界とはいえ、いくら何でもね。
「だけどレオナルドさんの瞳、やっぱ苦手!何か策を練らないと、この晩を乗り切れないわ」
ベッドにドサリと腰を降ろす。
それにしても、あのサンジェルマンさんの香りは一体何なんだろう。とても心が休まって、何もかもどうでも良くなる……まるで麻薬みたい。って、麻薬使った事はないけれど!
それでも、あんな香りを私はどこかで嗅いだ事がある気がしてならない。
「準備ったって、別にないのよねぇ~。そんなに厚化粧もしないし!そうだ。あのドレス、着てみようかな」
ドレス姿を楽しみにしてるなんて……。こうなったらそれなりに着こなさなくては。
クローゼットから取り出して良く見ると、そのドレスは背中で紐を結ぶタイプ。とても一人では着られそうにない事が判明。
「どうしよう……。いざとなったらセバスさんにでも結んでもらおっと」
時間まで、私は考え事に
けれど……そのまま机に突っ伏して寝ていた。
「いっけない!今何時よ!?支度しないと……っ」
出発時刻が迫っていた。慌てて服を脱いでドレスに足を通すも、案の定紐が結べない。
ああん!誰か来て!
「ユイ。準備できたか?」心の声が聞こえたように、人が入って来た。
レオナルドさんだ。こんな姿を見られるのはイヤだけど仕方がない。
「あの……良かったら、手を貸してもらえませんか」
「もちろん。伯爵も意地が悪いな!こんなドレスを着させるとは。自分が結んでやろうと思ってたんだろうが?早いモン勝ちだ」
「……お二人って、付き合い長いんですか?」紐を結んでもらいながら尋ねる。
「ん?ああ。二百年は経つかなぁ」
ふざけてるんだと分かって平然と返してみる。「へえ、思ってたより短いですね!」
一瞬、レオナルドさんの手が止まった。
その時、もう一人部屋に入って来た。
「レオナルド。こんな所で何をしている?」
「噂をすれば何とやらだな!お前こそ、これを結びに来たんだろ?残念だが、そのお役目はいただいたぜ」
「女性の着替えている部屋に入るとは、紳士じゃないね、お前は」
「そういうアンタだって入ってるじゃないか」
「私はいいんだよ。ここは私の邸だよ?」
マズイ、言い合いが始まっちゃったみたい……。
「あのっ!もう大丈夫ですから、お二人とも外で待っててくださいっ!」
これは失礼、と二人は声を揃えて言う。そして目を合わせている。無言で部屋を出たものの、今度はそれについて真似をするなとか、それはこっちのセリフだとか言い合いしている声がしばらく聞こえていた。
「仲がいいんだか悪いんだか……。困った人達!」
支度を終えて外に出ると、いつもより豪華な四輪馬車が停まっていた。
「来たねユイ。さあ、お手をどうぞ」サンジェルマンさんが手を取ってくれる。
「ありがとうございます」
「とても綺麗だよ。やっぱり良く似合う、私の目に狂いはなかった」
私を眺めて満足そうに言うサンジェルマンさんに、私も嬉しくなる。良かった、ちゃんと着こなせているみたい。
馬車の中に入ると、すでにレオナルドさんが乗っていた。
「これは見違えた、見事に大人の女に化けたな。……本当に不思議なヤツだ、アンタは」
ちょっと口紅の色、きつかったかなぁ。そんな事を思いながら聞き返す。「不思議って?」
「年齢不詳ってことだよ」
「それはお二人の方ですよ~!一体、何歳なんですか?」
最後に馬車に乗り込んだ伯爵が透かさず指摘した。まるで話題にされたくないかのように。
「レオナルド、女性に年齢を聞くのはマナー違反だよ?」
「おいおい!聞かれてるのは俺なんだが?」
「ユイ、我々はどちらも三十三歳だよ」
「そんでもって勝手に暴露かよ!」
「何も問題ないだろ?それでユイは、二十歳くらいかな?」
「お~い!マナー違反なんじゃなかったのか!」
「レオナルドさん、お気になさらず。私は二十二、に、なりました……確か誕生日が来たので」
そうだ。誕生日を、誰かが祝ってくれたような……誰だっけ?
「そうなんだね」
何かを思い出しかけたのに、伯爵があまりに眩い笑みを投げかけてくるから、また何も考えられなくなってしまった。