絵の女性と生身の女性、どちらがいいか? 〜現代のピカソが三次元に恋をするまで〜 作:チャンドラ=グプタ
由衣夏と一緒にヌードデッサンを行った日から一日が経過した。
今日は日曜日であり、いつもなら十時過ぎまで寝ているが、陽毬との約束があるため早めに起きて支度し、陽毬の家の前まで来ていた。
白と黒の鮮やかなコンストラストから成り立つその大きな家は相変わらず入るのを拒むような威厳がある。
『そのまま家の中に入ってくれ。そして私の部屋に来てくれ』
ドアの横にあるインターホンから陽毬の声が聞こえた。扉はすでに鍵が空いており俺は中に入る。
靴を脱ぎ、置いてあるスリッパを履き、陽毬の部屋に向かう。
扉の前に到着すると、『コンコン』と二回ノックした。
「どうぞ、ピカソくん」
入室の許可を得た俺は早速、部屋の中に入る。陽毬の部屋に入るのはこれで二回目となる。
セミロングのオレンジ色の髪、ややつり目で整った顔立ちの女性――俺を、いや俺たちをゲーム作りに誘った張本人、姶良陽毬は椅子に座り、無表情で俺のことを見ていた。
「おはようございます。陽毬さん」
「おはよう。どうか適当なところに座ってくれ」
俺は陽毬の言う通り、テーブルの近くに置いてある椅子に座った。
「それでシナリオのことで話があると言うことだが、どういった内容かな?」
「はい。簡単に言うと、シナリオを書き直して欲しいんです」
我ながら不躾な要望をしていると感じため、もっと渋い表情をされると思っていたが、予想に反して陽毬は挑発的に微笑んでいた。
「そうか……あんまりお気に召さなかったのかな?」
「いえ、ストーリー自体は主人公が刺されたり、ぶっ飛んだところもありましたが、個人的には楽しめました。ただエロシーンが多すぎると思います」
「エロシーンが多すぎるか……だが、君の絵の真骨頂はヌード絵なんだ。だからこそエロシーン、特に全裸が映えるシーンを考えた。それがお気に召さないということか?」
「はい」
俺ははっきりと答えた。断固としてシナリオを変えてもらうことを譲る気は無い。
「では具体的にどういう風に直して欲しいのかな?」
「まず、エロシーンは出来るだけカットし、遊園地とか水族館とかでデートする、そんな風に変えて欲しいです。あと……メインヒロインを一人追加して欲しいんです。妹ではないメインヒロインを」
俺が意見を述べると、気のせいか陽毬の表情が少し険しくなったかのように思えた。
「妹ではないメインヒロインを加えて欲しいか……私の予想だが君は恋をしたのだな。絵の女性では無い生身の女性に」
「……」
俺はあえて何も言わなかった。俺が何も言わないことを同意と捉えたのか陽毬はさらに話を続ける。
「誰なのかは……大方予想がつくが、君はヌードデッサン以外の絵でどんな絵が描けるようになったのかな?」
そう聞かれると俺は思って『あるもの』を持ってきていた。
持ってきていた鞄の中からスケッチブックを取り出す。
いつもヌードデッサンする時に使っていた例の黒いスケッチブックではない。
昨日から新しく使い始めた黄色いスケッチブック。この中には俺の進化の証が示されている。
「これを見てください」
俺は昨日書いた絵を見せた。明梨をモデルに描いた絵――ただし、ヌード姿ではなくきちんと服を着ている。
陽毬はじっくりと絵を鑑賞した。ページを捲る。明梨の絵以外にもパソコンで女優の写真を検索し、それをモデルに何枚か描いてみた。
「なるほどな……確かに見事な絵だ。ヌード絵と比べても遜色のない出来栄えだ。だが……」
陽毬はスケッチブックを勢いよく閉じ、俺に投げ渡してきた。
「つまらない……実につまらないよ。ピカソくん」
「ど、どういう意味ですか?」
「私はね。ヌード絵を描いてる君が好きだったんだ。ヌード絵を描いている君はハタから見たら変態そのもの。だが、ヌードデッサンに掛ける思いは本物だった。だからこそ、君の絵は宝石のように輝いていた」
そんなことは自分にだって分かっている。
かつての俺は女性のヌードを描くことだけが生きがいだったと言ってもいいだろう。
「今の絵は……そうでないということですか?」
「ああ。確かに今見せてもらった絵も素晴らしいものだったよ……だが、昔のような情熱が失われていると思う。私は君の情熱に満ちたヌード絵を最大限に生かしたゲームを作りたかった……なのに……なのに……」
表情こそ変わらなかったがなんと陽毬の目から涙が溢れていた。
さすがに予想外の出来事でどうしたらいいか分からなくなる。まさかいつも人を喰ったような態度を取ってくるこの人が泣くとは夢にも思わなかった。
陽毬は涙を手の甲で拭うと俺に背を向けた。
「悪いが今日は帰ってくれ。ゲーム作りは……中止にする。他のみんなには私からそう伝えておく」
「な……何を言ってるんですか! 自分から言い出しておいて!」
「いいから帰ってくれ!」
鼓膜が痛くなるような陽毬の激しい声が部屋に轟く。
今は何を言っても無駄か。
「分かりました」
俺は陽毬の部屋から出るとすぐに家を後にした。
まるで鉛のように重たい足を引きずりように歩き、自宅を目指す。
まさか、陽毬がゲーム作りを中止だなんて言うとは。さすがに予想外だ。
俺の中での変化をここまで拒否するとは思わなかった。
ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴り響く。画面を確認すると相手は澪であった。
「もしもし?」
「もしもし!? 湊くん大変だよ! さっき陽毬さんから電話があって、ゲーム作りを中止するって! 陽毬さんったら、どうして中止するんですかって訊いても全然教えてくれないし……」
「ああ、うん……」
「湊くん。もしかして……理由を知ってるの?」
「まぁな」
俺が答えると澪はしばらくの間無言になった。やがて、再び言葉を発する。
「今から湊くんの家に行ってもいい?」
「おじゃまします」
一度家に帰宅し、待つこと三十分、澪がやってきた。ちなみに明梨は友達と遊びに行っているため家にはいない。
「ああ、入ってくれ」
澪を自分の部屋に案内する。澪はテーブルの近くに正座した。
「それじゃ、湊くんも座って」
「お、おお……」
俺も澪に向かい合うように正座した。澪は軽く青色の髪をいじりながら俺のことを凝視した。なんだか落ち着かない。
「湊くん。説明してくれる? 陽毬さんがゲーム作りを中止するだなんて言った理由。陽毬さんに聞いても一心上の都合としか答えてくれないし……私、めっちゃ頑張って絵、描いてたんだよ!」
澪は相当ご立腹のようだ。そりゃそうか。最初こそ嫌嫌ながら付き合っていたものの、自身の葛藤を乗り越え、ようやくやる気を出した矢先に中止にするだなんて言われれば誰だってそうなる。
「俺のせいなんだ……」
「湊くんのせいって?」
「俺がシナリオの変更を頼んだから……俺が変わってしまったから……俺が……二次元の女性よりも……」
断片的に俺の説明を訊いていた澪が訝しんだ。
「湊くんが? 二次元の女性よりもどうしたの?」
「生身の女性を……好きになってしまったから」
はっきりと澪に告げた。自分の体質が変わったことを。
澪は俺と同じ、絵描きであり、同じ美術部だからちゃんと伝えなくてはならない。
「そうなんだ。大体、分かったよ。湊くんに好きな人が出来たからもう……前みたいなヌードデッサンはできないってことなんだね」
「その通りだ」
「それで、誰なの? 湊くんが好きな人って。あ、いや実は大体分かってるんだけどさ」
澪は少し悲しげに微笑む。少なくとも自分ではないことを察しているようだ。
「悪いがまだ言えない……そもそも本当に好きなのかまだ自分で分かってないのかもしれない」
「そっか。まぁいいよ。それより、その人を好きになってからは何か絵を描いたの?」
「ああ」
「それじゃ、私にも見せてくれる?」
俺は澪にスケッチブックを渡した。何枚か描いた服を着た明梨や他の女性の絵。
ヌードデッサンの時と同じくらい真剣に線の一本一本まで丁寧に描き込んだ。色も細心の注意を払って塗っており、ヌードデッサンに引けを取らないくらいの出来だと自負している。
「どう……かな?」
「うん、すごく良い絵。やっぱり湊くんは天才だと改めて思ったよ。だけど、この絵はまだ『足りない』ね。これじゃ普通に良い絵だよ」
足りない――澪にそう言われて頭をバッドで投げられたような衝撃を感じた。
「足りない? ど、どこが……足りないんだ?」
「それは自分で考えて。答えが分かればもう一段階進化できるよ。湊くん……いや、ピカソくん。一皮剥けたら改めて一緒に陽毬さんを説得しに行こう!」
澪は立ち上がると「私、帰るね」と告げ、扉に向かっていった。
俺は澪の背中をじっと見ていた。澪は扉の前で立ち止まると、俺の方を振り向いた。
「私……湊くんのことが大好きだったよ! 同じ美術部として……尊敬する画家として……男性として……!」
澪の瞳には涙が流れていた。告白を終えると、澪はそそくさと部屋から出ていった。
分かっていた。そんなこと最初から。ヌードデッサンに付き合ってくれた時から。
だけど、俺はそんな彼女の気持ちを利用していた。本当に浅ましい男だ。死んでしまいたい。
だが、それでも俺にはやらなければならないことがある。
「俺は……進化してやる」
俺は画家として、『現代のピカソ』として更なる高みを目指す。