笑いが漸く収まったらしいベックが、私の頭を撫でる。その手は昔と何も変わってない。
安心できる手であり、守ってくれると信じられる腕。でも今は、そればかりでもないと知っているのだけど。
「それにしても、人聞きの悪い言い方をするなよ。俺はまだ、ナミを抱いちゃいねェぞ」
「へ?」
「確かにお頭の暇潰しを任せて、結果論日中ずっと戦闘訓練はさせたが……さっきの言い方だと……俺に犯されたかのように取れる」
その言葉で顔が熱を持つ。ベックは、言葉通り私を今も抱いては居ないけど……。
それにしても、私はそんな意味で言ったんじゃないのに。どうしてそうやってベックはぁー!!
「そんなつもり、なかったわよ!!」
「知ってる。……まァ、俺としては誤解をナミから広げてくれるなら、嬉しいだけだから安心してくれ」
何が安心できるって言うのよ!と、言いたくなるのを飲み込んで、私はそっと息を吐き出す事で気持ちを落ち着かせる。それからもう1度ペンを持ち直してベックを見上げたら、優しく頷いてからベッドを顎で示す。
だから素直に腰掛ければ何処から取り出したのか、手渡されたカップ。蒸気と共に甘い香りが鼻を掠めて、何だろうかと覗き込む。
「柚子湯の蜜柑バージョンだ。風呂上がりにしては身体が冷たい。飲んだ方が良い」
「……ありがとう」
私を皆の所へ帰してくれない事を除けば、ベックは前と何も変わらない。優しくて、強くて、賢くて、信頼できる人。
なのにどうして、ベックを怖いと思ってしまうんだろう。大好きだし、信頼もしてるし、変わらない愛情を理解してるのに……。
美味しい蜜柑湯を飲みながら、使われてる蜂蜜が美味しい事に頬を緩ませれば愛しさを隠そうともしない眼差しとかち合う。その優しさが痛くて、私はその場の空気を変えようとメモ帳を手に問い掛ける。
「年末だから、準備かねて大掃除もしてしまいたいのよ。でもね、なんのイベントだと皆が働いてくれるか正直わかんなくて……」
「それで忘年会か。……悪くはねェと思うが。他に釣れそうな物が必要だな」
「……お酒なら、手に入れてあるのよ。結構珍しい物も含めて」
「目録はあるのか」
「うん」
貰ったお酒の目録はまだ手元にあるからと、胸元から畳んでいたそれを取り出してそれを差し出す。すると受け取りながら、何故か深い溜息を返されてしまった。
よく分からなくて首を傾げたら、じっと私を見ていたベックが1人で頷いて去って行く。本当に謎である。
せめておつるさんに連絡できないかなと考えて……下手したら戦争になると気付いてしまう。私は何も、ベックや赤髪の皆を嫌ってる訳じゃない。
私は海軍で共に過ごした人達も、この赤髪にいる皆も、どちらも喪いたくない。どうしたら良いんだろう。
「ナミ、蜜柑湯が口に合わなかったか?」
声に導かれるようにして視線を向けたら、ルーが肉を齧りながらその場に立っていた。そんなルーを見て、涙腺が緩む。
でも、なんて言えば良いのか、言っていいのかさえも分からない。そう思っていたからか、口をついて出たのは意味のわからない言葉になってしまった。
「おいし、かった……」
「……どうした?お頭に虐められたか?それとも、それ飲んだら帰りたくなったか?」
「え?」
「……あれ?ベックから聞いてないのか。その蜜柑湯の蜜柑、ナミの実家からベックが取寄せ……」
私は言葉を最後まで聞かずに部屋を飛び出した。別室は駄目だとか、海軍に帰れると思うなとか、そんな事しか言われてないのに……!
ベックはどうして、私にこんなにも優しいの?
私を甘やかして、なのに束縛して……私を、どうしたいの?
どうして、何も教えてくれないの!?
「ベック!!」
「ん?」
「さっきの、蜜柑……」
呼吸を乱しながら言葉を向ける私に、ベックの返して来る眼差しは優しい。昔から、全く変わってない。
そうよ、だから余計に分からないの。子供を見てる時と、今の私を見てるそれが少しも変わらないから……!
「ナミが顔見せた時、すぐに頼んでおいた。少しは心が落ち着くかと思ったんだがな」
「ベック!!」
思わず抱き着いた私を難なく抱きとめて、ベックは笑う。今苗木を送って貰うように手配してるからと言われて、ベックはただ、私に傍に残ってて欲しかったのだと漸く理解できた。
敵になりたくないと願い、戦いたくなんか無いと嘆く私の事をわかっていて……敵となるしかないその場所へ帰さない事で守ろうとしてくれてたんだわ。なのに、私……。
「ベック……!」
誤解して、冷たくして、我儘言って……どれだけ傷付けて、迷惑かけただろう。私、こんなに大切にされる資格なんて無いよ。
「私、ベックに、酷い事……!」
「酷くなんか何もねェさ。ナミは、俺を大切に想い続けてくれてる。俺はそれだけで充分だ」
「私、ベックみたいに、深く想ってな「ナミの愛情は、ナミが思うよりずっと深く強い。そんなナミが、子供の頃に〝友として〟贈ったそれを大切に使い続けてる時点で、充分すぎる」」
優しく抱き締めて、宥めるように背中を撫で続けてくれる。そうして落ち着いた私を襲って来た羞恥心に、対応できないでいればベックはそれを見越してか蜜柑の箱を示して食べていいと言ってくれた。
食べ始めた所で、忘年会についての原案を書類にしたと差し出されれば、それを確認しながら蜜柑を食べる事になる。安定した美味しさだわと思いながら、頬を緩ませつつ眺めた書類にあった単語で指が止まった。
「え?……これ、海軍、動かない?」
「その程度じゃ問題ねェよ」
「だってこれ……」
花火を打ち上げるとあるのだ。それも……文字を。
「私の名前は、不味いと思う」
「そうか?」
「うん、私が〝行方不明〟って事で結構な騒ぎになってるでしょ?」
「打ち上げたら、お頭は喜ぶと思うんだよな。心からそう思ってるだろうから」
確かに喜びそうだけど、書類には〝忘年会〟と〝お帰りナミ〟の文字が打ち上げられるとなっている。でも、本当に名前は不味いと思うのよね。
忘年会は良いけど、私の名前は本当に不味い。私も肩書きあったし……。
「海軍の方では、ナミは死んだ者として処理されてる。安心していい」
「え?」
「詳細は聞くな。ナミには、つらいだけだ」
優しく微笑むベックが、こんな時は素直に怖い。この人は、海賊なんだと痛感されられる。
何をしたんだろう。そうは思うけど聞けなくて、私は全て任せるわと言って持てるだけの蜜柑を手に部屋に戻った。
それから数日後、始まったのは盛大な宴。本当に全てを忘れろ!忘年会!等の文字が次々と打ち上げられる。
それを見て、その大量に打ち上げられる物の中に〝ナミお帰り〟があっても目立たないから問題無いと気付いてしまう。そうして、あの人がリスクを犯す筈無かったのだと肩から力を抜いた時、聞こえて来た会話に動きを止める。
「本当に副船長って怖いよな」
「いや、ヤソップさんのが怖いよ。背格好似てる女が居るってルーさんが呟いた瞬間に撃ち殺したんだぜ?」
「それの顔を岩で潰して海軍の制服盗んで、本部の近くにナミの乗って来た船に乗せて放流したんだろ。そこまでやるか?」
「まァ……幹部とお頭はナミ命だから……」
今の話は、本当だろうか。その人はまさか、民間人だったりしないわよね?
皆ならやりかねないから、多分本当なんだろうなと思ったらなんか泣きたくなって来た。私のせいで、人が……。
「ナミ」
「ベック」
「……知っちまったのか」
「うん」
こんな時、私とベックの間に主語は必要無い。それくらい簡単に、相手の考えは読み取れてしまうから。
だから当然、私の思考も筒抜けで、ベックは気にするなと首を横に振る。それが何だか物悲しい。
「あれは山賊だ。人の生命を平然と奪ってた奴だから、気に病む事は無い」
私には優しいこの人達が、ただ優しいだけじゃないと知ってる。でも、嫌いになんてなれる筈もないのよ。
私を育てたのは、導いたのは、支えてくれたのは、全て彼等だったから。そう思って見詰めれば、その瞳が不安に揺れているから、私はそっとその頬に手を伸ばしていた。
「ベック……あんまり、甘やかさないで」
「ナミ、つらいなら、見なくていいし、知らなくていい。今日は忘年会だ。忘れちまえ」
言葉とは裏腹に、寧ろ私に忘れて欲しいと言っているかのようなそれに、笑ってしまう。本当に……強くて、弱くて、賢くて、莫迦な人。
そっと抱き締めれば、震えているのに気付いてしまう。こんな弱さ見せられて、突き放せるような関係性じゃないって……分からない筈も無いのにね。
大切で愛しい人達に囲まれて、嫌な事も悲しい事も忘れる宴に酔いしれる。最愛の人を腕に抱いて……。