彼女が会いたいだと、一体、どういうつもりだ、後日、ナーデッル・カーンから詳しい話を聞いた後、男がが迷ったのも無理はない。
一度は愛した女なのだ、だが、詳しい話を聞いているうちに、仮面の下の表情は硬く強ばってしまうのは無理のない事かもしれない。
説明するナーディル自身も、だんだんとまずいと感じていたのだろう、声のトーンが少しずつ、沈んでしまうのは無理もない。
「夫ではなく、私を頼って、もう一度、舞台に立ちたいというのか」
最初のうちは怒りが、だが最期には呆れてしまう、肩をすくめてカップに口をつけようとして空になっていることに気づいた男は軽く首をふった。
「今更だよ、ナーディル、現実を見ろと彼女に言ってやれ、パリの舞台は、もう必要としていないとな」
それは少し冷たすぎやしないかと言いかけてナーディルは黙りこんだ。
彼の言いた事がわからないわけではない、歌姫になりたいと歌手を目指す女優やコーラスガールは大勢いるからだ。
一昔前なら多少の実力がなくともコネやパトロンの力で舞台に立つこともできただろう。
だが、近頃は外国から実力のある歌手やプリマがパリの舞台に立つことが多くなった。
そのせいか、現在のオペラ座の劇団員達は今まで以上に苦労しているのが現実だ。
「ナーディル、今更だ、もうオペラ座の怪人と呼ばれていたあの頃の私ではないんだ」
「だが、音楽に対する興味は」
勿論だと頷く相手にナーディルは言葉を続けた、彼女には会わないということでいいんだなと、すると仮面の男は頷いた。
「今の彼女は私の愛した音楽の天使ではないんだよ」
昔、あれほどまでに愛した彼女のことを、どうして、こんなに未練もなくと思いながら男は出掛けるよと席を立った。
数日前、町の広場でジプシー達の歌や踊り、人形芝居を見てからというもの、仮面の男は何度か足を運んでいた。
最初はエリック・ルイーズの後をつけて偶然だったが、今は違う。
ジプシーが自分たちであの芝居を考えたのか最初は不思議でたまらなかった。
昔、放浪していた頃、ジプシーと知り合いになり、短い間だった旅をしたことがあった。
金を出せばわかるだろうと思っていた、ところが、あの芝居は自分の祖母、祖父の話だ、昔から伝わる話だと言われて本当の事なのかどうかわからずじまいなのだ。
だが、ある日のこと。
どんな時でも二人の愛は変わらないと。
誓ってほしい、ただそれだけを。
ああ、愛しい人、今宵、私は。
その日、ジプシー達の芝居が終わった後、女が歌い始めた、真っ白な髪の女だ。
仮面の男は驚いた、その歌、歌詞に。
女が歌い終わると客よりもジプシー達が拍手をしてねぎらいの言葉をかけていた、もしかして仲間なのかと思ったが、ジプシー達が帰り支度を始めると女は手を振って彼らとは反対のホウへと歩き出す、男は後を付けた。
声をかけてどうする、何を聞けばいい、先ほど歌っていた曲は、いや、そんなことを聞いても、だが、しばらく歩いていると。
徒然、女は立ち止まると振り返った、もしかして自分が後を付けていることに気づかれたのだろうかと思ったとき、声がした。
「ここで会えるなんて」
嬉しさを隠しきれない声に仮面の男は驚いた、エリック・ルイーズだ。
並んで歩き出す二人の後ろ姿を見送ろうとしたが、わずかな躊躇いを振りきって気づかれないように男は後を追いかけた。
「突然、呼び出してすまなかった、ジリイ」
女性は仮面の男の顔を前にして、いいえと首を振った。
何か困っていないかと聞かれた彼女は、そんな事を聞く為に呼んだんですかと、睨み浸ける様な視線を男に返した。
「大丈夫ですわ、メグもダンサーとして、あなたのおかげです」
「そうか、聞きたいことがあってね、私の以前住んでいた場所だ、何か変わったことは」
「封鎖されましたわ、もしかして戻るおつもりですか」
「いや、それはない、ただ、パリの地下は迷路といってもいい、誰かが」
ジリイは一瞬、黙りこんだ、事件後、浮浪者がうろついて警察に捕まる事があった、だが、それも最初の頃だ、今は。
「死体が見つかりました、女性の切り裂き悪魔の噂をご存じですか」
呟く声が低くなった。
「ああ、最近、新聞を騒がせている、まさか」
「死体は警察が見つけましたが、犯人はオペラ座の幽霊で、本当は生きているのではないかと」
馬鹿馬鹿しいと男は肩をすくめた。
「まさか、私が、その悪魔だと」
あなたではありませんとジリイは首をふり、メグがと呟いた。
「大道具部屋で知らない男の姿を見たというんです、でも」
このとき、男は相手の不安そうな表情に初めて気づいた。
「一度だけなら、偶然だと思えるでしょう、でも、警察に話したところで」
男が無言になったことにジリイは言葉を続けると悪趣味もいいところだと男は呟いた。
「私に任せるか、その代わり、後始末は頼む、表には出たくないんだ」
酷くリアルな感じがする、これはゲームではないのだろうか、キーボードやコントローラーを使って動いているわけではない、自分の体を、手足を動かして動いているのが、だから疲労感があって寝ているのだ、寺院の中で。
地下は迷路のようで最初は迷ってしまった、だが、偶然に見つけた通路と出た場所がオペラ座と知ったとき男は喜んだ、沢山の衣装や作り物の道具、それに劇場は人の出入りが激しく身を隠すにはもってこいだ そう、幽霊が出るという噂のある場所だから尚更だ。
そして、楽しみも見つけた、次の獲物だ。
金髪のダンサー、名前は、ジリイ、メグ・ジリイといったか。
ジプシー達に交じって一曲歌った、何だかとても気持ちがいい、拍手ももらえて満足だ。
寺院に帰ろうとしたとき、声をかけられた、エリック・ルイーズ、シリア井高、正直怪我をする前の事をよく覚えていないのだ、だが、悪い人ではないだろう。
「ここで会えるなんて」
男の顔は全面、怪我、いや、火傷なのか、傷があり、肌の色も赤くて肉も爛れて盛り上がっている、初めて観た人は驚くだろうが、自分は驚かない、見たからだ。
本で、写真、いや、映画、舞台でオペラ座の怪人を。
一緒に歩き出してたわいない話をする、寺院の近くまで来たとき、ここでいいですと断ったのは誰かに見られたら、噂になったら嫌だからだ。
外国人の女は、これだから、身持ちが悪いなど、そう言われたら追い出されるかもしれないからだ。
エリックは、怪人と同じ名前の男は少し顔を曇らせるが、不意に手を取った、驚いて引っ込めようとすると手の甲に口づけをする、まるで映画のワンシーンみたいで驚いた。