それは予想もしなかった出来事だった、医者だと名乗る男から話を聞いたフロローは話をきいて暫し呆然としていた、彼女が怪我をしたという切り裂き悪魔に襲われた、しかも夜ではなく、日が暮れかけた時にと聞いて言葉が出てこなかった。
怪我の具合はと尋ねると顔を切られたんですと医師は答えた。
「そうですね、切り刻まれたれたと言ったほうがいいかもしれません、頬や口元の傷も深くて喋る事も困難です、ですから皮膚を縫い合わせて縫合させます」
皮膚を縫う、縫合、そんなことはと言いかけてフロローは言葉を飲み込んだ。
「お気持ちはわかります、外科医の手術というものが、この国では好意的には見られない事も、ですが、女性の顔です、それに私は彼女の主治医ですから」
フロローは絶望したように、最期はただ黙って聞いていた。
オペラ座の一室では仮面の男が困惑の表情の彼女を前にして説明を受けていた。
「メグに怪我はなかったのか」
頷くジリイの顔は浮かない表情だが、無理もない、数日前、娘のメグが通り魔に襲われた、夜の外出は控えるようにと言い聞かせていたのだ。
だが、それは夕方に起こったのだ。
「彼女を助けた相手が怪我をしたのか、どんな具合だ」
顔を切られたと、そう言ったジリイは黙りこんだ後、女性ですと呟いた。
「メグの話では男は笑いながらナイフを突き立て見られない顔にしてやると叫んで、娘は助かりました、でも」
「見舞いには行ったのか」
ジリイは首を振った、会ったところで本人は話す事もできないからと追い返されたというのだ。
「ひどいようだな、それで」
「治療費の申し出をしたのですが、断られました、見舞いも必要ないと」
よかったなと半分、皮肉混じりで呟いた仮面の男はジリイの表情に気づいた。
「その医師、彼女の主治医というんです、こんな言い方はなんですが」
「まともな医師には見えないとでもいうのか」
「いいえ、実は以前、その女性はひどい怪我をして数年というもの寝たきりだったというんです」
「ほう、それは」
「女性が顔にひどい怪我をして、それで」
「自分の顔が醜くなってしまえば我が身を呪って自殺というのも」
「それもありますが」
「治療中というのは嘘で、もしかしたら死んでいるかもしれないというのか」
「考えすぎでしょうか」
あり得ない事ではないと思ったが、それを言葉にしなかったのは目の前の彼女、ジリイを気遣ってのことだ。
「切られたというなら薬を飲んで治るという訳にはいかない、縫合の必要もある、女の顔となれば難しいだろう、金儲け主義の医者なら手は出さないだろう、その医者の腕次第だな」
治療が失敗し、医師免許剥奪という事にもなりかねないと呟く男をジリイは不安そうに見た。
「エリック・ルイーズさん、ようこそ」
それほど広くない家の中、案内された部屋の中に入ると壁一面の棚にはたくさんの本がぎっしりと、机の上にもだ、実験道具なのか、ガラスのビーカーや色々なもの、もので部屋の中は溢れかえっていた。
「彼女は、大丈夫なのか」
「一日の殆ど眠っていますよ、大きな傷の縫合もうまくいったと思っています」
「元通りになるのか」
元通りですかと、医者は眼鏡の奥から覗く目をわずかに伏せた。
「貴方の言葉がどのような意味なのか、私には分かりかねますが、でも、見た目が変わったからといって、どうだというんです」
「女性なんだ、男とは違う」
「私は主治医として最善を尽くしますよ」
医者は笑った、会話とはそぐわないほどの、その笑顔に男はすぐには何も言えずにいた。
「コゼット、そんなに慌てなくても」
開演までは十分、間に合うよと言いかけたバルジャンだが、父親の言葉など娘の耳には届いていなかった、朝食の時から落ち着きがなかったのは今日のオペラ座の観劇を楽しみにしていたからだ。
外国からパリに戻って来たプリマがオペラ座に戻って来たということで切符は発売当日で売り切れになっていた、だが、コゼットが浮き足立っているのはそれだけではない。
「おまえの友人が出るとはね、知らなかったよ」
「父様には彼女に是非、会ってほしいの、お礼を言ってね」
娘のコゼットが数ヶ月前、街中で数人のジプシーに絡まれているところを助けてもらったという話を聞いた時、父親のバルジャンは驚いた。
ジプシーというと放浪の民と思うがパリの下町界隈に住んでいる者達の中には荒くれ者や犯罪まがいの事を昼間でも平気でする連中がいるのだ。
話を聞かされたバルジャンは助けてくれた相手は男性だと思ったが、娘と歳の変わらない女性、しかも、オペラ座で歌っているのよと聞いて驚いたのは無理もない。
そして、この日、ドンジュアンの勝利、舞台は大成功を迎えた。