ありがとう、あなたのお陰よ、オペラ座の初日の公演は大成功を納めた。
その事に主演のプリマである彼女は喜び、控え室にやってきた男に向かって両手を広げて抱きつこうとした、だが、男は軽く手を動かし、その抱擁を避ける様に押しとどめた。
「ああ、成功した」
女の表情がわずかに曇った。
「千秋楽までおまえが立つ、だが、一日だけ、主役を交代しろ」
訳が分からないと言いたげな彼女に仮面の男は群舞のコーラスガールの名前を口にした。
「彼女に歌わせる」
「ど、どういうこと」
「新しいプリマが必要だ、ずっとおまえが舞台に立ち続ける訳にはいかないだろう」
その言葉に彼女は無言になった、永遠に歌い続けることはできないことはわかっているつもりだ、だが、自分の師であった男が口にした名前を聞いてすぐには納得できなかった。
「本気なの、彼女は」
「おまえの言いたいことはわかる、それだけの実力がないこともな」
「それなら、他の人に」
「全ての公演が成功するなどと思ってはいない、だが彼女にはパトロンがいる」
「パトロン、ですって」
不思議というよりは不可解な顔になったのも当然だろう、自分に歌を教えてくれていた、そうずっと昔から師である彼の性格は知っていた。
たとえ、貴族などの金持ちの後援者がいたとしても、それだけで実力のない人間に便宜を図るような性格ではなかったのだ。
だが、時間の流れは残酷だ、自分が変わったように彼も、そんなことを思いを感じ取ったのか、すると一週間前の練習、ある男が来たと話し始めた。
だが、名前を聞いてもクリスティーナは不思議そうな顔をするだけだ。
「成功、失敗、どちらにしても、彼女を立たせる」
自分は嫌だとはいえない、いや、彼のお陰でオペラ座に再び立つことができたのだ、ここで彼の機嫌を損ねたら今後、どうなるかわからない。
すばらしい舞台だった、それが証拠に客席の人間は舞台が終わった瞬間、呆然として、カーテンコールで役者が姿を見せると初めて我に返ったように、激しい拍手で迎えたのだから。
公演が始まる前、パンフレットを買いに行った娘が席に戻って来ると、驚き、ひどく興奮している様子に父親のバルジャンは驚いた。
「リーナが主役になっているの、ロビーに突然の変更って張り紙が」
役者が交代、突然の体調不良や事故などで珍しくはないが、主役が交代とは、しかも娘の友人というなら若いのだろう、余程実力があるのだろうというとコゼットは困惑の表情になった。
「大丈夫かしら、リーナは踊りが得意なの、自分でも言ってたわ、歌は苦手なんだって」
「そうなのか、だが、代役として主役の代わりをするとなれば実力がなければできないことだよ、コゼット」
娘の不安そうな表情にバルジャンは、不思議な気持ちになった、田舎からパリに出てきたが、自分と違って娘はなかなかパリの空気に慣れず仲のいい友人もできなかったのだ。
友人の事を心配する娘の様子にバルジャンはほっとした。
舞台は成功だ、嬉しい筈なのに仮面の男は複雑な気持ちだった、主役変更は失敗しても構わないと最初から思っていたのだ。
ところが、最初の出だしこそ危ぶんだもの、自分の予想は見事に裏切られた。
コーラスガールのアンジェリーナという娘は練習はかかさず出ているが、それだけだ、問題があるとすればムラがありすぎるのだ。
素晴らしい歌声を響かせたかと思えば、誰もが目を奪われるほどの踊りを披露するだけではない、ピアノを弾いたりもする。
競争心がないわけではないだろうが、気まぐれなのだ、もし、本人にその気さえあるなら今後、練習を続ければクリスティーヌと同じくらい、いや、それ以上のものになるかもしれない。
だが、大事なのは本人に、その気があるかだ、舞台が終わったら話をする必要がある、ジリイに頼むのもいいが、自分が直接、指導者として話をするほうがいいだろう。
二幕目の舞台が始まると仮面の男は、そんな事を考えながらオペラ座の中を静かに歩き回った。
そのとき、一階のロビー、階段近くに立っている女性の姿を見つけた、オペラ座は広い、初めての客なら迷ってもも不思議はない、仮面の男は静かに近寄ると、どうかされましたかと声をかけた。
女は黒い帽子とベールをかぶっている、もしかしたら今、オペラ座に着いたばかりなのかもしれない。
「よろしければ、ご案内させてください、私はオペラ座の」
わずかに顔をあげた女が自分に呼びかけた。
「エリック、さん」
問いかけるような呼びかけに驚いたのは名前を呼ばれたからではない、エリックなど平凡で珍しくはない名前だからだ、驚いたのは声、だ。
「ご、ごめんなさい、間違えて」
「今日の舞台は、どうなんでしょう」
その言葉に、はっとして男は答えた。
「ええ、主役は急遽代わりの女優が努めていますが、素晴らしいですよ」
女が笑った、いや、微笑んだ気がしたのはベールごしに覗く口元がそうですかと呟いたからだ。
五番の桟敷席に来るのは久しぶりだ。
中に入ると女はイスに深く腰掛けた、何か飲み物をと声をかけたが、返事の代わりに女は首を振った、帽子とベールをゆっくりと取ると、真っ白な髪が現れ、仮面の男は思わず目を奪われた、そして顔、その顔立ちは外国人のような雰囲気が感じられた。
桟敷席を出た男は自分の部屋に戻ろうとしたが何を思ったのか、振り返り、隣の桟敷席のドアを開けた、そこには秘密の通路、隠し扉があった。
壁の中に入り、仮面の男はかって幽霊だった時のように桟敷席の中を盗み見た。
壁の中にいると暗い牢獄の中を思い出した、昔のことだ、今までそんな風に感じたことはなかったのに、壁の中からでは、はっきりと見えるわけではないが、それでも十分だ、ぴったりと壁に体を寄せて男は眼を閉じた。
舞台が終わるまで。