まるで、芝居を観ている様な気分になった、それも三文芝居というやつだ、最初は壁の中から覗き見るつもり、自分は観客に徹するつもりだった。
子爵にしてみればオペラを観に行くというのは口実で、ここで彼女を自分のモノにしてしまおうという魂胆だったのだろう。
抱きしめてキスをする、否、その前に女の体を自分のモノにしていうがまま、結婚の約束でも取り付けるつもりだったのだろう。
だが、桟敷席から身を乗り出すようにして舞台に夢中になっている女は子爵の話など上の空、耳になど入らない様子だった。
しかし、一幕目の終わりで子爵も痺れを切らしたのか、女の体を抱きしめた、それは半ば強引な抱擁だったが、突然、女が笑い出したのだ。
男を誘うような笑みではなかった、屈託なく笑う様に子爵も一瞬、訳が分からないと言わんばかりの表情だった。
「子爵、私は貴方と恋愛関係になるつもりも、いえ、結婚するつもりもないんです」
「レディ」
「父が貴族で絞首刑で死んだこと、娘は外国人、父には大勢の愛人がいたということを全て踏まえた上でよく考えて下さいと言いたいんです」
「ですが、あなたは今日、ここに来て下さった、招待を受けて下さった」
「頼まれたからです、愛人に」
「愛人、誰のことです、まさか」
「父の愛人です」
「私は本気なんだ、そんな女の言葉など信じないで下さい」
その声には焦りが感じられる、このままだと少しまずくないか、この時、自分は観客の立場で防寒していていいものかと思ったので、手が自然と動き壁を叩いた。
「ここは私の席、なのだが」
突然、聞こえてきた男の声に子爵は驚いた、ドアは開いていないし誰かが入ってきた訳でもない、座っている自分の背後、いや、頭の上から、どこから声が聞こえてくるのか。
首を動かし子爵は周りを見たが桟敷席の中には自分と女の二人だけだ。
「もしかして、幽霊」
女が不思議そうに頭上を見上げ尋ねるとウィという返事が返ってきた、しかし、真っ青な顔になったのは子爵だ、突然、彼は女の腕を掴むと引き寄せ、その体を押し倒そうとした。
男と女の悲鳴が、響き渡った。
「子爵様、私の返事を待たずに事を急ぎましたわね」
呆れた顔で女は呟いた、椅子に深く腰掛けたまま、男は酔っ払ってでもいるのかりようにぐったりしていた。
「呆れましたわ」
「そんな言い方は、シェリ」
「子爵、様、いえ、もう、そうではありませんわね」
「どういうことだ」
女はこの時、笑いを堪えるように視線を男に向けた。
「事業は失敗でしょう、それに弟の奥様に資金をお願いしたとか」
皆、知ってますわよと言われてフィリップは顔色を変えた、皆とは、まさか知り合い、友人達も知っているということだろうか。
「今頃は取り立て屋が貴方のお屋敷から色々と」
その言葉にフィリップは慌てて立ち上がろうとした、ふらつきながら床に尻餅をついた、飲み過ぎただけではない、その様子を女は楽しそうに見つめていた。
貴族というのは遊び方までなってない、加減を知らない馬鹿なのかしらと思いながら、もう駄目ねと哀れむ様な視線を男に向けた。
「あなたの、お兄様のせいよ」
「落ち着いてくれ、クリス」
彼女は顔を真っ赤にして怒っている、無理もない、だが、彼女だけではない大変なのは自分もなのだ。
数日前、オペラ座から一通の手紙が届いた、何だろうと思ったが、中を見て驚いた、オペラ座の後援者としてふさわしくない、援助も支援も不要、パトロンをやめてくれというものだ、妻のクリスティーナに話すと冷めた目で自分もオペラ座で歌えなくなったと知らされた。
「オペラ座のパトロンとしては失格だ、気の毒なことだ」
ラウルの兄フィリップの事情を知らされて、クリスティーナは驚いた、自分の師匠から呼び出されたときは、これから先の舞台の事だろうと思っていた。
オペラ座で歌えると思っていたのだ、ところが、クビ同然の勧告を告げられて驚いた。
何故と聞くと不祥事だよと冷たい一言が返ってきた。
「事業の失敗だけではない、借金もかなりある、オペラ座に支援など無理だろう」
「それは、でも」
「仮に君が払うといったとしても却下だ、家族を支えているのは君だろう、パリを出たらどうだい」
「エリック、お願い」
フィリップは芸術を理解しない、それは君の夫も同じだ、そう言われて皮肉めいた言葉に彼女は黙りこんだ。
金だけの問題ではない、その言葉に彼女が不可解な表情になったのは無理もない。
「あの男は、このオペラ座で破廉恥な行為に及ぼうとしていたのだ」
貴族の恋愛情事がときとして乱れた、いかがわしい行為を表す事はクリスティーナも知っていた、だが、子供ではない、そこは譲歩してくれてもと思ったのが顔に出たのだろう。
「相手の女性ははっきりと断った、そして、怪我までさせられた」
「怪我、ですか、まさか」
「嘘を言っていると、それも私の桟敷席で、貴族は元々好きではなかった、君もその貴族の一人だ」
「エリック」
「何を言いたいか、わかるだろう」
「お願い、今、貴方に」
自分に向けられる視線にクリスティーナは縋る様に近寄った、貴方だけなのよと言いたげに。