「あ、起きた?」
蟲蔵で人目に晒すことができないような姿に汚辱されたイリヤスフィールが目を覚ました時には、アインツベルンの城にいた時ほど華美ではないが、それでも小ぎれいな服に身を包んで、見たことのない部屋のベッドの上だった。
すでに足枷がついてはいない。
いないのだが、その声を聞いた途端、少女の体が震える。
先ほどまで叩き込まれていた地獄は、少女の中に少年への恐怖を植え付けるのに十分なものだったようだ。
「あな、たは……」
「うん、さっきも聞いたよねそれ。今度はちゃんといい答えを思いついたから答えられるよ!」
にこにこと、イリヤスフィールをあの地獄に叩き込んだ張本人とは思えないほどに満面の笑みを浮かべた少年への恐れがイリヤスフィールの中に浮かんでくる。
そんな少女の心の機微など少年は読み取ることもなく、イリヤスフィールを蟲に蹂躙させている間に考えていた自分と彼女の関係性を告げる。
「俺は君の
そんな理不尽極まりない言葉。
「そ、そんなこと……」
「これについては君のお爺様も認めてることだよ」
そもそも、アインツベルンの城から君を盗むことがどれだけ難しいことだと思ってるんだい、と。
そう言われてしまえば、他の魔術師のことは知らずとも自分の家がすごいことは知っているイリヤスフィールには何も言えない。
「まあ、それでも俺は君にそこまでひどいことをしたいわけじゃないんだ」
どの口がそんなことを言う、と思わないわけではないが、何も言い返せない。
彼に対するトラウマができてしまった、というのが正しいだろう。
「だって、俺は君の旦那様で……それはつまり君は俺の奥さんだってこと。魔術師の奥さんっていうのは次代の魔術師を産むための存在で、より優秀な子供を産んでもらう必要がある。だから、君に万が一にでも死んでもらっては困るし、ひどいことなんてできる限りしたくないんだよ」
一応、魔術師としては理にかなっている。
イリヤスフィールは自分がどれだけ優秀な魔術師なのかは知らないが、アインツベルンの最高傑作だという話は何度か聞いたことはあるし、まあそれなりには優秀なのだろうというあたりはつけられる。
「だから俺は、君が俺のいうことを聞いてくれて、俺の子供を産んでくれて、後継者を作ってくれるならそれ以上にひどいことをするつもりはないよ。それこそ、さっきみたいなことは一切しないって約束してもいい」
その言葉に、イリヤスフィールは希望を見出す。
別の世界、第五次聖杯戦争の時代であったならばあるいは、衛宮切嗣への憎悪などからこの状況からもどうにか脱しようと考えたかもしれないが、今のイリヤスフィールはただの子供だ。
もうほとんど心は折れている。
逃げ出そう、という気持ちよりも逃げ出すことに失敗した時に起こることが恐ろしい。
そんなことが、腹芸ができない少女から読み取ることができた。
「……本当?」
恐る恐る、といった様子で問いかけてきたイリヤスフィールに、少年は笑顔で鷹揚に頷く。
イリヤスフィールは衛宮切嗣が助けに来ることを信じていて、それまでの間を稼ぐことができればいいのだ、ということも信じている。
それならば、その時まで生きていればいいわけで。
「もちろんさ! 君には早めに子供を産める体になってもらうことにはなるけど、それで子供を産んだらひどいことはしないよ!」
「……うん、わかった。それなら、いいよ」
まだ恐ろしいけれど、それでも蟲に体を蹂躙されたことを思い出すと体が震えるイリヤスフィールに、あんなことをされないという保証はとても大きなものだった。
これ以上体を穢されないことを合わせれば、少年の子供を産むという選択肢以外に選べる道はなかった。
「よかったぁ……さすがにひどいことをするのは趣味じゃないから」
にこにこと笑う少年の元に部屋の外からメイド服を着た女性がやって来る。
そこらへんから攫ってきた一般人、その中に蟲を侵入させて殺し、体内に潜り込んだ蟲の数々がその死体を動かしているだけの急造の使用人。
腐臭を感じさせないためにそれこそ死霊術師でもなければ瞬間的にその正体に気がつくことができないような隠蔽性に優れた一品。
そんな彼女がワゴンに乗せて持ってきたのは二人分の朝食。
「旦那様、奥様、朝食をお持ちしました」
「うん、ありがとう。下がってて」
そう言って、少年はメイドを下がらせた。
頭を下げてから部屋を出て行くメイドを見送ってからイリヤスフィールの方を少年が見れば、なぜか胡乱な瞳を少年に対して向けている。
「奥様……って。私が断ってたらどうするつもりだったの?」
「うん? そりゃ何も変わらないよ。君がこっちに売られたことは変わりなくて、対外的には妻ってことには変わりないんだから。ただ、俺の君に対する扱いが変わっただけ」
貼り付けたような笑みが恐ろしくなる発言を平然とした少年。
イリヤスフィールが一瞬固まったことに気がついているのか、気がついていないのか、彼は告げる。
「じゃ、ご飯が終わったらさっき言ってた子供を産める体にするための準備を始めよっか!」
一方その頃、衛宮切嗣は日本の冬木市で、かつてアイリスフィールが拠点としていた日本家屋で暮らしていた。
そこにいるのは魔術師的にいうのであれば彼の弟子、そして彼ら固有の言い方をするのであれば『衛宮切嗣』という殺人機械の
すでにそこにアイリスフィール・フォン・アインツベルンがいた名残はない。
衛宮切嗣の願いの叶え方を見て『この聖杯では過程がないと不可能なのだ』と理解して納得して消滅したセイバーが描いた水銀の魔法陣もすでに消えている。
だから、拾った少年は魔術についてまるで知らなかった。
「士郎」
「ん? なんだよ切嗣」
拾った少年の名前は衛宮士郎。
聖杯戦争最後の戦いによって使われたエクスカリバーの範囲にギリギリ入った家屋、そこで唯一生き残った少年である。
エクスカリバーが消しとばした範囲はかなり広く、聖堂教会が範囲を少しだけ変更することで『大規模ガス爆発』にふさわしい、直線的なものではなくしたのだが、その中で唯一生き残った彼はサバイバーズギルトに似たものを発症していた。
それは生きていく上では不要なのだ、と世界を平和にしたからこそ言える切嗣は、今日も今日とてどうにかして彼のそれを直そうとしていた。
「子供の頃、僕は正義の味方になりたかったんだ」
それは、縁側で話していた二人を見かけて近づこうとした舞弥をその場に縫い付けるには十分な言葉だった。
もう彼女にはそれを聞くしかない。
「なんだよそれ、なりたかったって諦めたのかよ」
「うん、そうだね。正義の味方っていうのは子供の頃限定で、大人になると名乗るのが難しくなるんだ」
思った通り、反発があった。
それが衛宮切嗣には苦痛で。
「しょうがないから、おれが代わりになってやるよ」
だから、士郎がまるで自分に誓うかのように言ったこの言葉に、切嗣は希望を見出した。
自分はかつてシャーレイに問われた時、はっきりと言葉にして『正義の味方になる』とは言えなかった。
だから迷い、諦め、絶望した。
しかし士郎は違う。
おそらく大事に思ってくれているであろう自分に、『正義の味方になる』と言った。
だが、この希望はもういらないものだ。
「いいや、そんな必要はないよ」
「なんでだよ?」
少しだけムッとした士郎が切嗣に問いかける。
「士郎も知ってるだろう? もう、この世界は平和に向かってる。毎日のように戦争が終わっていくことをテレビが放送して、少しずつ戦いが消えている。正義に対して味方する誰かが必要な世界は、もう終わったんだよ」
「それは、そうだけど……」
正義に味方して、罪のない人々を殺す必要はもうない。
そもそも戦いが存在しないのだから、戦いを終わらせるために命を数で数える必要はない。
「ほら、もう戻ろう。今日は冷えるからね」
納得していないような士郎を連れて、切嗣は家の中へと戻っていく。
自分の娘の存在すら忘れている彼は、今が何よりも幸せなものだと信じていた。
あ、ちなみに士郎くんは目標がないので「生きてるのが辛い」と称された通り、最悪の場合自殺したりする可能性もあります。