風呂上がりに髪を下ろしていたら、机から離れなかった視線を当然のように俺に向けたナミが、髪を洗ったんですねと笑いかけて来た。それに対して、結うのは面倒だがねと艶やかな笑みになるよう意識して笑えば、ナミはほんのりとその頬を染める。
通常自分で結い上げるなんて出来ない筈なんですよと笑うナミに、良くもまァそんな事を知ってるものだと思わされる。そんな内心を隠して、自分で出来なきゃ生きられなかったからねェなんて答えれば、そっと立ち上がり俺に歩み寄るナミ。
どうしたのかと問い掛けるより早く、ナミが口を開く。少しモジモジとした様子に、これで夜の誘いとかで無いのが明白なのが少し寂しい。
「……髪に、触っても、良い?」
「構わねェが、楽しくも無いだろう?」
「黒髪が、懐かしくて……本当に、イゾウさんは日本人なんですね……」
懐かしそうにその瞳を細めるナミに首を傾げたのは、ある意味当然だろう。初なナミは、恋愛が絡まなければ、無駄に知識も経験も豊富だ。
それ故に俺の知らない事も多く知っている。……本当に、恋愛さえ絡まなければ優秀なのだがね。
「……ニホンジン?」
「あ!いえ、ワノ国の人をそう呼ぶ地域があるって、聞いた事があるのよ。日の本の国、日いづる国、そんな風に呼ぶ地域が……」
聞いた事は無いが、呼ばれても不思議は無いだろうと故郷を思い浮かべ、脳裏に浮かんだ人達のそれを断ち切るように強く眼を伏せる。再び眼を開くと心配そうにしているナミが見えて、適当に束ねて貰えるかと問い掛ける形で頼む。
それにしても、未だに敬称付きで呼ぶ事がある方が俺としては問題だ。早く呼び捨てに慣れて欲しいところだが、余り虐めても良くは無いだろう。
そんな俺の思考を知らずに、それに素直に応じてくれたナミが、繊細な手付きで俺の髪に触れる。優しいそれにふと笑ってしまえば、くすぐったい?なんて囁かれた。
「誰かに髪を……なんて、珍しい体験だからね。ナミ、ありがとう」
「私、いつも整えてもらってばかりだから、たまにでも返せると嬉しいわ。流石に髪結いは出来ないけど」
「……ナミ、たまには外で逢引でもしないかい?」
憂い顔なんざ見たくもねェのに、俺のせいでそんな顔させちまってるだろう事が辛くて誘ってみる。それに嬉しそうに微笑まれたので、俺としては満足だ。
後ろにいるナミの表情を知りたくて、見聞色の覇気を使ってるなんてバレたら、何を言われるか分かったもんじゃねェがな。大爆笑する兄弟を想像して溜息を落としつつ、ナミの手を取って買出し船を拝借するとモビーを後にした。
それを見た兄弟に、リア充爆ぜろと叫ばれたが帰ったら鉛玉でも贈ろうかねェ?
適当に入った店でナミを着飾り、恥ずかしそうにするその様子を楽しみつつ良さげな店が無いかを尋ねれば、流石は女の喜びそうな店だけあって情報が多い。夜景が綺麗なBARがあるのだと聞けば、共に行くには良さそうだと思う。
「ナミ、欲しい物はあったかい?」
「何もいらない」
「……裸で歩くのは、オススメしないが、ナミが望むならそれ「私の着てきた服は!?」」
そんな物とうに船に送り返したと言えばナミは観念した様子で、布地の面積が多い物をお願いしますなんて言う。だから透けそうな物にあえて手を伸ばすと、ナミが泣きそうな顔で悲鳴をあげるので、そろそろ虐めるのは辞めるかと似合いそうな物を見繕う。
「まァ……それ、きっとお似合いになりますよ」
「何着ても似合うだろうが、ナミに俺が着て欲しい物を選んだからね」
「それに、します」
小さくなってるナミに、弄られておいでと笑いかける。それに顔を引き攣らせながら店員に連れられて消えたその姿を見送り、そっと立ち上がるとBARまでの道を確認したりして過ごす。
戻って来たナミは、月の女神さえ裸足で逃げ出しそうな程美しく、このまま雲隠れしてしまいたいと思わされる。そういう訳にも、いかねェんだろうがな。
「ナミ、どうか手を……」
膝をついて手を出せば、ナミは目元を赤く染めて、そっと手を重ねる。それにふっと笑いエスコートすれば甘えたように擦り寄るその姿に、手放せないなと思わされた。
到着したBARでは、何も言う前に個室に案内された事でどうやら俺の顔を知っていたらしいと知る。もしくは、嫉妬深い恋人が、店内の男を全員抹殺するのを防ぐ為かも知れないが。
驚いた様子は1瞬で、人のいる間は優雅な仕草をしていたナミが、2人になった瞬間恥ずかしかったなんて言いながら抱き着いてくるから、普通のカジュアルドレスだろうにと思い首を傾げる。皆に見られるのとか、緊張するしなんて言うから、そりゃ美しく産まれた者の宿命さねと笑っておく。
「さて、ゆっくり楽しもうか」
そう言って互いに酒を頼みながら、夜景を楽しむ。目の前にいる愛しい女の視線が、酒と夜景に奪われているのだけが少しばかり気に入らねェが。
そんな時ふとナミの視線がメニューから動かなくなったのを見て、何か珍しいものでもあったかと視線を辿る。それにより見ているのがノンアルコールカクテルだと分かれば、珍しくて見ているのかと思う。
ナミが先程から頼んでいるのは、明らかに女殺しとかお持ち帰りカクテルと呼ばれる部類なのに、顔色ひとつ変えていないのだから。だが、ナミを示すようなカクテルも、ノンアルコールカクテルには存在するのは確かだ。
「私の書いた作品に〝白雪姫〟って言うのがあるのは知ってる?」
「あァ、死んでる女に惚れた男の話だったかね?」
俺が答えれば嬉しそうに笑うそれに、その顔は反則だろうと思う。少し幼さの残る、幸せそうな顔をされては、他の未読作品も全て読んでやりたくなる。
その時ナミが呑み始めたのは夢一夜で、よくそんな酒知ってたなと思う。そんなふうに見惚れていたら、ナミが何処か艶のある笑みを浮かべて、鈴の鳴るような声で言葉を紡ぐ。
「騙されて毒の林檎を食べさせられたお姫様は、王子様からの優しいキスで息を吹き返すんだけど……まぁ、実際には有り得ないわよね」
諦めを宿したその瞳に、諦めるなよと思う。ナミが望むなら、何でも叶えてやるからと。
「好きな人からのキスで目覚めるとか、憧れるわ」
「キスで毎朝起こしてやろうか?」
それくらいなら、お易い御用だ。ナミに毎朝口付けする権利は、俺だけのものだろう。
「……お願いしちゃおうかな」
その笑顔があまりにも可愛くて、顔が赤くなるのを自覚する。なんだ、この生き物。
「風に、当たってくるわ」
そう言ってナミが立ち上がったのは間違いない。慌てて俺も追いかけるように立ち上がったが、ナミは俺の動作が1足遅かったのか、目の前で倒れて行く。
「ナミ!!」
慌てて抱き起こした俺に縋るように手を伸ばして、ナミは唇を微かに震わせる。その瞳に何も映していないのがわかれば、なんだろうと思うのと同時に、背筋を冷たいものが走るのを感じた。
「どうか、必ず、迎えに来て」
「ナミ!?」
そうして意識を失ったナミを即座に抱き上げ、モビーに帰ろうとしたのを店員が慌てた様子で呼び止める。何が起きたのかと視線を向ければ、この島ではたまに倒れる客が居るのだと説明され、その倒れた客の半数が記憶を失ってしまうのだと言われれば、穏やかでは居られない。
どれ程苦労して手に入れたと思ってるんだ。この、天然記念物をまた口説き落とすのかと思えば、溜め息も落ちる。
だが、この島を出なければ大概数日で記憶が戻ると言われれば、案内される部屋に滞在するしか道は無いだろう。今聞いた話を親父に連絡すれば、どうやら島の事を知っていたらしく、勝手に飛び出した罰が当たったんだなと笑われてしまい、バツが悪くなる。
とりあえず数日は帰れないと告げれば、回復したら帰れと言われたので、それに是と返してから電伝虫を置く。その足でナミの元へと行き、そっとその頬に触れると、微かに瞼が痙攣した。
「ナミ?」
「ん……?」
「ナミ、目覚めたのか?」
まだ半覚醒だと分かっていて問い掛けると、意識を浮上させたナミが俺をその瞳に映す。だが、俺の知るナミでは無いのだと即座に悟る。
「ここ、は?……
「ナミ、俺がわかるかい?」
分かっていないのは、その瞳を見ればわかる。知的な輝きと、世界を興味深そうに見詰める煌めく知識欲のそれを感じない。
孤高な色も、気高い輝きも、優し過ぎる慈愛の温もりも、その瞳から感じられない。……ただ、不安に揺れるその瞳は、何処にでもいる小娘のそれだ。
いつもより断然幼くなったその表情に、幼さを見せて欲しいと望んではいたが、これじゃねェと思っちまう己の浅ましさ。迎えに行くには、どうしたら良いのか。
「ごめんなさい。私、貴方を存じませんわ」
「……そうか。なら、名前がナミである事は?」
問いかければ間違いなくナミだと言うそれに、自分の事は覚えているのかと不思議に思う。1つ1つ問い掛けて確認して行くと、失われているのは、俺の事だけだと気付く。
即座に親父に連絡を入れると、もっとも近しく愛しい相手を忘れるのだと教えられて、顔が赤くなるのを抑えられない。ずっと、片想いに近いのではないかと思っていたから、余計に。
「あの、親父様?私、どうしたら……」
「おお、随分しおらしいな。そのままじゃ帰っても良い事はねェだろう。そのまま2人でゆっくり過ごして来い。2人とも少し働きすぎだったからな。……元に戻ったら、帰って来てくれよ?」
最後の所だけ寂しそうに言う電伝虫に、ナミは頷いて分かりましたと答える。それだけで電伝虫がご機嫌な様子でグララララと笑って見せるから、電伝虫を寝かせてナミに食事や飲み物を用意して対話を続けた。
食べ物に対する恐怖心も今だけはないのだと気付けば、俺を忘れた事で俺が助けた出逢いを記憶できなかったのかと思う。ならば、記憶なんぞ戻らない方が、ナミは幸せか?
「あの、私は貴方をなんと呼んで居たのですか?」
「名前で呼んでくれていたが、今は分からないだろ。良いよ、隊長……で」
今その声で名を呼ばれたら、酷くしちまいそうで、名を教えたくなかった。不安に揺れるその瞳が、あまりにも無垢なのが俺の心を締め付ける。
それでも、無防備に笑う幼い笑顔に耐えきれず、そっと触れていた。そんな俺に、ナミは抵抗の色を見せない。
「あ、の?」
戸惑いだけを宿すその瞳を見て、少し眼を閉じるように言えば素直に従うその無垢さ。悪い事をしてる気分になりながら、そっと唇を重ねれば、ナミは遅れてその身を抵抗するように動かす。
何も知らない様子の下手くそな口付けに、本当に記憶が無いんだなと思った直後、その舌が動きを変えた。それにまさかと思いつつ堪能すれば、微かに唇を離した瞬間に名を呼ばれる。
「イゾウ……ただいま」
「……ナミ?」
「ええ、悲しませて、ごめんなさい。……本当に、キスで起こしてくれるなんて思わなかったわ」
そう言って微笑むその顔に、泣きそうになる。それを誤魔化すように強く抱き締めれば、苦しそうにしながらも言葉を告げて来た。
「イゾウ……
「こんな寂しい想いをさせるんだ、その後は俺の心が癒えるまで……付き合うんだろうね?」
俺の問い掛けに顔を真っ赤に染めて、小さく頷いたナミに、これは……たまにならいいかも知れないと思っちまった。思い出したくなかった事もあるだろうにと言えば、ナミは静かに微笑み、それがあったからイゾウと出逢えたのよと言う。
これは、もう……暫くモビーに帰れそうにねェな。そう思いながら、ナミをベッドに沈める。
いくらなんでも帰りが遅すぎると心配した兄弟が探しに来るまで、2人が帰る事は無く、長すぎる蜜月がナミを寝込ませる事となる。だが、男は満足そうに笑うばかりで、反省の色は皆無だった。