───埃を被っていた記憶が、掘り返される。
「モース硬度六.五」
「えっ?」
「翡翠の硬さ。一から十の十段階で、六.五からよくて七なのだそうよ」
ふーん、と日菜は興味なさげに相槌を打った。
机に向かって小説を読んでいたときのことだ。私はふと身体を動かしたくなり、全身の筋を伸ばすことも兼ねて、ベッドの上に座り直した。壁に背を預けて、投げ出すように足を伸ばす。そうして文庫本のページを捲っていると、日菜が私の部屋を訪れた。訪れるや否や、彼女はコアラのように私にしがみついた。幼少の頃から相も変わらず、彼女は私に抱きついてくる。
日菜は私の足の間に座り込むと、両の手足を私の背後で交差させる。読書中の私に気を遣う素振りなんて欠片も見せない。自由奔放な生き様をまざまざと見せつけてくる。
背に手足を回された時点で、私は壁にもたれることができなくなった。代わりに日菜の頭に顎を載せ、気にしていない風を装いつつ、活字の流れを追い続けた。
そして我慢ができなくなったとき、最近知った宝石の知識が私の口から零れ落ちたのだ。
思い出したかのように日菜が口を開いた。私の胸元に顔をうずめたまま日菜が喋る。
「六.五……それってどのくらい硬いの?」
声とともに吐き出された生暖かい吐息が、虫のように私の肌を這い回る。ぞわぞわと肌が粟立つ感覚を努めて無視し、私は日菜の問いに答えた。
「そうね……比較対象を挙げるなら、ダイヤが最高の十で、あずきバーが九よ」
「待って。いますごいスピードでイメージがどっか行っちゃったよ。え? あずきバーってその辺の石より硬いの?」
「もっと身近なものを挙げれば、石英───つまりその辺の砂粒が硬度七だから、砂で引っ掻くと簡単に傷がついてしまうわね。高価な宝石の中では、翡翠は傷つきやすい石の筆頭に数えられるわ」
「あずきバーがスルーされた……。でもいきなりどうしたの? 宝石の話なんて。おねーちゃん普段からアクセとか着けようとしないし、あんまり興味もないよね?」
「深い意味はないわ。ただ少し思っただけよ。私とあなたって、翡翠みたいな関係でしょ」
「──────ぇ?」
自分でも驚くほど、抑揚のない、平坦な声音。ここまで続いていた和やかな空気を台無しにするには十分すぎる響きを伴って、一息でぎくしゃくした時間が流れ始める。
私の突き放した物言いに、日菜の逡巡を感じた。言葉の真意を図りかねたのか、日菜の困惑が沈黙を通して伝わってくる。私の背で交差していた手が解かれた。しがみついていた手が離れ、私の両肩を掴んでくる。
「───ぁ、あの、おねーちゃん……?」
空気が変質したことを感じ取ったのか、恐る恐るといった様子で日菜が話しかけてくる。彼女の考えていることは手に取るようにわかった。私の顔を見て安心したいのだろう。突如重苦しくなった空気は勘違いだったと安堵したいのだ。下顎から日菜の身動ぎが伝わってくる。
私は日菜の髪を梳いた。柔らかな髪は、翡翠色と形容される。私と同じ、髪の色。
翡翠。
高価で、傷つきやすい。
日菜の気持ちをわかった上で、私は片手に持った文庫本から目を放さなかった。空いた手で髪を梳くのは、日菜が頭を動かそうものなら即座に押さえつけるため。私には現在進行形で活用している顎置き台を手放すつもりがない。日菜と顔を合わせる気など、さらさらなかった。
「お、おねーちゃん……? さっきの、どういう意味……? あたし、何かしちゃった、かな……?」
日菜はどこか縋るように声を発した。委縮している。怒られるのを恐れる子供のようだ。私の肩を掴んでいた手から、次第に力が抜けていく。
「あなたは何もしてないわ。ただ、双子という珍しい関係が、その辺に転がっているありふれた他愛ないことでボロボロに傷ついていくのよ? ほら。翡翠とそっくりでしょう?」
「ち、違うよ! 似てないよ! なんでそんなこと言うの。あたしとおねーちゃん、仲いいじゃん」
「日菜」
かつてないほどに、私の口から優し気な声音が滑り出た。私の口元はほころび、微笑んですらいる。だと言うのに、日菜は恐怖に侵されたように身を竦ませた。
この優しさは、悪意に根を張っている。憎い相手だからこそ、優しくできることもあるのだ。私にとって、それは目新しい発見だった。
「なにか言った?」
私の凪いだ心を表すように、穏やかな口調で問いかける。
視線がページの端にたどり着いた。日菜の頭から手を離さず、上手い具合に片手の指先だけでページを捲る。しなれない動作のためか、いつもより大きく紙の擦れる音がした。
「ぅ、ぁ……ご、ごめんなさい」
それからしばらくの間、日菜は私の許しを請うように謝罪の言葉を言い連ねた。
ごめん、と。許して、と。気に障ることをしたなら二度としないように直すから、と。
やがて言葉が尽きるころには嗚咽が混じるようになった。最も親しい者から前触れもなく突き放された悲しみが、私の胸元を濡らしていく。
そして私は、そのすべてを黙殺した。
日菜の言葉に応えないなんて、久しくしていなかった行いだ。日菜の涙を吸い取った服が、冷たく肌に張り付いた。不快な感触には違いないが、いまはその不快さが心地よい。
肩を震わせて咽び泣く日菜の声をBGMに、私は空想の世界へ没入した。目が紙面上を滑ることもなく、噛み締めるように文字を追える。久しぶりに味わう、充実した読書時間だった。
日菜は私から離れない。私が放そうとしないせいでもあるのだが、この部屋から出て行く勇気がないのだろう。
呼吸音も、心音も、血液が血管を走る音すら聞こえるほどに密着しているというのに、私と日菜の心は寄り添うことなく断絶していた。触覚が伝える距離すらも開いてしまえば、二度と触れ合うことはないのではないかと、私ですら感じている。日菜にとってはもっと逼迫した恐懼であるはずだ。
生まれて初めて、私は独りになれた気がした。
日菜と抱き締め合っている最中だというのに、私は孤独感を味わっている。ひとりぼっちというものは私にとって忌避すべきものではないらしい。むしろ長らく会えなかった恋人を迎え入れるかのように、私の心は弾んでいる。身体に嵌められた枷が取り外れたような解放感。晴れた日の草原を吹き抜ける爽やかな風が、私の胸の裡にあったわだかまりを吹き散らしてくれたようだった。
「私はもうこの本を読み終えたのだけど、あなたはいつまでしがみついているつもりなの?」
日菜から手を放して彼女の顔を覗き込めば、泣き腫らした日菜の顔がさらに歪んだ。
日菜は蚊の鳴くようなか細い声で「ゃだ……やだ……」と繰り返し、私の服に深い皺を刻み込む。
けれど彼女の心情など、もう私の知ったことではなかった。
───奈落に向かって転がり落ちる翡翠の絆は、磨き直した程度では輝けないほど傷だらけになっていった。
◇
お風呂から上がった私は閉め切っていた自室の窓を開ける。情事の痕跡を拭い去るように、そよ風が私の頬を撫でる。日菜はもう部屋にいない。きっと入れ違いでお風呂に入ったのだろう。
シャワーを浴びている間、私は中学時代の頃を思い出していた。散歩中や入浴中は多様なアイデアが湧く人が多いと聞くが、私の場合は碌でもない記憶を掘り返す一助となった。
今でこそ冷静に自己分析できるが、あれは反抗期の発露だった。親を含めた周りの人間などまるで眼中になく、激しい感情はすべて日菜を向いていた。まったくもって滑稽な話だけれど、私の目は昔から日菜しか映していなかった。
可愛さ余って憎さ百倍というか、それまで大切に思ってきたのと同じくらいの強さで日菜を傷つけたくなった。ずっとふたりきりでいたからこそ、ひとりぼっちになりたかった。
親を含めた目上の人の指示ではなく、生まれてから連綿と続いていた関係こそ、私は拒否したかったのだ。
それがきっかけになって日菜はより一層私の気を引こうとし、私は私でそれまでになかった大きな劣等感を日菜に抱くようになった。私という醜態を晒し続けた人間のせいで、ギスギスした関係は高校にまで持ち越された。本当に、なんて無様なのだろう。
一度付けた瑕疵は決して消えない。それを実感するまでに、どれだけ傷つけてしまったのか。
私はベッドに横たわる。
シーツの皺を指でなぞる。ほんの数十分前まで、ここで日菜が喘ぎ声を上げていたのだ。それも私の手によって。ベッドには、未だに情事の熱が燻っている気さえする。
それほど私は執着していた。私は私の欠陥を許せなかった。どんな形であれ、もう二度と日菜との関係に瑕疵を付けたくない。
日菜。
氷川日菜。
私の愛しいひと。
私が傷つけたひと。
ぐるぐると彼女に対する想いが渦を巻いて、私の胸の裡を無茶苦茶にかき回す。やがて張り裂けそうな心に針で刺したような穴が開き、そこからどろどろとした悔恨があふれ出した。
私よりも知識を持っている日菜が、同じことで何度もまごつくとは考えられない。ならばやはり、私の体質が世間一般とズレているのだろう。そうとしか思えなかったし、そうすると───すり合わせを行わなければならない。できる限り経験値を積めば、同年代の子と同じようになれるのではないか。何事にも、慣れというのは必要なはずだ。
私はスマートフォンのロックを解除して、インターネットブラウザを起動する。生来の生真面目な性格が功を奏し、あるいは災いし、その手の知識を次々に吸収する。性行為の失敗談や事前準備などをまとめた記事に目を通し、検索ワードを変えては再び記事を読み漁る。
その中で、特に目に留まった記事がある。
中イキは相手への信頼感が高いほど深いものになる、というものだ。
好きでもない相手とは対して感じもしない。逆にそういうテクニックを持っている相手なら、達した際に相手のことを好きだと勘違いしてしまうことすらあるという。
「なにを、馬鹿な……こんなの、取るに足らない俗説よ……」
その記事は最後まで読めず、途中でページを閉じた。
だって、もう日菜との間にわだかまりはない。日菜を愛していると胸を張って言える。この俗説が真実なら、この想いは頭の中で考えているだけで、心には欠片も宿っていないことになる。
そんなわけがない。
調べた結果、私の神経が与えられる刺激を快楽として受け止めていない可能性が濃厚だ。すべて性感帯の神経が発達しきっていない、私の遊びの無さが原因に違いない。
ブラウザで開いていたタブをすべて閉じる。
虚脱感に身を任せ、ベッドで横になっていると、きゅう、と思い出したように空腹が存在を主張する。
「そう言えば、お昼は食べそこねたのよね」
時刻はもう夕方だ。少し早いが、夕食を食べ始めてもおかしくはない時間。日菜がお風呂から出てくる頃にはちょうどいい時間帯になっているだろう。
私はキッチンに赴き、冷蔵庫を開ける。作り置きの料理が何品かあった。それを温め直してお米を炊けば、夕食としては十分だろう。
そうしてご飯が炊ける頃には、日菜もお風呂から上がってきた。何気ない風を装って、私は日菜に話しかける。
「日菜。ご飯にしましょう」
「うん。わかった」
食卓に着いている間、私からも日菜からもいくつか話題は振られるが、会話は最後まで弾まなかった。
どちらも慎重に慎重を重ねて探りを入れている中で、楽しい会話などできるはずもない。
「ごちそうさま」
互いが互いに気を遣いすぎているぎこちない空気のまま夕食の時間は終わった。
けれどひとつだけわかったことがある。私も日菜も、傍に居たいという想いは同じだということ。
空いた食器を下げて、私たちは自然とリビングのソファで身を寄せ合った。沈黙を誤魔化すために適当なバラエティ番組をテレビで流しているが、私も日菜も意識は互いに向け合っている。くつろいでいるとは到底言えない雰囲気の中、私は意を決して口を開いた。
「その……昼間はごめんなさい。気を悪くしたでしょう?」
「えっ? う、ううん! おねーちゃんが謝ることなんてないよ! あたしおねーちゃんのねちっこい責め大好きだから! 狂い死にそうになるくらい、めちゃくちゃ気持ちいいもん! でも、その、あたしの方こそ、痛くしてごめん……」
「それこそいいのよ。悪いのは、私が不慣れなせいだから」
私は日菜にもたれかかり、彼女の肩へ頭を預ける。視線を上げると、日菜が目を丸くして驚いていた。私が甘えるように寄りかかるなんて、一体いつぶりのことだろうか。声に出さずとも、日菜がそう思っていることがありありと感じられる。
「不服かしら?」
「ぜんぜん!」
日菜は私の肩に手を回す。ぎゅっと肩を抱かれると、彼女との距離がさらに縮まった気がする。姉と妹というよりも、恋人のような触れ合い方。好きな人の傍にいるだけでドキドキしてしまうような単純な精神構造を、氷川紗夜もしていればよかったのに。
「私は不服よ。自分が堅物なことくらいわかっているけど、そのせいで楽しい時間に水を差すなんて、論外でしょう」
「おねーちゃん、もしかして落ち込んでる?」
「……そうね。そうかも」
内心を吐露すると、私の頭に日菜の手が乗せられた。髪に日菜の指が絡む。驚いて日菜を見ると、なぜだか彼女はるんっと目を輝かせていた。日菜の嬉しそうな表情に、私の口元も緩んでしまう。
「一体何が楽しいのよ」
「おねーちゃんが弱ってるところをあたしに隠さなくなったことかな。それに、おねーちゃんもあたしとシてる時間を楽しい時間って言ってくれたから。……おねーちゃんの言うこと───信じていーい? あたし、おねーちゃんに嫌われてるわけじゃないんだよね?」
「嫌うも何も、呆れ果ててるのはあなたの方でしょう? 潔癖ぶって、あれこれ遠ざけるべきじゃなかったわよね。私、自慰の経験すら同い年の人たちよりも圧倒的に少ない自信があるもの。刺激に慣れていないから、あなたのように感じられないんだわ」
「待っておねーちゃん。赤裸々に喋りすぎないで。そろそろおとーさんとおかーさん帰ってくるのに、またスイッチ入っちゃう」
「どうせ半端な終わり方をするんだから、今日はもうしないわよ。あなただって、日に何度も嫌な思いはしたくないでしょう?」
「嫌な思いってなに? ずっと、ずっと好きだった人と結ばれたんだよ? あたしは嫌な気持ちになんかなってないよ! あたしがヘタクソで、おねーちゃんを痛がらせちゃったのはイヤだけどさ。けど、あたしは今でもチャンスがあったらおねーちゃんとシたいって思ってるよ! …………おねーちゃんの方こそ、あたしとするの、イヤじゃない?」
「そんなわけないでしょ!」
つい、語気を荒げてしまった。だって、傷つけたのは私だ。傷ついたのは日菜だ。折角、身体を通じて心も繋がっていたのに、それを断ち切ったのは私なのだ。だから日菜は拒絶されることを恐れないでほしい。日菜は何も悪くないのだから。
「あなたはいつも、優しいのにね」
日菜の腰に腕を回す。ずっと私を好きでいてくれる人の肩に顔をうずめながら、私はぼそぼそと声を発した。
「お願い。時間をちょうだい」
「うん。おねーちゃんはあたしを選んでくれたんだよね? それは信じてもいいんだよね? だったら、ちょっとくらい、我慢するよ」
「ありがとう、日菜」
「今日のおねーちゃん、気に病みすぎだよ。悪い方にばっかり考えようとしてない? あたしは死ぬほど気持ちよくしてもらったし……あたしは上手くできなかったけど、次は絶対、あたしがおねーちゃんを気持ちよくさせてみせるから。それでいーじゃん」
幼児をあやすように、日菜の手が私の頭を撫でる。私を労わる手つきはとても優しく、その優しさに溺れてしまいそうになる。けれど、私が日菜の優しさに甘えてしまうわけにはいかない。これはきっと私の体質で、私の問題だから。
私がシャワーに浴びると告げたときの日菜のつらそうな顔が脳裏をよぎる。私の欠陥に逐一日菜を巻き込むなんてこと、できるはずがない。
「ええ。次は私も、人並みに感じられるようにはなっておくから」
ほどなくして両親が帰ってきたことにより、私と日菜は距離感を改める。恋人のような近すぎる距離から一歩引いて、日菜から身体を引き剥がす。名残惜しむ彼女の視線と指先が、私の心を惹きつける。後ろ髪を引かれながらも、私はリビングから自室へ移動した。
そして、私はスマートフォンを手に取った。
「少しは変わってみせなさいよ」
自身に悪態をつくと、私は再び検索サイトを開いて、大手の通販サイトへアクセスした。さらにそこでいくつかのアダルトグッズの名前を検索する。年齢確認の案内で眉根が寄るが、苦い気持ちは努めて無視した。
先ほど性知識について調べている最中に、最近の性具は人体工学の観点からも考慮されており、快感を得やすいとの記述があった。ただでさえ私はスタートが遅れているのだから、ここは道具に頼って効率的に己を開発すべきだろう。
表示された色とりどりのサムネイル画像に眩暈がするも、一つ一つ商品説明欄に目を通して吟味する。
日菜を抱くときとはまた別種の後ろめたさがあった。高ぶりは無く、ただ胸の奥に石を詰め込まれたような息苦しさがある。それは長年避けてきた領分へ自分から踏み入っているせいか。
「はあ? こんなの入るわけないでしょ」
と、数多の商品を睨みつけること十数分。結局、売り上げランキングで一位になっているピンクローターを買うことに決めた。サイズは比較的小さく、値段も手頃。ここまでで十二分に冒険をしているのだから、使うのに勇気が要りそうなものなど買いたくない。
商品をカートに入れて、受け取りが可能な日時を指定する。確認ページから購入ボタンをタップしようとした。まさにそのとき。
「おねーちゃん?」
狙ったかのようなタイミングで日菜は私の部屋に入ってきた。
咄嗟にスマートフォンをスリープにする。ベッドから素早く身を起こしながら、スマートフォンを身体の陰に隠した。
「な、なに? どうしたの日菜?」
声は上擦っていないだろうか。動きに不自然なところはなかっただろうか。目が泳いでしまいそうになるのを意識して自制し、日菜の瞳を真っ直ぐ見つめ返す。日菜の目つきがいつもとは違って、探るような色をしていると感じてしまう。勿論錯覚だ。
私に疚しいところなんてないはずなのに、今だけは早く立ち去ってほしかった。
けれど日菜に私の心なんて読めるはずもなく、彼女はいつもと同じように私の傍へ腰を下ろす。
「寝る前にもうちょっとだけお話しない? おねーちゃん、やっぱりさっき、ちょっと変だったから……」
「───私の、どこが変だと言うの?」
「だって、あんなに弱ってるおねーちゃん、久しぶりに見たよ」
私は少しだけ肩の力を抜いた。彼女が変だと言っているのはスマホを慌てて隠したことではなく、リビングでのやり取りを指しているのだと理解したから。
私の安堵をどう受け取ったのか、日菜は私にくっつくように座り直す。膝の上に置いていた手に彼女の手が重なって、優し気な体温が伝わってくる。
「邪魔なら言ってよ。あたしはできるならおねーちゃんに寄り添っていたいけど、おねーちゃんの邪魔にはなりたくないから」
さっきまで早く出て行ってほしいと思っていたくせに、こうして日菜の方から退室を提案されると、どこにも行かないでほしくなる。
身勝手な想いはままならず、私は日菜の手を握り返していた。
「邪魔だなんて、そんなことないわよ。あなたがいてくれて、とても嬉しいわ」
「ホントに? スマホで何か見てたんじゃないの?」
「───えっ? い、いえ、急ぎの用とか、そういったものではないわ」
一度弛緩してしまったからか、わずかに強張った態度を取ってしまった。自身のぎこちない声音から目を逸らすように、つい、と日菜からも視線を逸らしてしまう。すぐに思い直して日菜の顔を見るも、彼女の顔は怪訝そうにしかめられていた。今度は、私の錯覚などではない。
ずい、と日菜が顔を寄せてくる。身体の大部分が触れ合って、寄りかかるというよりも、私を押し倒そうとしているかのよう。
「ちょ、ちょっと日菜……今日はもう……」
キスをしてもおかしくない距離まで顔を寄せてくる日菜から、私はつい顔を逸らした。さすがに今日はもうそういった気分にはなれない。けれど日菜はどんどん私に体重を預けてくる。のしかかってくる日菜によろめいた私は、咄嗟に手をついて身体を支えた。
しかし日菜は私のことなど眼中にないようだった。まるで、私越しに物を取ろうと手を伸ばしているようで───
ハッと気づいたときにはすでに遅く、日菜の手が蛇のような動きで私のスマホを捕らえていた。
「だめっ! 返してっ!」
日菜の手に飛びつこうとしたが、日菜が身を退く方が速かった。なおもスマホを奪い返そうと試みたが、日菜がスマホのパスコードを解除してしまう方がよほど素早い。
共に生活している以上、スマホのロックを解除する場面だって目に入ることもある。けれどまったく躊躇いを見せない日菜の行動力に、私は愕然としてしまった。どこか切羽詰まった彼女の表情を見ると、責めるに責められない。
表示されるのは、当然直前まで開いていた通販サイトの購入画面だ。
私の見ている前で、日菜は判読などできないような速度でページをスクロールする。それでも画面に釘付けになった彼女の瞳は、一言一句漏らさずすべての文章を読み解いたのだろう。
「おねーちゃん……こんなの買うつもりなの……?」
訝しむ日菜の声に、顔から火が吹き出るかと思った。恥ずかしさで焼け死んでしまいそうだ。日菜に隠そうとした性生活の第一歩は、こうも容易く露呈した。日菜に見せてきた姉の顔と今の私は大きく乖離しているはずだ。日菜とは一線を越えている間柄ではあるが、見せるつもりのなかった場所までも光に照らされたとき、筆舌尽くしがたい羞恥心で私の胸はいっぱいになった。
「そうよ! 悪い!?」
顔を真っ赤にして居直った私は、横合いから手を伸ばしてちょうど画面に表示されていた購入ボタンをタップする。購入手続き完了の画面へ遷移したスマホを日菜から取り上げて、今度こそ奪われないよう服のポケットにしまった。
一拍おいて、買ってしまったという実感が湧き上がる。後悔のような、高揚感のような、意味を成さない呻き声を上げたくなる胸のざわつきは、当分収まりそうにない。そっぽを向いて、自分の頬に手を当てる。この熱が引くまでは、日菜の顔を見れそうになかった。
「自分で使うの?」
「そ、そうだけど……やめて日菜、それ以上は聞かないで……」
「いらないでしょ」
「───え?」
「こんなの買う必要ないって言ってるの!」
突如日菜が声を荒げる。二の句が継げず、私はただただぽかんと彼女の声を聞いていた。
からかっているのだと思っていた。私が恥部を晒す場面に立ち会ったのだから、そのまま私を辱めているのだと思っていた。けれど日菜の声には、そういった愉悦の色は欠片もなく、凍てつくような硬質な響きだけがこもっている。
冷たい声に撫でられて、私の中で燻っていた羞恥心はたちまち鎮火してしまう。
再び日菜を見ると、彼女は傷ついた表情をして、目に涙を浮かべていた。
理解ができない。なぜ? どうして? 脈絡の無さに、頭の中で疑問がぐるぐると渦を巻く。
ひとつだけわかっているとすれば、また私が日菜を傷つけてしまったということだ。
「──────日菜?」
戸惑いの中での呼びかけは、彼女を留めるに至らない。
引き止める間もなく、日菜は部屋から出て行ってしまった。
「なんなのよ……」
吐露した言葉は重く、私と日菜を遮る溝の底へ落ちていった。
私たちの間を隔てるものなど無くなったと信じていただけに、その存在を再確認したことは、どうしようもなく私の気分を沈ませた。
◇
時間だけが過ぎていく。
あの日、日菜が何に憤っていたのかは、結局わからずじまいのまま。
次に日菜と顔を合わせたときは、彼女はいつも通りの笑みを湛えて、何事も無かったかのように接してきた。話を聞こうにも、私が日菜を傷つけた話題に触れようとすると、彼女はのらりくらりと私との対話を避けてしまう。
私の追求を逃れるよう、日菜は周到に立ち回った。
日菜はさり気なく、けれど私を決して踏み込ませない、拒絶のラインを引いている。私からずけずけと日菜の内情に触れることなどそう滅多にあるものではないが、基本的に彼女はいつもオープンで、常に私を受け入れてくれていた。
だから、私はきっと、生まれて初めて日菜から拒絶されている。
恐い、と思う。
その一線を踏み越えるとき、私は日菜の最も柔らかな部分に触れるのだ。そんな無作法な人間には、必ず手痛いしっぺ返しが訪れる。
またこの関係に瑕疵がつくのかと思うと、恐ろしくてしかたがない。今度こそ、本当に終わってしまうかもしれない。放っておけば時間が解決してくれる。だって表面上はいつも通りに過ごしているのだから、無理に話を聞き出すことになんの意味があるというの? そう言い訳をして、問題の解決を先延ばしにしてしまいたくなる。
だからこそ、私は妹に対して敬意を抱いた。
私はもっとあからさまに日菜を拒んだ。日菜のように緩衝地帯を作るなんて器用なことはせず、一事が万事当たり散らした。
それでも彼女は踏み込んできたのだ。どれだけ傷つけられても、私と共に在ることを選んでくれたのだ。
人と感性が違うと宣いつつも、人として尊敬できる部分を見せつけてくるのだから、私は氷川日菜を一人の人間として好きになれたのだ。
「私が勝手に踏み込んで、勝手に傷つくことの、一体どこに問題があるというの」
次は、私の番だろう。ここで日菜を慮る振りをして、日菜に甘えてしまえば、私は日菜と一緒に罪を犯す資格すら失ってしまう。
ただひとつだけ、痛みを伴わなければ先へ進めない己の不器用さが恨めしかった。
かつて私は、私と日菜の関係を翡翠に例えた。私たちが形作る翡翠には、まだ傷つく余地が残されているだろうか。
「日菜。話があるの」
学校から帰ってきた彼女を呼び止めると、日菜は困ったように曖昧な笑みを浮かべる。
私の声のトーンから、ただの世間話では終わらないことを察したのだろう。
「あなたがあの日の話を避けているのは、重々承知しているつもりよ。それでも、私は知りたいの。どうしてあなたが怒ったのか。どうしてあなたは悲しんだのか。私が何をしてしまったのか。知って、理解したい。日菜の気持ちを理解したいの」
もうこれ以上、あなたを傷つけないために。
「言いたくない。理解なんてされたくない。もういいじゃん。深い意味なんて無いよ。たまたまあたしの虫の居所が悪かっただけ。おねーちゃんが気にすることじゃないよ」
「──────あなた、何に怯えているの?」
「───、───」
日菜の表情が固まった。日菜の触れられたくない場所に触れたという確信があった。
日菜は唇をわななかせながら、視線を落とす。
「知ってどうするの? そんなにあたしを幻滅したいの? それとも悪し様に罵られて傷つけられたい願望でもあるわけ?」
「あなたを幻滅したりはしない。あなたが私を傷つけたいと言うなら、いくらでも傷つけてくれて構わない。本気よ。わかるでしょ」
「わかるよ。けど、おねーちゃんが耐えれると思ってるのは、今がアンフェアだからでしょ。昔自分がやらかしたから、帳尻を合わせたいだけ。知ってるよ、おねーちゃんのことだもん。おねーちゃんは行動と感情を切り離せる人だから。正しかったら嫌いな人にも手を差し伸べて、理由さえあれば親しい人だって傷つけられるんだ」
否定はできなかった。咄嗟に反論しようと口を開きかけたが、喉を震わすに値する言葉が私の中に無い。私自身、本当に必要があればやるかもしれないと思ってしまった。
氷川紗夜は氷川日菜を愛している。これは紛れもない真実であるが、同じくらいの強さで責任や贖罪といった言葉が浮かんでいるのもまた事実なのだ。
私が抱いているこの感情と、日菜が望んでいる感情は、きっと同一ではないのだろう。
「あたしはおねーちゃんと対等になんてなりたくない。なってなんかやるもんか。あたしは絶対、おねーちゃんを傷つけるなんてこと、してやらないんだから。…………そう思ってたのに、おねーちゃんは動き出しちゃったんだね。あーあ。ばっかみたい」
日菜のすべてを諦めたような、疲れ切った顔色に、私はなんと言葉を返していいのかわからなくなった。
それでもどうにか日菜を慰めようと、彼女に対して一歩踏み出す。
「やめてよ。近づかないで。義務感なんていらないんだよ、おねーちゃん」
けれど日菜はもう、距離を詰めることすら許してくれない。
「日菜……」
「知りたいんでしょ、あたしの気持ち。そんなのあたしにだってわかんないよ。おねーちゃんがそんなのだから。おねーちゃんがそんな風じゃなかったら。──────ねぇ、独りにさせてよ。頭の中、整理させて」
喜怒哀楽がごちゃ混ぜになった顔で言われてしまえば、私にはもう頷くことしかできなかった。
「けれど日菜。私は、問い直すわよ。いつまでも、あなたの答えを待ち続けるから」
返答はなかった。覚束ない足取りで、日菜は自分の部屋に消えていく。
理由がわからない以上、私は謝罪の言葉を口にする機会すら奪われて、普段通りに日菜と接するしかなくなった。
そうしているうちに、事の発端となった配達受取日がやってきた。
放課とともに、私は急いで学校をあとにする。部活も委員会もRoseliaの練習もない日を選んだとはいえ、稀に指定時間よりもはやく配達されていることもあるし、ほんの少し帰宅が遅れるときに限って指定時間開始の一分後に不在票を入れられていることもある。
物が物だけに、絶対に自分の手で受け取りたかったし、再配達はリスクを負いたくなかった。
幸いにも、私が帰宅した時点ではまだ配達はされていない。制服から部屋着に着替えるか逡巡するが、どうせすぐに来るだろうと高を括って、そのままリビングで待つことにした。
時間を潰せるものがほしいが、ギターは弾かない。熱中しすぎて、インターホンの音に気づかない未来が目に見えている。
結局、私は通学鞄から今日出された課題を取り出し、それに取り組むことにした。
すべての課題を片付ける頃には、配達業者よりも日菜の方が早く帰ってきてしまった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
一言だけのやり取りで、日菜は自室に入っていく。私たちの挨拶としては、かなり簡素な部類だろう。
日菜はまだ、答えを見つけられないのだろうか。いくらでも待つと言った以上、急かす真似はしたくない。けれど、こんな生殺しのようなもどかしさはさっさと捨ててしまいたかった。
「そもそも、何が日菜の不興を買ったのかしら?」
卑猥な道具を使うことに抵抗がある、人知れずそんなものを買っている姿を軽蔑する、という心理ならわかる。それは氷川紗夜の考え方そのものなのだから、理解できて当然だ。
けれど日菜なら。むしろそんな道具があれば嬉々として使いたがるのではないか。好奇心の塊のような妹が、使ったことのない道具を印象だけで忌避するとは考えられない。
そうすると、一体何が日菜の気分を害したのだろう。
やはり私に、日菜の内心を推し量ることなどできないのだろうか。
煩悶とした時間を過ごしていると、ようやくインターホンが来客を知らせた。そろそろ親が帰ってきてもおかしくはない時間に差し掛かっていたため、少しだけドキドキしていたのだ。結局、配達業者が訪れたのは指定時間範囲終了の十分前。向こうはただ順番に仕事をしているだけでちゃんと時間枠内に届けてくれているのだから何の文句も無いのだが、やはりどこか釈然としない気持ちが芽生えてしまう。
身勝手な利用者の傲慢さには蓋をして、私は配達員から荷物を受け取った。
ただ予想外なことに、配達員は荷物を二つ持っていた。一つは当然私が注文したものだ。もう一つの荷物は私が頼んだものよりも一回りは大きな段ボール箱であり、宛名には氷川日菜と印字されていた。
首を傾げながらも、私は日菜の荷物にもサインをする。
そして玄関ドアの戸締まりを済ますと、私は段ボール箱を二つ抱えて、日菜の部屋のドアをノックした。
自分の荷物は先に自室へ投げ入れていてもよかったのだが、どうせ中身が何か、日菜には知られてしまっている。日菜に荷物を渡すのなんて数秒で終わる作業のため、どちらにしても大差ないと判断した。
「日菜? 起きてる? あなた宛の宅配便が届いているのだけれど」
すぐさま部屋のドアが開いた。顔を覗かせた日菜はわだかまりなどないような親しみのある笑みを向けてくる。
「あ。届いたんだ。おねーちゃんにも見てほしいから入ってよ」
そして彼女は部屋の中へと私を誘う。断る理由はない。このタイミングで私を自身のテリトリーに入れるということは、いよいよ私の問いへ答えが示されるときが来たのだろう。春の陽射しを思わせる朗らかな日菜の笑顔に期待した私は、招かれるまま日菜の部屋に足を踏み入れた。
日菜は私から段ボール箱を受け取ると、机の引き出しからカッターナイフを取り出して、荷物の開封に取りかかった。手持ち無沙汰になった私は、日頃の日菜のように部屋の主が使うベッドに腰を下ろす。
膝の上に自分宛の荷物を置いて、日菜の部屋に長居するのはいつぶりだろうと思案する。
私が日菜の部屋に入り浸ることは滅多にない。物珍しく彼女の部屋を眺めて回ると、見覚えのない小物や雑貨が数多くある。当然と言えば当然だ。彼女の趣味が反映されたインテリアを興味深く注視する。けれど、ただひとつだけ、理解できないことがある。本棚のないレイアウトは、私の感性からするとありえなかった。
それについて訊ねれば「気になる本があったら写真撮る感じで全ページ記憶しといて、暇なときに頭の中で目を通せばいいだけじゃない?」なんてことを事も無げに言い返してくるに違いない。
本人が不要と断じているのなら、私がとやかく言うのはお門違いではあるのだが、やはりあってしかるべきものがない落ち着かなさがある。
私が日菜の部屋を観察している間にも、日菜の手元からはびりびりべりべりとビニールの包装を裂く音が聞こえてくる。ほどなくして、それらの音はじゃらりと金属が擦れ合うような音に取って代わった。
「日菜? それで、見せたいものってなんなの?」
気を紛らわせるのもそろそろ限界だった。意識を向けないようにしていたが、私は妹の部屋で大人のオモチャを後生大事に抱えているのだ。日菜を待つ間に暇を持て余せば、そのふしだらな行いを自覚せずにはいられない。据わりが悪い気持ちから目を逸らすため、私は日菜に話しかけていた。
「んー? これだよ」
そう言って日菜が段ボール箱の中から取り出したのは、革ベルトの手錠だった。革でできた手枷の部分が、鎖によって繋がれている。鎖の中央には親指ほどの太さがある輪っかが嵌め込まれていた。
「手錠、よね? それ。手錠なんて買って、あなた何をするつもりなの?」
手錠。そう、手錠だ。
意外な物を見せられてつい訊ねてしまったが、手錠の用途なんてひとつしかない。手錠は誰かを拘束するために使う道具だ。
道具を使う人。使われる人。いま室内には、私と日菜のふたりだけ。
いやそんなまさかと思いつつも、私の背筋にじんわりと冷や汗が滲む。私は脈絡のない荒唐無稽な妄想を振り払おうとしたが、日菜はその妄想を肯定するようにスッと私と部屋のドアを遮るように移動した。
にこにこと日菜は笑っている。けれど私の言葉には応えない。彼女は見知った表情をしているのに、初めて見る感情を発露させていた。
いや、日菜が私に見せた感情の中では初めてというだけで、私はその感情をよく知っていた。むしろ慣れ親しんでいると言い換えてもいい。
暗がりの中で藻掻き続ける焦燥感。成るように成らない現実に対する怒り。どうとでもなれという自暴自棄。
氷川日菜は少し前の氷川紗夜のような目をしていた。
「日菜? 冗談、よね? 悪ふざけにしては、ちょっと笑えないわよ?」
退路を断たれた。
この考えは決して被害妄想では終わらないのだろう。彼女が何をしたいのかわからない。ただ本気であることだけは十二分に伝わってくる。
膝上の段ボール箱を適当にどけて、私は日菜のベッドから立ち上がった。私の一挙手一投足を日菜は静かに見つめている。
猛獣に狙われる草食動物になった気分だった。冷水を浴びせられたように、心が硬く萎縮する。彼女が何を思っているのか、欠片も理解が及ばない。
私は目前の日菜を、恐い、と思っているのか。私は日菜に恐怖を感じているのか。
そんな疑念が芽生えた瞬間、炉に火をくべられたように、私の心はカッと燃え上がった。先ほどまで感じていた恐怖心にも似た戸惑いなど一瞬で焼き尽くし、ドアを塞ぐようにして立つ日菜へ大股で近づいていく。
私が日菜を怖がるですって? 冗談じゃない。
広くない部屋だ。たった数歩で、私と日菜は互いの息がかかるほどに近づいた。私がこんな行動に出るなんて予想だにしていなかったのか、日菜の瞳は揺れている。私は追い詰められていたはずなのに、容易く立場は逆転した。ジッと日菜の瞳を覗き込んでいると、彼女の不敵な笑みはすぐに鳴りを潜めた。日菜の中で、日菜が支えにしていた信念のようなものまでぐらついているのがわかってしまう。
「あ、あはは。ジョークだよ。おねーちゃん、びっくりするかなって……」
語気が段々弱くなっていき、日菜は逃げるように目を伏せた。まだ何も成し得ていないだろうに、彼女の顔は後悔に塗れていた。
その態度に、無性に腹がたった。心がささくれ立つ。
彼女の顔の横に左手を突く。右手を俯いている日菜の顎に添えて、ぐい、と強引に顔を上げさせた。さらに私は顔を近づけて、こつん、と日菜の額に自分の額を合わせた。意図せず、鼻先と鼻先がこすれ合う。
日菜が驚いているのを肌で感じる。あまりにも距離が近すぎるため、彼女の表情は伺えない。私の視界は、日菜のつぶらな瞳だけでいっぱいだ。
「あなたが何をしたいのか、何を考えてるかなんて、私にはわからない。けれど、私はもう、あなたから逃げないって決めたのよ。私は日菜を理解したい。だから問うたわ。私の何があなたの顰蹙を買ったのか。あなたは何に怯えているのか。その答えが手錠だと言うなら、最後までやってみせなさいよ」
「──────どうなっても、知らないよ?」
「聞こえなかったの? やれるものなら、やってみなさい」
ギリ、と眼前から歯が軋む音が聞こえた。日菜の瞳の奥に、闇のように輝く火が灯る。彼女の中で何かが変わったのを悟ると同時に、ドン、と私は日菜に突き飛ばされた。
「──────」
転ばないよう、足元に注意が向く。私が蹈鞴を踏んでいる間に、日菜に右手を取られた。掴まれた手はすぐに捻じり上げられ、そのままベッドに向かって倒される。突き飛ばされ、倒れないよう踏ん張っていたところだ。さらに余計な力を加えられた私は何一つ抵抗できずに、日菜の思うがままベッドへと倒れ込んだ。
「ぐっ……!」
くぐもった呻き声が漏れる。痛みらしい痛みはない。倒れ込んだ先が床なら話は違ったかも知れないが、ベッドなので怪我はない。咄嗟に顔を逸らしたので鼻柱を打つようなヘマもしていない。けれど、さすがに今までとは別種の怒りが沸々と湧き上がってくる。煽ったのは私だが、こんな乱暴なやり方は褒められたものではない。文句の一つも言いたくなる。「ちょっと!」と非難の声を上げる傍ら、私の右手首が何かに覆われている違和感に気づいた。
右手にはすでに手錠が嵌められている? 疑問を浮かべながらも、私は反射的に手をついて起き上がろうとした。しかし、右手を動かそうとするとじゃらりと金属の擦れる音がするばかり。手首が覆われている部分に負荷がかかり、満足に動かすこともできない。右手に手錠が嵌められていると確信する頃には、私は左手を掴まれて、また先ほどと同じように背後で捻り上げられる。
「痛いっ! 日菜!」
抗議の声に日菜は反応しない。
すぐさま左手首も少しだけひんやりとした感触に覆われた。両手を動かそうとすると、ガチャガチャと鎖が擦れて、自由を奪われていることがわかる。私がベッドに転ばされて、苦悶の声を上げている間の出来事だ。数秒程度の時間で、私は両手を後ろ手に拘束されてしまった。人攫いに加担した経験なんて無いでしょうね? と問い詰めたくなるほど、実に鮮やかな手際だった。
無造作に髪を掴まれる。背骨に沿って髪を引っ張られると、上を向くように頭が上がる。
「───、───」
反り上がった喉からは、呻き声すら満足にこぼせなかった。無防備に晒された喉笛に日菜の手が伸びてくる。彼女の手には、革製のチョーカーが握られている。ぎゅっと首が絞められた。ややきつ目に、チョーカーが私の首に装着される。軽く咳き込んだが、呼吸に支障は無いようだった。
手枷は物理的に私の行動を制限した。チョーカーは囚われたという心理的錯覚を私に与えた。チョーカーなどと洒落た呼び方ではなく、首輪と用途に則した言い方をすべきなのだろう。
日菜が私から離れる。上体を起こした私はベッドに足を崩して座り、日菜の背を睨む。痛みという刺激がガソリンとなり、私の心にくべられる。激情のまま、日菜に向けて鋭い言葉でも投げつけてやろうかと思った。
そのとき、かろうじて冷静さを保っていた私が呟いたのだ。
───こんな強硬策を取らざるを得ないほど日菜を追い詰めたのは、お前ではないのか。
そんな可能性に思い至ったとき、私は口をつぐむしかなかった。身を焼くような激情も鎮まり返り、私は日菜の成すがままに身を任せるしかなかった。
視線の先で日菜は段ボール箱から棒状のものを取り出した。それはかしゃんを音を立てて、一メートルほどの長さに伸びる。指ほどの太さがある、伸縮式の棒。両端には金属の留め具が付いていた。それが振り上げられたように見えて、私は咄嗟に顔を日菜から背け、固く目を瞑り、身を強張らせる。
けれど、打擲される衝撃はいつまで待っても来なかった。私の背後に回った日菜が手錠の鎖を弄っていることに気づき、私は恐る恐る身体から力を抜いた。
「な、なにをしているの?」
私の問いに答えるように、首の後ろからカチンと留め具が嵌る音がした。わずかに首が絞まる。首輪の金具と棒の留め具が繋がれたのだと、首筋にかかる負荷で察せられる。可動範囲が著しく狭くなった両手で探ってみれば、手枷を繋ぐ鎖の中央にあった輪っかに棒が通されていることがわかった。
なんのために? などといちいち考察する余裕は無い。
私が状況を把握すると、日菜はもう次の行動に移っている。次は足首を掴まれた。足を力任せに引っ張られ、バランスを崩した私は再びベッドの上でうつ伏せに倒れた。引っ張られた拍子に数センチほど引きずられ、スカートがめくれ上がる。あらわになったショーツを隠そうにも、手枷ががちゃがちゃと音を鳴らすだけだった。
私が丸出しにされたショーツに気を取られている間に、日菜は私の両足首にもベルト状の枷を着け終わる。そして踵を裏ももにくっつけるように膝を曲げられ、足枷から伸びる鎖と棒の反対側の留め具がカチンカチンと固定された。
無理に足を動かそうとすれば、足枷とつながっている棒が引っ張られ、それに連動して首輪が絞まる。加えてただでさえ両手は後ろ手に縛られて動かしにくいというのに、背骨の上に流れる棒に沿ったY軸方向にしか動かせない。
今の私は、軽めの海老反りの姿勢を強要されている。両手両足の自由を奪われ、ベッドに転がされている。
「日菜……」
もう何度目になるかわからない呼びかけ。暴挙を振るう間、日菜はずっと沈黙を守っている。様々な楽しみを見つけ、味わうことを標榜としている彼女の顔は、今も固く強張ったままだった。
いくら日菜の瞳を覗き込もうと、彼女の考えは窺い知れない。けれど、意図はなんとなく察せられた。きっと日菜は、かつての焼き回しをしているのだろう。私が日菜に何もさせず、彼女の主張を黙殺し続けたあの頃を、立場を入れ替えて再現しているのだろう。
つまり、何に怒って、何に怯えたのかという私の問いに対する答えはきっとこうなるはずだ。
───自分の胸に聞いてみろ。
そうなると、もう私に否やはなかった。どんな仕打ちだろうと、私は甘んじて受け入れるつもりでいる。
日菜が私の目の前で口枷をぶら下げた。それは玉口枷とでも言うべきもので、赤い球状の口枷から革紐が伸びている。玉の中は空洞で、表面の至るところには穴が開いている。その拘束具をギャグボールと呼ぶのだという知識は私にもある。それを日菜は私の口元に押し付けた。シリコンの冷たさが、歪む唇から伝わってくる。私は数秒ほど瞑目した。そして次に目を開けたとき、私は自らの意思でギャグボールを咥えこんだ。
ギャグボールのベルト部分が頭の後ろで固定される。身動きの次は、しゃべることを封じられた。十全な意思表示などできないし、日菜ももう私の想いなんて汲み取ってはくれないのだろう。
日菜はへなへなとその場にくずおれた。床に座り込んだ彼女は張り詰めた糸が切れたように、安堵の表情を浮かべている。これまでの暴挙は、日菜にとって相当な覚悟と緊張を強いられたのだと私は悟った。日菜は床に腰を下ろしたまま、ベッドのマットレスに顎を置く。自然と私と目線が合う。
視線の先で、日菜は郷愁のような懐古のような、セピア色の何かを懐かしむ目をしている。目前にいる縛られた姉など眼中にないように、別の何かへ日菜は思いを馳せていた。
「おねーちゃんがどう思ってるか知らないけど、あたしは今の関係がものすごい奇跡の上に成り立ってるって思ってるんだ」
唐突に日菜が口を開いた。それは私に語って聞かせるというよりも、ぽつぽつと独り言を漏らしているようだった。
「この関係を成り立たせるために、あたしはおねーちゃんの負い目につけこんだと思ってる。おねーちゃんがあたしにつらく当たってくれた時期があったからこそ、あたしの無茶苦茶な要求だって呑んでくれてるんだって。だってそうでもないと、おねーちゃんは正しい方を選んじゃうでしょ? 姉妹で肉体関係を持つのが間違ってることくらい、あたしにだってわかるよ。
だから、つけ入るならここしかないって思った。あたしが被害者でいられる内に、おねーちゃんがあたしに負い目を感じてる間に、無理にでも関係を持ちたかった。そしたら、ほら。思った通り、おねーちゃんはあたしを受け入れてくれた」
打算塗れだったとしても、あたしにとっては奇跡みたいな時間だった。と日菜は言う。
「そうすると、この奇跡の時間を一秒でも引き延ばすために、あたしは被害者であり続けるしかなかった。傷つけて、傷つけられる。そんな対等な関係になっちゃったら、おねーちゃんは正しい方を優先して、あたしのことをただの妹としてしか見てくれなくなる。そうわかってたのに、失敗したなぁ……。身体の相性とかセックス中のトラブルって普通の恋人でも別れる理由にするには十分すぎるよね」
待って。と言いたかった。けれど、代わりに出たのは声にならない呻き声のようなものばかりだった。
ギャグボールに舌を押さえつけられているのがもどかしい。日菜は思い違いをしている。そう伝えたくて、私は何度も首を横に振った。
ようやく。ようやく私は日菜の不安を理解した。日菜は私から別れを告げられることを恐れていた。爛れた関係を解消して健全な姉妹仲に戻ろう。そんなことを私がいつ言い出してもおかしくないことに怯えていた。
日菜の不安はよく理解できる。
子供こそできないからといって、近親相姦染みた関係に耽っていいのか。輝かしい日菜の未来に陰りを招いていいのか。そういった不安は、ふとした拍子に幾度も私の心を苛んだ。自分の胸の裡に留めずに、日菜に直接吐露したことだってある。その度に、日菜は別れ話を切り出されるのではないかと身も凍る思いをしてきたに違いない。
口枷を取ってほしかった。日菜と話がしたい。結局、私の不徳が日菜を追い詰めてしまったのだ。
不安が浮かび上がることもある。覚悟が揺らぐこともある。それでも、私はあなたを手放したくないのだと、告げたかった。
日菜が私の頭に手を伸ばす。けれどそれは口枷を外すためではなく。とても優しく、工芸品を扱うように丁寧に、私の頭を撫でるだけに留まった。
穏やかな日菜の目は、私に何もしゃべらないでと言っていた。
「最初はさ、おねーちゃんもあたしと同じでこの関係を壊したくないんだって期待したんだけど、そのすぐあとに、あの氷川紗夜がピンクローターなんて買ってるんだもん。あー、おねーちゃんも変わっちゃうんだなーって思わない方が無理だよね。やっぱりあたしとヤるよりも、独りでスる方がいいんだなーって。どうせ宗旨変えするなら、私とイケない関係続けるよりも、そっちの方がよっぽど健全だもんね。
……うん。どうせ、もうこれが最後なんだ。本当に、夢みたいな毎日だったよ。だから、最後は悪夢で彩ってあげる」
そして、日菜が私を見た。
手の届く距離にいる私に、初めて焦点を合わせた。
「あたしたちも、あたしたちの間にあるものも、ぜんぶぜんぶ、ぶっ壊しちゃお」
おねーちゃんなんて、壊してやる。
そう告げる日菜は、今にも壊れてしまいそうな笑みを浮かべていた。