飯の時間だと匂いが伝えて来る。それに合わせて立ち上がった俺は放っておくと机から動かない女を思い出して、女部屋へと足を進めた。
女部屋のドアを開けた時、いつもの背中なのに嫌な物を感じた。咄嗟にナミの肩を掴んだが、まるで正確に動く人形や機械のように海図を描き続けている。
これは手遅れだったかと思い、顔を顰めた俺はナミのベッドにどかりと腰を下ろした。そうして1定のリズムで、休む事無く動き続けるその姿を視界におさめる。
長い髪が時折揺れる他は肘から先と瞳以外に動きはほぼ無く、右手がインク壺に移動して動きを止める。すると左手が薄い紙を手にして、紙の上に載せられた余分なインクを吸収して行く。
常にどちらかの手は動いていて、視線はその両方を同時に見ているのか焦点の合わないようなそれに、剣道と同じだなと思う。全体をぼやっと見ながら、中心となる大切な所に意識を向ける。
剣士の場合は相手の眼を見る事になる。剣の切っ先を見ていては、切先を動かされた時に標的を見失い対応なんて出来なくなるからな。
そんなのは2流とも呼べねェ。そういう意味では、ナミは歴戦の戦士のようだと思う。
横顔が妙に綺麗で……食らいつきたくなる。飢えたような衝動に深く息を落としてから、俺は小さく笑った。
仲間を襲ってどうする。いくら先日恋人と呼べる関係になったとは言え、体力や仕事量を考えれば俺の欲望ばかりをぶつける訳にもいかねェ事はよく分かっている。
それに、肉体から先に手に入れたが、心が本当に俺を恋人として見ているかは甚だしく疑問だ。仲間だから拒めなかったが、肉体関係があるから恋人とか思ってる可能性も十分に有り得る。
特にナミは、1度でもその心が受け入れた相手の事は何でも許しちまう傾向がある。それを分かっていて、甘える事は出来ねェだろ。
こうなったなら仕方ねェと立ち上がった時、ベッドに封筒が置かれているのが見えた。手に取るとハロウィンイベントと書かれていて、中にはイベントの内容やらレシピやらが書かれている。
……本当に、なんでも知ってやがる。その上、いつ寝てるか分からねェ困った奴だよ……と思いながらコックの元へ向かう。
「おい、これナミからだ」
「お前宛じゃねェのかよ」
「レシピを自分宛だと思えるか」
「そりゃァ確かに俺宛だな」
そう言ってコックが手紙を手にした時、ふと俺を見て眉間に皺を寄せた。それから直ぐにヤカンを火にかけたので、どうやらナミの状態に気付いたらしい。
「体温は正常だったか?」
「……そういや、少し冷えてたな」
「何か肩から掛けて差し上げろ。それと、今から入れる飲み物持って行け。……お前が持って行けば、飲むだろ」
こいつも難儀な奴だよなとしみじみ思う。本気で想うが故に、手を出せねェんだと伝わって来る。
ナミは甘い。誰にでも。
だからこそ、俺は不安にもなる。だがコックは、真面目な性格のナミが恋人以外に手を出された時に受ける傷を考慮して、手を出せなくなった。
飲み物を用意してる間にいつもは全員揃ってからだと言うコックが俺の分を別にして、茶と共に運べるように用意している事に気付く。傍についてろって事か。
飲み物と食料を俺が受け取れば、後は任せろと言って手紙に書かれた内容については請け負われた。こんな時に咄嗟に重要な事を任せられるのがコックだけってのは問題だよなと思うが、この船では俺とコックが最年長なんだから仕方のねェ話かとも思う。
そもそもいつもは、そう言った厄介事は全てナミが取り仕切り、最後にルフィに確認や報告をするだけなのだから〝そもそも〟の所でおかしい。だが他に誰か、分担だけでもできる奴が居るのかと問われれば答えは否だ。
細く息を吐き出して、気持ちを落ち着かせてからナミの元へ向かう。俺も負担を掛けてる側なんだよなと、渦巻く多くの感情を押し殺す。
部屋に入り、ナミの左側の手元に飲み物を置けばペンを持つ側では無いからか、無意識でそれに手を伸ばして口に運ぶ。初めて見た時はなんて無用心なのかと思ったが、慣れてる相手と言うか、信頼してる相手の置いた物でしかそれをやらないと分かれば、妙に安心した。
だから本当は俺じゃなくても、コックやルフィの持ってきた物でも飲むんだが……まぁ食わねェ。その上誰が持って来たのだとしても、左手側に置かなけりゃ飲まねェんだよなとのんびり眺める。
ペンは死んでも離さねェって感じだもんな……。俺が、<ruby><rb>和道一文字</rb><rp>(</rp><rt>くいなの形見</rt><rp>)</rp></ruby>を手放せねェのと近い勢いだ。
飯食って、酒飲んで、ナミが正気にかえるのを待つ。この無駄にのんびりとした時間にいつもと同じようにトレーニングして居たが、これまでも1度としてナミがそれについて文句を言った事はねェ。
寧ろ女部屋が臭くなるから辞めろと言うのはコックだ。ナミは怪我しないでねと笑って言う程度だ。
狭いから怪我しそうで心配……と言うが、そもそも本が多過ぎるんだよ。っとに、アホらしくなる程に本で埋め尽くされた部屋だ。
ふと視線を向ければ、正気に返った筈のナミが何をとち狂ったかまた机に向かおうとしたのを止めて、食事をするように言えば何故か嫌そうな顔をされた。だから俺は思い出した文言を伝える。
「ナミ、Trick or Treat?」
「うぐっ……!」
飯食いにに行かねェってんなら、俺の飯になれと圧力を掛ければ、少しいじけたような視線を向けて来たナミが、少し待ってなんて言ってクローゼットから酒を取り出した。度数はそれ程高くねェが、良い奴だ。
「ゾロにはお菓子よりこっちでしょ?」
「違いねェな。だが……ナミも欲しい」
「え?」
本気で分からねェって顔をされれば、おいこらと思わなくもねェが……。ベッドに縫い付けるように沈ませれば、ナミは漸くその意味を理解した様子だ。
「まだナミが机に向かってると、皆思ってるからな。ナミが声を抑えさえすればいいだけだろ」
悪人面とか悪い顔だと言われる俺の笑顔を見て、ナミは恥ずかしそうにしながらも抵抗する事は無い。Trick or Treat……悪鬼だろうと阿修羅だろうと、惚れた女が最高の甘味である事だけは間違いない。