人を好きになる。
そういう感情には疎い方だった。
私の在籍する黒森峰女学園は全国有数の戦車道強豪校である。
だからと言って生徒すべてが、その道に携わっているわけではない。
寝ても覚めてもグリスと硝煙にまみれて、近くに来れば臭いですぐ分かるなどと、軽口を叩かれる私達の方が、どちらかと言えば少数派だった。
そりゃ私だってIS-2の装甲厚なんかよりもよっぽど微積分を覚えるべきだと思う。
だが文武両道なんていうものは所詮理想なのであって、両方こなすのは骨が折れる。
他所の運動部だってそうだろう。
日常生活に偏りが生じるのに、さほど時間はかからなかった。
結局のところ連れ添うのは、自然と朝練も放課後も顔を合わせるメンツとなる。
元々そんなに積極的に交友を深めたいタイプでもないし、別に私達の方だって、変わり者と避けられているわけでもないので非選択者と軋轢などは何もなかったが。
それでも戦車道選択者以外と話をすると会話が続かないと戸惑う事が多々あった。
世俗的なものを軽視しているわけではないけれど、携帯をイジる暇があるなら、走り込みでもしていた方が心は落ち着く。
仕方の無いことだろう。そもそも機甲科専用学生寮なんてところに住まう時点で、世間からは隔絶されてしまう宿命にある。
なるべくなら私だって年頃の女の子らしい振る舞いをしてみたいので、就寝前の空いた時間にはネットサーフィンをするのが趣味となっている。
そんな情報収集癖が高じて、授業の合間の休憩時間中は朝練の疲れを癒やすべく、仮眠を取りながら、教室内で飛び交う会話に何となく耳を傾ける癖もついた。
そこであらためて、あぁ、そう言えばうちは女子校だったなと気付く。
交わされる会話の大半が、恋愛に関するものだからだ。
けれども別にうらやましいとは思わない。
恋の歌をBGM代わりに聴いてるのと同じ。
ただ、そういう事もあるのかも知れないなと、あくまで他人事に過ぎなかった。
中高を女子校と戦車に捧げれば、出会いなんてあるわけもない。
感情移入ができるほどの経験なんて積んでいなかったのだ。
だから、どうしても理解できない事がある。
とある現国教師が芸能人の某に似ていて人気を集めていた。
なるほど、確かに顔立ちは整っているし面影がある。そこまでは理解できる。
だから好きだという論法。
これにはまったく賛同ができなかった。
どっちが好きなんだって、言ってる子に質問したくなる。
社会通念や倫理に照らし合わせても普通、人を好きになるということは個と個の話で、不特定多数を好きになるのは有り得ない。
浮気は軽蔑されるべきものである。
似てるから好きってどういうことなのだろう。
一個人が好きなのか。2人の人間を同時に好きと言ってる様にも受け取れないだろうか。
もしその某芸能人のことなんか知らなかったら好きの対象にならないのだろうか。
もっと言えば、現国教師と芸能人の某から同時に告白されたら一体どっちを選ぶのか。
似ているから好きと言われて、相手も困らないのだろうか。
上位互換がいるぞって第一声で言われて嬉しいものなのだろうか。
分からない。
分からないというのが正直な感想だった。
まぁ、どうせ他人の話だし。本人同士で折り合いがついているならそれでいい。
是非に口を挟める立場にいるわけじゃなし。
「って思うんだけど、どうなの?」
振られた奈緒がコーヒーを咽せそうになる。
「ゲホゲホっ! えっ? 何? エリカお前、熱でもあんの?」
「ただの世間話よ! 世間話!」
昼下がりの食堂で珍しく全員が揃った我がグラウフクスチーム。
「エリちゃん意外と乙女だもんね」
「自覚してないわけではないけど、人から指摘されると腹立つわね……。意外、は余計でしょ。そう言うひよりはどうなのよ」
「うーん……正直困るよねー。理想なのは当然俳優さんの方でしょ? だからと言ってお金も地位もないからって見捨てたら、なんか、こう……その男の人もすっごい可哀想だし、私も後悔しちゃいそうっていうか」
目の前に踏んだり蹴ったりの人間がいたら、心から楽しめないわよね。
うーん、それも分かる気がする。
「……この選択には重大な欠陥がある」
「おっ? 何だ? 砲手独自の目線で恋愛も一撃か?」
「……最も重要視されるべきは性格。……なのに同時に告白されたら相性の良さを計る機会がない……だから提示された条件が全部、外見だけになってる。……それでは選択肢が機能していない、対等になっていないもの」
性格か。最後は無難な答えに落ち着くものなのね。
「相性って性格だけでもないけどねぇ」
「うるせー。お前には聞いてねーよ」
「えー? だって男の話でしょ? 混ぜてくれたっていいじゃない」
「違ぇわ! オトコとか言ってんじゃねーよ! だーから恋愛の話って言ってるだろうがよ! こっちはうら若き乙女が集って夢のある恋バナしてんの! お前みたいな現在進行形で彼氏がいるやつはお呼びじゃないの!」
そうなのだ。異性経験がある者は私の身近には操縦手の由貴しかいなかった。
「あー、別れたわよ。アイツとなら」
「は?」
「えっ? うっそだろお前!」
「ええっ!? 由貴ちゃんなんで!」
「……この前お菓子くれたし、いい人そうだったのに」
「新人戦もあったし、今度は全国大会もあるから忙しいのよ、こっちは。なのに会えなくて寂しいとか、終いにはお前には優しさが足りないだとか。それで戦車と俺どっちが大事なんだよとか馬鹿なこと聞いてくるから頭きて5秒で、もちろん戦車、って返したらLINE追い出されたわ。その後なんか、ごめんとか謝って来てたけど、ひたすら無視してたのよ。そしたら別れようってメールが来たわ。メールよ? メール。住んでるとこ知ってんだから、別れくらい面と向かって言えって話よ。そうしたらお前には何が足りないのかって説教もできるし。理由が分ければ次に彼女作った時に、その分だけ尽くせるようになるでしょ? 何でも糧になるから、だから出会いって大切だって言うのに。それなのに成長しようとしてないのよ。都合ばっかり押し付けて来て。大体アイツの方こそ試験だか実験だか知らないけど、自分が忙しい時は私の事は放っておいて暇になった時だけ会いたいとか、そういうのはね、人のこと考えてるって内に入らないの」
「は、はえ~」
「な、なるほど」
感心するより他ない。付き合うってなんか夢みたいなものだと思い込んでいたから。
具体的に何をやりとりするのかなんて想像にまで至らなかった。
「……由貴は人生経験豊富だものね」
「えぇ? よしてよ、その話は」
「あー、あったね。前の彼氏事件……」
「何だよ! 高1のくせに何人と付き合えば気が済むんだよ! 大体お前はどこで出会うんだよ!」
「親がそこら中でコンビニやってるから、たまに店に立つことがあったのよ。でまぁ、前の彼氏とはさ、夜勤が一緒になって……。若いのに君、偉いねって話題になってはぁ、そうですかどうもって。その後、店長に怒られてたけどね。お前オーナーの娘さんだぞって」
「マジかぁ……やっぱバイトやるかぁ……」
「それでさ、後で謝りに来たわけよ。知らなくてごめんって。別に私だって名乗ってやってるわけじゃないし、むしろ隠したいし。どうでもよかったんだけど。それでも実社会に出たら雇用主の親族の顔も知らないなんて失礼だし。……それにさ、自分より若いのに苦労してて偉いなんて言い方は傲慢だったって。若い子は日々何も考えずに遊んでるって先入観の裏返しだったわけだから。だから自分の不見識を詫びたいってさ。……そのときにはね、真面目な人だなって思ったのよ」
「……熊大の医学生はやはり真面目ね」
「ちょっと裕美、やめてってば。ふふふ、思い出したら笑っちゃうわ」
「元カレが熊大? 国立の? しかも医学部!?」
「正直、由貴を見る目が変わったわ……」
「エリカ……これからは由貴さんって言わなきゃ駄目だな」
「まぁそれでいろいろあって付き合って別れるんだけどさぁ」
「おい! そこ大事なとこだろ! 端折るんじゃねぇよ!」
「結局ね、医者としての自分の夢を追いたいって。医学部で学んだ事をもっとより多くの人のために役立てたいって。だからMSFに行くんだって。だから君とは別れるしかないって。いやぁ……あの時は泣いたわね」
「……? MSFって何だっけ?」
「あれだよ、奈緒ちゃん。国境なき医師団、だっけ?」
「お前! ノーベル賞じゃん! TVで見たわ! 元カレ国連かよ!?」
「……奈緒、MSFは国連組織じゃなくて国際NGO」
「うるさいよ! 世界規模じゃんって言いたかっただけだ! それよりスゴ過ぎだろお前! 由貴先輩! これからは先輩って呼ぶわ!」
「そこまではねぇ、よかったんだけど……その1年後にね、ばったり会っちゃって」
「マジか! 再び出会った二人は激しく恋に落ちるのか!?」
「パチンコ屋から出て来た髭面なんかに惚れ直すわけないでしょ」
「は?」
「……え?」
「私も同じ反応をしたわ。当然、何やってんの?って問い質したし。そしたらねぇ、熊大医学部なんて嘘だって。別の私大だって。外科医だなんだでMSF行くなんてのも当然、嘘。同じく病院に勤めたいってのは一緒だけど医者じゃなくて看護師よ、看護師。大体、私と別れたいって思ったのも必修科目落として留年したのを、かっこ悪くて言い出せなかったからだって。だから、そもそもまだ就職なんか決まってすらなかったわけよ。いやぁ、その時は泣いたじゃなくて泣けたわね……。お前、その程度の心積もりで保護条例違反したのかって。警察言うぞって。年上の男が制服の中学生に土下座してるんだもん。すごい人集りができてたわ。あまりにもみっともないから、なんかどうでもよくなっちゃって。それでまぁ2度と面見せるなよって怒鳴って、それで終わったって話よ。どう? 笑えるでしょ」
「えぇ……? 笑える要素がどこにあったの?」
「俺はあるぞ。ぶわははははははは! ざまぁ! 俺は絶対、純粋にストイックな恋愛をしてやるからな!」
「そうだよねー。やっぱりあまりにもドラマすぎるよりは普通がいいよねー。でも彼氏が国立大卒っていいなー。それでお金に苦労したくないから、やっぱり年収は800万くらいとかー」
「ひより、自分の親の年収を若人に求めると婚期逃すわよ」
「いいじゃん! 俺達は夢を見たいの! ああああああああ! アラブの石油王のイケメン息子が突然俺に惚れたりしねーかな!」
「……そういうシュチュ、好き」
「裕美には言ってねぇから!」
「それで? それでエリカはどうなのよ」
「えっ? 私? ……そうね」
私はどうしたいのかとか、どうなりたいとか。
誰が好きだとか目標じみたものは何もなかった。
「あー、エリカはあれだよ。決まってんじゃん。みほちゃんが一番好きなんだろ?」
何か聞こえた気がした。
そりゃ隣にいるんだから聞こえないはずもなかったのだけれど。
それでも言われた事が突拍子もなさ過ぎて、理解するまで真剣に、あっ、何か言われたな、としか考えられなかった。
そう、頭で理解するまでに、何十秒も経った気がする。
「はぁ? 何よ、それ!」
「あぁ、そうか。そうだったわね」
「何がそうか、なの! 納得しないでよ!」
「見てりゃ分かるし、ダダ漏れなんだよお前」
「……前科もあるし」
「なんてったって王子様だもんね、エリちゃんは。待つ方じゃなくて自分が王子様になりたいタイプだもんね」
「だから! 好き勝手言わないでよ! そんなわけないじゃない!」
「いいじゃん。恋の相手は自由だぞ」
「……あっ。……では、私はこれで。体力回復したからイベント回さないと」
「ちょっと! 言い逃げしないでよ裕美!」
「ん? ああ……じゃあ私も、次は移動教室だから戻るわ」
「だから否定してから行きなさいよ! 私があんな我が儘の分からず屋のバカなんか好きなはずないでしょ!」
バン!
その瞬間、机が叩かれるものすごい音がした。
「……あっ。わっ! 私もそう言えば用事があったの思い出したから行くね!」
トレーを乱暴に、盛大に怒気を込めて卓上へ置くと、こういう音が出る。
「うぉ……あっ、じゃあ俺もそろそろ船の時間だから港に行かないと」
「あっ、皆さんはもう食事は終わりですか? 残念だな」
「……何よ。なんか用?」
「あっ、いたんだ? エリカさん。分からなかった! 今、気付いたよ! 偶然だね。ううん、でも用事なんて全然ありませんから」
「用事がないならチョロチョロうろつかないでよ。鬱陶しいわね」
「学食でどこに座ろうが私の自由です。それに貴方、粗野すぎませんか? 確かにルームメイトだし。私の補佐役だし。気が緩んで、ついつい言葉使いが乱れるのも無理はないかも知れないけど、階級には敬意を払うべきですよ? 私は黒森峰機甲科副隊長なんですから。逸 見 さ ん」
「うるっさいわ! この姉の七光りが! お食事は1人でどうぞ楽しんで!」
ムカつく。
心底腹立たしい。
これが新人戦のときから繰り広げられている光景。
優勝の喜びに沸くどころか全力で水を差して、ひたすら彼女は不機嫌なままである。
隊長室に赴いて辞令を受け取っても碌に返事もせずさっさと帰ってしまった。
初日の夜はキツかった。
3日も経てば、いい加減こちらも腹が立った。理由を聞いても何も教えてくれないし。
挙げ句の果てには、自分の胸に聞いてみればどう? と来た。
知るか。
あんな気分屋のバカに怒られる謂れなんてないわ。
心当たりなんて微塵も、ない。
まぁ明日から、しばらくはこんな煩わしさからも解放される。
明日は学園艦の出航日だから。
けれども、そう思う様にはいかないものだ。
好きが何なのか分からない。
自分の感情すら把握できない鈍感さを、あらためて自覚することになる。
7月に入ってから、台風が来たのはこれで2度目。
雨期が到来したなんて揶揄されるくらい、進路上にある九州は雨が降る。
それでも寮の部屋は落ち着き払って静かな日が続いている。
あのバカが1軍の遠征に帯同して部屋に戻らなくなったためである。
一度、学園艦が港を出れば1週間行ったきりなど、ざらだった。
そして視界不良の荒天下では研鑽も大して積めないため、わりと戦車道も暇となり、自室にいる時間が増えた。その分だけ、1人なんだなと実感する機会も増える。
部屋に帰れば寝るだけだし、頑固者の机に夜遅くまでライトが灯される事もなくなったため、大体いつも部屋は明かりのない暗い空間となっていた。
外は風が吹き荒れて、静かだけど暗い部屋。
私は天井を見上げながら寮に入ったばかりの頃を思い出していた。
春先も阿蘇の近くでは強風が吹く。
あの頃も窓の震える音を聞きながら寝つけず、無為な時間を過ごしていた。
不安を訴える相手が、いなかった。
何かを呟いても返してくれる人もいない。部屋には私しかいなかった。
今も部屋には私1人だけだった。
そっと寝返りを打つと、視線の先に置いてけぼりの熊がいる。
「あんたも連れてって貰えなかったのね……」
熊は何も応えてくれない。
布団から這い出ると、その熊の下へ自然と足が動いた。
よく分からないけど、包帯だらけのこの熊は弱いくせに勝ち気な性格なので、大概は怒ったような顔をしている。
けれども留守番をしているこの子の目には涙の形をしたパッチが縫い付けてある。
レア物だっけ? 全然興味もないけど。
本当は弱いくせに態度だけは大きい。
泣き虫のくせに強がりばかりを言う。
まるで、もう10日以上会っていないどこかの誰かのようだなと思った。
瞳の大きい、栗色の長い髪をした……。
最後に交わした言葉は、文句だった。
理由も分からないまま喧嘩して、譲る気も失せて、いってらっしゃいも言わなかった。
あのアホは今頃どうしてるのかしら。
顔なんて見たくもなかったはずなのに。
あいつの身辺管理は山下に、それとなく頼んではおいたけど。
あの子は私がいなくても平気なんだろうか。
そんなことを思い巡らせている内に、考えが変わった。
そうか。
あの子も、そんなことを言ったことがある。
ボコって、あの子より私にそっくりなんだわ。
少なくとも、みほは感情を偽ることがなかった。
怒ってるから怒ってた。
けれども私は戸惑いを隠すように悪態をつくばかりだった。
本当の弱虫は自分の方だったのだ。
考え出したら、もう耐えきれなくなってしまった。
泣いているボコの涙をいくら拭おうとしても、ただ泣いているばかり。
そりゃそうよね。布だもの。縫い付けてあるんだし。
私もいくら拭いても、次から次へと溢れて出て、止まらなくなってしまった。
やっぱり似てるんだな、と実感する。
お仲間同士、今夜は一緒に寝ましょうか。
独りは、寂しい。
その日、まだ夜が白む前。
最初は夢だと思った。
誰かが近くで泣いている。
悲しい気持ちはボコを抱いても、あまり癒やされることはなかった。
だから、次には自分の寝言だと思った。
でも違う。
衣擦れの音やら、しゃくり上げる呼吸が、やけに生々しい。
どうやら私ではない。
と、なれば……ついに出てしまったのか!?
そういう感覚って無い方だと思ってたけど。
今まで金縛りにだって会ったことなかったのに、いきなりレベルが高いわね……。
そっと薄目を開けて確認をすると、やはり驚きの声は抑えきれなかった。
「うおおぁ! ……なんであんたがいるのよ」
みほだった。
私のベッドの傍で突っ立って、みほが泣いていた。
「……ばか。……エリカさんのばか」
泣きながら文句を言い出す。
「はぁ? な、何なの? 帰って来るなら言えばいいのに……。っていうかまだ4時!? 早すぎでしょ! 何こんな夜中に忍び込んで来てんのよ、あんたは!」
「……だって……顔なんか見ないで済むように……着替えだけ取ったら艦に……」
要するにこっそり出入りをしようと企んでたわけか。
大失敗じゃない。
それだけ言うともう、二の句も続けられないくらい大泣きし始めるし。
「……な、なんだかよく分からないけど、ごめん。泣かないでよ、ね? 私もみほに会えなくて寂しかったわ」
「……私は絶対に……エリカさんなんかに会いたくなかった……」
「ちょっと! 折れてんのにまた喧嘩ふっかける気!?」
「……離れてる間もずっと怒ってたのに……帰って来たらボコと寝てるなんて……ずるいよ。……私はエリカさんのことなんか嫌いなのに……エリカさんは酷いよ」
「何よ! 勝手に借りたのが許せないなら返すわ! はい、どうぞ!」
スナップだけで軽く放り捨てるが、みほは受け取る動きを微塵も見せずボコは彼女の胸に当たって跳ねて、そのまま床へ寝転がる。
どう考えても今のやり口は失敗だとは分かっていた。
彼女の泣き声が勢いを強めるのを確認するまでもなく、しまった、とは思った。
けれども、やっぱり寝起きで訳も分からず罵倒されて冷静でいられるはずもない。
私だって泣きたかった。
おかえり、ごめんねって言えば、もうそれで許して欲しかった。
それなのに理由も告げずに、ただ泣いているだけの我が儘な女が目の前にいる。
やっぱり許せないという感情が芽吹いた。
「いい加減にしてよ! 理由も言わずに勝手に泣いて、人を悪者にして! 何がそんなに気に入らないのよ! 私にも分かるように説明くらいしなさいよ! 納得できる話ならルームメイト解消でも何でも私の方からしてあげるわ!」
みほの肩が大きく震えた。
「なんで……? 自分からやっておいて……なんでそんなことが言えるの……?」
「だーから、私が何をやったって言うのよ!?」
「……エリカさんは本当は私のこと嫌いなんでしょ……? だって、そうだよね……奈緒さんや由貴さんと話をしてる方がずっと楽しそうだし。そのくせに本当は私のこと、からかって遊びたかっただけなのかな……ずっと! ずっと待ってたのに何も言ってくれないし!」
「はぁ? だから待ってたり遊んだりって意味が分からないんですけど! 私が何をやったのかって説明しろって言ったでしょ!」
「……したよね」
「何よ! 聞こえないわよ! 聞こえるように説」
「……こっそり私にキスしてるくせに、なんで好きって言ってくれないの!」
「はい?」
「……この後に及んでまだとぼけるんだね! 最低だよエリカさんは! 私、戦車なんか全然好きじゃないけど! 寮に帰ればエリカさんがいるって思えばつらい事だって我慢できた! いつも優しくしてくれるから、それに応えようって頑張れた! でも! なんで優しくしてくれるのか、分からなくてずっと悩んでたんだよ! だから嬉しかった! 私の気持ちを止めないで良かったんだって……思って……でもエリカさんの本心は……。……えっと、エリカさん?」
「えっ……? な、何?」
「……えっ? 何じゃなくて……その。あれ? だって新人戦の時に……え?」
「……あんた、よだれ垂らして寝てたから拭いてあげたんだけど」
「えっ?」
「えっ?」
怒りも焦りも驚きも無い。
純粋に言われていることが分からない、という無の気持ち。
無の境地で人を観察したら顔面蒼白は誤字だな。
血の気が引くと、顔はほぼ白になる。正確には顔面白々でしょ。
なんて、どうでもいいことを考えていた。
次の瞬間、お湯でも被ったかと見間違えるくらい真っ赤になったみほは踵を返すと靴も履かずに部屋から飛び出そうとする。
ドアノブを回す手は溺れる者が水面下から呼吸を得ようと藻掻くように、どこまでも必死だった。
「えっ? あっ! ちょっとどこ行く気なの! 待ちなさいよ!」
こんな嵐の夜中にまたどこに行く気だ。
「もうやだ! 離してよ!」
「ちょっと落ち着いて! 理由は分かったわ、誤解があったってことよね?」
それはフォローではなく息の根を止めるの一撃となったようだ。
力なく座り込み、そこで赤子のようにより一層激しく泣き出す。
「いや、さすがにそろそろ怒られるから、ね? もうちょっと静かに……」
抱きしめようと伸ばした手が強く振り払われる。
でも、そうするしかないという確信があった。
5度目には向こうも、ついに根負けして素直に腕の中に収まる。
「……ごめんね……エリカさん。私、バカ過ぎだよね……」
「え? いや、別に。いいのよ、もう」
「……迷惑だったよね……私、もう実家に帰って通学する。これ以上、エリカさんの負担になんかなりたくない」
「はぁ? ふざけないでよ。勝手に騒ぎまくった挙げ句に逃げる気? 許さないから。勝手にいなくなるような真似をしたら、それこそ絶対に貴方を許さないから」
「だって……私、もうやだよ……こんなの……耐えられないよ」
「だから人の話を聞きなさいよ。貴方のこと嫌いだなんて、私言ってないから」
「……えっ?」
「そりゃあ正直戸惑うけど、迷惑なんて思ってないから」
「……うん」
「そんな風に思われてたんだなって、光栄よ」
「……やだ」
大人しく人の話を聞いていたみほが再び、私から離れようとする。
「分かったわよ! 言うから! でも大体見たでしょ? みほがいなくて、寂しくてボコと寝てたのよ、私は。嘘はつかないって約束をしたから。その代わりに本音を言うことから遠ざかってたわ。ごめん。正直、人を好きになるってよく分からないのよ。でも、私は……みほがいなくて悲しかった。本当は私も泣いてたの。貴方が帰って来る前には、ね。だから、みほに会えて嬉しかった……」
「……うん」
ああ、そうか。こんな簡単なことに今まで気付かなかったなんて。
どうすれば恋なのか。
知りもしないくせに合致する事項を探すことばかりに目が行っていた。
物事の真実はもっと単純なものである。
消去法。それが私の気持ち。
「みほ、気付いたわ。私の一番の憧れはね、貴方のお姉さんだったの。西住隊長みたいになりたいって、ずっとそう思ってた。でも違うのよ。私は今日よりもね、もっと前からよ。隊長の事より、チームのみんなと戦う事よりも、みほと一緒にいる方が楽しくなってた。それがなぜなのか、分からなかったけど、今なら言えるわ。これが私の気持ちだったのね。好きよ、みほ。貴方の事が」
誰かの代わりじゃない。
誰かの面影を探しているわけじゃない。
世界でたった1人の。
私の大切な人。
「……うん……じゃあ、して」
「ん? 何をしたらいいの?」
「……キス」
「はぁ!? 調子乗らないでよ! そういうものかなって。こっちは今気付いたばっかりなのにいきなりそんな……!」
はぁ……。
そっと頬に手を当てる。
鼻息がこそばゆい。
それでも間近で眺めれば、見る分だけ愛おしさが増した。
唇と唇が、触れる。
みほが盛大にドアへ頭をぶつける。
「痛っ!」
「痛っ!……ちょっと! 急に動かないでよ!」
その反動の結果、互いに鼻骨を強打する。
「うええ……ご、ごめんなさい……だってき、緊張して」
まぁ、何事も始めは失敗するものだ。順々に上達していけばいい。
……。
「そういう段階を踏むってのも、気に入らないのよね」
「えっ?」
再び彼女の頬へ手を添える。
「えっ? えっ? エリカさん?」
失敗は取り戻せる内に挽回すべきだ。幸いにも時間には事欠かない。
「初めてで上手くいかないなんてのを納得するのは私のプライドが許さないわ」
「ひゃっ! あ、あの!」
「目を瞑りなさい、もう1回よ」
台風一過の暑い昼下がり。
再び食堂は憩いの場となっていた。
「それで、由貴に聞きたいんだけど……。口吻の善し悪しって何を基準にどういう状態で決まるわけ?」
今回の奈緒は耐えきれずアイスコーヒーを吹き溢す
「ガハゲヘッ! ふざっけんなお前! 服が汚れるじゃねーか!」
「何よ? いいじゃない。例えば。ただの例えばの話なんだから」