久しぶりのベッドの寝心地。
まどろみの中でシーツの感触を確かめると、指先でさらりと乾いた音がする。
マットレスの性能に差はないが、学園艦に比べれば内地は湿気が少なく感じる。
そして潮の香りもしない。
思い返せば私は寮にいるよりも艦上で過ごすことの方が多かった。
だから特に優劣があるわけではない。体なら、この生活には慣れきっている。
違和感の種子は、環境に関わるものではなく精神的なものだ。
出会った頃は何も感じなかったのに。
初対面で思ったのは……。
こんなこと本人に言ったら怒りそうだから1度も話したことはないけど。
色は透き通るみたいに白いし手足も細いので、体弱い感じの人なのかな、って。
その疑問の正答は、高校に入学して寮生活が始まるまでの、それなりに長い間持ち越しされていた。
あるとき、仕切りのアコーディオンカーテンの向こうから呻き声がするから大変だと思って飛び込んだら。
「あっ、すみません。うるさかったですか?」
なんて、ベッドに足を乗せ椅子を掴んで、形容するなら宙吊りみたいな?
エリカさんは不思議な体型で運動をしている真っ最中だった。
「あぁ……これはリバースプッシュアップと言って……」
「えっ、でも逸見さんってたしか車長だったんでしょ?」
「筋トレは趣味みたいなものですし。それに私は早く戦車に乗れるなら装填手だって構いません。大体、私なんてまだ乗れるかどうかも分からないんですから」
私はただすごいなぁって感心しただけなんだけど、違う意味に受け取られたみたいで、ちょっとぶっきらぼうに返事をされた。
車長候補生が腕力鍛えてどうするのとか、そういうことじゃないんだけど。
あらためて思う。言葉で伝えるのって難しい。
それからは一時期、お互いどんどん会話は減っていった。
また再び言葉を交わすようになったのは、スーパーにおやつを買いに行ったときのこと。
遠くの陳列棚にいたエリカさんと目が合った。
「あ……こんにちは……逸見さんも買い物、なの?」
「どうも。西住さんってそのグッズいっぱい持ってますけど好きなんですか?」
「ふぇっ!? あ、これ? うん……」
いつの間にか知られていたことにびっくりした。
手にしていたのはボコの食玩付きのものだった。
私のことに興味ある素振りなんて全然なかったのに。
「ボコって言ってね……いっぱいビデオもあるから、よければまた……」
「はぁ。じゃあ機会があれば」
やっぱり素っ気なく、そう告げて先に帰って行ってしまった。
しかしその夜、また私は驚くことになる。ただの社交辞令だと思ってたのに。
「良ければボコのビデオ、見せてくれませんか? 私は暇なので」
一緒に見る機会は、その日の内にやって来た。そして消灯まで二人でボコを見ていた。
いくら事細かに説明しても反応は薄くて、何だろう? この時間って戸惑ったけど。
だんだん、そうじゃないんだと、少しだけ彼女の見方も変わった。
「当たり前じゃない。だって話すことがない人とは別に話なんかしないわよ」
エリカさんの行動原理はそんな感じなのだ。
家元の娘、隊長の妹だと。
自惚れかも知れないが戦車乗りの才能に多少の覚えもあり、いつも誰かに囲まれて蝶よ花よと担がれていい気になっていた自分とは違い、群れることをどちらかと言えばエリカさんは嫌っていた。
正直、うらやましく思う。
大概のことを一人でこなせる彼女の能力もそうだけど。
今まで中等部の最上級生として戦車道を極めていた私は、高校に入り振り出しに戻った。
皮肉にも自分を知るチャンスがようやく巡って来たとも言える。
中学当時、自分は輪の中心にいると考えていた。それは誤りだと悟った。
誰も私のことなど歯牙にもかけない。
中高一貫校なのだから関係が断絶したわけではない。
認識と現実に齟齬があったのだ。順序の間違いと言うべきかも。
友達に自然と囲まれていたわけではない。ただ、一人が怖かった。
誰かがいてくれないと、たまらない心許なさを感じた。
私は憂いから、そして孤独に苛まされて、自ら希って集団の中に身を置いていたのだ。
推薦で入学して来た特待生ですら、たやすく埋没する高等部の黒森峰では、なおのこと私なんかただ戦車がちょっと乗れるだけの子供に過ぎない。
そんな世界に放り出されて、私はひたすらに無力だった。
あの時、エリカさんが怒った意味もようやく理解した。
自分は西住という名前に甘えて、欲するものを手にする努力を怠っていたと。
思い出に耽っていたら目が冴えた。
上体を起こしベッド脇を見下ろすと、当たり前のようにエリカさんはそこにいる。
そうっと踏んでしまわないように立ち上がりトイレへ向かう。
手洗いを済ませ洗面所の鏡を覗き込む。何度も見た自分の顔。
私って全然エリカさんとは似ていないと、当たり前の感想を抱いた。
ただ、一つだけ同じ感触がする箇所がある。
唇。
指で自分の口元を押す。感触は彼女のものと同じで柔らかい。
あれから何度か触れ合った。
途端に鏡の中の顔は真っ赤になった。思わずにやけてしまう。
私は今も一人でいることが怖い。
だがそれは高校に入りたての頃に抱いた焦燥感とは変質したものだ。
友達100人できるかなを生真面目に実践しようと奔走していた頃とは違う。
暗闇の中で頬を叩かれたこととも異なる。
優しさに包まれて、心はこの上ない安らぎに満ちている。
だが、その安息を授けてくれるのは、この世界にたった一人しかいない。
100人の友達が5人なっても、きっと喪失感は感じない。
けれど、たった一人を失ったら、友達が何人いようと決して穴埋めなどできないだろう。
ずっと一緒にいたい。エリカさんと離れたくない。
エリカさんがいなくなったら、どうすればいいのだろう。
学園艦の寝室にエリカさんはいない。
見慣れた風景同士の、ほんの僅かな相違が我慢できなくなるほどに、違和感の種子は発芽して胸に根を張り巡らしている。
自分のベッドへの帰り際、再度彼女を眺めた。
盛夏となりブランケット一枚、薄着で寝る彼女の布団に大きな空間を見出す。
その発見に気付いた後はもう、自分の願望を抑えることなどできなくなっていた。
「痛い……」
鈍痛で目を覚ます。
痛む部分、圧迫感のある左腕の先にはなぜか。
みほが頭を乗せて寝息を立てていた。
「おわああ!」
「痛……っ!」
跳ね起き際に寝汗の湿り気で彼女の長い髪が腕に絡み、つい引っ張ってしまった。
「あっ、ごめん! っていうか何でこんなところで寝てるのよ!」
「痛たた……あっ、おはようエリカさん、へへへ。だって眠くてベッドに戻れなくて、ここでもういいやって」
「いいやじゃないでしょ! うおお……腕がしびれて……」
「ご、ごめんね? でも本当だもん。ベッドに帰る力が尽き……痛い!」
起き上がろうとしたみほがうずくまる。
「えっ? 何? どうしたの? 大丈夫?」
「せ、背中が痛くなって……えっ? エリカさん……いつもこんなところで寝てたの……?」
マットレスなどない床に直敷きの薄い夏布団。寝心地は快適には程遠い。
「はぁ? 何をいまさら」
「うう、エリカさん……好き……」
「あんた……呻くか笑うかどっちかにしなさいよ」
明日から艦は戦場へ旅立つ。
ようやく私も乗艦する機会を手にした。
母校黒森峰での、これが最後の晩餐ならぬ、最後のランチ。
私はみほと過ごしていた。
「ねぇ……エリカさん」
「んー、何?」
「今夜から一緒に寝ようよ」
盛大に咽せた。アホな発言をした張本人はまったく自覚はなさそうに首を傾げる。
「……何を言い出してんのよ貴方は!」
「えー、だって床で寝るのはきついよ。エリカさんだって大変だよ?」
「別にあんたが寝なきゃいいだけでしょ! 寝るときくらい静かに寝かせてよ! 暑苦しい! 大体あんたは見た目からして暑苦しいんだから! 髪長すぎ! 1年らしくちょっとは切りなさいよ!」
「え! やだ! 短くしたらお姉ちゃんと一緒になっちゃう!」
拒絶する理由の意味が分からん。
「あのねぇ……私だって短くしてんでしょうが」
「あぁ……っ!」
何があぁ、なんだか。この話はもうそれきりだと思った
そんな程度で気構えていた私も相応に大馬鹿だった。
4限が終わり、乗艦が始まる前にみほを探す西住隊長に声をかけられた。
ミーティングもそぞろに早退したっきり戻って来ないらしい。
「みほは何か思い詰めたような表情をしていたんだ……逸見は何か知らないか?」
「いいえ、まったく……」
無駄に動悸が激しくなって、それだけ伝えると足早に別れる。
隊長に声をかけられるなんて昔の私だったら舞い上がるところだけど。
いろいろ言えない秘密の方が多くて、平静を装うのがしんどい。
姿を消した理由には心当たりがあります。
あと菩提樹通りの図書館前で待っててって連絡を貰っています。
ちなみに隊長の妹はちょっとバカですね。
あとは……すみません、妹さんと付き合っていると言うか、その……。
浮かれているという身に覚えは十二分ある。多幸感でいっぱいになり鼻歌が増えた。
深く考える事を避けていた。
女と女が付き合って……そもそも付き合うってどうするんだろう。
熟考したところで未来なんて曖昧にしか見えない。
そもそも私自身、これからどうしたいのかを決め倦ねている。
好きだと伝えたのだから、これ以上の進展なんて必要ないのではないか。
意識すればするほど自分を見失う。そのことにたまらなく恐怖を感じた。
軽いノリで遊び友達の延長くらいに接して貰えた方が安堵できる。
彼女が近づいて来ることを理性は忌避していた。
その一方では、みほのいない生活など望まない自分もいる。
みほのいない世界。
それは無音の世界。色のないモノクロームの世界と同義に思える。
彼女の声、彼女の匂い、彼女の髪、彼女の柔らかい手。
五感はすでに、みほの虜となっていた。
彼女の声を聞かないと、彼女の唇に触れないと落ち着いていられない。
みほが他の誰かと会話しているのを眺めるだけでも嫌悪感に襲われる。
それはあんなに憧れていた西住隊長とて例外ではなかった、
友達だった頃、戻れなくなったあの頃への郷愁。それもあるかも知れない。
けれども強烈に胸を焦がす感情は、紛れもなく欲望そのものである。
独占欲。
みほは私だけのもの。それなのに彼女は、あまりにも無防備だ。
一緒に寝たいですって? 意味分かってんのか、あの子。
勿論、そんな欲情が以心伝心してなど欲しくない。
だから昔交わした約束を、嘘はつかないという誓いのレギュレーション範囲内は、好きだ。
それしかない。
そう言うしかなかった。
宣誓は律儀に遵守されている。
嘘じゃなく正直な気持ちであることには変わりはない。
だが二の句を言ったら……終焉の口が大きな穴を開けて待っている。
彼女に何を頼んでも拒絶はされないだろう。だからこそ余計に駄目なのだ。
どこにも行かないで四六時中傍にいて、なんて懇願が受け入れられてしまったら、
彼女の人生は確実に破綻する。
みほの幸せを祈りながら、絶対に叶ってはいけない幸せを願う自分。
矛盾も甚だしいわね。滅茶苦茶すぎて笑いも起こらない。
自分の経験値のなさがもどかしい。
苦しみと愛おしさが綯い交ぜになって、こんなに混乱してしまうのが恋なのか?
婚約相手が末期患者とかいう設定でもあるまいし。
ただの恋ならハッピーエンドじゃないとおかしくないか?
あの子はなんで、私のことを好きになったのだろう。何も悩みはないのだろうか。
「あ! エリカさん、お待たせ!」
相も変わらず、呑気な笑顔……。
そして短く切り揃えられた栗色の髪。
「やるんじゃないかと思ったけど、随分と大胆に切ったわね……」
「えっ? そうかな? エリカさんとお揃い。変かな?」
「いや、かわいい……」
「ほんと? えへへ」
まぁ、みほが楽しいなら、それでいっか……。
「ところで、何これ?」
「えっ? 見たことないかな? Sd.Kfz222だよ」
「いやいや、そうじゃなくて。これでどこか出かける気なんでしょ? 普通こういうときの車って横に並んで座るもんじゃないの? 横に並ばずに縦に2人乗りしてどうすんのよ」
「……あぁ!」
「あぁじゃないわ、この!」
「ひたい! ひたいよ……!」
みほの頬を両手で引っ張る。ふふふ、おもしろいように伸びるわね。
「痛い……だってこれしかなくて」
「はいはい、もういいわ。で? どこに行くのよ」
「うん! 艦首でタイタニックしよ!」
我が学園艦は全国大会準決勝に臨んで、今から出航しようとしてるのに沈んだ船の名とは。
「みほは本当に楽しそうね」
「えっ! うん! エリカさんは?」
「学園艦に乗ったのは初めてだし、正直気分はいいわね」
「やったぁ! いっぱい案内してあげるね!」
海のある県と言っても阿蘇の麓の内陸生まれだし、山の風景の方が見慣れていた。
上部ハッチから身を乗り出すと、視界には空を隠すものがない。
これは新鮮な感覚だった。
道はどこまでも平らのまま伸びている。風に湿気と潮の匂いが増していく。
まだ見えないが、この先に海がある。
「ところでさ」
「えっ?」
「ところで! みほってハンドル車の運転したこと」
車はカーブを大きく膨らんで反対車線にはみ出し、対向車がクラクションを鳴らす。
「おい!」
「ご、ごめんなさい! ハンドル重くて……」
「わー! すっごーい! 気持ちいー!」
エスコートする気じゃなかったのか……。
運転を交代したら、余計上機嫌になったのも腹が立つ。
最後はどうせ、こういう役回りになるのね。
「で? どの道をどう行くわけ?」
「あっ、うん。ずっと真っ直ぐだよ。ずっとずっと真っ直ぐ」
曲がり道も坂もなく、進む道はひたすらに平坦な一本道。
こんな風に生きられたらいいのに。
信号に差し掛かって車を止めた。
後ろを振り返ると、みほはお尻をふりふり。下半身だけしか見えない。
はしゃぎ過ぎだ、このバカ。
「みほ、パンツ見えてる」
「えー? エリカさんのエッチ」
注意を促しても、みほは体勢を変える気はないようだ。
ほぼ毎日、入浴を共にして裸なら見飽きていた。
別に私に限らず、その他大勢だってみほの裸くらい見たことはあるだろう。
だから、これが私の物ならば、私の物にするなら……。
「エリカさん信号、青になったよ」
慌ててハンドルを握りしめる。
私は一体何を考えて……。
罪悪感で胸が裂かれる。惨めな自分に泣きそうになった。
自分はなんて下等な生き物なのか。
海なんてどうでもよくなった。
口数の減った私を特に気にするでもなく相変わらずみほのテンションは高いまま、気の利かない縦に二人乗りの車は目的の場所に到着する。
黒森峰女学園学園艦の先端部。
しかし準決勝、そして決勝を前に気分の高揚した女子高生なんて、どれも考える事は一緒なのだろう。
すでに艦首は行列ができている状態だった。
「あれ? 人、いっぱいだね」
「はぁ……どいつもこいつも暇ねぇ」
「と、とりあえず行ってみようよ」
車を降りて、歩を進めるたびに人口密度は加速度的に増していく。
「はぁ!? 多過ぎでしょ! 大事な試合前に何なんだお前ら!」
「それは人のこと言えないよね……」
よくよく見ればタンクジャケットを着た連中もまばらにいるではないか。
「とりあえず並ぼうよ」
不意に、みほが手を繋いでくる。
「ちょっと! やめてよ!」
優しさの欠片もなく乱暴に彼女の手を振り払う。
「あっ……ご、ごめんなさい」
「あっ……ごめん。と、とにかく帰りましょ。機甲科の子もいっぱいいるし。見つかったら面倒だわ」
「えっ……? う、うん。でも」
「どうせまだ準決勝なんだから。この先いくらでも来ればいいことでしょ」
「あ、そうだね……」
自分勝手な憤りに任せて、また彼女を傷つけてしまった。
ほんの数分前の空気など跡形もなく、一言も会話せずに車まで戻る。
なんで私はこんな言い方しかできないんだろう。
運転席に座り、ろくに後ろも確認せず投げ捨てるように言葉をかける。
「じゃあ車出すわよ」
返事は返って来ず、沈黙は続いたままだった。
どうして。
どうして、この子は自分の欲しいものを考え無しに欲しいと言ってしまうのだろう。
ならば、なぜ。
なぜ、私はもっと素直に言えないんだろう。
「みほ、顔上げて」
「……えっ?ふぅ!」
同意を得るよりも先に耳の後ろに手を回し、力ずくで呼吸も許さないくらい乱暴に、深く、長く唇を重ねる。
初めは逃れようと強ばっていたみほの手も、しばらくすると私の首に絡むように結ばれた。
「ぷはぁ! あのねぇ……貴方はね、自分が思ってる以上に有名人なんだから。少しくらいは人目を気にしなさいよ」
「じゃあ……誰も見てないとこなら……いいの……?」
もう深く考えるのはやめよう。
「そうよ」
即答する。
そして、もう1度、彼女に同じキスをした。
夕食会場では、みほと別の席で食事を済ます。
「何? エリカ。あんた達またケンカしてんの?」
今回同じく1年の中からⅢ号戦車操縦手として抜擢された内山由貴に声をかけられた。
「別に、ケンカはしてないわよ」
「ふーん。じゃあ、みほちゃん呼んで来ようかな」
「いや! 別に呼ばなくていいから!」
「……あっそ」
「それより小梅達はどこ行ったのよ。今のチームと親睦深めなくていいの? いや、私も久しぶりだし。私と一緒に食べてくれても一向に構わないけども」
「そうそう、思い出した。小梅ちゃん探してたんだ。じゃあ、エリカ、またね。あーあと、それとね。何だか知らないけど普通に隣同士で食事してる方が、よっぽど自然に見えるわよ。じゃあね」
「別に何にもないから!」
さすが恋愛魔神。鋭いな。むしろ怖いわね。
由貴の指摘通り、視線を、不自然に遠く離れて食事を摂るみほに移すと、目が合う。
あっと言う間に顔を真っ赤にして、トレーを返却口へ戻すとそそくさと逃げて行った。
入浴時間を過ぎて、皆それぞれに時間に追われて部屋へと戻っていく。
内地の頃よりも足早に就寝時間が訪れる。
電力をすべて内部設備で賄わなければならない学園艦は、節電のため消灯が早い。
私は、いかにも急拵えという趣の副隊長室という表札の掲げられた部屋で、みほの帰りを待っていた。
艦内居住区画に限らず洋上へ出れば、携帯は電波を拾わないので時計替わりにしかならない。
明日の準決勝を控え最終となる車長ミーティングを終えて、そこでもみほに逃げられた。
連絡もままならず、部屋では一人やることもない。
窓もなくTVもない見慣れぬ部屋に、ただ一点、私の知る物が彼女のベッドに置かれている。
例の熊を相変わらず手当たり次第に連れ込もうとするのを咎めたところ、
これだけはと哀願されたのだ。
涙のパッチが縫い付けられた、いつぞや私と夜を過ごしたあの子だった。
その熊を取り上げて、みほのベッドに身を投げ仰向けになる。
「ボコさん……貴方、お名前は?」
この子は私が一緒にいないとすぐ泣いちゃう泣き虫さんなんだよと、みほは笑っていた。
直接みほから教えて貰ったことはないが大体想像が付く。
多分それは私も聞いたことのある、むしろ聞き飽きた名前をしているに違いない。
「エリカさん……?」
涙目ボコと戯れている間にルームメイトが戻って来た。
「あれ? あんた、いつの間に風呂に」
「えっ、あ、うん……」
「そう言えば乗艦前にお姉さんがみほのこと探してたわよ」
「あっ、そうだったんだ」
何にも会話が発展しない。
彼女の腕にボコを返して就寝を促す。
「さぁ、じゃあもう寝ましょ」
「あ! やっぱりエリカさん、この子の名前、気になるんでしょ?」
「全然? 興味ない」
「う……エリカさんの意地っ張り!」
話は長く続くこともなく、ぎくしゃくとしたまま定時につき、夜の帳は降ろされる。
「えっと……じゃあ、消すね?」
「どうぞ、早く寝ましょ」
明日は準決勝。私もようやく戦える。やっとみほに追いついた。
「エリカさん……」
「何よ、早く寝なさいよ」
「う、うん……」
彼女の言わんとしていることは分かる。
だが試合は試合だ。集中しておきたい。
大体、私なんかは車両数規定解除でようやく呼ばれた身。
代わりなどいくらでもいるが、あんたは副隊長なんだから。
「……副隊長なんだから自覚を持って早く寝なさいよ!」
「えぇ? だって……」
いちいち人の寝床に潜り込んで来るな。
「ねぇ、エリカさん。今日楽しかったよね? また行こうね。今度こそタイタニックごっこできるといいね!」
「それ以上、喋るならつまみ出すわよ……」
「ご、ごめんなさい……」
溜め息しか出ない。お預けを命じられた犬以下ね。
少しは忍耐と言うものを身に付けるべきだ。そうじゃないと。
そうしてくれないと、私はまた暴走を抑えきれなくなる。
「はぁ……。でもまさか本当に髪の毛切って来るとはね」
「えっ? あ、うん。お姉ちゃんすっごいびっくりしてたよ。試合前なのに余計なことしちゃったかな?でも昔はこういう髪型してたんだけどね。あっ、そう言えば山下先輩にも会ったけど先輩も……ん」
少し気を許せば、すぐ調子に乗るんだから。お喋りが過ぎるわ。
言葉紡ぐのを遮るために人差し指を彼女の口に宛がう。
「早く寝なさい」
「う、うん……おやすみ……」
私の隣で、他の女の話なんかして欲しくなかった。
短くなったみほの髪を、頬を耳元を、彼女が寝付くまで優しく撫で続けた。
程なくして、みほは寝息を立て始める。見届けた後に私もようやく眠りにつく。
学園艦の湿り気あるシーツの感触。潮の匂い。
起きると目の前には灰青の髪がある。
水分を含んだ髪は少しだけ束になって、その隙間から覗く首筋。
タンクトップでは覆いきれなくて露わになる白い肩。
先に目を覚ましたのは珍しく私の方だった。
「エリカさん、朝だよ?」
反応はない。
昨日、私にしてくれたことを心を込めてお返しする。
頭を撫でる。髪は指先で解れるたびに光を鈍く反射した。
「……早く起きないと悪戯しちゃうよ」
腕と肩の丸みを帯びた箇所に口を当て、そのまま軽く歯を立てる。
「……痛」
眠そうに目をこすりながらエリカさんが体を起こす。
腕をさすり、状況を把握したエリカさんは苦笑いを浮かべた。
「やってくれたわね、この」
「えへへ、見てたら何か、おいしそうかもって」
Tシャツの襟や袖を整えた後、両手を広げて宣言する。
「お返しはどこにつけてもいいよ」
「ばか……」
「痛い!」
返って来たのは威力鋭いデコピン。本当に涙目になるくらい痛かった。
エリカさんは愉快そうに笑うと、今度は優しく労るように唇を重ねて来た。
「また、今度ね」
朝からは全体集会で顔を合わせたくらいで、すれ違いばかり。
試合の方はと言えば波乱など皆無。準決勝でも黒森峰は盤石の勝利を収めた。
決勝戦試合会場に赴くため、以降は学園艦を離れることになる。
水平線に沈む夕日も偵察車から眺めた1回だけ。1泊だけの船旅だったな。
下艦する生徒達でごった返す通路で奇跡的にみほと再開する。
10連覇という夢がもう間近にあって、皆が最高の舞台への期待で心躍らせている中、みほだけはぶーたれていた。
学園艦には当分戻らない。それをいつまでも責めてきた。
「だから待ってようよって言ったのに! ひどいよエリカさんは!」
そんなに、空を飛んでるみたい、とかやりたいものなのか?
「それにこれからは決勝戦までずっと旅館だもん! ずっと6人部屋だもん!」
個室が割り当てられるほど宿泊施設は多くない。
いや、それは単に学園艦が広すぎるだけだ。学生なんか普通は大部屋ってものだろう。
「そんないちいち怒らないでよ。そもそも全部、別に私は関係ないわよ」
「あー! 帰ろうって言ったのはエリカさんだよ!」
「だってしょうがないでしょ。人が連休中の熊本城みたいになってたじゃない」
いい加減、煩わしいので口止めしようと顎を掴んで引き寄せる。
「うっ……エリカさんはすぐ……そうやって都合が悪くなると」
「じゃあ、やめる?」
「やだ……うぅ、じゃあ約束して」
「はぁ? 何をよ?」
「この大会が終わったら、いっぱい、いろんなことしようね」
屈託のない笑みに、まるで子供がおもちゃをねだるような無邪気さで、みほが言う。
「あんたねぇ、優勝したらその後が忙しいんだから、そんな暇ないでしょ」
「やだ……約束して」
「分かったわよ、暇だったらね。ていうか私じゃなくてそれを言うのはあんたでしょ? ちゃんと都合付けてくれるんでしょうね?」
「う! うん、絶対だから!」
同い年とは思えないくらい彼女は無垢だった。
子犬のようにあどけなく、深慮も無しに餌に釣られて攫われそうな危うさすらある。
だから私は大人に振る舞わなければならない。
かと言って別に苦痛なわけではない。むしろ誇らしい気分に浸れた。
庇護欲をかき立てる、この深窓の姫を守護する騎士か何かに変身したかの様だった。
背伸びが好きな時点で、おおよそ私も子供なのだろうけれど。
それでも彼女と接することで明らかに自分が成熟していくのを感じる。
焦っても仕方ない。
答えのない問い掛けも、いつか時間が解決してくれるだろう。
なにせ時間はたっぷりあるのだから。
戦車道は女子の嗜み。私は戦車に憧れて、黒森峰を選んだ。
みほを好きになるのに、性別に引け目を感じていないわけではない。
だけども戦車道に触れていなければ、私達はきっと出会うことはなかっただろう。
なら、これは運命と、そう呼んでいいじゃないか。
私はもう楽しいことだけ考えると決めた。
これから遊び回ると言っても、もう水着は間に合わないかも知れない。
だから冬を待ってクリスマスを祝おう。
そしてまた春が来て、夏がまたやって来るのを待とう。
彼女の手を掴み、指を滑り込ませる。
みほは一瞬、驚くも優しく微笑み返してくれた。
勝手すぎ。
声なき呟き。彼女は唇だけ動かして、そう訴える。
人の耳目のあるところでちょっかい出すなと言ったのは確かに私の方だったけどね。
「うるさい。いいのよ」
二人で無限の未来を夢想する。一緒にいろんな場所へ歩いて行こう。
「よし!」
「せーのっ!」
タラップの最後の段差を飛び跳ねて、ジャンプで港に着地する。
お互いに目が合い、再び笑い合った。
決勝戦は止む気配のない雨の日だった。
黒森峰は負けて、そして、手を握り合って心から笑ったのは。
これが最後の日となる。