※この作品はR-18です。

少女の名は逸見エリカ   作:愛田誠

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クリープ

ポンチョを纏った長身の女生徒が一人、雨の中を佇んでいた。

 

ほんの数分前まで一心に覗き込んでいた双眼鏡を、今は片手でぞんざいに扱いながら遠く谷間を縫うように続く道を感情もなく見据えている。

「いい加減、中に入ったらどうです? せっかくの綺麗な黒髪がずぶ濡れじゃないですか」

「大丈夫です。それより双眼鏡の内部に水が。替わりの物はありますか?」

「ああ、私のを貸してあげるよ。……それにしたって何でこう、うちの物って作りが雑なんだろう」

「ブーツなんか不完全防水だし」

「無線もオンボロだし。本隊と全然通じないんだよ、さっきから」

周りの生徒が漏らす愚痴には耳を貸さず、黙したまま代替品を受け取ると再び眼下の車列を睨む。

元々、心情を表すことの乏しい性格をしていた。

それにずぶ濡れになることも厭わないのは、極めて重大な理由がある。

決して視線を外すことのできないもの。見失ってはならないものを隊列の中央に確認する。

青旗を掲げて進むティーガーⅠ。

黒森峰のフラッグ車である。

しかし、何をするわけでもない。静観すると決めていた。

誰が察することもない無表情の奥には、秘められた祈りがあった。

だが雑音混じりの無線が、彼女に非情の決断を求める。

「おい、また中隊長殿からだぞ」

「……了解しました。繋いで下さい」

 

『こちらフラッグ。IS-2、命令は先ほど達したはずだ。なぜ砲撃しない』

『……申し上げた通り、大隊長からはその様な指示は受けておりません』

『こちらも本隊とは20分以上、交信が途絶えている。悪天候による、ただの通信障害なのか。それとも……。もはや我々は最悪の事態も想定しなければならない』

『ならばジャッジの判断を仰ぐべきです』

『そんなことはもうとっくにやっている! 連中は雨天延期再試合を検討すると言ったきり、その後は何も言って来ない! 話がない以上、まだ試合は続いているんだ! そして何より黒森峰の車両がもうそこまで迫っているんだぞ! 改めて告げる。IS-2、揮下のT-34/85並びにT-34/76と共に接近する敵車両を迎撃せよ。これは大隊長に成り代わり、フラッグ中隊を統率する私の命令だ。聞いているなら復唱しろ!』

 

時間切れ……ですね。

 

『了解しました。IS-2および各班、これより敵車両に対し砲撃を開始します。なお、一つお願いがあります。先程の命令は口頭だけでなく、後ほど書面にして頂けませんか』

『この野郎……っ! いいだろう……書類ならいくらでも用意してやる。貴様の命令不服従に対する懲罰動議も一緒にな!』

『ありがとうございます』

 

Блин、надоело……。

初めてとなる感情らしき物の発露、僅かに眉を顰めながら呟く。

 

西住まほさん、貴方とはもっと違う形で戦ってみたかった。

 

 

だが私情、それは彼女にとって最も許せないものである。

 

 

迷いは無い。

大切なのはクルスクの再現などという夢物語ではないのだ。

私の欲しいものは我が校の勝利。

我が母校、プラウダに栄光あれ。

 

――そして信愛なるカチューシャのために。

 

 

 

 

 

 

眼を開けるのが、怖かった。

 

彼女の声を聞いて濁流の中へ飛び込んだ。

そこまでは覚えている。

しのつく雨の中を行軍する黒森峰の車両。

響く砲音。

纏わり付くような雨音の中を夢中で駆けた。

 

だから、その続きなら、こんなに無音のはずがない。

 

今、静寂に包まれたこの世界は、一切が過ぎた後なのだと悟る。

ここはどこなのだろうという疑問よりも、まず感じたのは恐怖だった。

もしかしたら自分はもう、この世にはいないのかも知れない。

だが、覚醒に伴い徐々に増してきた節々の痛みが、それを否定する。

私はまだ、生きてるんだ……。

 

一縷の望みを託し、瞳を開けることを決意する。

そこにいるんだよね?

 

エリカさん。

 

「……気が付いたか」

 

「……お姉……ちゃん?」

 

白い天井。壁の色は分からない。緑の仕切りカーテンで空間は完全に隔離されている。

予防接種のときに手渡される脱脂綿と同じアルコール臭、消毒液の匂い。

経験に基づき、ここは病室なのだと理解した。

 

「私……どうして?」

体の動きが鈍い。それでも懸命に腕を動かし起き上がろうとする。

「無理はするな。もう少し眠っているといい」

みほの動きを、手を貸すでもなく椅子に腰掛けたまま、言葉だけで制する。

希望が瓦解していく。体温が下がっていく感覚。

まだ片鱗でしかなかった絶望は鮮明になり、みるみる体中を這いずり回る。

「お、おね……ちゃ……し、試合は?」

思う様に回らぬ舌を必死に動かして、ようやく言葉を作る。

「気にするな」

だがその努力に対して姉の言葉は極めて短かった。

その一言だけ発すると西住まほは席を立ち、ひとしきり妹を眺めた後に身を返し、カーテンを開けて立ち去ろうとする。

そして振り返る事もなく言い放つ。

 

「お前には関係のないことだ」

 

 

 

 

気が付いたら私は学食にいた。

 

さっきまで教室にいた気がする。ティーガーⅡの車内だった気もする。

そして目の前にはカレーが置いてある。

これは誰が食べるのだろう?

私のものではない、と思う。心当たりがない。

そもそも空腹かどうかも、分からない。

大体、どう食べればいいんだ? インド料理だから手で掴んで食べればよかったんだっけ。

「おい……スプーンならそこにあるだろ」

顔を上げると見覚えのある人間がいる。

装填手の……ああ、奈緒だ。下田奈緒。

「奢りだよ、早く食えよ」

彼女がカレーをご馳走してくれるらしい。

それならやはり、これは私のものなのだろうか。

「いただきます……」

スプーンをルーへ刺すと、すでに膜が張っていた。

どれくらい、ここに置いてあったんだろうか。

具を少し掬い口へ運ぶ。途端に咳き込む。

「おいおい! 大丈夫か!」

堪えきれず吐き出すと、テーブルの上をジャガイモが転がる。

食道を削る激しい痛み。

カレーの芋が飲み込めないくらい嚥下機能は衰えていた。

「大丈夫だ、大丈夫。ほら、水だよ。飲んで落ち着け」

手渡されたコップに口を付ける。胃に向かって水が流れるのを感じる。

ようやく思い出す。

冷たい、底冷えする寒さ。

あの日も夏だと言うのに、凍てつく雨が降っていた。

痛む喉も、あの時も声帯が千切れるくらい叫んだ。

「私……私は」

「とにかく食えよ、な? 体力付けなきゃ」

今度は咽せないように、よく噛んで食べる。

何もかも思い出した。そして、とてもお腹が空いていたことに気付く。

「そうだ、いい子だ。偉いぞ。お前は偉いよ、エリカ」

子供みたいな励まし方をされて、それがなぜか嬉しくて、止め処もなく涙が溢れた。

 

 

 

あの時見た光景、私の目の前でⅢ号戦車が谷底へ滑落していく。

小梅の車両、そして由貴も乗っているのに。それなのに、ただ喚くことしかできなかった。

誰か小梅を! 由貴を! 私の友達を助けて!

その叫びが合図となる。その瞬間に終わったのだ、何もかも。

黒森峰の十連覇も。チームを組んだ3年生達の今までの努力も。

私の叫声は彼女にしか伝わらなかった。いや、違う。

よりにもよって彼女に届いてしまった。

自ら立ち上がることもしないで、安直に救いを望んだ結果、私は全てを失う。

 

連盟の救助隊が発見した頃には彼女達の中に意識ある者は一人としていなかった。

糸の切れた人形のようにくねり、折れ曲がり横たわる少女達。

救助隊員が胸部を圧迫するたびに口から漏れる泥水。

特に車外で急流に飲み込まれたみほはAEDでは蘇生せず、救急ヘリに収容される際も、救命士が馬乗りになって心臓マッサージをしているような有様だった。

 

なのに私は、今ものうのうと生きている。

 

 

幸いなことに昏睡状態から息を吹き返し、全員ICUから一般病棟に移ったとの報告が学校へ届くまでにそれほど時間はかからなかった。

一応、退院の目処が付いたのだ。

負傷者が搬送先の病院から艦内の診療所へと転院が可能になるまで、ひとまず学園艦は直近港内で待機する旨が乗艦する全生徒に伝えられる。

船舶科の大多数は言葉にはせずとも、熊本からの旅費を鑑みれば期せずして格安料金で関東を満喫できることに喜んでいるようだった。

機甲科や整備班においても、レギュラーに漏れるなどして戦車道の情熱など失せて久しい者は同様であった。

世間はこの時期、ちょうど夏休みなのである。

十連覇を逃し悔し涙を流した者達も1週間が過ぎた頃には徐々に、撮ってきた観光地の写真を眺めては笑い合うようになっていた。

内地の娯楽には目もくれず、相変わらず飽きもせず戦車を乗り回す者もいた。

人それぞれに、多様な過ごし方をする中でも共通するものが一つだけある。

誰もが忘れようとしていた。

忘れるためには時間を費やすしかなかった。

 

だが当然、忘れられず艦から去る者もいた。

 

数日の間に保護者を伴って退艦する者が続出する。

従来より不満の燻っていた受験組に限ったことではない。

中等部から黒森峰に在籍していた生徒においても同様である。

事情を知らない者の勘ぐりで、西住隊長は常に罵声を浴びていた。

親達の言い分は大同小異。人選への非難。

正副隊長を下級生が、しかも血縁ある姉妹が就いていたと今更の事を責める。

そう言うのなら、ではなぜ自分の娘は隊長に、副隊長になれなかったのか?

現場で見ていれば当然分かることを、最初からどの大人も理解する気などない。

そもそも不正を暴こうなどという高尚な考えがあるわけではない。

ただ怒りの矛先を探したときに目の前にいたのが西住姉妹だっただけ。

当たり散らす対象を探したかっただけ。

だが何も言い返せない。

罵りも侮蔑の視線も、甘んじて受け入れるしかない。

だってそうだろう。

敗者を褒める人間なんて、いないのだから。

部外者なら尚更だ。

 

4日が過ぎて私も食欲が戻りかけた頃、ようやく内地の病院から退院する者が出る。

一人目は、みほだった。

「……えへへ、久しぶりだね」

まだ歩行がおぼつかないからと車椅子姿の彼女が、笑った。

「そんなに泣いたら萎んじゃうよ、エリカさん」

彼女の脛にすがりついて泣きじゃくる迷惑な私の頭を、笑いながらずっと撫でてくれた。

 

Ⅲ号戦車の面々も全員意識を回復し、障害は認められず、経過は概ね良好と聞かされる。

学園艦は、みほの転院から1週間後には熊本に帰る予定となった。

その頃には全員が戻る目処が付いたのだ。

置いていくわけにはいかない。これ以上、何も失いたくはない。

心の底から朗報と呼べるこの知らせに、多くの者が安堵する。

 

「あいつの見舞いったってなぁ、何やれば喜ぶんだよ」

「やっぱりお菓子とか、食べ物じゃないかな?」

「……ここはやはり、花で」

「Tシャツとか実用品じゃないの?」

みほより2日遅れで、Ⅲ号操縦手を務めていた内山由貴も学園艦内施設への転院が決まる。

グラウフクスチームで集い、顔を見に行くこととなった。

「あーもう! 嫌げ物やってもしょうがないし、めんどくさいから直接聞くわ!」

奈緒がメールを打ち始める。

まぁ、それが一番効率いいんだろうけど、何だかな。

すぐに返信されるメール。

「……由貴は何て言ってるの?」

「……隣の病室に文学少女が入院してんだと。それでやたら男受けがいいんだって。負けたくないから何か本を買って来いだってさ……ヴェルレーヌか中原中也希望……」

「うまい棒で十分だわ、こんなやつ……」

「わーい、私の案が採用されたね……」

 

この時はまだ誰も気が付かなかった。

 

「……何が詩集だよ……本読めんのかよ」

例えば、みほは栄養摂取がままならない間に体力が衰えたという以外には特に大きな外傷はなかった。

由貴より先に転院した他の者も同様である。

「いやぁ、そこはほら。寝る前に読み聞かせでもして貰おうかなって」

「それもう文学少女と言うより完全に病んでる人だよ、由貴ちゃん……」

川底に沈み、激流に揺られ、本来有り得ない方向を戦車が向く。

操縦手は戦車の最も低い場所に座る。

由貴目掛けて文字通り、積まれた砲弾や空薬莢が雨のように降ったのだ。

右腕尺骨骨折に加えて頭部も6針縫う裂傷。

頭に巻かれた包帯はそのまま左目も覆い隠している。

左眼窩底骨折。10数kgの砲弾をまともに顔に受けて、包帯の端からも痣は見て取れる。

何もかける言葉が思い浮かばない。

「まぁ、そんな深刻な顔しないでよ。一応さ、生きてるわけだし」

確かに歩行に障る怪我はないので退院は出来るだろう。

本当にただそれだけの状態だった。

 

あらためて負けた傷痕は、悔しさだけではないことを知る。

絶望は普段、用心深く奥底に顔を隠していながら、

いつでも現れては容易く人の心を食い散らかすのだと。

「家人以外の面会お断りとか言ってもねぇ。うちの親ってさ。こういうときにノコノコ来るような人間じゃないから。まぁ、それはもうどうでもいいんだけど、昨日今日の話じゃないし。それよりさぁ、私ね? 病院の人以外に会ってないから知らないんだけど……うちって、さ。黒森峰は……勝った……のよね?」

 

「マジかよ……」

絶句する。

そして一同、何を語らずとも悲観の表情が意味するものはすぐ由貴へと伝わった。

「は? 本当なの? 嘘でしょ……?」

「……由貴、残念だけど」

「由貴ちゃん、あのね……」

私より付き合いの長いひよりと裕美が諭すように説明を始めた。

言い聞かせるように、ゆっくりと静かに。

 

突然のプラウダからの砲撃。

泥濘に足を取られ滑り落ちていくⅢ号戦車。

フラッグ車車長である西住みほが川へ飛び込んだこと。

頭を失して立ち往生したフラッグ車は被弾し、十連覇の夢は潰えたこと。

そして何よりも伝えなくてはならないこと。

 

「何よ……それ……冗談じゃないわ」

「で、でも由貴ちゃんが悪くないのは私達は知ってるから!」

「私が……私がこんな目に遭って……それで……さらに全部私のせいだって言うの!?」

「……そうなってるの、由貴」

「……っ! 裕美あんたまで! ……ふざけないでよ……ふざけるなあああ!」

 

歴史的惨敗の起因は、攻撃を受けて焦ったⅢ号戦車操縦手が操作を誤ったため。

それが全体集会で語られた黒森峰の公式見解だった。

「泣き寝入りなんか出来るか!」

癇癪を起こした様に布団を蹴飛ばす。そうでもしなければ布団が捲れないのだ。

「おい! 由貴!」

起き上がろうとして無意識に骨折した利き腕を支えにしてしまう。

「痛っ! くっそ! 裕美、肩貸して!」

「……どこに行く気?」

「いるんでしょ! この病院に! あの子も!」

「ちょっと! 由貴! 落ち着いて! 何するつもりなのよ!」

「撤回させてやる! 私だけ悪者にしやがって!」

「待って! 由貴ちゃん待って!」

「ひより! 看護師さんを呼んで!」

「離せ! ちきしょう! いるんだろ西住! 出て来い! 謝れ! 謝りなさいよ!」

ナースコールを押すまでもなく、程なくして騒ぎを聞きつけた看護師が殺到する。

 

 

「くそおおお! なんで! なんで私達を助けたのよっ! うわああああ!!」

 

 

 

 

最悪の気分。

まさに今がそうだ。

唯一の救いらしきものは、学園艦の部屋でまたみほに会えたこと。

「……ただいま、エリカさん」

「……お帰り」

「私、私ね? 夢中になって、それで勝手なことを……。みんなに……取り返しの付かない迷惑を……ひどいこと……を」

「大丈夫、大丈夫だから、ね……?」

私と言葉を交わした瞬間にみほはその場で膝をつき、泣き崩れた。

それほど変わらない身長の彼女を胸に抱き留める。じんわりと服が湿っていく。

もう誰にも泣いて欲しくない。

彼女の声が消えるように、きつく胸に押さえ付ける。

みほも察したのか、たまにスウェットに噛み付いたりしては声を殺そうとしていた。

寄る辺のない孤独な夜を過ごすには、この部屋は広すぎる。

寄り添い合ったままベッドの上で、ただ時間が経つのを待つ。

翌日、どうにか登校したみほを待っていたのは腫れ物を触るような扱いと、無視と稚拙な嫌がらせだった。

 

「みほ、貴方……靴は?」

「えへへ。私、ドジで馬鹿だから無くしちゃったかも……」

 

それでも2日目も学校へと行く。

待っていたのは、一つの知らせだった。

最悪な気分。取り乱す由貴をただ眺めることしか出来なかったあの時間。

これ以上はないと思っていたけれど。

教室で赤星小梅の重篤の知らせを受ける。

 

泥水を大量に飲み込んだ小梅の肺は砂だらけになっていた。

そのため食塩水を流し込み肺を濯ぐ。

洗い出すために肺に直接、水を注ぎ込む。

そんな壮絶な治療法で症状は回復へと向かっていた矢先のこと、突然、高熱を出し呼吸困難となり再び意識不明となる。

診断は溺水による急性肺炎。

「川の水が肺に入ったせいで細菌による感染症を起こしたってことらしい……」

「それで、それで容態は……?」

「JCS-100……声にはもう反応してないそうだ」

当然学園艦には、しばらく帰って来ない。

艦は小梅だけを内地の病院に置いて、予定通りの日程で出港することが決まる。

 

 

その日から、みほは部屋から出るのをやめてしまった。

 

 

部屋に戻るといつもと同じ姿勢で座り込むみほ。

傍らには渡したウェーダーが置き去りにされている。

パッケージの汗のかき具合から、1度も触れていないことが分かる。

食事もろくに摂らず、喋ることもなくなり、動くこともない。

「じゃあ、先行ってるから」

「うん……」

学校に行き、再び部屋に戻ると暗がりの端に、朝と変わらぬ場所に彼女はいる。

部屋に簡素なユニットバスがあるといっても、使うこともない。

髪は脂ぎって衣服も匂いを放つまでに至る。

かって1年を率いて無敗と呼ばれ、栄光の黒森峰機甲科副隊長となって準決勝まで姉と共に最前線で采配を振るっていた少女の姿はもはやどこにもない。

一つ動くとしたら、排泄だけは人並みの場所で済ませていた。

「みほ……せめてトイレに行く元気があるんなら、風呂くらい入ってよ」

立ち上がった彼女に声をかける。

彼女は数秒止まった後、再び元の位置に座り込む。

その時は気に留めることもなかった。数分後に異臭に気付くまでは。

「あんた……まさか! このバカ!」

手首を掴んで引き上げようとすると、脱力した人体の重みで背中の腱をつる。

痛みを堪えながら強制的に立たせると、灰色のジャージは濡れて変色していた。

夜の闇よりも黒く見える。

中の生き物が死滅して澱んだ水槽よりもひどい悪臭。

 

 

みほのことは好きだけど。

けれど彼女の背中はもう、ぼろ布よりも見窄らしく、道端の石よりも無価値で。

みほと一緒ならばどこにだって勝てる。どこまでだって進んで行ける。

そんな何度も想像した光景も。

あの時必死で追いかけた、先を歩む彼女の背中に見た羨望も、消えた。

 

「あんたには……失望したわ」

 

夢は途絶えた。

背中の痛みよりも鮮明に、実感する。

 

引き摺るようにバスルームに連れ込み、無理矢理服と下着を剥ぎ取る。

シャワーの湯温を確かめると、了解など必要ない。そのまま頭から浴びせた。

彼女を立たせたまま、私は膝をついて足の指先から洗い始める。

窶れて少し浮き上がった肋骨。

いつか見たときよりも細くなった太股。その内側を泡立てたタオルで擦る。

 

突然、みほが私の頭を掴む。

ちょうど彼女のへその辺りに、そのまま押し付けられる。

「うわっ! ちょっと、何?」

服が濡れるのなど気にもしないが、ただ、なぜそうされたのかは分からなかった。

見上げると濡れた髪から雫が垂れて、乳房を滴り私の顔にかかる。

彼女が、泣いている。

シャワーのせいで涙かどうかは分からない。

けれども歪んだ眉、噛み締められた歯が隙間に覗く唇、きつく閉じられた眼。

そう。彼女はやはり、泣いていたのだ。

何かを喋ろうとして口を開くと、先に嗚咽が漏れる。

「何? どうしたの?」

彼女のお腹が呼吸のたびに震える。手も、足も震えていた。

こんなに、こんなにも。

身長なんて1cmしか違わないのに。みほが小さく感じる。

この子は、このまま溶けて消えてしまうんじゃないだろうか。そんな不安すら覚える。

「ごめん……私が変なこと言ったせいよね。大丈夫。大丈夫だから。好きよ、みほ」

彼女を見上げながら、あやすように言葉を掛ける。

ようやく震えも収まった彼女と視線が交わった。

微かに笑いながら、とても、とても小さく呟く。

 

「……エリカさん、ごめんね。……許して」

 

人が、人を罰するなど。

それも故意じゃない。

罪状がないじゃないか。

人助けをして何が悪い。

それなのに。

それなのに、彼女に全部放り投げて。

全部背負わせて。

潰される様を晒すまで、彼女が壊れるまで誰も手を貸さない。

ふざけないでよ。

 

誰もが見放すなら、もう、我慢などしなくていい。

 

この子は私のものだ。もう人の目など気にしない。

 

どれくらい抱きしめられていただろうか。

静かに彼女の手を外して立ち上がり、水を吸い重くなった服を急いで脱ぎ捨てる。

タンクトップを放り投げて、パンツに手をかけた時、みほと目が合った。

心細そうに縮こまって、胸の前で合わせた手を開いたり握り直したりしている。

右手で彼女の手を捉えて壁に押し付ける。

支えを得た体をそのまま彼女に覆い被せて、キスをした。

薄目を開けて、みほがしっかりと瞳を閉じているのを確認すると空いた左の手で下着を片足から抜く。

お行儀は悪いが、後は足だけで脱ぎ切る。

裸体など互いに見飽きたものではあったが、煽情に駆られた自分を見詰められるのはさすがに恥ずかしいものがある。

けれど今しかないと思った。

 

彼女を抱きたい。

 

視線を躱すために重ねた唇を、今は忙しなく動かして感触を堪能する。

互いに混じり合った指先を静かに解いて、みほの胸の上に置いた。

一瞬、身をこわばらせた後は、手を払うこともなく身を委ねる。

 

唇を離し見返すと、みほの顔は上気しており、あらためて私は許されたのだと知る。

 

再び彼女の手を掴み、寝室へと導く。体を拭く時間すら惜しい。

そのまま私のベッドへ引き倒すと彼女の上に跨がり髪を掻き上げ、露わになった額に口付けをし、涙を掬い取るように瞼に、頬に、首筋を味わう。

徐々に下へ、下へと口を這わせて、形のいい乳房の上に乗った先端に触れようとしたとき。

 

「や……待って……」

 

拙速な自分にようやく気付いた。

「ご、ごめん!」

私にはまだ信じられなかったのだ。何の抗いもなく人が体を許すなんて。

だから気が変わらない内にと焦っていた。

「ほんとにごめん……」

同情を乞うような卑怯な真似はしたくなかったが、彼女に拒絶されたのかと思うと途端に自分が惨めに思えて、心身すべてを含めた私という存在が消滅しそうな気分に陥る。

きっとこの時の私は捨て犬よりも哀れな顔をしていたに違いない。

「ご、ごめ……違うの。エリカさん」

掌に遮られてくぐもった声で言葉を続ける。手で顔を覆った彼女の表情は見えない。

だが決意定まったか、瞳だけを覗かせて訴える。

 

「……カギ……へ、部屋の鍵、閉めたかなって……」

 

突然のことで冷静さを保つのに必死だった。

愛おしさに気が狂いそうになる。

「ごめん、待ってて」

目眩がしそうな中を努めて平静を装い、部屋の入り口を確かめてベッドに戻ると、今度はみほの方から抱きついて私を求めて来た。

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、みほ……どっか遊びに行かない?」

「あっ……うん。いいね。いつにしよっか?」

「今から……」

ほんの少し、少しだけ驚いて、そして微笑み返す。

「うん! 行こう!」

荷物をバッグに入るだけ詰め込んで旅支度を調える。

お互いのベッドは汚れて、びしょ濡れになっていて、未練などない。

ドアを開けて、外へ走り出す。

こっそり外出するのは、そんなに難しいことじゃない。

バレないように帰って来るのが困難なだけであって、行ったきりで良いのなら呆気ないほど手軽なものだ。

 

どうせ明日には学園艦は熊本に行く。

戻れなくても、どうでもよかった。

 

 

「じゃあ、どこに行く?」

「うん! ディズニーランド!」

計画なんて微塵もない。

それでいい。

彼女と一緒ならどこにでも。一緒にいられるのなら、どんな所でもいい。

久しぶりに笑い合って、どのキャラクターが好きなのかをお互いに聞き合った。

みほの余りの荷物の多さを指摘するとバッグの中身は実用品じゃなくて、

例のボコだった。叱りつけてもまったく意に介さない。

夜の電車を飽きることなく喋りながら過ごす。

 

しかし当然ながら旅路の途中で簡単に頓挫してしまう。

興奮と希望に満ちた道程はあっさりと冷める。

「さすがに、こんな時間で開いてないね……」

まぁそりゃそうだ。

目指す先の対岸で、正確には同県内ではあるのだが、すでに閉園時間を迎えている。

とぼとぼと改札を降りると目の前に交番があって思わず逃げ出した。

まずい。

女子二人で深夜を彷徨い歩いてるわけにはいかない。

近くの公園で夜を過ごそうと歩いて行くと、木立が見えた瞬間に蚊に刺された。

「どこかに泊まるしかないわね……」

携帯を取り出して駅近くのホテルを何軒か見つける。

明かりの向こう側を眺めると、これも当然のことだけど普通フロントには人がいる。

「保護者の方は、とか聞かれたら何て答えればいいのかな……」

じゃあ、こんなとき一晩いれそうな場所はネットカフェってとこになるのか。

泊まれれば何でもいいんだ、この際。

「会員証って言われたら、学生証ってわけにはいかないよね……」

「やっぱみほって鋭いわね……」

そもそもヒットした場所は駅から遠い。着いてから途方に暮れるよりかはましだけど。

欲を言えば、みほも気付くならもっと早くに気付いて欲しかった。

一駅分を重い荷物を持って歩き疲れて、それでも道端に座り込んでいるわけにもいかず、

どこかに何かないかと探すと、何とか小遣い内で泊まれる範疇でフロントに人のいなさそうな安宿を発見する。

まぁ、存在は知っていた。

熊大病院に行く途中にカラフルなビルが乱立しているところがあるし。

デニーズでパンケーキを分け合いながら、みほに覚悟の程を確かめる。

 

本当は、臆していたのは自分の方だ。

名家のお嬢様を、そんなところに連れ込んでいいものか。

「えっ! すごい! 行ってみたい!」

あっさり承認されてしまう。心配して損した。

 

「わー! すっごい! エリカさんと来ちゃった!」

「あーもう! うるさいわね!」

子供のように、はしゃいで部屋を走り回る。

ここはお子様とは無縁の場所だと言うのに。

「せっかく4階なのに窓がないね」

「外から見えちゃ駄目なんだって!」

熱帯夜を意味もなく歩き続けて汗まみれになったので、シャワーを浴びられるのは助かる。

野宿しようだなんて甘過ぎだなと反省した。

「うわっ! エリカさん! 鏡が大きいよ!」

「いやもう……いちいち実況しなくていいから」

服を脱いで浴室へと向かう。靴下や下着の替えにも限りがある。

湯で揉み洗いでもするべきか。でも朝までに乾くだろうか?

もっと都会に行けば格安で泊まれるところが何かあるだろう。

可能な限りお金は節約しなければ……。

ふと、みほを見遣ると半脱ぎのまま固まっている。

「みほ、あんたもぼさっとしてないでシャワー浴びたら?」

長居すればするほど金が嵩むシステムの宿なのだ。用事が早く済むのに越したことはない。

しかし言葉を投げても反応はなく、変わらぬ姿勢で微動だにせず鏡の前にいた。

「何なのよ? そんなに鏡が珍し……」

近づくと、ようやく振り向く。

表情はシャワーを浴びる前から茹で上がったように真っ赤になっている。

今さら何だと訝しがるも、理由を知れば私も赤面せずにはいられなかった。

学園艦を飛び出す前の情事の記憶がまざまざと蘇る。

 

「……エリカさん、跡つけ過ぎ」

「う、うるさい! さっさと風呂に入れ!」

 

……。

 

「だからって一緒に入って来ないでよ!」

「えー? だって広いんだし、だめなの?」

同じ湯船に二人で浸かる。私の前に、みほがいる。

あーもう、幸せすぎてどうでもいいわ。

「みほ、みほ」

「えっ、何? エリカさん」

「……手ブラ」

「えへへ、エリカさんのえっち」

今さら増えたところで変わらない。

真っ新のままだった背中にもう1つ、いや2つ跡を残して風呂を出る。

今度はしっかりバスタオルで体を拭き、後はもう寝るだけ。

「えー? せっかく来たのにもう寝ちゃうの?」

「言ったでしょ? 節約よ、節約。それにあんた見たでしょうが。このホテル、専門学校の真ん前にあるのよ」

風営法的に大丈夫なのか、それは。

よく分かんないけど。いずれにしたって変な時間にチェックアウトして、学生の団体と鉢合わせなんてごめんだ。

出発するなら早朝しかない。

「大体歩き回って疲れたし、その前だって結構体力使ったし」

「エリカさんのすけべ親父……」

「何とでも言って。私は寝るから」

「んー……あっ、そうだ! エリカさんにマッサージしてあげるね!」

「あんたも早く寝ればいいのに……あー、でも気持ちいいかも」

「でしょ? お母さんがね、すぐ肩こるって言うから私ね。肩揉み結構得意なんだよ」

「あんたもいずれそうなるんでしょうね……」

西住の教えに反抗はしても、血は争えないだろうな。すでに兆しはあるのだし。

「仕上げに、えーっと……あ、あった。えいっ!」

ふいに人の手ではない機械的な感触がした。

「うわあああ! ちょ! ちょっと待って!」

「ふぇっ?」

跳ね起きた隣では、みほが首を傾げている。

その手にはL字型のハンディマッサージ器が握られている。

「あ、あんたねぇ! そんなもん仕舞いなさいよ!」

「えっ? だってこれマッサージ器でしょ?」

そう。それは何も間違ってはない。

「いや、まぁ、そうなんだけど……」

「えー? だって気持ちよくないかな?」

みほは何の遠慮もなく、おもむろに自分の肩に宛がう。

そんな誰がどう使ったかなんて分からん代物をよくもまぁ。

「いやあああ! ちょっと! せめて拭いて使って!」

慌てて洗面所に据え置いてあったアルコールジェルをかけて入念に拭く。

あまりに大量に使ったのでツーンと眼が染みる。

「あれ? エリカさんって以外と潔癖症なんだね」

「いや、これは、そういうもんじゃなくてね……」

そこで悪戯心と、興味が湧いた。私だって使ったことはないし。

「……それじゃあ、こういうところに置かれている物の正しい使い方を教えてあげるわ」

「えっ? う、うん……」

 

 

呼吸を止めて足を張り伸ばして、軽いブリッジを描く。

「……んんっあああぁ!」

停止した息が大きく吐き出されると同時に、息吹の後半は声へと変わる。

それを合図に力は緩み、浮いた腰は墜ちてベッドに沈んだ。

荒々しく息継ぎをするみほ。

その狂態にさらに心は昂ぶる。思わず唾を飲み込んだ。

「感想がないなら、もう1回ね」

「や……エリ……」

言葉が上手く喋れずに表情だけで懇願するも、あえて無視する。

そんな顔をされたら、余計に乱してみたくなるだけなのに。

こちらは願いを聞き入れる気がないことを悟ると、枕を引き寄せて顔を隠した。

カバーを引き千切りそうなくらい引っ張り、やがてまた力が抜けていく。

立てた膝がどさりと音を立てて倒れる。

私だって自慰くらい知らないわけじゃないから。

気持ちいいんだろうってことは分かってる。

同じ女の体なのだから、おおよそのポイントは心得てるつもりだった。

けれど初めて体重ねたときは無我夢中で正直あまり覚えていないのだ。

相手が感じているかなんて考えてる余裕などなかった。

ただ貪るように所有物である証を付けただけだった。

 

いよいよ持って、深刻な病に犯されていることを自覚する。

私は機械にすら嫉妬してる。

けれど、やはり道具の方が気持ちいいなんて許せない。

息も絶え絶えに大の字になっている彼女の背中だけではない。

まだ指だけでしか触れていなかった箇所。

覆い隠していたグレーのショーツをずらして指を潜り込ませる。

2度も続けて昇らされて、受け入れる準備など確認するまでもない。

溝を幾度か往復すれば、指には彼女の体液が垂れるほど絡み付いて来る。

まだまだ窮屈な穴を注意深く弄る。

ほぐそうと細かく円を描く度に彼女の体は跳ねた。

中指の第一関節が入り口をこじ開けると、先程よりもみほは大きな声を上げる。

――勝った。

優越感が身の先まで満ちたのを感じた後は思い出したようにショーツを脱がせると、初めてなのに何の嫌悪感も感じない。

責め立てて敏感になった肉芽を口に含む。

私の指と唇だけが彼女に奉仕する権限を得ているのだ。

私以外のもので感じて欲しくない。

再び彼女の腰が浮いて力を失いシーツの上に音を立てて崩れるのを確認すると、まだ白く面積を残した内股の柔肌にも所有権を主張する印を無造作に付けた。

 

 

 

 

「バカバカ! エリカさんのバカ! エッチ! 変態!」

「知らないわよ、起きなかったのはあんたも一緒でしょ」

早朝に起きるどころか、寝たのが暗闇が和らいで濃紺に変わるような頃だった。

世間はすっかり日中となって、ともすればそろそろ昼を考える時間とも言える。

お金の無駄使いにもなってしまったし、少なくない通行人に見られるし。

けれど私は、成し遂げた喜びで気分はよい。

そう彼女に耳打ちすると、罵倒の種類にケダモノ色情魔痴女が追加された。

いざ目的地へと電車に乗り込んでも、なかなか口を聞いてくれない。

それはちょうど昼に差し掛かったときである。

「あー! アウトレット!」

ようやくみほが喋った。

私に向かって、ではなかったが。

「へぇ、よく知ってるわね」

「だってボコショップあるんだよ! ……あっ、エリカさんのことは嫌いだから、お喋りしなーい」

「んー? はいはい、ご機嫌を直して貰うにはどうしたらいいのかしら」

「お買い物しに行こ! そしたら許しちゃうかも!」

お金は節約しようって再三言ってるのに、まぁいいか。

持ち合わせは彼女の方が多かったから、スポンサーの意向には従わなきゃ。

 

「す、すごいね……」

平日の昼間と言えども、いや、お昼だからだろうか。

大勢の人間でごった返している。

これだけ人間がいるのに、誰一人として知らない。

全員が他人なんだと思うと不思議な感じ。

「こんなとこで迷子になったらお終いね……」

いざとなったら携帯で連絡を取り合うことにする。今は電源を切っていた。

なぜなら彼女の携帯の着歴がものすごいことになっていたからだ。

精神衛生上よくないものは見なかったことにするのが一番だろう。

だから規則を作った。

もし30分以上出会えなかったら電話をするように、と。

 

昼食はタリーズで済ます。

コーヒーが飲みたかったのと、あのときはデートではなかったけれど、

初めてみほと二人で買い物に出かけたショッピングモールでやはり寄ったのを思い出したからだ。

「じゃあ、これ飲んだらボコショップ行こうよ!」

「うえっ。もう私、歩きたくないんだけど。荷物見張ってるから一人で行ってよ。私はここで待ってるから」

私は姫に傅く騎士だから。

ご機嫌直しの一環として荷物持ちもしたけれど、想定以上に疲労が蓄積したため、接待モードはこの場を持って終了とさせて頂きます。

「えー? だって二人でお揃いのを買いたいのに……」

知らないわよ。そんな包帯熊なんて微妙な趣味に付き合わせんな。

「興味ない。いらない。まぁでも強いて言うなら泣いてる子は好き」

「あっ! うん! じゃあ探し行って来るね! どこにも行かないでね!」

「それはこっちの台詞よ」

大きく手を振って、歩き出した背中はすぐに人混みの中へ消えた。

さて、これからどうするかを考える。

取り敢えずはコーヒーとミルクレープ食べるだけで軽くなった財布。

これを補充しに行かないと。

ATMの場所は分かったが問題は、目の前にはパンパンに膨れ上がったバッグが2つ。

これを持ってまた歩くのか……。

溜め息が漏れる。まぁでも置いてくわけにはいかないし、しょうがない。

「あっ、すいません。ごめんなさい。通ります」

人の椅子にぶつからないように絶妙なコントロールで潜り抜けて店を出る。

今更だけど私って結構、操縦手の才能もあったのかもね。

 

 

「……あ、あれ? いないし。ど、どこ行ったのかな?」

やっぱりここまで来たからにはどうしても記念品を二人で選びたかった。

ボコでお揃いのスマホカバー。お揃いのボコTシャツ。

何でもいい。

二人が、いつも二人でいられるようにって、そんな願いを込めて。

そのため走って戻って来たのに。それなのにエリカさんは勝手なんだから。

 

 

「遅い……」

ボコショップってそんな遠かったっけ?

まぁどうせ包帯熊が絡めば、すぐ退行してしまう子だ。

どうせ私のことなんか忘れているんだろう。

……。

そんな熊くらいに負けて忘れられるようじゃ、困る。

昨日の夜から他人どころか物に嫉妬してばっかりね。

いよいよ本当に病気だなと苦笑してみるが、こればかりはどうしようもない。

焦燥感は一度湧いたら、あの子の顔を見るまで止まらない。

「あーもう。どこよ、ボコショップって」

 

 

 

規則の30分まではまだ余裕はあるが、待ち合わせ場所までまた戻るとなると少し時間がオーバーしてしまうかも知れない。

それに本当に彼女は約束した場所にいるのだろうか?

トイレだったのかも、それか何か用事があったのかも。

ただ慌てて戻ったカフェの店内には、彼女の姿はなかった。

胸の奥がちくりと痛む。

一体どこに行ってしまったのか。

確かめるのは簡単だ。電話1本すればいい。

だが、そんな日常で頻繁にこなして来た行為がひどく重い。

電源を付ければ、きっと着信履歴はすごいことになってる。

陰鬱な感情に、気を抜けばすぐに体ごと蝕まれそうになる。

行きたかったけど、行ったことのない夢の国。

着いたら、そこで夢から覚めてしまう。

ずっと旅路でいたかった。終わりなく旅を続けていたかった。

せめて、もうあと1日でも先延ばしをしたかった。

けれども、ここからまた電車に乗れば、終着駅はすぐそこ。

ならばせめて、せめてエリカさんと、夢を探しに行かなきゃ。

自分の中のほんの小さな勇気を奮い立たせて携帯の電源を付ける。

着信52件、未読メール38件。

思わず乾いた笑いが溢れた。

テンション……下がっちゃうな。

それでもと電話帳を開き、いの行を探す。

普段なら3秒もしない動作。

 

だが刹那の間に携帯が振動した。

コール音が鳴る。

……公衆電話?

うんざりするような着信履歴の中には今まで1件もなかった。

もしかしてエリカさんかな?

『はい、もしもし?』

 

 

 

 

 

 

 

『気は済んだか?』

 

 

 

 

 

 

 

それは、聞き覚えのある低い声。

 

『こっちも小銭の手持ちが少なくてな。長くは言わない。お前は隣のそいつを巻き込んで満足か?』

何も。

何も言い返せない。

雑踏の中で、こんなにも人々が楽しそうに、笑いながら歩いていくのに、

私だけが違う星に飛ばされたようだった。

 

『……もうこれ以上、誰かがいなくなるのは私だって耐えられないんだよ』

 

『お……姉ちゃ……』

 

いつ以来だろう。久しぶりに姉の弱音を聞いた。

 

『悪いことは言わない。あいつを返せ。返してやれ。あいつは優しいからな。山下さんから聞いたよ。私は一番身近な人間なのに、何も知らずに、お前の傍にいてやれなくて。姉らしいことは何一つしなかった。すまない……本当にすまない……許してくれ。けれども、優しさに付け込んで人を道連れにするのはよせ。あいつはお前だけのものじゃない。逸見の人生は逸見に決める権利がある……後は私の携帯に掛けてくれ。待っているぞ』

 

 

人生は無情だ。

正しいことが良いこととは限らない。

誰かがもしかして、目の前で死んじゃうかも知れない。

そんなの絶対に駄目なことだから、夢中で走り出して、失敗した。

 

同じだね。

エリカさん。

 

自分の気持ちに正直になればなるほど、道は袋小路になっている。

 

 

けれど。

けど絶対、私は諦めないんだから!

 

元よりの動作を実行する。

携帯が通じたのだ。

口ではあんなこと言っても、お姉ちゃんなら電波拾って位置を調べるくらいやってそう。

急がなくちゃ。

夢を寄り道で終わらせるわけにはいかない。

エリカさんに会いたい。

エリカさんに会えば、気持ちの整理が付く。勇気だって湧くはず。

優しいエリカさん。

 

『もしもし! エリカさん? 今どこ?』

『あーもう! 心配したわよ! あんたこそどこに行ってんのよ? 私なら今、ボコショップにいるから。気が変わったわ。何かプレゼントしてよ。私も、みほの好きなこと、もっと興味持つようにするわ。じゃあ、待ってる。あ、あと携帯切っときなさいよ? じゃあね』

 

 

 

 

 

『うん……すぐ行くから』

 

 

 

 

「エリカさん!」

「遅いわね。まったく心配させないでよ」

髪をくしゃくしゃに撫で回される。

「えへへ。ごめんね?」

「じゃあ何を買って貰おうかなーって店の中を見たけど涙ボコって売ってないのね、ここ」

「えっ? あぁ、そうだね。あれはまた違う限定品だから。あっ! でもここのアウトレット限定のボコもあるよ!」

「うーん、やっぱいいわ。私一番好きなのはあの子だもの。他の物はあんまり欲しくない」

 

 

こういう性格だよね。

頑固で一途で、ずっと優しさで私を包んでくれる。

だから好き。

エリカさんのことが好き。

 

 

 

「エリカさん、あのね? さっきお姉ちゃんから電話があったの」

「はぁっ!? えっ……? そ、それで、出、出たの?」

「うん。私達のこと探してるって。だから早く行こう?」

「わ、わかった……」

 

見つかる前に、最後になる前に。

切符を買って駅のホームに駆け込む。

これに乗ってしまえばあとはもう20分くらいで遊園地に着く。

 

「あっ、そうだ、涙ボコ! 持ってて」

「はぁ? これから夢の国に行くのに。そんな競合するキャラクターなんかどっか隠しときなさいよ」

「えー? だってエリカさんが唯一好きって言ってくれたボコだもん。エリカさんが持っててよ。貸すだけ、貸すだけだからね!」

「うまいこと言って体よく人の荷物増やさないでよ……まぁいいわ」

どうせバッグの容量を減らした分だけ何か買って詰める気なんだろう。

私は別に土産には興味ないし、どうでもいい。

「じゃあホームで待ってて! 後から行くから!」

「えっ? ちょっとどこに行く気なの?」

「んもう! トイレくらい1人で行かせてよ!」

駆け出して行くのを見送ると、数秒もしない内にまた戻ってくる。

「何よ? 早く行ったら?」

「そうそう、あのね。この子の名前言わなくちゃって」

「この子……? ああ、涙ボコのこと?」

「そうそう! その子はね、エミリーちゃんって呼んでるんだよ。エリカさんもそう呼んであげてね」

「ふーん? この子って外人だったの?」

「ううん、そうじゃなくてね。エリカさんの中に私がいつもいるの! だからエミリーちゃん! じゃあ、行って来るね」

何だかよく分からないけど、まぁいいわ。

「はいはい、早く行け」

 

 

 

エリカさん。

伝わったかな?

エリカさんは優しいから。

 

 

そんな優しい人を、私が、私のせいで。

 

 

トイレを横切って改札を出る。

再び携帯に電源を入れる。

もう着信もメールも新しいものはなかった。これでも結構、信用されてたんだ。

ありがとう。

ありがとう、お姉ちゃん。

ずらっと並ぶ着歴の内の一つを押して、電話をかける。

 

『もしもし……みほか?』

『お姉ちゃん? うん、私……私は駅の前にいます。あの人は……ホームにいるから……早く……』

『わかった。すぐ向かわせる』

手からスマホが滑り落ちた。

入学と同時に買ったからまだ4ヶ月しか経ってない。

画面にヒビでも入ったら大変だ。

大変だけど。

もう、どうでもよかった。

この電話はもう、使わない。

手の痺れと同じくらい足も震えて立っていられなくなり、座り込む。

通りすがりの誰かが慌てて声を掛けてくれたけど、何も聞こえなかった。

私は泣くのに精一杯で、何も。

 

もう何も聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 

エミリーの意味を考える。

だが頭がうまく回らない。

電車が1本発車して、もう1本とまた駅を離れていく。

私達以外の誰もが楽しそうに乗り降りをして、行きたい所へと向かう。

私はどこにも進めなくなっていた。

戻ることも、進むことも、彼女無しには決めることができない。

それなのに。

 

あの子がいない。

 

二人で目指した場所まではもう僅かだと言うのに。

私はいつまでも電車に乗れないまま。

ドアの開閉を4回見送って、確信した。

 

多分もう、あの子は帰って来ない。

 

いちいち数えることなどやめたが、

かれこれ20本以上の電車が私を無視して通り過ぎた頃、ようやく声を掛けられる。

「よっ!」

「遅かったわね」

「えー? しょうがないじゃん。約束がなかったからな」

「そうね、ごめんなさい」

「そうだよ! 遊び行くなら俺も連れてけって! ……まぁ、そんなわけにはいかないか」

「じゃあ、帰りましょ」

「いいのか? ディズニー。行くなら俺も付き合うぜ」

「ごめん。もう、いいの」

「あぁ? いいじゃん! 俺だって行ってみたいしさ! 俺じゃ駄目かよ!」

「……ごめん」

「いやいや、冗談。……冗談、だよ。じゃあ帰ろうぜ? 戻る気はあるんだろ?」

「そうね。他に行くところはないし」

「まぁまぁ! 初犯だし! 反省文の一つも書けば大丈夫だろ。俺も手伝うしさ」

「ところで、あの子は……?」

 

 

「あー! みほちゃんも反省文書けば無罪になんだろ! 俺達と違って家元の娘だし。大丈夫。大丈夫だよ。さぁ、もう帰ろうぜ。帰ればいるよ、みほちゃんだって。頼むから帰ろうぜ、な?」

「奈緒」

「な、何だよ」

「……貴方って、嘘が下手なのね」

 

 

 

特に小言を言われるわけでもなく、寮の自室に帰される。

予想通り、私の私物はそのままに。

あの子の荷物だけは綺麗さっぱり消えていて。

部屋の片方は、みほがいたスペースは空き部屋となっていた。

 

彼女の形跡は、預かったエミリーと呼ばれる泣き顔のボコだけとなる。

涙のパッチを指でなぞり、答えのない疑問を思わず口にした。

 

 

 

「ねぇ、奈緒。この子さ、エミリーって言うらしいんだけど、意味分かる?」

「簡単だろ。エリカのエリとみほのみじゃねーの?」

 

 

 

 

耳の片隅で、狼狽する奈緒の声がする。

心配してくれているらしい。

伝えなきゃ、背中を摩ってくれる彼女に、最後の力を振り絞って。

「ご……め……独りにさせて……」

やがて人の気配が消え、ドアが閉じる音がした。

 

遮るものがなくなり、私はすべてを吐き出すように。

声を上げて。

涙を流して。

それでも足りなかった。

 

彼女がいなくなると世界が終わると思っていた。

けれど、もっと残酷なことに明日がまた来てしまう。

みほがいない世界を私は生きなければならない。

泣いても泣いても、泣き足りない。

元々、埋まるわけもないのだ。

 

そういう恋だった。

 

 

戦車道の夏は、私の恋も終わりにしてしまった。

 

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