夏の日差しに当てられて、季節を幾分か前倒しにして青紫に染まった生け垣。
降り注ぐ陽光に焼かれて、すでに紫陽花の花弁は端が茶色く変色してしまっている。
早咲きの花びらは外側から静かに、中心に集まる無数の蕾の開花を待っている。
健気に、急かすこともなく、慈しむように。
植栽するのに、これより相応しい場所はないだろう。
なぜなら学び舎は人の成長を待つ場なのだから。
その紫陽花の生け垣を少女が走る。
着慣れぬ制服の肩が大きく上下する。
減速もろくにせずに目的地に駆け込み、ばたばたと床を蹴って立ち止まった。
そして大きく息を吸い込んで、吐き出しながら態とらしく背を反り、天井を見上げる。
視線を水平に戻し、くるりと回って周囲を伺う。
少女の他に人影はない。
あるのは、夕練を控えてまだエンジンの冷たいパンターの車列だけである。
無人であることを確認すると、胸ポケットからケースを掴み出す。
ケースの中に納められたイヤホンを丁寧に、大事そうに指でつまむ。
そして抱えた鞄の中からタブレットを取り出した。
「よかった……間に合った」
『――63回、戦車道全国大会。抽選会の模様を生中継して――』
うちは。
うちの黒森峰は……。
まだ順番は回って来ていないようだ。
今、抽選箱に手を入れているのはどこの学校だろう?
黒のスカーフと、白いセーラーカラーに緑のラインの入った……見かけない制服だな。
それに顔を見ても、どうだ?
戦車道やってるくせに覇気がない。やる気がないなら出なければいいのに。
ただ、何となく嫌だなと思った。
そのときは本当にただ何となくだけだった。
3ヶ月前、憧れの黒森峰に入学して先輩方の洗礼を受けて泣かされて一人前だなんて根性もまだ持ち合わせてなくて、母恋しさに泣いた。
これでも中等部じゃエースを張ってたのに。
技量も覚悟も追いつけなくて、こんなに怒られたのは初めてだった。
先輩が怖いと思ったのも初めてだった。
それでも声だけはと、物音だけは立てまいと。
布団を被って歯を食いしばっていたけれど、隣人にはバレてしまう。
隣人。
私の1つ上の先輩。
年上だろうが何だろうが誰彼構わず自分の意見は、はっきりと物申す。
噂じゃ西住隊長はおろか師範代にも噛み付いたらしい。
だから渾名が黒森峰の狂犬。
確かにもう、見た目からしておっかない。
よりにもよって、こんなところで悲しみの夜を過ごすなんて、ついてないと思った。
でも寮より他に、私の帰る場所はないんだ。
アコーディオンカーテンの向こうから、彼女が現れたときは正直怒られるのだろうと思った。
だから謝った。
なぜ謝るのかと聞かれたから涙堪えて弁明すると鼻で笑われてしまう。
そして、その夜は私が寝付くまで、ずっと傍にいてくれた。
2度目のときも笑われたんだった。
荒尾が閉場してから、佐賀に拠点を移してようやくうちの馬も1勝を挙げた。
その中継を、あろう事か戦車格納庫で見ていた。
夢中になってチームメイトに報告しようと駆け出した途端、
偵察車に轢かれそうになってこれまた激しく叱責される。
下手とか以前に、心構えが戦車道に適していないなんて罵倒も初めてで。
その場で泣き出してしまった。
再び布団を被って泣いていると、また先輩は部屋に来てくれて。
でも慰めてくれるのかと思ったら、そりゃあんたが悪いわと吐き捨てられて、昼間怒られたときよりも号泣してしまう。
そしたらやっぱり、その夜も私の傍で手を繋いで髪を撫でていてくれた。
思い出したら、胸が熱くなる。
胸ポケットに仕舞ったこのイヤホンは、その隣人がくれた物。
あるとき唐突に2,000円寄越せとか言うから強盗かと思った。
けれど差し出されたのはAKGのK315。セミオープンのイヤホン。
「これなら外の音も聞こえるし。車に轢かれなくても済むでしょ」
「ホントだ……聞こえる! 聞こえますよ! これ!」
私が喜んでみせると、彼女も満足そうに笑った。
隣人の、先輩の笑顔を見たのはそれが最初だった。
その瞬間から私は、この人にもっと笑っていて欲しいと考えるようになった。
部屋の片方が新しい同居人で埋まる頃には、私は2年生になっていた。
飽きもせず相変わらず戦車に乗っている。
辞めると言ったこともあった。
実際、寮に戻ってすぐに退部届を出したのだ。
1週間だけ待ってくれと西住隊長に頼まれ、そこから1週間どころではなくなって結局ずるずると今に至る。
隊長は師範代と共に何とかの会合だ、やれ会議だと。
全国大会期間中の前後、オフと言うわけでもないがその間、隊長室にいる事は少ない。
だから1週間はとても忙しかった。
ミーティングの下準備から書類整理、燃料砲弾といった消耗品の手配から倉庫の掃除まで。
あらゆる雑用を言い付けられる。
脱柵に対する懲罰としては妥当なものだろう。
最後の最後で、こんな嫌がらせを受ければ、それこそ綺麗に足を洗えるというものだ。
だが違う。
理由は、やっている内に、徐々に分かったような気がした。
これは全部、あの子がやっていた仕事なのだ。
あんな夜遅くまで起きてて。
愚痴なんて一言も溢さずに。
手伝ってなんて頼まれた事も大してなかった。
負担を全部、自分だけで片付けようとして。
「私には結局、あいつが何を考えていたのか……理解してやることが出来なかった。お前は何か心当たりはないか?」
あの子は。
普段は頼りないけど、戦車に乗ると誰よりも強くて。
「うん」
勝利を得るまで粘り強く、決して諦めない。
「うん、知っている」
ボコが好きで……それで、誰よりも優しい子だった。
おおよそ戦車道なんかには不向きなくらい、優しい子だったのだ。
「……知っている。他には何かないか?」
本人にそのつもりはないんだろうけど、酷く責められている気がした。
その程度のことしか知らないのか、と。
そうだ。
その程度のことしか、彼女の隣にいたのにも関わらず、私は。
だから思い出を探るように。
廃鉱の坑道に潜るように。
今更宝石を探したいわけじゃない。150年前の捨てられた作業服だってお宝になるんだ。
形を変えて、視点の異なる新鮮な感情を発見したかった。
私はあの子を知らない。
残された余白を埋めるには、やはり戦車に乗るしかない。
だから、今も戦車に乗っている。
操縦手の由貴は結局、戦車道を辞めた。
砲手の裕美も辞めてしまった。
駆逐戦車育ちの砲手と操縦手は運命共同体。いかなる時も一緒なんだと。
2人の意志以上の想いを、思い止まらせる言葉を、私達は持ち合わせていなかった。
それでも、さすがは戦車道の名門校と褒めるべきか。
翌年再び春が来たら、新入生で機甲科は溢れかえる。
今ではあの子を悪く言う者も少なくなった。
プラウダが交戦せずに見過ごせば再試合となったのだと。
敗北の中でも賞賛すべき輝きがあった。彼女は間違ってなかったのだと。
身を犠牲にした英雄行為。
悪い気分ではないが、もう遅い。
ヒュルトゲンにあるドイツ兵の碑と同じで讃える対象は大概、正義の殉難者。
大義に報いるために命を捧げた者を賛美したところで、残念だが生命は蘇らない。
彼女も同じだ。死んだわけではないけど。けれど、もう会う事はないだろう。
あの子はもう、黒森峰にはいない。
新しい隣人の岩永千夏と言う子は、とにかく元気なやつだった。
熱意あるのはいいことだが、はしゃぎ過ぎで随分絞られたようだ。
きっと家族想いなのだろう。母親の名を呼んで泣いていた。
私には持ち合わせのない感情。私にないってことはやはり優しい子には違いない。
戦車乗りに不要だ、そんなもの。
あったって碌な事にはならない。
けれど、憎めない。
こういう子は好きだ。
そういう子に、私は恋をしていたのだから。
手心を加えた結果、それなりに後悔もしたが。
「逸見先輩! 逸見先輩! 逸見先輩!」
人を呼ぶのに名前を3回も叫ぶな。
2度目は自業自得というか。
戦車倉庫にオーディオの類いは持ち込み厳禁。
理由は簡単。戦車に気付かず轢かれれば、人は死ぬ。
履帯に潰され足の指を無くした生徒。装填時に指を挟んで無くした生徒。
こういう怪我は全国規模で過去を遡れば、ゼロではない。
怒られるのも当然だし、私だってその場で怒鳴りつけてやる。
けれど話を聞けば、実家が馬舎をやっているらしい。
自分達が育てた馬をどうしても応援したかった、と。
さすが私立女子校……。確かに靴から何から、それなりに上質な物を持っている
けれど荒尾競馬場はつい最近閉鎖されて、なかなか苦労もしたらしい。
佐賀に場所を移して、ようやくの初レース。
まぁ見届けたい気持ちも分からないでもない。
それよりも驚いたのは、彼女には戦車道を続ける明確な理由があったこと。
自分が戦車道で稼ぐなり、いい夫を見つけるなりして、うちの馬をG1に出したい。
この子には将来の夢がある。
考えたこともない。私は、その手の物をまったく持っていなかった。
戦車以外にやりたいことなどなかった。
戦車に乗るときだけは、試合以外の事は考えなくて済むから、気が楽だった。
だから素直に尊敬した。私なんかより純粋に戦車道に向いている。
イヤホンをあげたのは気まぐれからだ。
気まぐれに無計画すぎて、入金したら自分の小遣いがなくなる。
格好悪いけど商品代くらい貰っておくかと思い持ちかけたら。
「か、カツアゲですか!?」
などと言い出したから……思い出しても頭に来るわね。
人を何だと思っているのか。
ランニングに便利で愛用していたのと同型の物で、何より安い。
音の評価なんて何と表現すればいいのか不明だが、まぁ値段の割には良いらしい。
ただ廃番となったので探すのに少し苦労はしたが。
ちゃんと音も鳴るし外の音も拾うので、何をするにもこの方が便利だろう。
「ホントだ……聞こえる! 聞こえますよ! これ!」
「でしょ?」
「うわぁ……ありがとうございます。わざわざ探してくれたんですね」
喜んでくれたようで何よりだ。
イヤホンの性能を確かめるために耳元で囁く。
「これでめそめそせずに済むでしょ? 泣き虫」
「な、泣き虫じゃないですよ!」
イジると面白いな、この子。
それからは済し崩しに、申し合わせてはいないが二人で行動することが増えた。
言い付けはちゃんと守るし、教えた事を吸収するのも早く、何よりも情熱を感じる。
ありがたいことだ。今日日真面目に戦車道をやりたいなんて。
黒森峰に入れば簡単に戦車に乗れるだなんて、認識不足の連中に比べれば好感が持てる。
そして何よりも彼女の話は聞いていて面白かった。いろんな事を知っている。
私なんか、どちらかと言えば世間に疎い方なんだから。
あの子もそうだった。口を開けばボコの話ばかりで。
私達はなんて不器用だったのだろうか。
とは言え千夏との間に、学年の隔たりを感じることも多々あった。
例えば西住隊長のこと。
「1年の時から隊長をやってるなんて、ものすごいエリートじゃないですか!」
「まぁ、そうなんだけど、ね」
西住隊長も3年生となり、ようやく機甲科も違和感のない落ち着いた形となる。
十連覇は逃したけれど、もう文句を言う者はいない。
妬み嫉む上級生共は一律卒業した。
口うるさい小姑みたいなあいつ、山下もいなくなれば寂しいものだ。
しかし、これにより隊長の采配はより自由となる。
負けたものを今更くよくよしても仕方ない。
ここに至るまでに起きた出来事なんて、1年には関係のないことだし。
知らなくていいと思うことに話が飛んでも彼女には罪はない。
別に千夏が悪いわけでは、ないのだが。
「……私、嫌いなのよね」
「えー? 絶対楽しいですよ! 逸見先輩はなんで嫌いなんですか? そんな女の子いませんよ。普通行きたいって思いません?」
「悪かったわね! 普通じゃなくて!」
そんな話題も少なからずあった。
逸見先輩には過去がある。
それはそうだ。年上だし。
何でも詮索してしまうほど私も無節操ではない、多分。
でも相槌を打つだけで、全部を語ってくれないのは正直寂しかった。
肝心なところはうやむやにしてしまう。
先輩はなぜかディズニーを毛嫌いしていた。
彼女は普段「好き」か「好きじゃない」のどちらかで物事を分別していたので、
「嫌い」と断言するこれは、かなり希有な例と言える。
そんな人、聞いたことない。私の周りには今までいなかった。先輩が栄えある一番目。
食わず嫌いというか、行かず嫌いはよくないといくら力説しても同意してくれない。
ムキになって説き落とそうとしても、向こうも頑なに突っぱねてくる。
「岩永、そのくらいにしとけよ……」
結局、横槍が入って話は途切れてしまう。
私は人の表情を見ることには自信がある。
犬や猫、取り分け馬。人間とパートナーシップが成り立つ動物達は実に豊かな表情をする。
小さい頃から親の職場に出入りして、相手の感情を察する場数なら他人よりも上だ。
だから話を遮った下田先輩の顔から、これはかなり根の深い問題なのだと理解する。
そして困った事に逸見エリカという人物への興味は、より一層膨らんでしまう。
「悲劇のヒロインって言っても結局、うちが負けたのってその人のせいなんでしょ?」
昨年、黒森峰は十連覇という大記録を目前にしておきながら、負けた。
そして箝口令でもないけれど、その話題はアンタッチャブルなものになっている。
勝負は時の運だし、どれだけ頑張ろうが負ける時は負ける。
拘るべきところはそこじゃない。
問題を複雑にしているのは、勝敗の事実というよりはその後の経過にある気がする。
戦車道を辞めた者は大勢いた、みたい。
だが機甲科だけでなく黒森峰から転校してしまった者は1名しかいない。
それが現隊長の妹。同じ西住の名を持つ者。
一体何がしたかったのか。
やったことは人命救助。立派じゃん。
私だってクラスメイトの戦車が目の前で河に落ちれば平静ではいられない。
けれどフラッグ車を放棄してまでやるべきことだったのだろうか。
ただそれも、言うだけなら後からいくらでも付け足しは可能であって。
自分なら全員助けた後に自車両に戻れると豪語する子もいたし、まぁ冗談なんだろうけど。
先生も先輩も、その西住副隊長って人のことを褒めるから、だから余計腑に落ちない。
じゃあなぜ転校してしまったのだろう。
賞賛に値する行為って言うなら堂々としてればよかったのに。
だからまぁ、つまり、実態は違ったんだろうな。
そんな西住副隊長の話の中で、度々名前が挙がる人物は、私にも馴染みのある人だった。
逸見先輩も1年の内からティーガーⅡに搭乗して決勝戦に出ていたのは知っていたけど。
でも元ルームメイトだったなんて、びっくりした。
本当に謎の多い人だな。けれど確かめる方法もない。
最後の戦いを目撃した人に、なんで負けたんですか? なんて聞ける訳ないし。
ただでさえおっかないのに、そんな質問したら一体どんな目に遭うやら。
「失踪したのを追いかけたけど、一緒に捕まって相当怒られたらしいよ?」
確かにルームメイト間で、出門の風紀に関わる粗相は連帯責任。
当たり前だろう。部屋のドアは一つしかないんだから。
点呼の時間になぜいないのかを知らぬ存ぜぬは無理筋もいいところだろう。
だから、多分、逸見先輩も関与していたんだ。
先輩は高圧的な相手には、倍に返して凹まさないと死ぬ病気みたいな人だけど。
後輩に威張り散らして理不尽なオーダーをした事は1度もない。
弱っている者に対しては、ものすごい、優しい人だった。
けれども無条件で愛を振り撒いてるわけではない。
そんな聖人だったら、人を40分も正座させて説教なんてしないでしょ。
だから、いつからか、その境界を探るのが私の趣味となってしまう。
新人戦は今年も黒森峰が勝利して、欲しいものはあるかと聞かれたから、
私は迷わず、先輩のベッドにいつも置いてあるボコをねだった。
予想通り、彼女は申し訳なさそうに笑って、ごめん、これ以外で、と言う。
又貸しは仁義に反するから、と。
知りたい。
知らないことを知りたい
私は、逸見先輩のことをもっと知りたい。
けれど学ぼうにも、どの分野の知識が足りていないのかすら判断出来ない。
確かな指標など、まだどこにもなかった。
一つの転機は、全国大会の予選会前に訪れる。
週刊戦車道増刊号。全国大会に出場する各校の取材記事。
西住まほ隊長が一面凜々しく表紙を飾る特集号の片隅にある、ほんの小さな記事に、
機甲科は色めき立っていた。
写真など何もない。
それもそうだ。
今年からまた戦車道を始めたという、ほぼ無名の学校だもの。
我が校や前年優勝校のプラウダや、宿敵サンダース付属に比べれば割いてある文字数だって、ただ出場選手を箇条書きしたくらいの簡素なもので、よほど目配りしてなければ読み飛ばしてたっておかしくはない。
けれど、そこに書き添えてあったのは黒森峰生徒なら必ず見聞きする名字。
決して避けられない名前が記されていたのだ。
大洗女子学園隊長、西住みほ、と。
……ふざけるな。
悪い冗談にも程がある。
みほは。
貴方は。
お前は! 戦車が嫌いって言ったじゃないか!
姿を消したのは、戦車を辞めるためじゃなかったのか。
なんで他所の学校でまた戦車をやっている。
経験者だからって担がれたのか?
それなら、なんで。
嫌で逃げたのなら、なんでそんなものを承諾したのよ!
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
ふざけた真似を!!!!!!!!!!!!!!!!!
「お、おい、エリカ。どこに行く気だよ」
「言わなくても分かるでしょ。こいつの姉のところよ」
「落ち着けって言ってもどうせ……」
「私を止める気なら無駄よ。あと、付いて来なくていいから」
「ふざけんな! 俺も連れてけ!」
「大丈夫。どうせ誰かしら取り巻きがいるわ。取っ組み合いになる前には終わるでしょ」
「あぁ、もう……じゃあせめてドアの前で待たせてくれ」
「平気だから。いつもありがと。私だって話がしたいだけだから」
「じゃあ私が行きます! 逸見先輩!」
「お前は座ってろ!」
思わず面食らった。
奈緒が怒ったのなんて見たことない気がする。
「す、すみません……」
こういう感情に先刻まで支配されていたのか。
彼女のお陰で少しだけ冷静さを取り戻す。
「そんな、後輩に怒鳴らないであげて。平気だから。少し話があるだけだから」
逸見先輩はそう言って、丸めた週刊誌を片手に食堂を去って行った。
「ああ、ちくしょう……」
私達2人は律儀に言い付けを守り、食堂に取り残されることとなる。
「すみませんでした……下田先輩」
「雑誌の記事だ。遅かれ早かれ、こうはなる……」
「下田先輩……この人って何なんですか? 何で逸見先輩は……この人のことを……」
「俺だって知らねーし。お前にも関係ねーだろ」
「下田先輩って、私のこと嫌いですよね……」
「うるせーな。分かってんなら、もう喋るんじゃねーよ」
「教えて下さいよ! 私! この人がルームメイトだったなんて逸見先輩から言われたことなかったし! 何で! 何で逸見先輩は隠して」
「うるせぇ! 何でも知らなきゃ信じられない程度の気持ちならな! いちいちあいつに付き纏うんじゃねぇ!」
知的探究心? 笑える。
なんでこんなに先輩の、逸見先輩のことが気になるのか。ようやく思い至る。
そしてそれが、ただの私の独り善がりだってことも。
「失礼します!」
ノックもせずにドアを開け放つ。
「ちょっと、逸見さん」
「なんだお前! 挨拶もなしに!」
室内は2人だけか……これなら。
これなら殴り合いになったら、1発くらいあいつを殴れるかも知れない。
「よく来たな、逸見。こちらも用事があったのだ」
目当ての隊長、西住まほは驚きもせず、怒ることもなく。
普段通りの読めない表情で、年代を感じる机に座していた。
「単刀直入に聞きます。西住隊長はご存じだったのですか?」
「知ってるも何も私が決めた事だ」
「……っ! じゃあみほを転校させたのはあんたの!」
「おい! 逸見!」
1人がこちらに近づいて来る。
行くなら、今しかない。
「なんだ、その話か。妹の事なら私の関知するものではない。あいつは西住を勘当された身だ。連絡や、やり取りなど何もない。それよりも逸見。事後承諾となるが、これはもう決めた事だ。私はお前に期待しているんだよ。昨年、掴み損ねた物を取り戻して新しい黒森峰の歴史を作るために。お前の力がどうしても必要なのだ。頼む、協力してくれ」
跳びかかろうと利き足を少し後方にずらしたまま固まってしまった。
は……?
みほのことを問い詰めに来たのに、逆によく分からないお願いを受けた。
話が、まったく見えない。
「あの、すみません。一体、隊長は何の話を……?」
「逸見さん。貴方、記事を読んでいないの?」
「ちょうどいい。お前には無理だ、逸見。この場で直接辞退しろ」
「いい加減にしろ。お前達の話を聞く気はない。もういい。2人とも下がれ」
「あ、あの! だから一体何の話をして」
「観念して首を縦に振れ、逸見。来る全国大会に向けて、お前を副隊長に任命する。選手登録は既に済ませた。職責に恥じぬよう一層の努力奮励を期待する」
「えぇ!」
「お考え直し下さい! 隊長!」
「そうです隊長!」
「先程も言ったはずだ。あいつは先任が転校して以降、何の遜色も無しに職務を全うしているじゃないか。今、この学校で事務方に最も通じているのはあいつだ」
「ですが!」
「命じられればその程度のこと!」
「ならば、なぜ代わると言わなかった」
急に隊長の表情が、変わった。
「後輩が雑務に追われているのを横目に素通りするやつが今頃何を言う。
手助けもせず栄誉だけに有り付いて、それが人をまとめる役職に就きたいだと? 冗談も程々にしろ。いいや、違うな。寝言は寝て言え。分かったか」
気圧される。
油断したなら私もへたり込んでいたかも知れない。
「……話は以上か? 私の忍耐にも限度というものはあるのでな。用が終わったのなら、お前達2人は下がれ。私は逸見と話がしたいのだ」
火を放たん勢いの眼光で、反論の余地を根こそぎ刈り取り、2人を遠ざける。
私も、私も正直、萎縮してしまっていた。
怖い。これが本当の、西住まほなのか。
「さて、話を続けよう。引き受けてくれないか?」
「い、嫌です……」
そう絞り出すだけ精一杯だった。
「固辞する理由は何だ? 言え」
「私には向いていません……」
「能力なら申し分ない。それは私が保証する。お前より副隊長に相応しい者はいない。それにお前は後輩からの信頼も厚い。悔しいが、私は3年間、身の振り方をずっと示して来た。そういうつもりだった。だがな、私は……。逸見。お前はどう思っているのか知らないが、恐らくお前が思ってるほど、皆が言うほどにはな、大した人間ではないんだよ……」
ようやく隊長が笑う。
けれどそれは緊張を解きほぐすものとは無縁の、あまりにも自虐的な笑みだった。
「後輩と先輩のあるべき図式。お前を見ていて、恥ずかしい話だが、初めて気が付いたんだよ。私は間違っていたんだ。私だって立ち止まって、振り返っているつもりだったのに……けれど誰も、誰も私に教えを請いに来る者はいなかった。皆、私を打ち負かそうと必死になっている。上級生がいたときは、それでよかった。だが、いざ3年になってみても、どうだ?
私はいつまでも化け物扱いだ。誰も私と肩を並べたいという者はいない。私の隣には、誰もいない。誰も、いないんだ……」
「お言葉ですが……言うべき相手が違います……」
「お前もか……エリカ」
沈黙が。
室内から音が消える。
暗然とした空間に充満しているのは光でも音でもなく、在りし日の幻。
棚に飾られた数々の戦利品が浮かび上がらせた残像。
私達が手に入れた昨年新人戦の表彰状も額に飾られている。
私の人生なんかより、もっと長くから置かれた楯や盃が光を鈍く反照する。
そのガラスケースには、少しだけ空間が空けられていた。
そこに、在るべき物を、置き去りにしてきてしまった。
伝統や歴史なんて、今の私達にはまるで関係ないのに。
見てくれだけ装飾を施しても中身は何もないのだ、何も。
飛蚊症の様に、いつまでも視界に入り込む陰に気付かないふりをして。
女々しく隙間を整理出来ないまま。
捨てきれない想いを後生大事に抱えて。
この人も、ずっと後ろばかりを見ていたのだ。
「そうではなくて……隊長は、それをあの子に伝えましたか……?」
隊長が目線を逸らして俯く。
返事は、ない。
「でしょうね……」
「軽蔑するか? 私を」
「いいえ、同情してますよ」
「……あの子のことは私も知らない。知らなかった。連絡先も、どこで何をしていたのかも。戦車道のない学校を、と勧めたのは確かに私だが……。けれど具体的な行き先は聞いていない。戦車道をやっていた事も、初耳だ……」
礼節を弁え、淑女を目指すため。田舎娘が一人前のレディになるために。
戦車道最大の功罪。
私達は子供なのに、大人の振りをしなければならなかった。
そして事故が起きれば、誰もが嘆き、後悔をする。
せいぜい悔やむことしか出来ないのに、藻掻き苦しんでしまう。
認めてしまえば楽だったのに。
子供が、子供を救えるわけがないのだと。
この人は。
隊長も、みほと同じくらいに、被害者だったのかも知れない。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ? 言ってみろ」
「私が副隊長になるメリットって何なんですか?」
「……メリットと言われると難しいな」
「多少の裁量は利くようになるんですか?」
「遠回しな物言いは好きではないな。お前の望みはなんだ」
「例えば、ですけど。抽選会に出て、少し寄り道をして、あの子と話す時間くらい。副隊長になれば、そのくらいの時間は貰えるのでしょうか?」
重苦しい空気を破って、思わず隊長が吹き出す。
「……あるさ。伝統校の副隊長だぞ?」
「なら、やってもいいですよ」
「お前は意外と即物的なやつだったんだな」
今度は陰りなど一切ない。笑顔には喜びが満ちている。
隊長室を後にして、廊下を曲がると奈緒が待ち構えていた。
「……約束通り、ドア前にはいなかったぞ」
「あんたも意外と細かい性格してるわね」
「吹っ切れた顔しやがって……。それで? それで決心は固いのか?」
「そうね……しょうがないのよ」
いつか山下が言っていたな。
惚れた弱み。
また会えるなら、何でもいい。
会って、みほの声を聞けるなら、手段は何でもよかった。
「そうか……」
「それにやってる仕事は変わらないし。いいじゃない。黒森峰の副隊長って響き、わりと好きよ」
そうだ。
やっと彼女に、あの時のみほに追いつけた。
「……はい? えっ? ちょっと待てよ。お前、戦車続けるの?」
「そうよ、ついでに副隊長もやるわ。ひれ伏しなさい。なんて、ね」
「はぁ!? ふざっけんなよ! お前! 俺は絶対今度こそ戦車辞めるんだと思って! もう高級書道セット2つ、クリックしちまったよ!」
「はぁ? 何やってんのよ、あんたは!」
その日のミーティングで新人事が発令される。
隊長は、表情変化は相変わらずだけど、少しだけ変わった。
なぜ2年の私が副隊長になるのか、と。
滔々と、丁寧に、遍く隊員達に伝わるように。
「今年は必ず勝つ。そして来年も必ず勝て。そのために力を貸してくれ」
そう言って隊員達に向かって深々と頭を下げた。
「黒森峰は強い。相手や場所を問わず、いつの時代でもだ。そう信じて、この学校で戦車に乗る者達のためなら何でもしよう。頼りない私の、せめてもの償いだ。困る事、分からない事があったら何でも質問するように。いつでも隊長室を訪ねて来てくれ」
彼女は彼女なりに伝統を変えようとしている。
今までは薄暗く閑散としていた隊長室も、常に誰かが出入りするようになる。
お茶請けに困ることもなくなった。
週に2、3度は頬染めた生徒が手作り菓子を持参してくるのだ。
もうクッキーは、一生分食べた気がする。
抽選会当日は朝から慌ただしく、準備に追われる。
早く寝ようと思っても、まともに眠れなかった。
「いいですよ、もう! 後は私がやりますから、早く行って下さい先輩!」
「悪いわね、千夏。木曜までには戻れると思うけど。それじゃあ掃除もお願い。じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
会場で久しぶりにあの子を見た。
黒森峰の制服とは、まったく逆の白を基調にしたセーラー服。
戸惑い、おろおろと振る舞う彼女。
相変わらず戦車に乗ってないときのあの子はのろまだ。
馬鹿なやつ。
黒森峰は捨てられても、戦車は諦めきれなかったとは。
所詮、戦闘狂一家の娘だな。
……本当に馬鹿よ、貴方は。
抽選会が終わり、一番の仕事は隊長の手を引くことだった。
「おい、そんな何を慌てているんだ。碌に話も出来ないじゃないか」
「約束を反故にして貰っては困るんです! 時間をくれると仰ったじゃないですか!」
なにせ現役日本代表選手の有名人だもの。
一目、挨拶をと会いに来る人間で、隊長の周りには人集りが何層にも作られる。
そんなことよりも、するべきことがあるのだ。
早くしないと見失う。
あの時も、何の予告もなしに、ふっと姿を消した。
焦るなと、言う方が無理だ。
コーヒーの味なんて分からない。それどころじゃない。
無神論者ではないけど、お守りが積極的に欲しいとも思わない。
今まで願ったことが、まともに叶ったことなどないし。
信心が足りませんと言うならそれでいい。信仰の度合いなど改める気はない。
だが大洗の一団を見失い、失意で座り込みそうになったとき、
少し休むかと隊長に連れられて入った喫茶店で白のセーラー服を発見した瞬間は、間違いなく人生で最も神に感謝の言葉を捧げた。
「何でもいいです。ホットでもアイスでも」
「おい、それをどちらかと聞いているんだぞ」
遠い席の、彼女が立ち上がる。
追いかけようと椅子から腰を上げるが、予想外な出来事が私を制する。
席を離れた彼女を、もじゃもじゃの黒髪の子が追いかけていった。
あの、引っ込み思案で対人能力の低いあいつに、友達が?
なんで、なぜまた戦車を始めたのか、ずっと考えていた。
何を話しかけるべきかよりも、ずっと、眠れずに。
そうか。
友達が出来て、楽しいのか。
それは。
黒森峰よりも、私といるよりも……なのだろうか。
彼女は黙ってどこかへ、私の前から姿を消した。
謝られたことはない。
だから許せなかった。
一言で良いのに。
一言だけで良かったのに
「そんなに気になるのか?」
「えっ? や、いいえ! それより隊長は分かってたんですか!?」
「いや? お前がそわそわしてるからな。何だろうと思って、今、気付いたばかりだよ」
赤面してしまう。まったく、この人は……。
隊長室を後輩達が訪れるようになってから、こういう悪戯っぽい台詞が増えた。
「分かってたなら、何か言いに行って下さいよ!」
「なんで私に振るんだよ」
「だって! 言いたいことがあったんじゃないんですか!」
「いいんだ、私は。あいつが転校先で楽しそうにしているのなら、それだけで十分だ」
はぁ!? 仙人かよ!!
「隊長には欲ってものがないんですか!」
「だったら自分で行けばいいだろう。私に押し付けるな。……私だって、本当は何て言えばいいのか分からん。分からないんだ。私の顔を見て、走って逃げられたら、どうしよう……どうすればいいのだ……」
このヘタレは本当に!
まぁ人の事は言えないけど。
「……なんだか向こうが騒がしいな」
「カップルが喧嘩でもしてるんですかねぇ?」
「あー、するする! こういうところでの仕草って何かいつもより頭に来ることがあるのよねー」
「まぁ。喧嘩したこと、あるのですか?」
「あはは……」
「うるさい。もういい。埒が明かん。帰るぞ」
「はぁ? 約束が違います!」
「時間ならやったろう。終了だ。言いたいことがあるなら、お前が直接……いや、もういい。帰るぞ」
まったく。
せめて、せめて二人きりになりたかった。
こんにちは、久しぶりって。
そしたら、なんて返してくれるのだろうか。
通り過ぎる際に、横目で眺めると、彼女は笑っていた。
嬉しそうだった。
他所の学校で、知らない誰かに向けた笑顔は、心の底から幸福そうだった。
ふざけてる。
なんで。
なんで勝手に、1人で幸せになってんだ。
ふざけるな!!
思わず、そう叫んでしまいそうになり、それから懸命に違う言葉を探す。
「ふ……っく、隊長? あぁ、元でしたね」
……なんだ?この挨拶。
失敗にも程がある。
でも、ひどく驚き、そして怯えた彼女の顔を眺めて。
少なくとも忘れられていたわけではないのだと悟る。
それなら、それでいい。
何もかも捨てて、お遊戯ごっこに興じるなら、それが望みなら。
せいぜい気が済むまでやればいい。苦しめ。
ざまぁ見ろ。
先を進んでいた隊長から、今にも人を刺しそうな視線を向けられる。
怖い……。
余計なことをした。
けど、いい気味だ。
それは貴方にも同じですよ。
軽口の相場は決まっている
例に漏れず、後悔をすることになる。
何か罰が待っていたわけではないが。
いや、痛めつけられはしたけど、それは隊長からではなかった。
隊長はずっと無言で、下艦の別れ際に一言だけ。
「話が出来てよかったな、エリカ」
と喋っただけだった。
うおお……怖い……。
その後、夜道で背後を何度も振り返りながら寮へ戻ると千夏が出迎えてくれた。
「……おかえりなさい、先輩」
「あぁ、悪かったわね。ただいま。……なに? またあんた怒られたの?」
「怒られてないです! いえ、怒られましたけど……違います。そうじゃないんです」
そうして私は彼女から、1枚の皺だらけの紙切れを渡された。
掃除しろと言っても、先輩の部屋は元々綺麗なので手を加える箇所なんてない。
積もった埃をちょっと払うだけで終わる。
なので、ずっと悩んでいた。
これ以上、綺麗にするとしたら、残る物は一つしかない。
それは、いつも彼女のベッドに置かれている熊のぬいぐるみ。
汚いというわけではないけど、大分毛は寝てしまっていて本来の抱き心地を想像すれば1度くらいは洗った方がいいように思われる。
手の上で転がして、しばらく考えていたが、決めた。
こいつを洗ってしまおう。
でも洗濯機に突っ込んでいいものかどうか。
ドライクリーニングだけとなれば、また厄介なんだけど。
くるくると回しても表にはタグがない。
そして背中にファスナーを発見する。
ここを探れば洗濯の仕方が分かるのかな?
開いて覗き込むと、真綿の片隅にかさかさと音のする何かが詰め込まれていた。
破いたノートの切れ端には、ただ一言だけ。
一言だけ。
ごめんなさい、と書かれていた。
少し考えれば分かることだ。
私は先輩に褒めて欲しかった。
こんな紙切れは捨ててしまおうとさえ考えた。
けれど。
これは、これは全部、先輩の物なのだから。
彼女に知らせる義務がある。
褒めて欲しかったのに。
喜んで欲しかったのに。
笑って欲しかったのに。
先輩の笑顔は何度か見たけど。
泣いた顔は初めてだった。
いや、顔なんてほとんど見せてはくれなかった。
紙を受け取った先輩は、うずくまって泣いた。
背中を丸めてどんどん小さくなっていって。
ひたすら自分を責めていた。
私の感は正しかったのだ。
見ず知らずの他人が、何となく嫌いだなと感じた。
所在なさげに檀上で佇む、白い制服の女の子。
あいつはきっと酷いやつなんだ。
けど私には何も出来ない。
その夜のアコーディオンカーテンは珍しく鍵がかけられていた。
宣戦布告する機会すらないままに、私はボコの元持ち主に完敗する。
もう早く寝よう。
朝のコーヒーを入れるのは私の日課だから。
その時までに、どうか先輩。
笑って下さい。
私の望みは、ただそれだけなんですから。