やっぱり私達、別れた方が良かったのかも。
そう言って、彼女は仲間のところへ戻っていく。
ようやく胸の内に何年も飼っていた煩いが消えて、私も高校をやっと卒業できる。
もう涙は流れない。そのことに少しだけ驚いた。
しかし月日を考えれば当然だ。
それだけの長い間、お互い離れて生活をしていたのだから。
私がまだ2年のとき喫茶店で再会してから後も何度か、みほと会った。
とは言っても片手で数えて足りる程度ではあるけれど。
最後にみほと話したのは、お互い3年になって最後の全国大会。
驕りはなく万全の体制で、装甲に頼らない勝負を。
マウスやエレファントではなく主力はあくまでもパンター。
2両での班行動。単独では絶対に敵車両は追わないように。
1両がやられたら合流させて3両で1班とする。訓練は春から行い、大洗の戦法に備えた。
分断された後の各個撃破。
昨年、彼女達の取った作戦に2度も負けるわけにはいかない。
勝負は呆気なく決まった。
ギャラリーも記者も不服そうだったけど選手は皆、喜んだ。
当事者達は背負う学校名を越えて、隔たり無く互いの健闘を讃え合う。
他のスポーツの言葉を借りるならノーサイドってやつだ。
多少曖昧だが、握手を求めて来たのは、大洗の方からだったと思う。
小梅によく似た天パーの子は涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
さっきから見てたんだけど鼻水やら何やらを拭ってた手を差し出して来たから、一瞬躊躇したが、しょうがない。
この子はたしか、喫茶店でみほの過去に言及していたな。
遠い茨城の子が、みほの過去も庇ってくれた事に対して礼は尽くさねば。
一通り挨拶を済ますと、ようやく1年半ぶりに彼女の手に触れた。
小さくて、昔に比べたら肌は荒れていて、けれど変わらず温かい。
ずっと気になっていたことを尋ねる。
みほを戦車道の道に、また引きずり込んだのは誰だったのかと。
「うーん、直接には会長……あぁ、元ね。あっ、でも現会長も一緒かも」
手で示した方向の背の高い長髪の人は、泣きじゃくる後輩を宥めている最中だった。
「じゃあ、みほが最初に作った友達って誰なの?」
「それがあの華さんと、こっちの沙織さん」
紹介された茶髪の子に、私は頭を下げた。
浮かべていた涙が止まるほど驚かれ恐縮された後、保護者みたいと言われる。
思わず苦笑してしまう。
「だって武部さん。この子は手のかかる子だって、貴方も分かるでしょ?」
そう返すと笑いながら、そうだよね、みぽりんだもんね、と何度も頷いてくれた。
少しだけ。
少しの間、人払いをお願いして2人きりの時間を作ることができた。
「貴方には悪いけど、ようやく黒森峰は勝てたわ。ようやく……また、歴史が作れるのよ。まほさんにも、やっと恩返しができるわ」
「えへへ、隊長はエリカさんでしょ?それだってもう後は引退しちゃうのに。変なの」
「多分、その頃から大して成長してないのかもね。貴方を見てると、何だか途端に若返ったように思えるわね」
月並みな事は言いたくなかった。それに正確でもなかった。
あの時から私の時間は止まった、わけではない。
親友も何人かは戦車を辞めたし、西住隊長も卒業してしまった。
変わった。変わらざるを得なかった。
それでも、確かに。
進むべき道はずっと見えていたけど、足踏みをしていたのは事実だ。
記憶が霞んでいくのを恐れていた時期もあった。
すでに先が見えている道の上でみっともなく、牛歩戦術を繰り広げていたのだ。
けれど隊長になってから、私は未来を作りたくなった。
黒森峰の未来を一から作るためには、止まってなどいられない。
泣くだけの小娘ではない。多少は私も大人になることを目指してきた。
「そうだよね。本当は、ね。もうあれから2年も経ったんだよね……」
「ああ、借りた熊、返さなきゃ。でも部屋に忘れて来たわ」
「……え? 別に返さなくてもいいけど」
「だって貴方、念押してたじゃない。貸すだけだって。それにね、ああいう間怠っこしい真似はやめてよね。言いたいことがあるなら口で言うべきだったのよ」
「あっ……うん。ごめんなさい」
「もういいわ。もう怒ってなんか、ないもの」
「ねぇ、エリカさん。私も一つ、聞いていいかな?」
「ん? なに?」
「あのとき……あのときね? エリカさん、全然黒森峰に帰る気なんてなかったでしょ……? どうする……つもりだったの?」
「そりゃあもちろん。体売ってでも貴方を養う気でいたわよ」
「えへへ……そんなこと言うんじゃないかって……思ってた」
ようやく。
ようやく、そこで。
みほは泣き始める。
自覚はある。
いくら復讐を兼ねていると言っても、そんなことをこの場で伝えても、
誰も幸せになれるわけないのに。
結論から言えば私は、さよならを突き付けられたのだ。
偽りのない本心を告白して、振られた。
長かった恋に、ようやく幕が降ろされた。
高校を卒業した後も、熊本に留まるつもりでいた。
行きたいところなんて、別にどこにもない。
戦車道を続けますと言っておけば教師受けも良いし試験も楽だった。
大学行っても戦車か。
しかし茶道って柄でもないし。他に何か、秀でた才能が私にあるとも思えないし。
これから新しいことに挑戦する労力が惜しい。
ただそれだけの消極的な理由でしかなかった。
戦車以外のしたいことも、そもそも将来の夢など何もなかった。
どうせ世界は無味無臭なのだ。
それに他所みたいな寒いところは嫌いだ。
一番嫌いなのは雨なのだが、それはどうしようもない。
せめてもの代わりに身が凍えるような寒いところは、ごめんだ。
別に家族からは否定も肯定もされなかった。
自主性を重んじてくれるのは大変結構なことである。私にも都合がよい。
大体、そういう年だろう。
大学生になってまで親に口出しされるなんて考えたらぞっとする。
だから、とりあえずの進路は地元大学だけにしていた。
変わらない日常。
変化など求めない。すでに生きることは一種の業務だと割り切っていた。
いずれ誰かと結婚して、子を産んで、子供には好きに生きろと教える。
もう工程表は書き終えていたから残りは取り掛かるだけ。
変化など何も望んではいなかった。
しかし想像外の出来事が降りかかり、計画は敢え無く白紙となる。
台風が秋雨前線を刺激しての集中豪雨。
西南の役ですら落城しなかった熊本城も簡単に崩れた。
中学で登らされた仙酔峡も通行止めとなる。ミヤマキリシマはしばらく見られない。
ひよりが出願していた学校も校舎が被害を受ける。
もう会わない覚悟でいたのに。
本心を冷たく言い放ったのは最初から決別をするつもりだったのだ。
しかし私の願いは大体、神様は聞き届けてはくれない。
アンツィオ程ではないけれども、野戦炊事車を持っている我が校も救援活動を行う。
黒森峰近くの指定避難所となっていた中学校は人熱れで踏み入るのも戸惑う程だった。
しかし何もしないわけにはいかない。
この町の人達はそこらの保護者と違って、あの時から。
負けた昨年の内から。
惜しかったな、来年は頑張れよと声を掛けてくれた。
町の人達は誰も西住隊長を責めなかった。黒森峰を罵らなかった。
私には恩に報いる義務がある。
しかし初めての体験で思うようにいかない。
特に辟易したのはどうでもいいだろうに、国大優勝校の隊長が炊き出しをやっているとニュース屋がそれなりに食い付いてくる。
笑えと言われたので、風邪気味なんでごめんなさいとマスクを被りやり過ごした。
後はこいつを撮ってくれと小梅を指名する。
そういう仕事なんだから仕方ないのだろうけど。
みんな、必死になっていた。
そんな中で、おかしくもないのになんで笑わなければならないのか。
広報なんて私には不向きなんだから寄り付かないで貰いたい。
今にして思えば空気を察してくれたのか。
週刊戦車道のインタビューも1度しか申し込まれなかった。
西住隊長は何かとあれば取材を受けていたのに。
だが、それは今も変わっていないか。
隊長はシュヴァーベンにあるクラブで相変わらずティーガーⅠに乗っている。
この間も故郷の支援CMでTVに映っていた。
昔と同じで、今も雲上人だ。
芸能人扱いを受けている熊本に馴染みある人物なら、私の知り合いにもう1人いる。
報道連中がカメラを抱えて走って行くから誰が来たのかと思ったら、みほだった。
前年奇跡の優勝をした隊長。
廃校を2度も救った大洗のジャンヌ・ダルク。
何より西住流本家、家元の娘。
時空を越えた約束。いつの日か戦車道にも選抜東西交流戦を。
その実現のため関門海峡を越えて関東へ渡った妹さん。
なんて突拍子もない話も好き放題書かれていた。
伝統校隊長と言ってもぽっと出の私なんかより、彼女の方がよっぽど名は売れている。
今回も関東補給処の大部隊に同行とあって随分派手な登場だった。
「えっ! あれ? えっと、お疲れ様……」
「どうも……」
そう言えば2人は戦車道で2年連続優勝決定戦の相手同士だねと、いらぬ気を回されて、しかも実は私は元黒森峰生徒でもあるんですと火に油を注いでくれたお陰で、私は何ヶ月かぶりにカメラ前に立つことになる。
「あんた……ほんっとに余計な仕事増やしてくれたわね」
「えへへ。ごめんね? でもエリカさんの割烹着姿、結構似合ってるかも」
「あっそ……」
カメラ慣れしているというか、終止笑顔を絶やさず受け答えをしている。
えーとその、あわあわ言ってた頃からは想像出来ないくらい。
彼女も大人になってしまったな。
「えー? 別にそんなことないよ!」
「それよ、それ。その謙遜の仕方もなんか余裕を感じるわね」
「えへへ。そうかな?」
でも本当は慌てふためいて無理矢理、蝶野一佐にお願いしたのだと語り始めた。
目的である師範代の安否は菊代さんから聞いたから、もう心配事も済んだと。
直接本人じゃないのか? まだ和解をしていないのか。師範代も相当な頑固者だな。
「で? これからどうするつもりなのよ」
「うん。私もちょっとだけ手伝って、明日には蝶野さんが大洗まで連れてってくれるって」
「あっそ、じゃあ今夜は久しぶりに実家にお泊まりなのね」
「ううん、家には泊まらないよ。だって……」
「はぁ? そうは言ったってこんなときでしょ? 頼めば師範代だって……」
「それがね、敷居を跨ぐのを許した覚えはないってはっきり言われちゃって」
「はぁあ? ったく! あんたの親も相当なもんね!」
身に覚えはある。
県外に行かせる金などないと、それがうちの父親の口癖だった。
勝手なことを。
払う払わないが許可されているなら、別に後は場所なんかどこでも一緒じゃないのか?
まぁ私はどこにも行く気はないから、どうでもいいことではあったが。
私は進んで檻に入る変なやつなんだ。
それでも彼女の場合は事情が違う。途端にみほが不憫で仕方なく思えた。
他意などなかった。
何も考えていなかった。
その言葉は口にした後に気付いて青ざめるくらい無意識のものだった。
「それなら私の部屋に泊まっていけばいいじゃない」
この災害で学校は臨時休校だし、千夏も早々に帰宅して寮室にスペースはある。
千夏に限らず、寮生のほとんどは家族の元へ帰ることを許されて残る者はわずかだった。
いや、だからって。部外者を勝手に……。
「え……? あっ、でも今夜は健軍に……蝶野さんが宿を……あ、あのホントだよ……?」
「別に疑ってなんかないわよ……」
「えっ……あっ、うん。じゃあ、お疲れ様……。大変だけど頑張ってね」
追い打ちはやめてよ。人に気を使って、変なフォロー入れるのはよして。
私というやつは本当に余計な一言を。
頭を抱えているところに人身御供の一団が戻ってくる。
「やっと熊日から解放されました……って。えー! ひどいですよ!
みほさんいたならなんで教えてくれないんですか!」
「ほんと悪かったわね、小梅。でもあの子なら健軍駐屯地に泊まるって言ってたし。筑波山が書いてある部隊章を探せば、多分会えると思うわ」
「本当ですか!? じゃあ、ちょっと探しに行っていいですか?」
急ぎ小梅が駆けて行くのを見送る。
奈緒は、俺は別にそんなに用事はないと言って残った。
薄情なやつ。
いいえ、違うわね。彼女が気にしてるのは明らかに私の顔色だ。
「どうした? 浮かない顔して」
「別に」
「あれか? またみほちゃんが恋しくなっちゃったか?」
「奈緒……聞いて。やっぱ、いいわ。言いたくない」
「途中でやめるなっつーの。怒らないし馬鹿にもしないから言ってみ?」
「みほに、宿がないなら泊まっていけって言った……」
「お前……馬鹿だなぁ」
「うるさいわね、あんたこそ秒で発言を翻さないでよ。しみじみ言われなくたって、私だって後悔でいっぱいだわ……」
んなもの、早いとこ忘れろよ、と奈緒は言う。
言われなくても、元よりそのつもりだ。
一緒にコンビニででも働こう、とか。
いや、そこまで考えてなかった、とか。
穏便に済ます手段はいくらでも選択にあったはずだが。
目的が違っていたのだ。
彼女とはきっぱり別れるつもりだった。
イリーガルに稼いで貢ぐなんて言われて喜ぶのなら、そいつはもうサイコパスだし。
そうでなくても、それが偽りなく本心だった私も相当狂っていた。
けれど嘘をついてまでして、気を揉ましてこの先何があるのか。
接点なんて今や大してないのだ。2人の間の距離は約1,300km。
離ればなれになって1年という年月も流れた。
そんなの、もう別れてるのと一緒じゃないか。
今更、どうしようもない。
壊れたものを修復するのは人の努力も大事だが、後は何より時間だ。
時間を掛けて、ゆっくり忘れてしまえばいい。
崩れた町並みも時間が過ぎれば、また元通りに戻る。
それまでは静かに耐え忍ぶしかない。
「駄目だよ! エリちゃん!」
野外で休憩中に珍しくひよりに怒られてしまった。
「災害はね、忘れられちゃうと困るんだよ! じゃあもういいかなって突然支援を打ち切られたら困るでしょ? それは、いつまでも甘えてるわけにもいかないかも知れないけど。決めるのはニュースで見なくなったからって言う人達じゃないよ。そこに住む、災害に遭った人達じゃないと駄目なんだよ! 私、決めたの! やっぱり本州の大学に行く!」
「今から京都か筑波ってお前……すげーこと言うなあ……」
「奈緒ちゃんも無理だって思う?」
「まさか。無理なもんか。心の底からお前なら大丈夫だよって思ってる」
「うん!ありがとね! 私、頑張るんだ。ありふれてるかも知れないけど。あんなに立派だったのに、あんなに堅そうだったお城の石垣が崩れてるのを見て……じっとしてても駄目なんだなって……もっとやりたいことをやらないと駄目なんだなって!」
怒られて当然だな。
私は、やりたいことなんて。
何もない。何も。
その晩も考えも無しに、ただ確認のためだけだった。
どうせ無理だろう。
『私も、県外の大学を受けてみたい』
結果はいつもと同じ。電話の向こうにいる父親は、駄目だと繰り返すだけ。
別に期待などしていなかった。別に、いいんだ。これで。
けれど。
その夜は少しだけ違った。
電話を切った後、すぐに母から着信があった。
『ようやく我が儘を言ってくれるようになったわね』
母の意図が、いまいち分からない。
返す言葉を探している間に、なおも母は矢継ぎ早に一方的にまくし立てる。
『大体、貴方はね。黒森峰だから仕方ないかも知れないけど。枢軸車両に拘りすぎ。貴方だって大学選抜戦でパーシングとやったんでしょう? 時代は連合国車両なの。確かにⅥ号はいい戦車ですけど、貴方、この先も戦車道を続ける気なら、いろんな車両に搭乗できる学校に進学しなさい。それと来週は家族会議をするから。お姉ちゃんも呼んだわ。エリカも、ちゃんと帰って来るのよ?』
『え……? なん……で?』
聞きたいことはいくつもあった。
お母さんがそんな戦車に詳しいなんて知らなかった。
『乙女の嗜みですもの。当然、私だってやっていたわよ。あぁ、でも貴方達と一緒にしないように。私達の頃の戦車道はね、勝ち負けじゃなくって純粋に規律が一番だったのに。今は勝敗と商業主義に走り過ぎて、まったく嘆かわしいことだわ』
あぁ、この人、私の母親だなって。当たり前の感想を抱く。
『でも地元がこんな大変なときに、わざわざ外に行くのも……』
『何言ってんの。大変なときこそ子供を自由にさせてあげるのが、それが親の甲斐性ってものでしょう? ほら、しゃきっとして! ちゃんと来週は帰って来なさいよ』
実家に戻ると姉が待ち構えていた。
彼女と会うのは実に久しぶりだ。
「あんたってほんと親には逆らわないし無表情だし、石像か何かだと思ってた」
うるさいな。
顔の作りなんか、お前とそんなに違わないだろうが。
声だってそっくりなんだし。
子供の頃、電話に出るのが嫌だった。
『あ、エリカちゃんだったか。お姉さんだと思ったよ』
うるさいな。
声で分かれよ。
そういう勘違いをされる度に鬱憤は溜まっていく。
間違えないでよ。私は私だ。
「それが本土へ行きたいなんて、一丁前の事を言うようになったのねぇ……」
「うるさいなぁ、もう」
イライラする。自分に似た声が私に囁くのだ。
昔から姉は自由なやつだった。何かある度に私にあーしろこうしろ宣う。
私によく似た声が私に、私に出来ない事を指図してくる。
たまらない苦痛だった。
「何よ? あんた。文句があるならお金返して」
「はぁ? 別にお姉ちゃんから借りた覚えなんてないけど」
「まったくホントにお前は。あんたが寮から脱走した日に、うちにも電話掛かってきたから。朝一であんたの口座に多めに入金しといたのに、全然気付かなかったの? まぁ、いいわ。ほら、池の鯉みたいになってないで、一緒に来なさいよ。今からお父さんを倒しに行くわよ。」
家族会議の展開は一方的なものだった。
「お言葉ですが、あなた。逸見家の女3人敵に回して、五体満足で済むなんて思ってないですよね?」
そう言って不敵に笑う母。
そっと署名捺印済みの緑の紙を差し出す。
「私はお母さんについて行くから。今までありがとうございました」
姉はそう言って頭を下げた。
下げたものを戻すと同時に、苗字が変わればもうお父さんとは関係ない。
結婚式には呼ばない。孫なんか絶対に見せないと宣言する。
すでにボロボロの父は、最後の抵抗で学費はどうするつもりだと。
それだけ言うのがやっとだった。
「ご心配なく。娘1人育てるくらいの蓄えはあります」
「私にだってあるわ。肥後本店融資課の看板娘舐めんなよ」
ぽんっと放り投げた通帳は、父も2度見する程度に0が並んでいる。
父もついにはもう、折れるしかなかった。
私は、微かながらもやりたいと思うことを述べた。
その学校なら福岡にもあるだろう、とまた父が反論をしてしまう。
「だーかーらー! 学部が違うし! エリカは本土に行きたいって言ってるでしょうが! お父さん! 話聞たろもん!?」
「はぁ……ほんとこまか男ね。あくしゃあうつばっかしたい」
いよいよ居られなくなった父は好きにしろとだけ言い残して部屋を去る。
決着は付いた。圧勝だった。
余計なことを言うのは血筋なのかも知れない。少しだけ父が不憫に思えた。
「威厳だか何だか知らないけど、娘育てるなら諦めればいいのに。そんなの通用しないって」
「でも、こんなお金どうして……」
「貯める気になれば、まぁそれなりにね。ハワイにでも行ったら、ついでにディーゼルボクサーのアウトバックでも買うかなって。そもそもなんで国内で売らないのよ、頭来るわね」
いや、そんな車を南国で乗ってどうするんだ。
雪なんて熊本では、そこまで降らないのに。
「それにこれは投資よ、投資。奨学金だなんて真面目にやるよりは、もっとのびのびやりなさいよ。それにもしプロリーグに行ったら、マカン買って返してくれればいいから!」
「何それ! どんだけ利子取る気なの!?」
やっぱり姉はそこまで好きじゃない。
私と似たような顔をしてるくせに、私に出来ない事を平然とやってのける。
ずるいやつだ。
私と似た声が、私の背中を押す。
折りが合うなんて到底思えないけど、その声は私の心を代弁していた。
やりたいこと。
ようやく私にも、そんなものが生まれる。
担任も進路指導室の面々も、あまりいい顔はしなかった。
顧問に報告すると、年老いた彼女だけが激励してくれた。
この3年間、黒森峰を護ったのは貴方だ。
あとは自由にやれ。なりたい自分になれ、と。
存在感の薄かった年配教師が、他の誰よりも大人に見えた。
その大学にはスポーツ医学科がある。別に整体師になりたいわけでもなかったが。
運動で体を壊すなんて、そんな理不尽なことも無いように思う。
練習のせいで選手生命が絶たれるなんて、酷い話だ。
言うことを聞いてくれない神様とやらに抗うのには、ちょうどいい。
私が黒森峰で学んだと、該当する事と言えば、せいぜい反骨精神くらいだから。
達筆で大きく卒業と書かれた看板を横に、なぜ泣いてくれないのかと詰問される。
いや、今まで十分泣いて来たし。もういいじゃない。
それに。
目の前で泣いてる人間がいるのに、私まで釣られるわけにいくか。
むしろ、そんなぼろっぼろに泣かれたらドン引きするわ。
「じゃあ、せめてハグして下さい……」
「はいはい……あんたも少しは強くなりなさいよ」
抱きしめて髪を撫でる。こいつ、こんなに小さかったっけ。
この子には随分世話になった。
もちろん、隊の他のみんなにも。
「あー! ずるいよ、ちなっちゃん!」
「逸見先輩! 私にもハグして下さい!」
「隊長殿……ずっとお慕い申しておりました……」
「はいはーい、君達聞いてー。逸見エリカは1人しかおりませんのでー、皆さん並んで下さーい」
「ちょっと! 奈緒!」
「隊長! お願いします!」
「お願いします! 逸見先輩!」
校門前にタンクジャケットが整列する。
しょうもない。けれど、みんな可愛い、私の後輩達。
もしかしたら、ドイツのあの人も。
こうやって送って欲しかったのかも知れないと、ふと思った。
やがて、どこからともなく歌声が起こる。
校門にブーツを踏む音が木霊する。
「Ob's stürmt oder schneit , Ob die Sonne uns lacht・・・」
「ちょっと! 何の集会なのよ! 恥ずかしいから辞めなさいよ!」
まぁでも似合ってるか。
乙女の青春を喜んで鉄臭い箱に捨てていく連中だ。
どうせ奇人変人の集まりなんだから。
南の外れと言えども、未だ花は蕾のまま。
風に散った花びらが、地面をちぎり絵のように彩る様をもう1度見たかった。
けれど4度目はない。
4度目の景色をどう思うのかは、彼女達に託す。
もしまた会うことがあればその時に、私に教えて。
黒森峰の桜は、今年も美しく咲いたのかどうかを。
車窓の向こうの小さな公園で、葉が少しだけ多くなった桜が見える。
熊本では見れなかった満開の桜を私は、勝手の分からない新天地で眺めることになった。
ここは熊本に比べれば、少し開花は遅い。
そして熊本市に比べたら、ずっと田舎だった。
「それはそうでしょう。東京と言ってもここは西の外れですから。けれどマジノに比べればここも十分、都会ですね」
たしかに学食は黒森峰とは比べものにならないくらい広い。
「サハル・エル―オラビィです。よろしく」
学食で1人、パンを貪っているところを声を掛けられた。
……なんで?
「愚問ですね。戦車道をやっていて貴方を知らないなんて。そんなわけないでしょう? お会い出来て光栄です。黒森峰の隊長殿」
マジノ女学院。
確か積極的に海外留学生を登用して戦っていた学校だったか。
彼女もアジアン離れした容姿をしていた。背もすっと高い。
「出身はエジプトです。祖父も戦車乗りなんですよ」
あまり体験のないことだった。
「貴方も、あまり西住流ではなかったですね。だからずっと気になっていました」
面と向かって褒められるのには慣れていない。
「私のマジノも戦車は弱いです。だから数で圧倒する西住流。好きではありませんでした。でも、あー……逸見さんは」
「エリカよ。エリカで、いいわ」
思ったよりも難なく、友達は出来るものだな。
やる事は最初から決まっていた。
推薦なんだから約束とは言え、まさか本土に来てまで戦車に乗るとはね。
この大学の主力はT29重戦車とA39トータス駆逐戦車。
見事なまでに私の乗っていたティーガーⅡの敵ばかり。
「どうです? それともやっぱり乗り慣れた車両の方がいいですか?」
「まぁ、そうね……これも悪くは無いけど」
ティーガーⅡが最高だったのは、車両性能だけじゃない。
最高のチームだった。
実質1年もないくらいだったけど、私のチームは最高のメンバーだった。
ひよりも、由貴も裕美も関西の大学に進み、奈緒だけが地元に残った。
もう揃って戦車に乗ることはないだろう。
だから余計懐かしく感じる。
「……分かります。1人1人が目で、手で、足です。みんな兄弟、あー、姉妹と言うべきですか? みんな、みんな家族でした。分かります」
私は、エリカ。
貴方と家族になりたい。
いちいち照れ臭いことを言う子だな。もちろん笑顔で承諾する。
私の下宿は京王線沿いの南大沢にある。
あんたの家に泊まれば宿代分さらに買い物が出来るという母と姉の打算によるものだった。
「いいですね! 私、案内して欲しいです」
「いや、目の前って言っても……まだ私、行ったことないのよね」
駅前のアウトレットパーク。
あまり気は進まなかった。
そこは、あの子と最後に過ごした場所と同じ会社が運営しているところだからだ。
そう言えば、あいつは何をしてるんだろう。
大学に行く途中、よく似た背中を見たことがある。
病気が治ってないなと笑うしかなかった。
世の中、山ほど学校があって路線があって、人が住んでいる。
栗色の短髪だからって、そんな都合よくいるわけがない。
そんなところにいるはずもないのに。
あれからはもう会うことはなかった。
電話番号すら知らない。連絡先を交わしてもない。
あっちの電話帳が生きていれば、私の番号は分かってるだろうけど。
掛かってくることはなかった。別に期待など少しもしていなかった。
大洗にいた、ということだけ。
彼女の情報は、そこから更新されることはなかった。
だから忘れようと努めているのに、ちょうどいいかも知れない。
いずれディズニーにも行くことになるんだろう。
新鮮な土地で、いつまでもウダウダと昔のことばかりを考えて。
過去に捕らわれていたら勿体ない。
大学で初めての友人のために、その日の夕方は視察に費やすことにする。
「ここも結構広いわね」
特に買うべき物もなく、ふらふらと歩き続ける。
快く送り出してはくれたけど仕送りに関しては、それとこれは別と、そんなに潤沢に貰えてるわけでもなかった。
女子校で彼氏もおらず、持って来たものはどう組み合わせても地味な格好になるけど、服の一つも買おうかというテンションでも財布の中身でもない。
なのでとりあえずは歩き回るしか、やることがない。
ただ目的もなく彷徨っていると、思いがけないお店を発見してしまう。
……ここにもあったのか、ボコショップ。
しかし私はもう過去を払拭すると決めたんだ。
いまさら何を恐れることがあるだろうか。
幻影なんかに絶対惑わされない。
変わったことを、変わることを、自分自身に証明するために。
自動ドアの前に立つ。ガラス戸はゆっくり左右に開いた。
だが勇ましく入店するも、素早く心は挫かれる。
目眩がしそうになった。
「……あの子……ここの限定品だったのね」
当店限定という可愛らしい手書きポップが踊る。
店内には、涙のパッチが縫い付けられたボコが並んでいた。
下宿に帰れば、あの子が、エミリーが待っている。
結局返さず終いで連れてきてしまった。しかし、これも何かの縁だ。
あの子に家族を作ってあげよう。
財布を開きながら、店内を進む。
大きさも値段も、手頃なボコを見つけた。
棚に仲間はおらず、最後の1匹のようだった。
この子にしようと手を伸ばすと、視界の端からもボコを掴もうとする手が見えた。
「あっ、すいません」
「あっ、ごめんなさ……い」
セール品のアナウンスがスピーカーから流れてくる。
やーってやる、やーってやるとかいう間抜けな歌と一緒に。
家族連れが騒ぐ子供を引っ張りながら私の脇を通り抜けて行く。
店員が乱雑に置かれている陳列棚を直しに、忙しそうに早歩きをしている。
紙袋を抱えて嬉しそうな女の子が、母親を急かして店から出て行った。
ドアが開いて、まだ冷たい荒れた春の風が吹き込んで来る。
夕日が沈む。
紺と白とオレンジのコントラストの空に、所々穴を掘ったかのように。
漂う雲が、その部分だけを黒く切り抜いていた。
草木が芽吹くように。
冬眠していた生き物達が目覚めるように。
季節に合わせて、生命は絶えず動いている。
店内も、ざっと見渡すだけでいろんな人が働いて歩き、動いてる。
私も背が伸びて親元を離れて、卒業をして。
時の流れという動態は生命の源であり、そのものも生き物の様に振る舞う。
様々なものが流転を繰り返し、加速して、あるものはゆっくりと。
必要とする年月はそれぞれに異なるが、世の多くは変化をし続ける。
1秒前と1秒後では世界は本来、何もかもが違うはずなのに。
それなのに、時間が。
切り取られたように風景が静止する。
ここは、時が止まってしまった。
「えっ……なんでいるの?」
「それはこっちの台詞よ」
「えっ? もしかして、近くに住んでるの?」
「……近くって言うか、私の最寄りここなんだけど」
「え? 学校どこなの?」
「モノレールに乗り換えて……八王子キャンパス……」
「えっ! 私その一駅先なんだけど!」
急に二人の距離が詰まって、私は足を踏まれた。
この距離で彼女の顔を見るのは2年ぶりか。
至近距離で確認するまでもなく、どう見てもこいつは、あいつだ。
「エリカさん!」
「ちょっと痛いし、店内で大声出さないでよね」
飲もうよと誘って来たのは、みほの方からだった。
にこにこと、へらへらと。
何を喋っても笑っていた。
お酒のせいか?やたらと上機嫌で気持ち悪い。
「あんた、そんなペースで飲んで大丈夫なの?」
「平気だよ。こんくらいのお酒でえーくらうんは、ひごもんのはじたい」
「べろんべろんじゃないのよ!」
送るからと何回言っても、駅も住所も教えてくれなかった。
電車なんかまだいくらでも走ってるのに。
「もう歩けない……エリカさんちに泊まるぅ……」
それ以外の言葉を忘れたみたい。
再生面が傷だらけのDVDみたいに、それだけを繰り返していた。
狭い、部屋の入り口。
並んで入るのは無理だと言っても、ろくに立ち上がれないものだから、
窮屈ながらも肩を貸して、結局、上手くいかずに縺れて玄関に倒れ込む。
「うあっと! ちょっと、大丈夫?」
上がり框に上半身を預けたまま、動かなくなったので肩を揺さぶる。
せっかくスカートも可愛かったのに。
汚れるから立ちなさいと促すと、のっそりと体を起こして身を翻してこちらを向き、私の手を握った。
左手を掴まれて。
手の平ではなくて狙ったように指先を、爪の方だけを彼女の手が包む。
やがて小指から順々に、閉じた隙間をこじ開けられて。
2人の指が、絡む。
空いた右手は私の背中に回された。
……何を。
……こいつは何を、考えているのか。
顔を覗き込むと、みほの視線はまったく別の方向を向いている。
そのまま。
私の体ごと引き摺って、彼女はお尻をずらして位置を修正する。
後ろでカチャリとドアが自重で閉まる音がした。
その音を聞き届けると、体重を私に預ける。
乳房が押し潰される感触。服越しに彼女の肉体を感じる。
「ちょ、ちょっと……」
彼女の唇が。
酩酊して眠そうに、無表情だったみほが、くすりと笑う。
すると彼女の顔は、私の唇を通り過ぎて。
ちょうど私の肩に顎を乗せた形となる。
「……待ってね」
耳元で甘ったるい声がした。
すると背中に感じていた彼女の手の感覚が無くなって。
ガチャン。
ドアが完全に閉じられた。
外の世界から、私の部屋が隔絶される。
鍵は、みほが閉めた。
忘れたかった。
忘れるつもりだったのに。
それを、いつもこいつは邪魔をする。
もう出会う事なんてないはずだったのだから。
誰かの仕草に、栗色の髪を見るたびに思い出して。
記憶が蘇るたびに心を痛めて。
そんなの。
無駄だ。
無駄に魂をすり減らすだけだ。
だから、ちょっとずつでも私だって自分を変えたんだ。
泣くことが減った。
滅多に泣かなくなった。
出会って、別れて。
黙って消えたから許せなくて。
それなのに、あいつはずっと前から、私に許しを請うていた。
それすら見逃して、彼女を余計に傷つけた。
何も願わなければ、心はずっと静かだった。
感情を抑え込むことだけが上手になって。
何もかも諦めた世界で生きていた。
それなのに。
「……なんで……なんであんたは! その気もないくせに!」
「酷いよ、私だって。結構頑張ったのに」
じゃあエリカさんは、結局、私を忘れることが出来たの?
抱きしめる。
ずっと。
ずっとそうしたかった。
欠損が埋まっていく。
服を脱ぐと、より鼓動が伝わる。
私は馬鹿だから。
なんで、こんなに努力しているのに忘れられないんだろうなんて。
結構真剣に考えていた。
忘れたくないからだ、とは思い至らなかった。
身を抱き、重なり、溶け合う。
境界が無くなる。
誰よりも、貴方のことを大切にしたいのに。
それなのに自分を止められない。
初めての夜と同じように、辺り構わず跡を付ける。
何度目か。
汗だくになって、喉が渇いて水のペットボトルを呷る。
酔いなどすっかり覚めてしまった。
どうしようもない。
もう逃げられない泥濘の上に今、私は立っている。
立っているのかも怪しい。
こんなの、望んでいない。
愛してる。同じくらい、貴方が憎い。
貴方は私に黙って逃げた。
違う。
彼女が逃げたのは、私から自分の身を守るためだったのだ。
どの道待っているのは破滅しかないのに、それこそが私の願いだと彼女は気付いたんだ。
同じ事を、同じ目に、また。
反省なら山ほどしたくせに、懲りもせずに繰り返す。
水が気道に入り咽せた。
胸元に雫が垂れて、流れていく。
私の咳に気付くと身を起こした彼女は、もたれ掛かり水をねだった。
もうないと空のペットボトルを振って知らせると少しだけむっとして、それから私の肌を舐め出す。
水の流れを辿るように下から上へと這わせた舌が、腹を通り胸の間を抜けて、やがて唇が重なり合う。
互いに歯の裏を舌でなぞり、唾液を混ぜて流し込む。
何度果てさせても飽きることなく彼女の深部を指で貪り続け、口付けて啜る。
「んんぁあっ! あっ、エリ……」
声を上げるまで執拗に責める。
指で弄り、肉の中や外を問わず複数の箇所を同時に擦り上げる。
乱れるまで愛撫を繰り返した。
水音が漏れるように態とらしく挿入した指を広げて、回して。
舌先で転がして皮を剥いて晒した陰部を啄む。
何度も。
何度も。
硬直して伸ばされた足が、力なく崩れる度に肉を噛み歯形を付けた。
彼女の肉体を蹂躙する。
指先も胸も唇も水分を吸って、ふやけている。
己の身を乱暴に扱われているのに。
彼女は健気に、寄り添うようにベッドの上で嬲られていた。
そんな酷い扱いをしながらも、いつまでも私は迷っていた。
やがて彼女は、私の戸惑いを見透かしたのだろうか。
聞き分けの悪い子を諭すように、はっきりとした口調で。
どうか、怖がらないで。
そう言って微笑んだ。
「一緒に暮らしましょ……」
「ふふ……すぐそういうことを言うね……」
眠りに着く間際に、そう伝えると少しだけトーンが変わった。
けれど真意を問い詰める気力は残されておらず、重くのしかかった彼女の体を感じながら目を閉じる。
起きると、すでに彼女はいなかった。
何度名前を呼んでも、私の声しかしない。
キッチンにもトイレにもいない。
ドアは施錠されていて、鍵は郵便受けに入れられていた。
また彼女を見失う。
窓に駆け寄ると、階下に栗色の髪を発見する。
「ちょっと! みほ!」
精一杯叫んだつもりだったのに、喉が枯れていて声が出ない。
それでも届いたのか。彼女は小さく手を振って、こちらに応える。
さよならにしか見えなかった。
……って。
待って。
待って! 待ちなさいよ!
着るようにという意味か、畳まれて用意されていたパジャマを被り、慌ててドアを開ける。
鍵穴が上手く刺さらなくて1発蹴りをくれた後に、諦めて走る。
エレベーターを待つ時間が惜しくて、階段を駆け下りた。
「どこに行く気なのよ!」
「ふぇっ?」
「また勝手にどこか行く気! やめてよ! 私の何が気に入らないの!?
重いから? じゃあ別に付き合わなくたっていい! だったら友達でいいから! 一緒に住もうなんて軽はずみなこと言ったのは謝るから! だから……お願い……」
ここ1年、碌に泣いたことなどなかった。
けれど、それも思い出す。
私は、割合い泣き虫な方だったのだ。
それに、これ以上の悲しみなど私は体験していない。
彼女がいなくなる。
そんな想いは1回だけで十分だ。
振られたくて言葉を投げ捨てて、思う通りの結果が得られた時はむしろ嬉しかった。
もう、これで彼女のことも諦められる。
忘れたかった。
こんな思いをどうせするんだから、忘れてしまいたかった。
どうせ会うことなど無いんだから、記憶を消し去りたかった。
再会など想定外だから困惑してしまった。
だからうっかり素直に、気持ちを白状してしまう。
「……取り消させて……身を引かれるくらいなら私、我慢するから……。貴方と会うのもなるべく我慢する……」
駆け引きなどする余裕もなく、ただ溢れるがままに涙を流した。
「だから2度も!! 2度も黙ってどこかへ行かないでよ……お願いだから……」
自尊心など何もなく、みっともないままに、ただ懇願をする。
同情でも哀れみでも何でもいい。泣いたら許してくれるだろうか。
そんな小学生みたいな論理を懸命に押し通そうとする。
みほは瞬きを数度繰り返した後、ぽつりと呟いた。
「えっと、あの。コンビニ、行こうと思っただけなんだけど……」
「……はぁ?」
人の必死の告白はひとしきり笑われて、その後、私は抱きしめられた。
「よしよし……」
彼女の服が涙やら鼻水やらで汚れるかも知れない。
それでも、みほは嫌がらなかったから、そのまま胸に顔を埋める。
「もう、会わない方がいいのかな?」
心臓にネジを打ち込むように鳩尾で。
喋ることがもう出来なくなっていたので、その場所で頭を左右に思い切り振る。
「はいはい」
そのまま手を繋いでコンビニに寄った。
「エリカさんは何か欲しいものある?」
「みほ……」
「もう、朝ご飯の話をしてるのに!」
すっぴんでボサボサだけど、それにサンダルだし。ブラだってしてない。
それよりも一端繋いだこの手が、何かの拍子に外される事の方が怖かった。
そして、ふいにその瞬間は訪れる。
彼女が私の手を離した。
「お財布取り出したいだけだから!そんな顔しないで!」
家の鍵を閉めていないことを怒られた。
「入学早々、自主休校とはいいご身分だね」
「うるさい……」
「私ね、嫌われたんだと思った」
ぽつぽつと彼女は語り始めた。
朝からするのに相応しい話だろうか。
まぁでも味なんてまったく分からないから、いいか。
「でも、エリカさんが泊まってく? なんて言って。自分で傷付いてるのを見たらちょっとだけ、ね。自惚れてみようかなって思ったの。もし、エリカさんが追いかけて来てくれたら。その時は、もう私も我慢しない……って」
「はっ……自意識過剰な女……私は、私のやりたいことをしに、ここに住んでるだけなんですけど……」
悪態をつく程度には元気を取り戻した。
先程の恥ずかしいやり取りを思い出したら、無性に口答えがしたくなったのだ。
「もう! 知ってるよ! でも会えたんだから、エリカさんの傍にいていいでしょ? 私、決めた。やっぱり一緒に住もう!」
決して、諦めないこと。
黒森峰を飛び出して、大洗に行って私が一番に学んだことはそれだ、と。
そう彼女は言った。
大洗のよいところは、みんな諦めの悪い人達ばかりだったのだ。
「エリカさんは黒森峰で、どうしてたの?」
言葉に詰まる。
私には何もない。
夢もやりたいことも行きたいところも特になかった。
一つだけ思い当たることはある。
忘れたくても、忘れられないものがあった。
省みれば、一番考えていた事だったのだ。
「……あんたのことばっかり考えていたことに今、気付いた」
えへへとみほが笑う。
服装が変わっても 笑顔は、私の記憶と相違はない。
やっと。
やっとみほに出会えた。
昨晩のキスは酒臭かった。
今は、シーチキンマヨの匂いがする。