葉桜が揺れている……。
この部屋のドアを開けて、まず見えたものは窓の景色。
そしてトロフィーが隙間なく押し込められたガラス棚。
さながら社会科見学で訪れた民俗資料館のようだった。
私が生まれてもいない時代から、この棚に飾られていた沢山の杯や楯。
幾重にも重なる優勝と書かれたペナントは、この学校の歴史を雄弁に語っている。
思わず感嘆の声が漏れそうになった。
「ご苦労」
放心している私を現実に呼び戻す声がする。
慌てて視線をその先へ送ると声の主は、この部屋の空気を圧縮させて作り上げた結晶を、さらに研磨したかのような鋭利さを身にまとい年代を感じさせる大仰な机に座していた。
特別暑い日でもないのに、この部屋に入ってから汗が止まらない。
幾多の額の汗は灰青の髪を通じて、そのまま制服の襟元へ吸い込まれていく。
かと言って拭うことは許されない。
いや、許さぬ者がいたわけではないが。
休めの姿勢を崩すのは禁足地に踏み入る事のように、決して犯してはならない秩序を破壊する行為に思えた。
今この部屋の調和は、静寂を保つことで守られている。
とはいえ汗の不快感か、それとも張り詰めた筋肉の痺れのせいか。
余裕など一切ないはずなのに、先程から集中が途切れがちで雑念が思考を蝕む。
髪をもう少し綺麗に整えるべきだった。
トリートメントが切れて、昨日はシャンプーで洗っただけだった。
なぜ買い置きをしていなかったかと悔やむ。
だいたい昼食にカレーを食べて、まだ歯も磨いていないのに。
「……県大新人戦に向けての強化演習か」
書類を一瞥した後、眼差しが私達の方へと向けられる。
目の前にいるのは、私が最も憧れる人物。
黒森峰女学園機甲科を統べる鬼の隊長。
西住まほ、その人である。
「うん! あ……はい、そうです」
そして隣にいるのが「ちょっとそこまで付き合って」と屈託のない笑顔で私をこの場に連れて来た子、西住みほである。
購買にジュースでも買いに行くのかと思い連れられた先は、隊長室だった。
そう言えば、あれは小学校に上がったくらいの頃だったろうか。
あの時はおもちゃを買いに行くと言われて、大喜びでついて行った先が歯医者だったな。
次からはどこで何をするのか逐一問い質そうと誓う。
「確かに後進の育成は喫緊の課題だ。勝利は降って湧くものではないからな。黒森峰は今日の試合を消化する同じ顔ぶれの精鋭ではなく、明日の戦場を任せるに足る、伝統の担い手を常に欲している。我々はどんな状況でも勝たねばならない。それは未来においても勝ち続けるということ……覇道とはそういうものだ」
「でしょ! だから許可をお願いします」
「私の判が欲しいなら、その前にいくつか質問に答えろ」
語調を強めた隊長の声に思わず、そちらからは見えなかろうとやることなく動かしていた親指の動きを止める。
ちらりと隣の隊長ではない方の西住を観察すると、こっそり買い物かごに忍ばせたお菓子を突っ返された子供のようにふくれていた。
ああ……これは喧嘩ではないのだ。
おそらくどこのご家庭でも行われているのであろう妹のお姉ちゃんお願い攻撃…。
年上は可愛い下の子に傅くべき。その思想は身に覚えがある。
私も年下の甘えを利用することに罪悪感はない。
しかし、この似た部分の少ない姉妹にも、絆が存在していたことには驚きであった。
妹は要点を、拗ねた態度を隠しもせず再度口頭で説明する。
姉の方は振る舞いを咎めるでもなく、黙して看過しているところを見ると毎日の事なのだろうか。
寮室を共にして数ヶ月が経っても、想像では辿り着けないものばかり。
それがこの西住の妹と、姉である。
妹は相変わらず口を尖らせたまま、演習計画を説いていた。
今回の演習は2小隊規模のU-200戦。
U-200とは、他校と違い戦車の数と種類に困窮しない黒森峰独自の試合形式である。
Ⅱ号戦車と、アハトアハトを積んだティーガーⅠでやり合っても勝敗は車両選別の時点で明らかだ。
そのため自軍車両の総重量が200トン以下となるように予め定めておく。
公式戦であれば惜しみなく重戦車を横一列に並べてパンツァーリートでも口ずさみながら戦場を駆けるところだが、人によってはワルキューレの騎行かも知れない。
まぁどっちだっていい。
格闘技と同じ階級制限を設けての戦車戦。うちではよくあることなのだ。
演習場所は地元の好意により阿蘇山大津カントリークラブから使用許可を得た。
国道57号線からゴルフ場へ至る私道を西端とし、北はクラブハウス、南は11番ホール。
東は2番ホールから9番ホールのOBラインを曲線で結んだ約110万平方メートルが今回の試合会場となる。
陸自の演習場が利用できない場合の代替として、手頃な広さと手頃な形で……。
手頃な形というのは大矢野原の近くには他にもゴルフ場はあるのだが、コースレイアウトが細長いものが多く会敵場所が偏ってしまう。
俯瞰すると程好く卵型をして広々と使えるのが大津CCの特徴と言える。
ここも私達には馴染みの場所である。
変わっている点を強いて挙げるなら。
今回の演習計画書を用意した人物が、入学して間もない1年生だというところだろうか。
本来ならば腕立てに走り込み、履帯修理のコンマを競い合う猛特訓から、
グリースまみれになりながらクリーニングロッドを振り回し、先輩に命ぜられるがままに自販機産のお茶をオーダー通り正確に献上するのが我々、最下級生の主任務である。
演習の予定なんてものはむしろ上意下達の代表例だろう。
いくらあの西住家の者の発案とはいえ1年の考えが通るなど、そうそう前例があるはずもない。
そして、もう1点は……。
「新人戦の予行練習なのだろう?なぜ演習の相手が3年生なのだ。1年同志でまず紅白戦でもするべきじゃないのか?」
「あっ、それは新人戦のメンバーは大体もう選んであるから。あとは練習するのみ、だからだよ」
「それもお前が勝手に決めるんじゃない!」
「だから隊長にお願いしに来ました。宜しくお願いします!」
隣の人間が頭を下げたので、慌てて私も追従する。
視界外から激しいため息が聞こえた。
そりゃそうだわ……。
それ以外の感想などない。隊長には同情する。
当のみほは、それが合図だと言わんばかりに再び姉を見遣る。
「素直に話せば判子くれるって言ったのに! なんにくじばしよっとね!」
下げた頭は砲弾を打ち出した後の駐退機のように、勢いよく元へと戻った。
「わがままが通らないのを私のせいにするな!」
「分かりました。じゃあこうしようよ! 今度の家の炊事洗濯は私が代わりにやるから。何味のカレーだって作るよ、お姉ちゃん!」
「学校では隊長と……っ!」
言いかけて途中、ふいに怒気を帯びた瞳がこちらを睨んだ。
私は素早く目を逸して、何も知らない聞いていないと訴える。
「……わかったわかった。もういい。話だけはする」
「やったぁ! ありがとうございます隊長! では失礼します。行こ、逸見さん。あっ! 殲滅戦かフラッグ戦かはお姉ちゃんに一任するね」
みほさん、お願いだから。
分かりやすく言外に挑発を入れるのは、私のいない所でやって。
「あっ! ありがとうございました! 失礼致します!」
妹のおざなりな答礼の何万倍も深く丁寧にお辞儀をし、再度無罪を主張して隊長室を後にした。
「まったく、どうせやるんだから素直にハイって言ってくれればいいのに」
そう思うよね? 逸見さんと同意を求められても、いや……知らないわよ……。
「そんなことより通るんですか? あ……あの演習計画」
つい、あんなものと口から出そうになったのを素早く軌道修正する。
「あ、うん。大丈夫だよ! お姉ちゃんだもん」
何の根拠も成り得ていないが、その顔は信念に満ちていた。
この家の姉妹は、それでよいらしい。
「それにしても大津ですか。私は大矢野原の方が好きなんですが」
「それは仕方ないかな。必ず勝つためには大津じゃないと」
「えっ? 陸自に断られたから大津にしたんじゃないんですか?」
「ううん。最初から決めてたんだよ、あそこは先輩の得意なところだし。ねぇ、逸見さん。先輩の大津での勝率ってどれくらいか知ってる?」
考えたこともない。
そもそもスコアなんて1年がおいそれと事細かに見れるものでもなかった。
「いや、分かりません。確かによく勝っている印象はありますが……」
9割だよ。
悪戯っぽくみほが笑う。
「えぇっ!? そんな、そんな高いとは……いや……」
いやいやいや、なら余計におかしいではないか。てゆうか何でそんなところをあえて選んだのだ。
しかし私の混乱ぶりに相反して冷静に彼女は言い放つ。
「9割も勝てる方法を知ってる人の裏をかくのは簡単だよ」
今度の言葉に笑みはなかった。
代わりに覇気が満ちていた。
獣の匂いを感じた。
それらはどれも、彼女の姉が放つ物と同じだった。
数日を経て、再び隊長室のドアを叩く者がいる。
「お呼び立てして申し訳ありません。山下さん」
「あら、いいのよ。隊長の命令とあれば何時如何なる時も馳せ参じるわ」
「そんな、やめて下さい」
まほは苦笑するしかなかった。
彼女は、まほの前では常にこんな調子なのだ。
山下文代。
黒森峰女学園3年生。
全国中学生戦車道大会広島県代表にして母校を18年ぶりのベスト4に導いた通称、呉の虎。
他校の推薦を蹴り、あえて黒森峰を選んだ転校組。
隊長の役職こそ西住まほに譲り渡してはいるが、いずれ来る全国高校戦車道大会では副隊長として活躍することを多くの者が期待している。
それだけの資質を十分に兼ね備えていた。
今回の新人戦強化演習の仮想敵であり、逸見エリカにとっては敵そのものでもある。
「なるほど、貴方の妹さんが……」
「ええ、話だけはすると約束をしたもので……」
「ふふ、妹さんのお願いじゃあ断れないわね」
「申し訳ありません。ただ私としても新人の強化には注力したく、時間があれば、こうした機会も彼女達に与えてはあげたかったものですから」
「分かっているわ。新人育成こそ我が責務。貴方の口癖でしょ? せっかく黒森峰は貴方を筆頭に若返っているんですもの。今までの私達はその日を勝つことしか考えていなかった。それを貴方は、はっきりと否定したわ。今でも覚えてるわよ、貴方の隊長就任演説……」
――私は目の前の10連覇にはさして興味はありません。
私が隊長となった年に、偶然重なっただけのことだからです。
ですが先輩方の繋いだ9連覇という偉業には心から敬意を表します。
ですので私は心身を懸け、不撓不屈の精神で臨み、これを超えたい。
それは10連覇を手にすることではなく。
この黒森峰を20連覇する学校に育てることです。
これこそが隊長の職責だと考えます。
「……貴方は正しかったわ、隊長」
多くの者が入学し立ての一年を新隊長とする人選に反対し、罵声を浴びせて戦車道を辞めていった。
山下は、この新隊長を擁護する少数派の中にいた。
「いいわ。その試合、受けて立ちます」
山下には決め事があった。
まほに賛同する時は、努めて笑顔を見せようというものである。
「ありがとうございます」
思わず、まほも破顔する。
サイボーグ、能面と揶揄される西住まほであるが、数少ない笑顔を見せる相手。
そうなるだけの時間が2人の間には流れていた。
誰からも肯定されない者と、それを守る者。
2人は互いを戦友と称する。
「……でも、一つだけ聞かせて」
だが、今日は違っていた。
まほには、いや山下本人にすら形容出来ない。
まるで手の平に刺さった見えないほどの小さな棘。
触れた瞬間にしか痛みが分からない。
だが確実に傷であり、やがて膿むであろう微細な陰がそこにあった。
「これは妹さんの願いだから、するの?」
途端にまほの顔が曇る。こちらの意図を瞬時に理解し、反応する。
まほのこういう頭の良いところも山下は好きだった。
「そう言えば妹だけじゃなくて逸見もいましたね」
「ごめん。質問が漠然とし過ぎていたわね。もう1度聞くわ」
間を置いて、山下が言葉を紡ぐ。
「貴方は今度の全国大会、誰を副隊長にするつもりなの?」
「それはもちろん!山下先輩、貴方です! 貴方の実績なら誰も文句はないでしょう! 私も背中を任せられるのは貴方しか」
「まほ」
言葉を遮られ沈黙が生じる。
それはもう答えに等しい。
「まほ、正直に答えて。貴方はいつもそうよ。私のことを頼れる、背中を任せられると言うけれど背中を”任せたい”と言ったことはなかったわ。貴方のしたい事を正直に教えて」
まほにはいつも笑顔を見せよう。
そんな取り組みをしていたのは予感があったからかも知れない。
小さかった棘の傷は明確に痛みとなり、血の流れる錯覚さえ感じる。
だが後悔なんてしない。
私は今の、現在この瞬間の黒森峰を信じて来た。今さら否定などしない。
それが山下にとっての矜持であった。
「先輩……私は……。あの子に背中を任せたい……」
告解にも似た、か細き声が続く
「私の背中を見ていて欲しい……この先の黒森峰のために……」
「……わかったわ。ありがとう。でも少なくとも私に勝てない程度では、またあの時の再来ね。誰も納得しないでしょう。だからと言って、そう簡単には私も負けるつもりはないわ。手加減は、しません」
「それで結構です。手心を加えて欲しいなどとは言いません。貴方にも勝って欲しい。本心からそう思っています」
「ふふ、ありがとう。では隊長、これで失礼します。今から準備を始めなきゃ」
いつもと変わらぬ優しい微笑みを浮かべ、隊長室を去ろうとドアノブに手をかけた。
その時。
「……そう言えば貴方、逸見がいたと言ったわね」
振り返り、質問を投げかけるその顔は、ほんの数分の経過しかないにも関わらず別人になったかのような変化を生じていた。
「ええ、逸見は妹と一緒におりました」
「あの子はダメよ……あの子は―― 」
初夏と呼ぶに相応しい若草の彩りが、殺風景な倉庫にも清々しい風を運んでいる。
新緑の芽吹きは、必ず秋の落葉を経るものである。
私は、この季節が好きだ。
再生した生命の季節。
何もかもが新しい。
そして今日から私も、再生の物語を始める。
ここにも新しく命を吹き替えした1台の戦車が、除幕の時を静かに待っている。
発動機が、砲塔が、搭乗員の魂と共に再び熱く滾る瞬間を待っていた。
「皆さんにお願いがあります」
ちょっとそこまで付き合ってと、いつぞや見た笑顔でみほが言う。
いつどこで誰と云々、今度は詳細な説明を要求し得た内容に沿って逸見エリカはⅢ号チームの面々と戦車倉庫を訪れていた。
「えっと、演習の編成について考えた結果なんですけど3年生チームはパンター3両、Ⅲ号3両の構成で来ます、たぶん」
6台分を合算した総重量は約198トン。
U-200戦の最も基本的な構成と言える。
「本当の演習でしたら同じ車輌構成で挑みたいんですけど、今回に限っては必ず勝たなければならないから。練度の勝負となってしまう同型車両での戦闘は避けます」
本当の、とか言っちゃってるわ、この子。
この重量制限ルールから演習場所、車両構成とすべてにおいて勝つべくして勝つために考えたと彼女は言っていた。
これを呑ませた時点で勝利だと、だからズルをしたと言っていた。
これは演習ではなく、いかに見事に勝利してみせるか。
そういう競い合いだと言っていた。
私は信じるしかない。
だが不思議なことに、気分は晴れやかである。
藁をも掴みたい。
そんな自暴自棄の感情は、微塵も浮かばない。
きっとこの子は、言ったことを証明してみせるだろう。
胸にあるのは、確信だけだった。
「そこで皆さんには今回、こちらの戦車に搭乗して貰います」
ジャーン!
と大声が響いてから間が空く。
颯爽と引いてみせたブルーシートは、どこかに引っかかってしまったようだ。
「あ、あの……手伝います、西住さん」
「あっ……ごめん、ありがとう」
ブルーシートを被った状態でもシルエットの異形さは察せられたが、いざ対面してみると尚更それが極まって見える。
「これに……乗れっての……?」
「うおおおおっ! でっけえええええ!」
「これが8.8cm砲……」
「す、すごい。すごいよ、これ!」
「こんなの……誰が操縦すんのよ……」
ん?
そりゃあもちろん。
一斉に皆が同じ方向を指差す。
私のチームの一番誇れるところは、この協調性だ。
「はぁっ!? 私ぃ!?」
「皆さん、仲がいいんですね」
ブルーシートを、不器用に折り畳みながら言う。
「あ、やりますよ、西住さん」
「あっ……ありがとう、ごめんね」
対面と片付けが済むと、では本題ですと彼女は述べた。
「本来レストアが完了するのが1週間後で、輸送の予定日は来月でした。それをどうにか早めて貰いました。なのでこの車両がここに届いているのをまだ3年生は知らないと思います。正真正銘、これが切り札です!」
鼓動が高まる。私が、私達が勝利の鍵だと彼女が告げたのだ。
「やろうぜ! こいつなら勝てる!」
「……これならどんな戦車だって撃ち抜けそう」
「頑張ろう! 頑張ろうよ、みんな!」
「しょうがない! 何でもいいわもう! 絶対、私達は勝つのよ! そうよね、エリカ!」
「ええ、そうよ。絶対勝つわ!」
自然と手を重ね合わせて、円陣となった。あとは勝ち鬨を上げるだけ。
そして早く、この戦車に乗りたい。
時間を惜しむ気持ちはチームの誰もが同様であった。
「あの、あとまだ伝えたいことがあります。この秘密の切り札を投入するために機会を待ちに待った結果、演習までの日数は残りわずかとなりました」
多少の遅れは努力で挽回してみせる。
当日までには必ず乗りこなしてみせる。
勝利を掴むために必要な役者と道具、舞台は揃った。
皆で頷き合う。気持ちは一緒だった。
「あ、あと台風の接近が予想されるため、演習日程を前倒ししました。皆さんにはこの車両、あと1週間で乗れるようにして欲しいんです」
「はああぁっ……!?」
チーム5人の声が一つに重なる。
皆の心も、一つだった……。
やる、やらないではない。
何を聞かされようが残りはもう、やるしかない。
そうよ、私達の一番の強みはこのチームワークなのよ……。