人が生きるのに。
普遍的な命題があるとして、恒久的な美質があるとして。
そんなものが一介の女子高生に分かったなら。
その後の人生は酷く退屈なものに成り下がりはしないだろうか。
例えば腕がなくても人は生きていける。
抱擁さえ望まなければ。
顎が吹き飛んでも人は生きていける。
焼き立てのパンケーキの食感も、好きな人とのキスにも興味がない人にとっては己の幸福は何ら損なわれていない。
命が奪われても、例えば徹甲弾でエンジンを射抜かれてそのまま炎に包まれるとか、航空支援による爆撃で車体と共に吹き飛ぶとかで。
死んだ人を悪く言う人はいないから、じゃあ何も有名にならなくたって「善い人だった」と評される帰着は一緒なのだから。
そんな人生の終え方だって価値のある一生と呼べるのではないだろうか。
そんな馬鹿なと言うだろうけど”これ”は本来そういうものだ。
この虎と呼ばれる乗り物は使命を帯びて産み出され、それを忠実に履行した結果、欧州のそこかしこで人間を消し炭と肉塊に変えてきた。
この乗り物の目的は何か。なぜこんな形をしているのか。
知ってどうなる?
だから乗る意味なんかいちいち考えない。
湯切りに失敗してパスタがシンクに落ちたなら、普通に食べれないなって思う。
世界のどこかの飢えた子供のことなんていちいち想像しない。
人は見るもの触れるもの、全てに忘却を強いる。
それなのに座視することに食傷したら、次にはなんと品格を掲げ出した。
笑えないくらい滑稽。こんな乗り物で身に付く礼儀ってなんなのよ。
ただ乱暴に布を被せ、綻びを縫うこともしないで覆い隠された表層だけの粗雑な美徳。
そんなものを有り難がって戦車に乗っているわけではない。
薄ら寒いモノの価値や約束事なんかに、この年で通底していたいなんて思わない。
でも別に懺悔がしたいわけでもない。
自分のやりたいことくらい、自分で決める。
だから卑俗だろうと低劣だろうと自分の見るべきものは自らに託す。それだけだ。
勝って気に入らないやつの鼻を明かしたい。
これだ。
最高に気分が高揚する。
私の戦車に乗る最大の目的はこれだ。
これだった。今も大して変化はない。
勝ちたい想いだけなら、いつも表彰台の真ん中のつもりだ。
けれども戦車は1人では動かせない。
1台だけでは勝負の俎上には載れない。
何両あろうが戦術がなければ勝てない。
だから興味が出た。
相手車両がゼロになってこちらが1台残っていれば勝ちは勝ちだが、それでは美意識に劣る気がする。
礼儀作法だとか見た目の話ではなくて、損耗し合う戦車道において、
圧倒的に勝つということは、こちらの生存率を高めるのと同義なのだ。
どうしたら皆を活かす効率的な運用ができるのか。
言われてみれば奥が深い。
砲弾を悉く弾き返す装甲と紙を破るように容易く鉄塊を貫く火力を持って、相対する者を比類なき質量で蹂躙する黒森峰の戦い方。
いや、西住のやり方に彼女は抵抗している節がある。
何故かは知らない。始めは大して興味もなかった。
自慢ではないが私はそれなりに成績も内申もいい方で、ご高名な良家のお嬢様と相部屋するに相応しい振る舞いにも自信はあった。
まぁ、実際には全日本強化選手である姉の後ろに付いて回って、まともに部屋に帰って来たことなんて数える程しかなかったんだけど。
それでも閉口する事象に欠くことはなかった。
シュトリヒは呼吸するように平々と通じていながら、教室では三角関数に躓いている。
かと思えば上級生と共に遠征する週には、いつ寝ているのかと言うくらい
深夜まで薄明かりの机に座り演習場の地図を眺めては、相手そして自軍の配置、幾分か後の予想位置と以降の進路など一言ではまとめ切れない多様な何かをひたすら書き記していた。
片や悪趣味な熊のキャラクターが大好きで、押し付けてきたぬいぐるみをそれとなく拒否したら1日機嫌が悪くなり宥めるのに苦労した。
罪滅ぼしのつもりで買い物に付き合ったら、件の気持ち悪い熊の食玩集めのために2,000円も供出させられた。
どちらかと言えば自由奔放、天真爛漫、そういった類の子である。
ただ同学年の子と過ごす時間は短いせいか、話しかける者も少なく、
学食では大概1人で、食が太いわけでもないのにそそくさとプレートを片付けては耳目を避けてさっさと席を去る。
そんな子だった。
だから彼女の中での私に対する扱いというのは、それなりに高い方なのかも知れない。
今日のこの試合だって、私のために方々を駆け回って手配をしてくれた。
ルームメイトだから。
中等部から同じ戦車道をやっていて、食堂で相席するのなんて私くらいしかいなくて。
たまに宿題を教えてやり。
そういうことの礼なのだと思った。
だが違うと言う。
私が、彼女の姉を庇ってくれたから、だそうだ。
なるほど確かに、西住まほ、隊長は私の尊敬する人である。
自分の血筋や才覚に驕ることなく常に先頭に立ち隊員を導く。
その姿の秀麗なるところはまさに戦車道の模範である。
私がなりたいと思うものを馬鹿にされたら、そりゃ腹も立つ。当然言い返しもした。
隊長だもの。
私の目標だもの。
貴方のお姉さんなのだから。
最初の印象は明らかに隊長の妹、それだけだったけれど。
私の中で、いつしか隊長の添え物では無くなり彼女は個となった。
大きな目に明るい栗色の髪、寝起きの悪いところ。
考え込むと人差し指で唇をぐにぐにとするところ。
コーヒーをろくに飲めないところ。
すぐ拗ねるところ。
爪にも睫毛にすら今はすべてに貴方の名前が付けてある。
その名を叫ぶ。
『西住さん! こちらグラウフクス! Ⅲ号を後退させて下さい! パンター3両の相手は無理です!』
『林を捨てるけど仕方ないかもですね。カッツェチームさん、フラッグ、フラッグ車は見えますか?』
『カッツェ、フラッグ車は見当たりません』
『なら砲撃をしてから後退して下さい。当てなくてもいいです。当たってもⅢ号では抜けませんし。それに当てる腕前がある砲手ならパンターの装甲厚は知っているはずですから、疑って進路を変えるかも知れません。慌てて逃げたと思われた方が追撃してくる可能性は高まります』
最初の撃ち合いは私の鼻先で起こった。
スペック上の速度はそれほど変わらないⅢ号ではあるが、何せこちらは重量が倍もある。
丘陵コースの特徴である起伏の連続が駆動系を軋ませる。
大戦末期と違い、潤沢に物資溢れる現代において製造された工業品なのだし信頼性は向上している。メンテナンスだって充実している。
さすがに当時から枷となっていたエンジンを換装してボアアップとなると
レギュレーションに抵触するが、やらないだけで不可能な話ではない。
とはいえ何が起こるのか分からないのが実戦。
丈夫になったからと言って壊れない保証はない。
そもそも開戦はもっと東で想定されていた。
山下の乗るパンターがフラッグ車なのではないかと可能性として多少考慮もされたが、これは西住さんの言う通り本人が自由に動くためフラッグは他に譲ったようだ。
つまり奥に控えるⅢ号、そのいずれかに本命がいる。
私の手でフラッグ車を撃破して今までの鬱憤を晴らすという最高の機会は失したが、軽快に動き回れるわけでもない私の車両には土台無理な話だったし、まぁいいわ。
天然の遮蔽物となる林を放棄すれば、後はフェアウェイ。隠れるところなどない平原だ。
確実に敵は当ててくるだろう。
だから、樹木を楯に前線を構築するのが最良ではあるが仕方ない。
向こうの行動の方が早かった。
今、問題なのは辿り着けるかどうかで。
「Ⅲ号がすでに交戦しているわ! 早く! 早く13番のOBへ!」
「そうだ! 早くアハトアハトを撃たせろよ!」
「……砲手は私なんだけど」
「ハーゼさんチームも敵を見たって!」
「なんだよー! 敵さん見てないのうちらだけじゃん!」
「うるさい! 遅いのは私じゃなくて、この亀のせいでしょうが!」
相手フラッグ車の所在は未だ不明のままである。
だが状況に常態はなく、すべてが数分後には違う顔をしている。
『こちらカッツェ! 激しい攻撃を受けています!後退したいけど後ろは平原だし。ここの方がまだ隠れられるし! それにグラウフクスはすぐ来ますよね!?』
苛立ちは火の粉となって降り注ぎ、身体を焼く。背中がひりひりと痛む。
「ひより、伝えて! 今すぐ行くと!」
「で、でも!」
「……エリカ、落ち着いて。正確じゃない情報を無線で飛ばさないで」
「そうさ、それより見てみろよ。ここからでもやれることはある」
促されて立ち上がり、ハッチから身を乗り出した。
先程から繰り返されていた砲音が、より鮮明に鼓膜を震わす。
双眼鏡を前方に向けた瞬間、池の向こうに土砂が宙へと吹き上がるのを目にした。
視界を過ぎて後方へ流れてゆく立木は一枚の葉も動かないのに、目指す先の林だけが生き物のように蠢いている。
1本の木がダルマ落としのように垂直を保ったまま急に背の高さを落とし、やがて角度が生じ、太枝の抵抗を受けて小刻みに回転をしながら倒れた。
横たわる幹を今、カッツェチームのⅢ号戦車が乗り越えようとしている。
どうやら間に合ったようだ。そして為すべきことも見つかった。
樹木の間の小さく僅かな隙間の先に、デュンケルゲルプの横隊を発見する。
「裕美、いける?」
「……距離およそ800m、一撃で仕留めてみせる」
呼吸を整える。そっと咽頭マイクに手を置く。
『戦車止まれ』
巨躯は軋みながらたゆたい、やがて停止した。
『弾種、徹甲』
速やかに砲弾が装填され閉鎖機が閉じられる。
『目標、1時、パンター』
4シュトリヒ、817m、仰角2度上げ。
残りの一言を発するのに口腔の乾きをあらためて自覚する。
今までのⅢ号に乗って繰り広げてきた戦いは削り合いだった。
履帯を狙うだとか砲塔と車体の結合部を狙うだとか火力不足を補うための目隠しで針穴に糸を通すような、分母の桁が多い賭けばかりだった。
だが、この戦車は違う。
慈悲なき暴力を過剰なまでに詰め込んだ砲弾は、一撃で確実な破壊をもたらす。
私の一声は相手戦車にとっての最後通告となるのだ。
武者震いか、もしくは純粋な恐怖からか、身が震える。
今は試合中だ。敵車両への同情など皆無である。
だが私は謙虚さや冷静さを損なうこと無く、この力を制御できるのだろうか。
傲慢さや慢心から判断を誤るような、無様に堕落する未来はないと言い切れるだろうか?
逡巡する間、瞼は開かれたまま再び幻の背中を見た。
明るい栗毛が風を孕んで広がっては閉じる様は、獣が疾走する足使いそのものである。
常勝無敗の血統に胡座をかくような生き方を彼女はしていなかった。
そうだ。
使いこなすも何も、私だって勝利に飽くほど満ち足りて生きてきたわけじゃない。
一戦を這いずり回って藻掻いてそれでもなお、指の間から滑り抜けていく1勝。
1勝。
今日の勝利のために。
他には何もいらない、ただ今日の1勝のために。
だから
力を貸して! ──ティーガー!
『撃て!』
「いつだって実戦は思う通りにはいかないものね」
パンター3両で相手をして未だに眼前のⅢ号が射止められない。
林の中という視界の悪さも一因ではあるが、1年ながら見事な回避運動である。
ここを踏破されれば後ろはフェアウェイ、遮蔽物のない草原を逃げ切れる確率は少ない。
踏み止まるならば、ここしかない。
有効弾を与えられないのは遺憾であるが、しかし胸中は憤りよりも歓喜が占めている。
これこそが二人の夢が結実した姿なのだから。
貴方と目指した黒森峰が今、目の前にあるわ。まほ。
10連覇程度に留まらず、私達が卒業した後も覇業を継承していく誇れる後輩達。
今、私が対峙しているのは西住まほが希求した真の黒森峰なのだ。
この場、この試合の当事者でなければ感涙していたかも知れない。
だが山下文代の鼓動を煽る熱気は別のところにもあった。
パンターの正面装甲を零距離からでも抜くことの難しいⅢ号が逃げることなく、この場で耐え忍ぶ理由は一つしか考えられない。
間違いない。西住みほのティーガーⅠはいずれここに現れる。
1年生チームの切り札、ややもすればフラッグ車かも知れない妹の戦車を破れば、紛うこと無き西住まほの右腕は山下本人である。
山下にとっては高校最後となる戦車道全国大会を目前にして、副隊長は西住みほとすると、姉であり隊長である西住まほは明言した。
だが3年間の結集を、それで良しと退けるほど無私にはなれなかった。
黒森峰戦車隊長を最も間近で見る栄誉、それくらいの褒美を望んで何の罪になるものか。
1年の慣れぬ行進間射撃と言えども、履帯に着弾すれば危うい戦闘にあえて付き合うのは視線の先に常にいる、西住姉妹のためと言っていい。
まほも恐らくモニターから見ているだろう。
隊長である貴方の傍らに相応しいかどうかは分からない。
だが似合わなかろうと、是非など実力で捻じ伏せてしまえば答えは一つしかない。
客観的に見れば実績は山下の方が遥かに上である。
山下にとっても今日は決して負けれぬ試合なのだ。
『敵増援の前にⅢ号は叩きます。小隊集中跳進射、撃て』
着弾の衝撃で装甲が剥ぎ落とされる。
砲塔側面ハッチは歪み、積まれた予備転輪が車体から転がり落ちた。
だが、やはり無情にも有効弾とはならなかった。
跳弾がⅢ号の左に流れて木をなぎ倒す。
壁に埋め込まれた小窓のように、その箇所だけ視界が開けた。
そして、その先にいる異形の物が鮮明となる。
最初に発見したのは左に展開するパンター、ディステルチームであった。
「んな……!? あれは!」
高さ約3m、横幅にすれば4m近い69トンの重戦車。
パンターに似て傾斜した前面装甲。
その巨体をしてもなお異様と言える長い砲身が、今、こちらを向いている。
「まずい! 回避! 9時方向に回避! 横に逃げろ! 射界を切れ!」
その瞬間、猛烈な風切音を伴って光体が飛翔してくる。
光の塊は、かろうじて回頭したパンターの後ろに逸れ、致命傷に至らぬ代わりに後部収納ボックスと消炎マフラーを粉砕し、金属片を四散させた。
「……あ」
「外れた!?」
狙いが悪かったわけではない。
パンターは明らかに回避行動を取っていた。バレたか。
そもそも、こんなデカブツを隠し通せる訳もない。
だが豹の群れが目の前の餌に食いついている間に、ここまで接近できただけでもⅢ号カッツェチームは十分な働きをしてくれた。
次は私が仕事をする番だわ。
『ティーガー!ケーニヒスティーガーです!』
Ⅵ号戦車ティーガーⅡ。
西住姉妹の駆るティーガーⅠの発展型。
前面は150mmの傾斜装甲。
搭載した71口径8.8cm砲は2,000m先からでも分厚い装甲を撃ち抜く。
大戦中の連合国軍にはこれを貫通可能な火砲も、アハトアハトを防ぎ切る装甲の戦車も存在しなかった。
何の誇張もなく、まさに無敵の重戦車である。
仮にティーガーⅠであったなら、1,000m内に入ればパンターならば撃ち負けはしない。
しかしこのティーガーⅡの重装甲に対しては、どれだけ距離を詰めようが正面から挑んでも勝ち目はなかった。
火力の通じないパンターは一方的に不利である。
「そんな……だって整備班のやつら、そんなこと一言も……」
搭乗員の誰かが漏らした言葉を山下は思わず聞き咎めた。
「わざわざ1年が何に乗るか聞いて回ったと言うこと?」
相手はどんな戦車を繰り出して来るのか。
作戦の精度を上げるのに、これほど有益な情報はない。
誰もが知りたくて、だからこそ対戦相手も秘匿する。
チームの人間の形振り構わぬ所作を咎める理由はない。
だがその無罪は、最上級生としての矜持を度外視した後の話である。
パンター車内にもう言葉を発する者はなかった。
空気が粘度を増し、沈黙が重く肩に乗り掛かる。
駆動音だけが響く固化した空間を最初に破ったのは山下のため息だった。
『全車、後退。相手の足は遅い。一旦退いて体制を立て直します』
側面から攻撃さえすればティーガーⅡは止められる。
だが先程の砲撃から察するに、相手砲手の技量は一目置くべきものだ。
展開したところを各個撃破される可能性は十分に考えられる。
今度はこちら側が、遮る物のない草原の、格好の標的なのだ。
『そんな! 山下さん、西住流が敵を目の前にして逃げるのですか!?』
先ほどから冷静に努めようとした山下であったが、ついに渋面を隠し切れなくなった。
普段からまほの陰口を叩く連中が、今さら西住流を担ぐのか?
不快感が電波を通じて拡散しないよう注意するという仕事が増える。
『西住流は無駄な損耗を推奨する教えではないわ。ティーガーⅡなら正面から撃ち合うよりも、ただ走らせるだけでいい。せいぜい足回りを酷使して貰うだけで、こちらの勝算は高くなるのよ』
いくら砲撃は弾いても、重量が理由の低燃費に加えエンジンのオーバーヒートや駆動系の故障など、内部機構が脆いのもⅥ号戦車の特徴である。
走破性に関しては軽いパンターの方が優れている。
幸い、このフィールドは丘陵に富んだアップダウンの激しい地形だ。
減速加速とギアを入れ替える度にティーガーⅡの足周りは悲鳴を上げていることだろう。
喜び勇んで駆け付けた切り札が、足を壊して頓挫するなど無様と言うより他ない。
戦うという選択肢よりも、もっと耐え難い恥辱を与えることになるはずだ。
その想像図は不意打ちを食らった上級生の溜飲を下げるのに十二分であった。
『了解しました。後退します』
『そうして頂戴。ディステル、ヴィッケ両チーム共1番ホールまで後退』
みほさん、車両の選択は大胆かつ合理的であるけれど、正面からやり合わない方法を選択すれば重戦車と言えども脅威とはならないわ。
これが貴方の”上限”かしら。
「パンターが後退していく!?」
「まずいわ、エリカ。パンターが本気で逃げたらこいつでは追いつけない!」
「どどどどうしよ! 西住さんに何て言えば!」
そのとき、いつもと変わらない抑揚の無線が入った。
まるでこの鉄火場を、我らの狼狽ぶりを見透かしていたかのように。
『こちら西住、カッツェさん、グラウフクスさん、状況を知らせて下さい。パンターは前進してますか、後退しましたか?』
今、この前線から遠く離れて息を潜めているはずのこの子には一体何が見えるのだろう。
思わずエリカは身震いをした。
「ひより! 無線よ! パンターは後退していると言って!」
『あっ! こちらグラウフクス! パ、パンターは逃げました! 後退! 後退して行きます!』
『了解しました。まだこちらは敵フラッグを捕捉していませんので、もう少し時間を稼いで貰います』
作戦変更!もっとひらひら作戦です!
『了解、フラッグ車前進します。グラウフクスさん、頼みます!』
『こちらグラウフクス。しっかり背中に隠れててね!』
作戦名のセンスは本当に致命的ね。
とんでもない肩透かしではあるが、やることはフラッグ車を故意に相手の射界に入れるという危険を伴うものである。
フラッグ車を撒き餌に戦場を南に固定する。
せっかく用意したティーガーⅡだ。上級生にもプレゼントは大いに楽しんで貰いたい。
そして、西住みほの車両は、まだ息を潜める必要があるのだ。
『山下さん! 敵フラッグ車発見! ケーニヒスティーガーの後ろです!』
後退中の味方車両からの報告を聞き、山下は軽く握った右手を口元に当てた。
舌打ちを隠すためである。
めんどくさいことになったわね。
ティーガーⅡを巻いてから悠々と敵フラッグ車を探すつもりが、目論見が外れた。
だがティーガーⅡとフラッグ車が行動を共にしているということは、
こちらが無理に争わず後退することも想定内だったというのか。
後退は、普段叩き込まれた西住流の流儀に反することである。
軽々に決断できるはずのないものだった。
みほさん、貴方の限界をやはり私は見誤っていたようね。
『Ⅲ号トゥルペチームは1番ホールに向かって。我々と合流して下さい。リーリエチームも観測はもういいわ。敵フラッグ車の場所は判別したのだから、もう出し惜しみは無しよ。フラッグ車を護衛しつつ両車両、共に南下を開始して下さい。パンター3両でケーニヒスティーガーを刺し違えてでも止めます。その後のフラッグ車はⅢ号の皆さんに任せるわ』
1年生チームの残り3両(内2両はラングであることは間違いないが)の所在は未だ不明のままである。
パンターと同じ威力を持った駆逐戦車の存在は不気味ではあるが、幸いにもフラッグを含めた目前の3両は隠れる場所のない草原へ自ら進んで来ている。
視界内にはフラッグであるⅢ号戦車と先程の攻撃を受けて満身創痍のⅢ号戦車と、このティーガーⅡしか見当たらない。
砲塔のない、格闘に不向きなラングの仕事は待ち伏せだ。
こちらの後退にフラッグ車が付いてくるなら、我々の都合に振り回されて貰おう。
敵フラッグ車の後退、誘う仕草にさえ注意していれば、彼らが設定したポイントに誘導されるがまま足を踏み入れさえしなければ、待ち伏せそのものを無効化できる。
フラッグ車さん、ティーガーⅡを剥ぎ取るまで、そこでおどけているといいわ。
さほどの時を経ずして、ラング1両の所在が判明した。
『こちらトゥルペ、敵車両より攻撃を受けました。10番セカンド付近でラングと交戦中』
さっそく化けの皮が剥がれたわね。敵の待ち伏せポイントを一つ確実に潰したわ。
『了解。トゥルペチームは目の前のラングを優先して下さい。リーリエ、フラッグ車はトゥルペと合流してラングの前進を食い止めて』
それではじっくり調理といきましょうか。
『こちらハーゼチーム! すみません! 敵Ⅲ号の背面を捉えたので撃ったんですが…外れてしまいました! 現在、Ⅲ号と交戦中です!』
『フント、了解。マオルヴルフさん、敵フラッグ車はまだ発見できませんか?』
『──ちら──マオルヴルフ──だ──ッグ車は発見──ません』
元々ここはゴルフ場である。徒歩での移動を想定した広さなのではあるが、戦車一つを人力で探索するのは予想以上に難航している。
「ならばフラッグ車発見を待つまでもないわ。パンターを仕留めてこちらから探しに行ってあげる。由貴、このままグラウフクスは前進よ!」
「了解、車長さん。こうなったら行けるとこまで行くわ」
「……弾が外れるから、なるべくなら動かないで欲しい」
「おっしゃあああ! ここがヴィレル・ボカージュだああああああ!」
「ええー? 私は親衛隊じゃなくてやっぱり国防軍の方が……」
『ケーニヒスティーガー、先行して来ます』
「でしょうね」
乗る者は、さぞかし愉快だろう。
正面の撃ち合いでは、こちらの攻撃がまったく効かないのだから。
だが所詮、敵は1両。勝機はある。
『ディステルチーム、先導して。ヴィッケチームは私の後方に。目標のティーガーに対し縦列、反時計周りに進行。ティーガーの砲撃を起点にT字に展開。いずれかの車両が側面さえ捉えられれば、私達の勝ちよ』
『了解!』
『ヴィッケ了解!』
敵が狙いを定めた車両を囮に、いずれかの車両が側面を捉えればティーガーⅡの側面と背面ならば装甲厚はたったの80mm。パンターでも抜ける。
パンターの速度でゼロ距離まで詰めるのに要する時間は2分もない。
相手の砲は1本だ。一撃の威力に勝るとて3両同時の攻撃は不可能、必ず隙は生じる。
対して、こちらは同時に3両分の砲弾を打ち込める。その3両の内のたった一つだけでいい。
2分の内の、たった1発の有効弾で勝負は決まる。
『では戦車、前進。嵐の中へ』
「……パンターが前進して来た」
「回り込んでフラッグ車のところへ行く気? フラッグとカッツェは煙幕を!」
『Ⅲ号両チームは煙幕を、パンターがそちらに向かっています』
『フラッグ、了解』
『こちらカッツェ、発射筒ちゃんと作動するかなぁ……』
「どうせ正面も側面もないからって随分大胆ね。裕美、お願い、頼りにしてるわ。奈緒、貴方も、貴方の仕事をする番よ」
「……わかった。がんばる」
「うるさいなー、下の名前で呼ぶなよー」
「そして由貴。もうこの子を労る必要はないわ。いざとなったら何でもやるのよ」
「はぁー! もう壊れても恨まないでよ! エリカのせいだからね!」
「それじゃ、さっさと連中を倒して敵フラッグを探しに行くわよ!」
敵フラッグを見つけるのは多分、私の仕事ではないな。
それでも自分を鼓舞するために、エリカはそう告げた。
立ち上がりハッチを開け、身を乗り出す。
暑苦しい戦車内では気付かなかったが、ここに来る前に比べて風が冷たくなっていた。
こういうときは雨が降る。
「バカ! エリカ、お前! 今は戦闘中だぞ! 頭なんか出すな!」
「しょうがないでしょ。こうしないとパンターがよく見えないのよ」
「危ないじゃない! こんなことに命張らなくてもいいでしょ!」
「女だろうが、女子高生だろうが、命張るときくらいあるわ。今がその時よ!由貴、お願い、車体ごと敵車両に合わせて。3時、旋回」
「さっそく!? あーもう、お願いだから壊れないでね!」
左右の履帯が互いに逆の方向へ回転し、車体はパンターの車列を見据える。
パンター小隊の先頭を任されたディステルチームからもその挙動はよく見えた。
「超信地旋回か。さすがⅥ号戦車」
思わず見とれてしまう。大戦中にこの動きが可能な戦車はごく僅かだったからだ。
繊細にして高度な動きを見せるティーガーⅡの砲塔上から見覚えある顔が現れる。
肩までに切り揃えられた灰青の髪。
媚びることを知らず、端正な顔立ちゆえになおのこと鋭利に輝く双眸。
「逸見! ケーニヒスティーガーは西住さんが搭乗してるんじゃなかったの!?」
『山下さん! 逸見です! ケーニヒスティーガーの車長は逸見エリカです!』
「なんですって」
ジョーカーを操るラウンダーズは西住みほを想定していた。
1年生チームの最上位ハンドは彼女だからだ。
それが過信だったなんて。では一体、彼女はどこに?
ティーガーⅡの後ろにいたフラッグ車は? 煙幕に包まれ視認できない。
1年生チームで、未だ所在が分からない車両は残り2台。
煙幕で見失った2両のⅢ号戦車と眼前のティーガーⅡ、そして報告のあったラング1両から逆算してU-200戦のレギュレーション内で選択可能な車両はⅢ号戦車かラングのいずれかのみ。
4名で構成されたチームは試合開始前に2組確認した。
つまりラングはあと1両どこかに潜んでいる。
試合前に見た西住みほのチームには……5人いた。
思い出せ、それぞれの顔を。
車長は疑問の余地なく西住みほだろう。砲手は、操縦手は……?
輪郭の判然としない疑念が数秒の内に悪寒を伴った確信へと変わる。
西住みほのチームには通信手が二人いた!
搭乗員構成は実質4名、彼女もラングに乗っているのでは!?
『フラッグチーム、前進やめ! リーリエチームは? 現在地を知らせて!』
『こ、こちらリーリエ。8番ティーでフラッグを待っています』
『……了解。ではフラッグチームは、あらためてリーリエとの合流を最優先に。8番ティーね、そこが一番視界が開けているわ。その場で待機、索敵を怠らないように』
拍子抜けはしたが、自軍フラッグの安全が確保されるならそれに越したことはない。
小さく息を吐き、残りの命令を達する。
『ディステルチーム、回頭して。敵フラッグへの接近は取り止めよ。チェックメイトは相手の駒を確実に減らした後にするわ。そのまま2時方向へ全速、トゥルペより報告のあったラングを叩きます。ヴィッケはディステルの後ろについて。この場の殿は私が請け負います』
罠は二重三重に仕掛けるものだ。あの子も、そうするのではないか。
私も、もしラングに乗ってこの場にいたのなら、難敵を葬って生じる緊張の、綻びの間を狙う。
障害をすべて乗り越えたと相手が錯覚した瞬間に弾を撃ち込んでやる。
そもそも煙幕で見失ったⅢ号が、先程と変わらず呑気に手の届く距離にいる確率はいかほどのものか。
勝因は戦略戦術そして運が複雑怪奇に交わった結果であり単純な言葉に置き換えられるものではないが、敗因を語るのは簡単だ。
自分に都合の良い選択をする者は負ける。
1両のラングの存在を頑なに伏せた彼女の思考を凌駕せねば負けてしまう。
車影が見えぬから、そこにもう他の敵はいないだなどと何の根拠もない希望的観測に過ぎない。
冒険するには早すぎたかも知れない。まだ時間はあったのだ。
「パンターが逃げてく!?」
「……分からない。ブラフかも知れない」
パンターの砲撃ならば受けきれる。しかし、あくまでもそれは正面装甲に限った話だ。
2,000m圏内で正面以外の箇所は、すべて致命打となりかねない。
機動力こそ鈍足な虎重戦車に勝る最大の脅威ではあるが、何も接近戦に固執する必要はないのだ。
「まずいわ、どこか見えないところに行かれちゃ困るのよ、こっちは」
砲撃の手が緩まり頭は出しやすくなったのに、目標を見失っては元も子もない。
戦域を離脱しようとしているパンターのキューポラ付近が光を強く反射した。
この光り方は双眼鏡だろうか。相手もこちらを覗いている。
何か、何か手はないか。
遅いこの戦車では全速で逃げるパンターに追い付けない。
そもそも、なぜこの場面で後退する? こちらのフラッグ車は私の真後ろにいる。
私を倒せば3年生チームの勝利は指で触れられる距離にある。
この場所から、どこに向かうのか。その行き先とは……。
一つの可能性が頭を過ぎる。
みほが見つかってしまった!?
まずい。
なら、どうすればいい?
こういう切羽詰まったときほど己の性根が出るのだろうな。
可愛げのないのは自覚している。こんな事しか思い浮かばない性質なのだ。
それだけ戦いが好きってことなのだろう。
あいつらをどこかへ行かせるわけにはいかない。
みほの所へは行かせない。
「よし…!」
「わぁ! お前!バカ!」
砲弾の飛び交う中、頭だけでなくハッチから半身を乗り出す。
双眼鏡でパンターの車列を確認する。もし向こうが見てなかったら恥ずかしいし。
果たして相手の車長も頭を出してこちらを見ている。
見物客には芸をせねば。喜んで貰えるかしら?
大袈裟な笑顔を作り、右腕を伸ばし手の甲を下に、鍵盤を奏でるように指のウェーブを繰り返す。
ジェスチャーの意味は。
――逃げるな。私と戦え。
「あの小娘がああああ!」
戦列が乱れた。パンターが1両、砲撃と共にこちらに猛進してくる。
「うわぁっと!」
パンターより放たれた光体が至近距離を通過していった。
慌ててしゃがんだため、座椅子でお尻を痛打する。
略帽も車内か車外か、いずこかへ落としてしまった。
「いい加減、中に入りなさいよ!」
「……1両なんかすごい勢いでこっち来るんだけど、何したの?」
「別に、かかってこいって挑発しただけよ」
エンジンの音だけが響く車内を、しばしの沈黙が包む。
「うわはははははははは! 逸見お前やっぱ最高だぜ! 俺もやりたい!」
「バカ! 立ち上がるな! まずはこっちに来るパンターをやっつけるのが先よ!」
「……奈緒は自分の仕事をして」
「うふふ、エリカ! それじゃあ命令をしてちょうだい!」
「戦車停止、目標、パンター! ……は左に逸れていくわ。よく狙って。撃て!」
円錐形の物体はガス圧によって従来の8.8cm戦車砲より伸長された71口径砲身内部で加速し射出される。
偏差射撃の想定した軌道上で運悪く、進むパンターは交差してしまった。
砲弾は加熱変形をしながら速度という運動エネルギーを伴って、音を立てて敵車両の前面装甲を抉る。
そして戦車は静寂に支配された。
立ち昇る煙だけが形を変え揺らぎ、他一切動きを停止した戦車砲塔部から
判定装置は滑らかな動きで白旗を掲示する。
呆然とする通信手に報告を促す。
「ひより、伝えて」
自分を取り戻した三浦ひよりは力強く頷く。
『こちら、グラウフクス。パンター1両、撃破、しました!』
「うおっしゃああああああ見たかコルァアアア!」
「……ふう、上手くいった。……良かった」
「よくやったわ! 裕美!」
「はいはい。目の前にあと2両残ってるわ。これも片付けるわよ!」
無線を介して、よく聞いた声。
ルームメイトからも祝福が届いた。
『やりましたね、逸見さん』
『ありがとう、そちらも早めにお願いします。西住さん』
『うん! 了解! 頑張ります!』
お互いが見えぬ場所、だが同じフィールドで二人は握手の感触を想像し合う。
今だからこそ言えた。
思い返せば私は、西住さんに何かをやってなどと頼んだことは、今までなかった。
「愚かな……!」
『こ、こちら、ヴィッケチーム……やられてしまいました……』
一部始終を見ていた。
挑発に乗り、無様に白煙を上げる最後まで。
『乗員に怪我はないかしら? 貴方達の敵は必ず取るわ』
撃ちつ撃たれつが常のこの競技で、負ける度に激高してなどいられない。
しかしパンターが1両減ったのは明らかに誤算だ。
『山下さん! 敵を! ヴィッケの仇討ちを! 敵フラッグ車もすぐ後ろにいるんです!』
張られた煙幕も収まりつつある。Ⅲ号からの砲撃も確認した。
敵フラッグがまだそこに留まっていることは間違いない。
問題は残りのラングの居場所だ。
進むべきか、やはり退くべきか。
その時、両者の文言は異なるが、同じ状況を伝える無線が届く。
『こちら、トゥルペ。敵ラング1両撃破。今からそちらに向かいます』
『こ! こちらハーゼ! Ⅲ号にやられちゃいました! Ⅲ号が南下して行きます!』
交戦中だったⅢ号戦車が、一年チームのラングを突破した。
山下にとっては僥倖だった。
渦中のラングが実際に待ち伏せをしており損害を受けるとしても、このⅢ号を使えばパンターの損耗を抑えられる。
今までもそういう運用をしてきた。
大局に応じて冷徹に手札を切りながら、ここまで生き残ってきたのだ。
今ここで生き方を変える必要などない。
『了解。トゥルペチームにお願い。敵フラッグ車が10番ホールアプローチ付近にいるわ。ラングが潜んでいる可能性もあるから慎重に。それらをあぶり出して欲しいのよ。お願いできるかしら?』
『トゥルペ了解。精々慌てさせてやりますよ』
満足のいく返事だ。
ふとティーガーⅡ車長の灰青の髪をした彼女のことを思い出す。
確かに貴方は強いけれど、無敵の兵器などないのよ。
戦車1両が戦局に与える影響などごく僅かなのだ。
エースの活躍が勝敗を左右するなど浅慮を越え、すでに戦車道への冒涜と言ってよい。
チーム戦は強者が賽を振るだけのゲームではない。捨て駒にも意味はある。
立ち位置が切られる側となるのに不服なのは理解できる。
だが将棋もチェスも、駒の一つもやり取りせずに勝負が決まることなどあり得ない。
いずれ時が来れば従う側である貴方も、統率する側になったでしょうけれど。
指揮する者が先頭に立ち、誰よりも多くの敵戦車を撃破する。
確かにロマンであり、それをする人間を黒森峰に在する者ならば誰もが知っている。
だが貴方は絶対に西住にはなれないのよ。
まして”同じ1年”なのだから、その理想を追うとなれば逸見エリカ、貴方は危険すぎる。
私は黒森峰を脅かす者に容赦はしないわ。芽はここで摘む。
「ハーゼチームがⅢ号にやられた?」
砲塔がなく近接戦闘に弱いラングではあるが前面は80mmの傾斜装甲を誇り、備えられた火砲もパンター同様の貫通力を持ち、防御も攻撃もⅢ号を上回っている。
背面を取る以外にラングは倒せないはずなのに。
それを可能にした技量、さすがは黒森峰の最上級生だと感服せざるを得ない。
しかし尊敬ばかりに終止してはいられない。事態は深刻である。
パンター2両を相手にこれから立ち回らねばならないティーガーⅡがフラッグの援護に向かうのは難しい。
ティーガーⅡを後退させ前線を下げれば、奴等ならば易々とフラッグを貫いてくるだろう。
フラッグ車はカッツェチームが護衛をしてはいるが、フラッグ戦という性質上どんな形であれフラッグ車が墜ちれば即負けとなる。
敵の有効射程内にフラッグが晒されるなど静観できるものではない。
迫るⅢ号だけではない。
そもそも面前のパンターの射程は、すでにいつでもⅢ号の装甲など貫けるのだ。
車両数に限れば3vs3ではあるが、実際の戦況は五分には遠い。
こちらはまだ3年生チームのフラッグ車を発見してすらいないのだから。
趨勢は3年生チームの方に傾きつつあった。
私はヒーローになりたかったのだろうか。
初めは確かに憧れだったかも知れない。
誰よりも強く、戦場を駆ける西住隊長は私の理想だった。
その夢は今でも燦然と輝いている。諦めたくはない。
だが足りないものの方が多かった。
私は個の強さしか見ていなかった。黒森峰は群の強さを求めているのに。
作戦指揮能力、統率力、状況判断力、そういったものだけではない。
西住隊長が強いのは、皆、彼女のことが好きだからだ。崇拝と呼んでもいい。
私に絶対的に足りなかったもの。
隊長のようになりたいと言っておきながら、私は敵ばかり作ってしまった。
求心力などという簡単に言葉で総括できるものではない。
私は根底から他人があまり好きではなかった。
誰かに頼ることをしなかった。独りの方が心穏やかになれた。
貸しを作ることが心底嫌だった。
認めたくはないが、人間としての器が小さかったのだ。
戦車道をまったく理解していなかった。軽んじていたと言い換えてもいい。
戦車は、独りでは動かせない。
勝敗は、1両の戦車で決められるものではない。
今は、それが分かる。
分かるようになった。
これから私が行うのは強くもなければ格好良くもない遅延戦闘。
西住みほが敵フラッグ車を撃破するまでの時間稼ぎ。
私が普段山下達、上級生に強いられていたのと同じことである。
でも違う。
これは何かの罰ではないし、私が時間を稼いでる間に必ず彼女は
敵フラッグを見つけ出し見事撃破してみせるだろう。
楽観でもウォー・ハイでもなく、冷静に心からそう思えた。
運命は自力で掴むだけではない。誰かに託しても構わない。
他人任せにすることで人間の価値が減衰するはずなどないのに。
頑なに拒んでいた私は臆病者だった。自分を知ることが怖かったのだ。
自分はヴィットマンではないし、西住姉妹にもなれない。
認めることがたまらなく恐怖だった。
でも今は違う。
私は私なんだ。目指す頂に至らぬとしても私という人間はここにいる。
勝たなければ人間が人間でいられないなんて強迫観念に苛まされていたけれど
涙も出れば、笑いもするし、私は、生きてる。
この試合を勝利に導くのは私の役目じゃない。
私は私にできることをするだけ。
だから、行こう。
みんな、そしてティーガーⅡ。
「やるだけやりましょ。変わらないわ、普段と同じ。」
「まぁとりあえずの相手は2両だけだろ? いつもより少ないじゃん、むしろ」
「……フラッグ車に当てるまでは弾も節約しないと」
「やっぱこの子にも格闘戦ができることを証明してあげないと可哀想よねぇ」
「まだフラッグは見つからないし、西住さん達に時間作ってあげなきゃだよね!」
「そうよ。こんなところで負けてられないわ。行くわよ、みんな。Panzer vor!」
車体重量ゆえ常に高回転を強要されているエンジンはさらに熱を増してティーガーⅡは初動こそ緩やかに、やがて慣性力を得て加速を始めた。
今度こそ逃げるわけにはいかない。
西住流の戦いは前進こそ要。
自滅とは言えども自軍の屍を放置して後退などあり得ない。
目には目を、砲弾には砲弾を。
『こちらフラッグ、8番ティーに到着しました。リーリエと合流、待機します』
『了解、あと2両の居場所が未だ不明よ。引き続き警戒して』
フラッグ車はリーリエチームに任せた。あとは目下の標的を倒し前へ進むのみ。
『それではヴィッケチームの仇討ちよ。ケーニヒスティーガーを挟撃します。側面が射界に入ればこちらの勝ちだわ。あらためて戦車、前進』
お互いの距離がゼロになるまでの2分、弾に当たらなければこちらの勝ちは確定する。
フラッグ車を連れて来たことが今は貴方の足枷となったわね。
パンターを足止めするのには有効だったかも知れないけど、
さすがに貴方の1両だけで私達を相手にできると思ったのならば不遜にも程があるわ。
先輩には敬意を払いなさい。
同刻、前線より遠く後方、8番ホールティーグラウンド。
通信手は西住みほの乗るラングを飛び出してから20分ほど経過して、
ようやく目的を達する。
「……はぁはぁ」
風は強く木々を揺らし始めた。全力で駆けてきた身には冷たさが心地良い。
「何なの……結局2ホールも走り回って……はぁ……スタート地点に目標がいるなんて……」
汗は重さ12kgのFeldFu.f 携帯無線機に遮られ、蒸発する先のないまま背中から垂れる。
両腿もすでに限界に達しようとしていたが、走り続けてついに発見した。
『……こちらマオルヴルフ……敵フラッグ車を見付けました……。フラッグ車はⅢ号1両と共に……8番ティーにいます!』
「……っ! 西住さん! マオルヴルフより入電、8番ティーに敵フラッグ車!」
『小梅さん、敵フラッグを発見しました。ただちに8番ティーに向かいます』
『あ、はい! ……えええええ? やっぱりここを前進するんですか?』
『大丈夫、何の問題もありません。みんなの前で確認しましたし。言質は取ってあります。北の境界線は道路なんです。だからここはフィールド内です』
『りょ、了解。シュペルリングチーム突貫します!』
『フントより各車へ、敵フラッグを発見しました。撃破するまで後5分、5分間だけ時間を下さい。もう一度言います。どうか私を信じて下さい。お願いします』
「エリちゃん! フントから」
「ひより、聞こえたわ」
「5分、か。どうしたもんかな、こりゃ」
有効弾にこそならないが高い練度の砲撃が、先程からティーガーⅡの正面を捉えている。
それも通信手席や、砲手席付近に着弾をしていた。
砲塔や正面装甲にいくら打ち込まれようがティーガーⅡなら多少のことでは止まらない。
車体下方に砲撃が集中しているのは履帯を狙ってのことだろう。
履帯損傷だけでは判定装置は作動しないが、足を封じられた戦車に待つ運命は
たった一つしかない。ただ静かに破壊を待つのみである。
対するパンターとの距離は約1,000m。その差がゼロになるのに稼いでも2分。
2両とも撃破するという大変都合の良い未来。
それ以外の2/3の選択肢に書き添えてある結末はどちらも同じだった。
敗北。
ただそれだけである。
どうすればいい?戦場で最も貴重なのは考える余裕だ。
だが、そんなものを相手がくれるはずもなかった。
「エリカ! パンターが前進して来る!」
「正面ならいくら当たっても構わない! 停止したまま砲撃よ!」
まずは1両。距離が詰められる前に1両撃破すれば光明はある。
すでにパンター1両をこのアハトアハトで撃破しているのだ。
同じ要領で、同じ呼吸で、今度の1両も仕留めてみせる。
「撃て!」
1年生チームの運命を託した砲弾は打ち出され空を斬り、敵の車体に触れることもなく地面に刺さって虚しく土煙を上げた。
「外れた?」
照準先のパンターが発射直前に軌道を変えたのだ。
「バカめ! お前らの射撃サイクルはバレバレなんだよ!」
全力で砲弾を込め、可及的速やかに発射する。
最短効率を求めた反復作業には本人達には無自覚の内に規則性が生じており、向けられた砲から弾がいつ出てくるのか予測がついた。
とはいえ秒速1,000mの物体を実際に避けられるのかは限りなく運次第と言える。
はぁ……ついてないわね。
残り1分30秒。
「由貴、戦車微速後退よ」
「りょ、了解」
「パンターが回避できない距離まで溜めて。合図と共に足を使うわ」
「はぁっ? そんなの無理よ! 方向転換の瞬間に壊れるわ!」
「ここまで優しくしてあげたんだもの。最後くらい言うことを聞くわよ、多分」
「エリカ……あんたの彼氏には絶対なりたくないわね」
「大丈夫よ。別に欲しいなんて思ったことないから」
とにかく初弾は前から受け止めなければならない。
「裕美、目標からの着弾後、速やかに砲塔を旋回。背後のパンターをやって」
「……了解、今度こそ絶対に外さない。……がんばる」
「いつも通りでいいのよ。頼りにしてるわ」
「それと奈緒」
「なんだよエリちゃん! 何でも言ってくれ!」
「あんたは気が散るからしばらく黙ってて」
「おいこら! ふざけんな!」
「はいはい、ひより!隊長に……よろしく言っておいて」
「それは……終わってからにしようよ。まだ始まったばかりなんだし」
「ふふ、そうね。そうだわ」
パンターも臆することなく距離を詰めてくる。
こちらも戦車は動く。アハトアハトも健在だ。怖いものなど何もない。
「行くわ! 二時方向のパンターに向かって全速前進!」
これが高校生活最後の命令になったとしても、もう迷いはない。
「山下さん、ケーニヒスティーガーがこちらに向かって来ます」
「相打ちでも狙うつもりかしら?」
この距離では俯角が取れないため履帯も狙えない。
ティーガーⅡの正面装甲はゼロ距離からでも撃ち抜けない。
「砲手、お願いがあるの」
狙う箇所を指示された砲手は困惑したが、有効弾となり得るのはそこしかない。
「了解しました。しかし期待はしないで下さいよ」
「ふふ。まぁ私もこんな魔法みたいなこと成功するとは思えないけど砲撃を無効化するにはそこしかないのよ。お願いね。操縦手、ティーガーⅡの正面には出ないで。侵入角度に気をつけて。そうよ、速度を上げて……停止! 撃て!」
弾着の振動を感じるも、やはり有効弾には至らない。
砲塔のどこかをかすめるに止まりティーガーⅡは未だ健在である。
正面のパンターは1発弾丸を消費した。次弾装填までに事は終わる。
側面に回り込もうとしているもう1両のパンターをペリスコープ越しに見つめる。
カウント3、2、1。
「今よ! もう一度超信地旋回! 五時方向のパンターに突撃!」
「了解! ……頼むわよ!」
悲鳴のような金属音を立てながら巨体は急速に向かう先を変えようとしている。
堅固な防御力と引き換えに、駆動装置は砂の城よりも脆い重戦車にとっては拷問に等しい操作だった。
部品同士激しく摩耗し合い耐え難い負荷に軋み、鳴り響く音は鼓膜だけでなく皮膚をも介して聴覚神経を揺さぶる。
「お願い……!壊れないで!」
履帯と転輪が擦れ合い、悲鳴にも甲高い摩擦音が響く。
それだけだった。
戦車は操縦者の意志に従い、向きを変えた。
「やっぱりこの子は最高ね!」
「……やった……まだ動いてる」
「そのまま全速! パンターにぶつけるのよ!」
「ケーニヒスティーガーが向きを変えて……こちらに突っ込んで来ます!」
「うわっ! 撃て撃てっ!」
衝撃が激しく金属を鳴動させるも、やはり装甲を貫くには至らなかった。
「うははは! さすがティーガーⅡだ! この距離でパンターに撃たれても何ともないぜ!」
「奈緒は黙ってろって言ったでしょうが! 今よ、裕美! こっちも弾を使ったわ! 砲塔を回して! 照準を後方のパンターに!」
「……今度は絶対に外さない」
すべての条件が揃う。
戦車の車体は正面以外の装甲を薄くして作られている。
無敵の鎧を纏うティーガーⅡも例外ではなく、パンターの攻撃を防ぐには砲撃はすべて正面で受けきる他なかった。
車体後方、砲塔後部、車体側面、正面以外のあらゆる箇所が実際には弱点なのだ。
攻撃を防ぐには正面以外見せないこと。そして攻撃を受ける時間を作らないこと。
砲弾の装填は人力で行うため時間がかかる。
攻撃ができない以上、その時間ならば弱点を晒しても許された。
2両のパンターは共に再装填中だ。
有限の、そして制限のない自由な行動がとれる瞬間が今、巡って来たのだ。
「ケーニヒスティーガーにあんな挙動が可能だなんて……」
「山下さん、砲塔がこちらに向かって旋回しています」
「なるほど、最初から2両を封じるつもりだったわけね。次弾装填急いで」
ティーガーⅡの影に隠れてすでに味方のパンターは見えない。
この後に起こる出来事を察する。互いの戦車の距離は、すでに操縦の限界を越えていた。
「避けられません!」
「ぶつかるだろうがっ! 敵操縦手は何を考えて……うわっ!」
45トンと69トンの鉄の塊が衝突する。
必死に回避を試みるパンターの側面後方にティーガーⅡは接触し、履帯が破断する。
鋼製の最終転輪が無残に弾け飛んだ。
判定装置こそ作動しなかったものの、もはやパンターの走行は不可能である。
「くそーあの1年! ぶつけやがって下手くそが!」
「当ててやったわ!」
「よし! 1両は止めたわ! 残り1両!」
砲塔の旋回速度は緩やかに、射界にまだパンターはいない。
早く早く、もどかしい時間が流れる。
こちらは後部装甲を晒して停止している。いつ有効弾を食らってもおかしくない。
ペリスコープを掴む手はしびれが来るほど力が込められていた。
狭い視界の中にパンターが入って来た。ゆったりとした砲塔の動きに合わせ、傾斜装甲を取り入れた第三帝国最高の中戦車は静かに正中に近づく。
再装填の時間を惜しんで、今の今まで発砲は我慢していたのだ。
そしてついには、その瞬間が訪れる。
「これで最後よ! 撃てぇっ!」
今までと違う。
不快な異音がした。
アハトアハトの砲弾はパンターの左側面をかすめ、再び地面を穿つに止まった。
「……っ! 何か変」
「そんなバカな! 正面なのよ!?」
「おい! だから交戦中に顔を出すな!」
座ってなどいられなかった。ハッチを開け砲身を確認する。
本来直線的であるはずの71口径8.8cm砲は何かの衝撃を受けて変形し、曲線を描いていた。
現実を前に思考が遅れている。
「……まさかさっきの砲撃で!?」
ティーガーⅡの砲撃を無効化する作戦は幸運にも山下の意図した通りとなった。
砲身の破壊。
いくら優れた砲手と言えども真っ直ぐ飛ばない弾では狙いようがない。
「撃て」
2本のマフラーの中心目掛けて砲弾は射出される。
弾道の描く線はそこが約束された場所であるかのようだった。
吸い込まれるように命中し、轟音と猛烈な振動の後に鼻をつく焦げた匂い。
白煙が漂い始めると同時に、逸見エリカの後方で判定装置が白旗を掲げた。
「なかなか、やり応えのある試合だったわね」
パンターのペリスコープから、
キューポラより半身を出したまま立ちすくむ後輩の姿に気付いた。
ティーガーⅡを見事に操った手腕への敬意か、ただの興味本位か。
どちらかも分からないまま、山下もハッチを開ける。
「……? 山下さん、早く敵フラッグ車を」
「少しだけ待って」
無表情だけど整った顔立ちの、目だけがいつも攻撃的なあの子でもこんなときくらい泣いたり怒ったりするのかしら。
山下は生意気で素っ気ない逸見しか知らなかった。
こうして1年と3年が戦うことも初めてだった。
あらためて逸見エリカと正対する。
元々期待はしていなかったが、エリカの回答は無言だった。
山下にとっても、まだ試合は継続している。話し込むほど暇ではない。
何かを求めていたわけでもない。そもそも、そんな身近な関係でもなかった。
少なからず肩透かしを食らった気分を受けながらも、だが当然と思い直し、山下は戦場を離れようとした。
その時。
なぜそんなことをしたのか分からない。
わざわざ顔を出して来たときはむかついた。
けれども、やっぱり、貴方はすごい人だわ。
いつも貧乏くじ引かされて苦々しい思い出しかなかったけど、戦って初めて分かった。
胸に湧く感情を自覚すると、自然と右腕が動いた。
何度も繰り返し、体に染み込ませた動作。
これが上手に出来ないやつほど戦場では早く命を落とすと怒鳴り散らす先輩達。
そんな馬鹿げたことがあるわけないじゃない。
内心では理不尽さと、言の非論理性に舌打ちをしていた。
納得はできないが、今は感謝する。何事も美しいことは良いことだ。
そして、この姿勢はあらゆる精神を詰め込んでするものなのだ。
「……敬礼……あの子が」
途中で加速もせず、遅くもならず均等な速度で折られる肘と伸ばされる指。
教本通りの角度で構成された見事な敬礼。
何よりもあの子が笑っている。
返礼すべきなのだろうか。突然のことに戸惑う。
なぜなら彼女に好かれたいと思ったことなどなかった。
彼女は強い。
それは認めよう。だがその力と野心は、この学校には危険なのだ。
私はまほが隊長になった時の一連の騒動が今も忘れられない。
忘れようもない。
8連覇を達成し、機甲科の皆は誰もが分け隔てなく喜びを分かち合う仲間となっていた。
そしてまほがやって来た。
高校に入学すると同時にあの子は隊長となった。入りたての1年生が、である。
彼女に実力がなかったなら、まだ救われたのかも知れない。
だが西住まほは戦車道については完璧だった。彼女に勝つ者は3年にすらいなかった。
何よりも西住流の直系。
いつかは隊長になる。早すぎると思う人間もいたが相応しいと考える者もいた。
そして機甲科は二分される。
席を並べた友達同士が罵り合うようになり、何人もが戦車道を去っていった。
絆は失われた。
逸見エリカの実力は認めよう。
しかし同学年には、あの時と同じ西住がいるのだ。
まほの妹さん。
逸見エリカが目指すものが黒森峰の栄光ではなく、個人への賞賛だったら?
もし逸見が隊長になりたいと言ったならば、悲劇はまた繰り返される。
だから彼女は黒森峰戦車道においては危険分子なのだ。
凡庸な人間が努力で這い上がることの難しさを私は知っている。逸見エリカの根幹は私と同じ人種に思える。
同族嫌悪、だから余計に憎かったのかも知れない。
とうに絶ったはずの夢をちらつかされる度に私の心はざわついた。
中高一貫校で初めての外部からの転校組隊長。
歴史に名を刻む夢想で胸を満たした経験は一度二度ではなかった。
黒森峰の隊長、そう呼ばれることの憧憬は皆無と言えば嘘になる。だが私は身を引くことに決めたのだ。
もしかしたら、話せば分かってくれたのかも知れない。
一方的に辞めさせようとせずに、話し合っていれば。
もしかしたら……。
だが、もう遅い。
「……残念だわ。きっと別の時代、別の場所に生まれていたなら、貴方も立派な隊長になれたでしょうね」
独り言で賛辞を送る。
彼女にしてやれる最大の敬意は、そんな自分のためか彼女のためかの区別もない慰めだけだった。
彼女を認める訳にはいかない。
このまま1年生のフラッグ車を落とせば、試合は終わる。
初めて抱いた懺悔に似た感情を秘めたまま、その場を離れることを決意する。
「……戦車、反転し前進。敵フラッグ車を追うわ」
山下先輩。
貴方と本気で戦えて楽しかった。
でも、それも終わるわね。
シカトしてそのまま行くかと思ったけど、悪い気分じゃなかったわ。
半分は演技だけど、もう半分の敬意は掛け値なしの本物よ。
これで、私の役目は果たした。
「ひより、伝えて。何とか5分は稼いだって。後はよろしくって」
両者に訪れた束の間の静寂を、焦燥と歓喜が交錯する複数の無線が切り裂く。
「山下さん! た、大変です! フラッグ車が!フラッグ車がっ!」
『山下さん! と、突然背後からラングが! うわぁっ!』
『こちらフラッグ! なんでっ!? 北からっ! コース上のどこにもいなかったのに! 急にどこから! こんな……嘘でしょ!? きゃあ!』
「山下さん! リーリエとフラッグが敵の攻撃を受けています!」
「なっ……? バカな! 観測は何をしていたって言うの!」
この戦場で初めて声を荒らげる。それだけ信じ難い事が起きたのだ。
視界が最も開けた8番ホールティーグラウンド。
そこに至る南からの道は今、まさに私達のいるところだ。
別ホールもⅢ号トゥルペチームが進行中である。
どれだけ隠そうとしても7人乗りバンを横に2台並べたような大きさの物が、これだけ開けた場所で誰にも見つからずに行動などできる訳がない。
それでも虚を突いて索敵を潜り抜けた可能性も、現実にフラッグが襲われた以上無かったとは断言できない。
しかし、そうなれば次に背後から現れたという報告と辻褄が合わなくなる。
トゥルペチームや我々の間隙を縫ってコース内を南から来たのなら、北から背面を取るのはわざわざ遠回りをすることとなる。
この短時間に、ラングの速度でこの地形を……? こちらは完全に不可能だ。有り得ない。
なぜそんな事が。
ゴルフコース内を誰からも発見されずに北から接敵する経路。
そんなものがあるはずない。
誰からも発見されず……コース内の遮蔽物……林? いや違う。
北から、北にある遮蔽物、物陰……クラブハウス……。
……!
「駐車場!?」
「えええ? 赤星さん! ホントにここ走っていいの!?」
「だって……みほさんがいいって言ったし、確かにここもフィールドだし!」
「だけど絶対これ通れる広さじゃないよ!」
「それでもやっぱり! 勝つにはここしかないから!」
「えーい! もう知らない!」
躊躇するのも無理はない。暗黙の了解で誰もが戦車での走行を憚っていた場所だ。
阿蘇山大津カントリークラブ駐車場。
関係車両も一般車も分別なく並ぶこの場所を試合中に戦車が往来する。
過去の試合を調べ上げた西住みほ自身には既知の事実であったが、前例など当然なかった。
フィールド内であるが誰も使ったことのない道を、誰も通る者がいなかった道の先頭を赤星小梅の車両が走る。
当の本人には何の名誉でもなく、申し訳なさだけが募る。
『あの……みほさん、一応確認しますけどバスが邪魔で通れそうにないんですけど……』
『えと、大丈夫です、小梅さん。今は戦闘中です。損害は連盟と学校が補償します』
「ひえええ……」
この道を誰もが避ける理由。
たかが練習試合に経費など掛けれるわけがない。
だが彼女は、彼女だけは違う。西住という名は黒森峰、いや戦車道の当事者そのものなのだ。
ここに生徒を乗せて来たバスに誇り高く飾られたシルバーアローのエンブレムがフロントグリルごと削り落とされる。
フロントガラスは微細に割れた一粒毎が、水飛沫のように虹を反照しながら四方へと飛び散った。
幸いなことに戦車との接触で破壊された車は、自前の送迎バスだけのようだ。
だったら何も問題はない。
壊れたものは直せばいい。
だが負けは取り返しがつかない。
仮に100勝1敗だったとしよう。誰も100勝の内容など聞いて来ない。
1敗がどこで誰に、負けたことにしか興味を示さないだろう。
それも何か後学のために聞いてくるわけではない。
なぜなら、どうして負けたのかと大概の人間は笑いながら言うのだ。
負けは忌むべきものだ。最低だ。微塵の価値もない。
戦いとなれば必ず勝たなければ。
お姉ちゃんは何も言わないし、お母さんは最近怒ってばかりだけど、
前進ばかりなんて本当に能がない。そんなのただの浪費だよ。
前進して前進して、見つけた車両を片っ端から壊して勝利なんて何も楽しくない。
確かに黒森峰の環境は最高だ。堅くて強い戦車が余るほどある。
だから遠征に行く度に、戦車性能で勝ったと言われる。
私はそんなの全然納得できない。
私は西住流なんてもの、全然納得できないよ。
あの人にならきっと分かってくれる、と思う。
なぜなら戦車が弱いから負けたなんて一度も口にしなかったから。
たまたま振り分けられたⅢ号で果敢に諦めることなく腐ることもなく、いつも最後に泣くくらい真摯に、高潔に戦車道と向き合っていた。
彼女は西住流に塗られた戦車には乗っていなかった。自らの意思で戦車を操縦していた。
ボコも可愛がってくれた。
私は初めて自分で定めた目的のために戦っている。
勝つことの本当の意味も初めて分かった気がする。
黒森峰の名前だとか西住流の価値なんかを守るためじゃない。
戦車道は、仲間のために戦うんだ。
その瞬間がやっと来た。今日は必ず勝つんだ。約束は、守るよ。逸見さん。
『西住さん! 二時方向に敵フラッグを確認!』
『こちらに気付く前に側面から叩きます。位置についたらシュペルリングチームは砲撃をして下さい。我々は攻撃を最大かつ確実なものにします』
「全速前進! 回り込んで下さい! 私達は背後からフラッグを襲います」
『こちらシュペルリング、敵に動きなし。いつでもいけます』
『了解、こちらもポジション完了です』
落ち着こうと深呼吸をするも、鼓動の速度は変わらなかった。
だが、今回も何とか勝てそうだ。
もう脈の速さなど気にならない。次の命令がすべてだった。
『射撃開始! 撃てー!』
フィールドにブザーが鳴り響く。
『試合終了! 1年生チームの勝利!』
敬礼の体勢のまま、合図を聞いたエリカはその場にへたり込む。
やった。
勝った。
「うおっしゃああああああああああ!勝ったぞおおおおおおおおおお!」
「……よかった。1両止められた」
「はぁ……ありがとう。またあんたに乗ったときはもっと上手く動かしてみせるわ」
「エリちゃん! 隊員は駆け足で集合せよだって! エリちゃん……?」
「なんだ? 胸張れよ! エリカ!1両撃破に1両走行不能で間違いなくMVPはうちらだぜ!」
「行きましょう。西住さんが待ってるわ」
「……早くどいてくれないと、私が出れない」
「ごめん……ひより……言っておいてくれない?」
「ダメだよ! そういうのは直接言わないと!」
「そうね……そうだわ……」
震える足を支えて再び立ち上がった。
歓喜の声が木霊する。
空は曇天、風も強まりつつある。
だが心は、今まで感じたことのないほどに晴れやかな気分だった。
伝えなければ、あの子に。
勝ってくれて、ありがとう、と。