陽光と、車体からの照り返しが肌を焼く。
ニュースで、いよいよ気温が三十度を越えるだろうと言っていたっけ。
暑い夏がすぐそこまで来ている。
目を細め、目の前の山を見上げた。この時期の山肌は新緑とピンクに染まっている。
ミヤマキリシマはきっと綺麗に咲いているだろう。
小学校の頃に遠足で訪れて以来、再び行く機会はなかった。
ハイキングなんて趣味も暇もなく、今日も私は汗にまみれて戦車に乗っている。
「フントより入電。グラウフクス、至急-28155、 -6111地点に向かわれたし。だって、どうする?」
「はぁ? どこだよ、そこ。そんな座標、地図にないじゃん」
「……平面直角座標?」
「それで? つまり私のにゃんこちゃんはどこを目指せばいいわけ?」
「えーと、ここからだと北西になるわね。ちょうど……この五叉路のところかしら。はぁ……。ひより、聞いといて。急行するはいいけど実のある指示なんでしょうねって」
「ええええ? やだよー。エリちゃんが自分で言ってよ」
「いいじゃない、暇なんだし。どうせ行くんでしょ? 命令してよ、車長さん」
「はぁ……。じゃあ由貴。8時方向に回頭して。あと、この子は猫じゃなくて虎よ、虎。それとね、これは貴方の持ち物じゃなくて、私の戦車よ」
「あのー? それでうちら、どこに行くの?」
「……奈緒はいいから座ってて」
指示された地点に急行してみれば何のことはない。予想通り。
待っていたのは厳つい車体には似つかわしくない、手を振るのんきな笑顔だった。
「それで? 何かご用でしょうか? 隊長代行殿」
「えっ? もしかして怒ってるの? エリカさん」
「怒るかどうかは、この後の命令にもよるわね……」
「えっ……じゃあ、やだ。言わない」
「あのねぇ! 南の会敵予想地点ガラ空きにしてまで、わざわざ赴いてやったんだから! ちゃっちゃと話しなさいよ!」
「だ、だって報告だと多分あっちの方には行かなそうだし……。ちゃんとここに来るように包囲に穴を開けといたんだから。それに私だって、ちゃんとごめんなさいって思って。みんなが混同しないように座標の言い方だって変えて」
「もう! いいから呼んだ理由だけ言いなさいよ!」
この子は外見からして緊張感というものが致命的に欠落してるわ。
休み時間の教室じゃあるまいに、公式戦の最中に世間話をしている場合か。
急かしたらようやく渋々と、ばつが悪そうに理由を語り始めた。
飴の袋を差し出しながら。
「……まだ喉が痛くて。……でも貰った飴、切れちゃったから」
目の前が白くなったのは絶対に日射しが強いからではない。
「試合中に飴をねだるなー!」
ここは阿蘇の麓、大矢野原演習場。
初夏恒例の県戦車道連盟理事長杯。
上級生は残り一ヶ月ちょっとに迫った全国大会に向けて練習と情緒不安定の真っ最中。
下々にやたら罵声を浴びせたがる時期であり、あまり表に出られると皆が気分を害するため、通常どの学校も一年が出て頂点を競う。
ここで勝っても県代表になるわけでもなし。
ただトロフィーが増えるだけの新人戦。
それでも私達にとっては高校最初の公式戦である。
とはいうものの、そこは今年も第一シードである我が黒森峰女学園。
車両数制限はあれど重量制限はない。しかもよりにもよって殲滅戦。
こんなレギュレーションのせいで私達は戦車が乗り放題。
お陰で初戦の相手には、うちより堅い戦車はないし、
私のティーガーⅡはもちろん小梅のパンターすら抜ける車両が残念ながら、ない。
普段みほが乗るティーガーⅠは予備車両がないので、使用許可が下りなかった。
先に触れた通り、全国大会はもうすぐだ。万が一にも壊されたら困るのだろう。
大体今、ここにティーガーⅠがいてもいなくても大局には微塵も影響はない。
豆のローストをイタリアンからフレンチに変えてみた方がよっぽど差を感じる。
そのくらい車両編成は贅沢に、単純明快に重い順に揃えている。
車両が豪華ということは要するに容赦など一切ないということだ。
当事者ながら対戦校には同情する。
一、二回戦では戦力差がそんなことになってしまうため、
試合会場の大矢野原も全面ではなく四分割にして行う。
みほが言うには遠い昔に逃げ回ってガス欠で勝った事例があったらしく、会場を狭くして無理矢理にでも戦闘せよという連盟の手厚い配慮が伺える。
勝つべき者が勝つ。番狂わせなどない大会。
降参も棄権もないせいで、どうしても敬意を失した言い方をしてしまうけど、さすがに時間の無駄だなって思った。
戦場はもっと触れるだけで切れる刃物のように。
先月行われた大津カントリーでの試合のような。
思考を駆使して、なお運をも味方につけなければ勝ちが見えて来ないような。
試合と呼ぶものはそうでないと。
そうじゃないと、こういう、だらけた輩が出てしまう。
「絶対花粉症よ、花粉症! 大人しく耳鼻科にでも行きなさいよ!」
「違うよ! 季節じゃないし! 私の家なんかもっと木ばっかだもん! 灰だもん!ニュースで灰が降ったって言ってたから!」
「楽しそうだな」
「……どっちが?」
「どっちかって言うとエリカの方?」
「奈緒も混ざってくれば? きっと歓迎してくれるんじゃない?」
「よせよ……それより始まったら起こして……」
「ちょっとー! 奈緒ちゃん! もう始まってるんだよ! 試合の最中だよ!」
冗談じゃない。
こんなお遊戯、試合なんて言わない。
「はぁ……それにしたって来ないわね」
「んー、報告だと追い込む前にどんどん撃破できてるみたいだよ」
「はぁ? 何よそれ。せっかくの罠が無駄になるじゃないのよ」
「えー? いいよぅ。戦わないで済むならそれがいいかも」
「……相変わらず張り合いがないことを言うわね。せっかくの初陣なのにアハトアハトの一つも撃たずに帰ったら、ただのガソリンの無駄じゃない。こんなことならⅢ号で来ればよかったわ」
「このくらいの戦力差でちょうどいいんじゃないかな?」
パンターの砲塔に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、みほが呟く。
おおよそ臨戦態勢とはかけ離れた、極めて牧歌的な光景。
今日はピクニックか? まったく。
せめて車長らしくキューポラの中に収まってなさいよ。
まぁ、私も暑いから降車してるし人を責められたものでもないけど。
「もっとこう頑張ろうって気概を示しなさいよ、少しくらい」
「だって頑張って試合して負けたら悲しいから。悲しいと、悔しくなるから。そしたら誰かを傷つけたくなるんでしょ? そういうのはいいよ、もう……」
慌てて彼女を振り返ったが背を向けられていて表情はわからなかった。
あの夜に見たのと変わらない小さな背中。
あれからすぐに、みほは持ち前の明るさを取り戻した。
私が甘やかせば付け上がるまでに元気になった。
前は戦車に乗っている時間に限り凜々しく活動的な子だったが、
今は戦車から降りている時間の方が溌剌としている。
座学や運動の成績も伸び、それはそれでいいことなのだし。
戦車道も手を抜いているわけではないし。
だが前進を常とする西住流の戦いを今まで以上に避けるようになった。
前線で戦うことをやめ、専ら作戦指揮に努めている。
後方でふんぞり返っているわけでもないし、勝率が下がっているわけでもない。
強いて言うならば手柄は全部他人に譲るかのような運用。
欲がないと言えば、それまでだが……。
それでも無くしたものは確かにあって、例えばこんな厭世的な言葉が増えた気がする。
どちらかと言えば負けん気の強い方だったのに、その類いの発言は鳴りを潜めている。
だが本来の姿はどれなのかと言われても正直、自信はない。
それに私自身にも迷いが、まだ彼女への対応を決めかねているところがあった。
西住の金魚のフンにはならないと肩肘張って来たけれど、現状は太鼓持ちそのものだ。
彼女には戦車道を続けて貰わなければ困る。
だから彼女には喜怒哀楽の内、二つを控えた態度ばかり。
ルームメイトに何をそんなに気を遣っているんだかと笑われるだろうけど、お互いに本腰を入れて会話をし始めてから、まだ日は浅い。
みほに掴みきれないところがあるのと同様に、私にも本心は語れない部分がある。
泣く彼女を慰めて、眠れぬ夜を寄り添っても、ついには言えなかった言葉がある。
――みほのしたいようにすればいい。
私は彼女を利用している。その負い目は常にあった。
彼女をどうしたいのか。私の本心も、もうわからない。
ただ、立ち止まることだけは嫌だ。生半可に辞めるなら最初からみほを解放すべきだった。
傷ついた彼女を私の欲求に付き合わせるべきではなかった。
途中で許されたいと思うなんて、それこそ甘えだ。
許されようだなんて、今更。
『シュペルリングよりグラウフクスへ。兎二羽が檻へ、繰り返します。兎二羽が檻へ向かいました』
彼女の背中を見つめながら、かけるべき言葉を探しているときに小梅から無線が入った。
「エリちゃん! 敵戦車二両が南を前進中だって!」
しまった。元々私達の持ち場だったところじゃない。
「みっ……!」
再び視線を戻すと、すでに砲塔の上に彼女の姿はなかった。
「Panzer vor!」
「早っ!」
『呼んじゃってごめんなさい、エリカさん。布陣がちょっとあからさま過ぎたかな?ツヴィンガー2地点には私が先行しますので続いてください』
「おい! エリカ早くしろ!」
「構わず出して!」
正面に回り込み、助走を付けて前面装甲を一気に駆け上がる。
「よいしょおおおお!」
「危ないわね! あんたはほんとに! 普通に乗りなさいよ!」
「いいから由貴、仕事よ! フントに遅れないで!」
「私のせいじゃなくてあんたが外で涼んでるからでしょうが!これでスコアゼロだったらアイスの一つも奢りなさいよね!」
「おっ、いいねぇ。俺ガリガリくん」
「私はしろくま」
「……ダッツの白桃&ベリー」
「いいから! 真面目に試合をしなさいよ!」
まったく遠足じゃないっての。
戦車道がこんなに和気藹々としてて、良いわけないじゃない。
私には楽しむ資格なんてない。
「試合終了! 黒森峰女学院の勝利!」
結局みほのパンターには追いつけず、私はアイスを振る舞う羽目になった。
終了後、両校選手が集い、滞りなく儀礼的な挨拶も終わる。
それぞれが帰り支度を調え、私は思いがけない出費に頭を抱えているところに。
「すまないが、隊長のみほさんはおられるかな?」
今日の対戦校のあー、何とか商業だか農業とか言うところの制服を着た集団が、みほを名指しで訪ねて来た。
「あ、はい。私ですが」
「おお。壮健そうで何よりです」
西住さん、と言わないところが引っかかる。
この道の有名一家の娘ということを除いても、どうも知っている風な口ぶりだし。
それに私もどこかで見た覚えがあるような。
「……本当に、少しも変わっておりませんね」
「ひゃっ! あ、あの!」
突然ハグをし始めたので慌てて引き剥がす。
「ちょ、ちょっと貴方。馴れ馴れしすぎでしょ。何なのよ」
「お、声を聞けば逸見じゃないか。久しいな」
「えっ! えっと……?」
「あー! もしかして来嶌先輩!?」
その名を聞いて思い出した。懐かしい! 中学のときに一緒だった!
「す、すいませんでした! お久しぶりです!」
全然イメージが変わってしまった。
中学の頃は長い黒髪を束ねて、いかにも活発なお嬢様って感じだったのに、今の先輩は髪を染めてばっさりとショートになってる。
似合ってないわけじゃないけど、全然知らない別の顔をしていた。
まだ離れてからそんなに日は経っていないのに。
礼に始まる戦車道の中でも一際礼儀を重んじる先輩で、優雅で優しくて、
後輩からは絶大な人気があったのだが……。
残念ながら先輩が中三の一学期頃、親御さんの会社がいろいろあったらしく私立の黒森峰からは転校されてしまった。
「うわーお久しぶりです! お元気でしたか!」
あらためて、みほの方からハグを返そうとする。
しかし今度はあちらの取り巻きがそれを阻止した。
「馴れ馴れしいと言っておきながら何だ、その態度は」
「そうだ! 来嶌先輩に触れるな!」
「ええっ? あ、あの」
「こら。よさないか、お前達。西住家の方に無礼はよせ。それに私には積もる話があるのだ。ここは下がってくれ」
「はっ! 失礼しました!」
「申し訳ありませんでした!」
何だかさっきから圧倒される。
だが少なくとも、転校されても後輩からは大人気なようだ。
ん……後輩?
そう言えば、理事長杯は普通一年のみが出場する大会である。
なんで先輩が?
「試合でご覧になった通り、当校はあまり戦車道には注力しておらず、科目履修生も少ないため私が呼ばれたのです」
なるほど……確かに戦車の数も種類もまともに揃ってない学校だった。
しかし、その点はむしろ、うちが特殊な部類なのだが。
「なにせ戦車道はとかく経費ばかり食いますし。戦車一台買う資金があれば、吹奏楽の金管をすべて買い替えてもお釣りが来ますから」
そういうことだ。
潤沢な資金力。それも強豪校には必須の条件だった。
練習一つにしても撃てば砲弾と共に金が飛ぶ。
礼節どうこうが示す通り、パトロンで成り立つ上流階級のお飯事なのだ。
「それに何も戦車ばかりが高校生活ではありません。当校は野球も弁論部や、あと養蜂なども活発なのです! なので……なおさら……戦車はやっかまれていました……。今回、学年の異なる私が出場しましたのも……もう二度と機会がないかと思えば……しかも相手は黒森峰と聞いて、思い出の……一つも……」
先輩の頬を一粒の雫が伝い、それを隠すように大急ぎで拭う。
「ですが悔いはありません! 最後に貴方達と戦えて……本当によかった!」
その姿は昔のままだった。
挨拶は我が校の名を高めると共に相手に敬意を示す機会なのだ。
だから勝っても負けても胸を張れが、いつも先輩の口癖だった。
悲痛な、それでも誇り高く振る舞う先輩が絞り出した言葉。
その言葉は今大会において何も実績が作れなかった場合には。
我が校の戦車道は廃止となるというものだった。
バスは夕暮れの中、母校へと帰る。
束の間の再会。そして多分、永遠となるであろう別れ。
一通りの挨拶が済むと先輩は後輩達に取り囲まれ、一緒に泣いていた。
こんなことになるなら。
最初に気付いていれば。
誰が悪いと犯人捜しになれば、いつも性格のせいで損をする。
私のせいだ。
試合を真面目にやれなんて言う本人も集中なんて大してしてなかった。
Ⅲ号すらろくに無い学校だって聞いていて、今日は一日朝から億劫だった。
本音は使うだけ弾も燃料も無駄だな、と思っていた。
戦車で習う礼節なんて馬鹿馬鹿しいと常々考えていたけれど初めてだ、こんなの。
負けて悔しい想いは数え切れないほどしてきたはずなのに。
相手を過小評価して、思い上がった試合をしたことなんて今までなかったのに。
だが仕方ない。
自分を責める以外に解決する方法は、諦めることだった。
誰のせいでもない。
いいことばかりのはずがない。それが私が戦車道で学んだ唯一の真理。
思考停止ではなく諦めること。前向きな後退。
だが、そうでもしなければ夜はいつも眠れなかった。
「先輩……寂しそうだったね」
ずっと無言だったみほが呟く。
「そうね……戦車が自分のせいじゃなくて環境のせいで続けられなくなるなんて、つらいでしょうね」
「そんなに戦車道ってしたいものなのかな……」
わからない。
私にはもう戦車に乗ることが当たり前になっていて戦車の方も、ありふれて私の前にあった。
私は溢れるように戦車がある黒森峰の環境しか知らない。
「わからないけど……私はもう戦車に乗ってるのが当然になってたし。乗らないのも、乗れなくなるのも考えられないわ。あんな絶望的に無意味な状況、私は耐えられない」
「そんな言い方は先輩がかわいそうだよ……」
「だって体よく廃止になるしかないじゃない 。勝てる可能性なんてないし。思い出作るだけで精一杯だわ、あんなの」
とても意味があるとは思えなかった。
出るからには勝つ。そう気構えても、勝てる手段が皆無なら何のための戦車道なのだろう。
勝負は最低でも、どうにかすれば勝てるレベルになければ。
そうではない圧倒的な隔たりがあるものに、必要性など見い出せない。
きっと頑張ったという記憶だけが欲しかったのだろう。ならその目的は達成したはずだ。
ならそれで、よかったのではないか。
私には理解できないが、他所の学校となれば事情などいくらでも違うんだろう。
「そういえば、そう言ってたね」
笑いながら返すみほの言葉は肯定ではなく、自嘲の響きが籠もっていた。
「言っていたね、エリカさん。私も戦車しかない人間だって……」
突然のことに狼狽する。
あの夜から、いやもっと遡って、あの夜以前からも互いに遠慮し合って接して来た。
相手が気分を悪くしないように配慮して、当たり障りのない発言を。
印象に残れば、そこが基点となる。良くもなるだろうし、悪くもなるだろう。
そうならないために心に深く立ち入らないようにしてきた。
何を言い合っても軽口と装えるように、最後は笑うようにしていた。
「だって、そうでしょ? 貴方は西住の人間として、ずっと戦車に乗ってたじゃない。私だって黒森峰機甲科を選んだのは戦車がすべてだからよ。他の道なんて知らないし興味もないわ」
「そんなの考えればわかることだよ。卒業して……大学でも戦車をやるの……? その方が私にはわからないよ……違うことが見つからなくたって、やりたいことが他になくたって……。戦車もいつかは乗らなくなる」
今までも口論じみたものは少なからずあった。それでもこんなことは初めてだ。
笑い合う仲というのは友達の一側面に過ぎない。
現に私はティーガーⅡのチームには忠告もするし、自説を曲げず強く接することもある。
信頼。簡単に言えば、そんな関係が構築されていた。
みほとの間には、無かった。
やましさの裏返しで、私の言動をどう捉えるのか判断できないが故の疑心暗鬼で、みほには中身の大してない責任の込められていない発言しかして来なかった。
彼女の方も差異はなかったのに今は、はっきりと違う。
みほは明確に、自らの意志で選び、言葉に棘を含ませている。
まるで私に嫌われたがっている。
いや、私のことが嫌いという意思表示をしているのか?
そして困惑して追いつけない私に、止めを刺すように吐き捨てる。
「戦車しかない人間が戦車に乗らなくなったら……用済みってことになるよね」
馬鹿言わないでよ。みほだって戦車がつらいならやめてもいいのよ。
こんなことで言い合うするのもくだらないわね。
みほには、みほの価値がある。それを探しましょうよ。
そう伝えなければ。
「ば……!」
だが、言葉が続けられなかった。
あのとき、かけられなかった言葉を今さら口にはできなかった。
言えなかった。
みほのやりたいようにやればいい、と。
「もう、いいよ」
それきり、会話は途切れた。
寮に着き、食事を済ませ、シャワーを浴びる。いつもと変わらぬ日課。
だが言葉を交わすことはなかった。
普段と変わらず見張り役気取りで追い縋る私を遠ざけることはしないが、
何を話しかけても会話は拒絶される。
唯一した反応も、いつも通り彼女の傍で寝ようと布団を移動しようとするのを、
「今日はいい……」
と頑なに遮る言葉だけ。
翌朝、目覚めて点呼を済ませたら、彼女は一人で登校してしまう。
ついには行動さえも拒まれるようになり、関係は三日経っても改善することはなかった。
時間が無為に過ぎて、とうとう試合前日となる。
戦車戦というのは片付けも含めれば一試合がとても長い。
戦力差が顕著な消化試合と言えども、日を跨がねば行うことが難しい。
明日は関係が拗れてしまった原因となる理事長杯第二回戦。
今度の対戦校は前回と違い、こちらの装甲を容易に抜くだけの火砲を有している。
慢心など許されない。
だが練習中の必要最小限の意見交換すら躱されて今日に至った。
練習には顔を出すのだから、やる気はあるのかも知れない。
だが真意はまったくわからない。
いざ実戦となれば自暴自棄になって的になりに行くかも知れない。
もしかしたら試合への参加すら放棄してしまう可能性もある。
私はどうしていいのかわからなかった。誰かに相談もできなかった。
起因がそもそも隠蔽した暴力沙汰から始まっているのだから説明など無理だ。
口外できるわけがない。
だが一人で解決策を探しても答えには辿り着けず、途方に暮れるだけ。
どうすれば。
「おい」
一体、私はどうすれば……。
「おい、エリカってば」
思い詰められて他人の言葉すら聞こえなくなっていた。
「あっ……? 何? ごめんなさい奈緒、呼んでたの?」
「呼んでたの? じゃねーよ。ずっと話しかけてたっつーの」
「悪かったわね……」
「んだよ。いちいち反応の鈍いやつだな。副隊長様ともなれば2回戦でもう考え事で頭いっぱいになるのかな?」
「そうね……」
その通りだ。私は何をすべきか。何をしたらいいのか。
考えても考えても何も見つからない。
考え事でいっぱいなのではない。思考に満ちているのは絶望だった。
「なんか隊長代行さんもさっきそんな感じだったしな。明日は大丈夫かねぇ、こりゃ」
ここ最近、みほとは学食で会うことはなかった。
どうも途中で弁当でも買って、どこかで食べているらしい。
どこかというのは他でもない。
私の視線の届かないところという意味である。
だから学食で見たというのがすでに珍しい。
「へぇ……ちゃんと何か食べてたのかしら」
「んー。何食ってたか忘れたよ。大体すぐ先輩方に連れられてどっか行ったしな」
夢中だった。
私は夢中で駆け出した。
その可能性はまったく考慮していなかった。
みほが単独行動することで、再び狙われる可能性。
いや、もしかしたら違うかも知れない。
故意に襲われることで。
暴力事件を再発させることで。
不祥事を公にすることで、黒森峰の戦車道そのものを終わらせるつもりなのかも知れない。
どうでもいい。
戦車道なんかどうにでもなればいい。
だが、それは駄目だ。
その方法では駄目なのだ。
そんなことをすれば彼女は標的になる。
今まで善意だった者からも攻撃される。
みほが悪者になって良いわけがない。
彼女は、みほはもう様々なものを犠牲にしてきた。
彼女を裁く権利のある者など、この世に存在しない。
みほが傷ついていいわけがない。
今度こそ、今度こそ言わなければ。
みほの進む道を、自分で自由に選ばせてあげたい。
自分を大切にして欲しい。
泣くのを慰める役なんてもうしたくない。
泣いて欲しくなんかない。
黒森峰の都合など、私の希望なんか関係ない。
本当に大切なのは、みほ、貴方自身なのよ。
その瞳も、その声も。
髪の毛一片たりとも損なわれるなど、絶対に許さない。
大事なんだ。大切なんだ。
私の親友。
絶対に私が守る。
「隊長! うちの隊長を見なかった!?」
「えと、隊長って言うと、西住隊長?」
「えーと違う! 妹の方よ妹の方!」
「それなら家庭科準備室の方になんか集団で行ってたけど」
コンロの火。包丁。
頭を巡り想起されるのはどれも陰惨な、あのときの臭い。
あのときと同じ鉄の臭い。血の臭い。
許さない。絶対に許さない。
間に合え、間に合って。
お願い!
走り込んだ教室の中に彼女を見つけた。
複数の生徒が周りを取り囲む、その中心にみほが立っていた。
肩で息をしながら乱暴に戸を開ける私に振り返る者、気付かない者。
いくつかの浴びせられる視線を、ことごとく睨み返したその先である者が笑いながら、みほの肩を小突いた。
「その子から手を離せ!」
「ふぇっ!?」
駆け寄ると人集りは一切抵抗せずに割れて、伸ばした手ですぐにみほを掴むことができた。
そのまま引き寄せて抱きしめる。
「わっ! あのちょっと!」
久しぶりに聞いた、みほの声。
もう何年も会ってなかったかのように新鮮に聞こる。
「怖かったでしょうに。でも大丈夫よ」
「ええ!? あのちょっとエリカさん?」
「みほ……ごめんね。私が悪かったわ。だからって謝る機会も作らずに私の前からどこかに行かないで」
「えええ? あのエリカさん聞いて!」
「あの……逸見さん?」
「うるさい! この子に何の用があるのよ! お前らが軽々しく触れていいと思うな! この子は私のものだ!」
一瞬の沈黙の後、上がったのは。
嬌声だった。
「きゃああああああ!!」
「見たこれ! TVで見たことある!」
……は?
「えええエリカさん、聞いて! お願い! 離して!」
「えっ……? 何?」
あの、これは、一体。
「せ、先輩達は私じゃなくてお姉ちゃんに用があるんだよ!」
「は?」
どうして西住隊長に用事があってみほを呼んで、なんで家庭科準備室……。
家庭科……。
あらためて見渡すとテーブルの上には小麦粉牛乳、卵があって、加えて油。
あとはチョコやら何やら。
とりあえず見た目からして甘そうな何かがたくさん並べられていた。
「さ、最初から……説明し……て」
「え、えと今日は何日かわかるよね?」
お、思い出せない……。
何曜日かも思い出せない。頭が回転しない。
でも確か六月も終わろうかという頃だった、気がする……。
「そ、それじゃあね? お姉ちゃんの誕生日って知ってるかな?」
あー。
確か七月一日。
ん?
「あっ……」
「先輩達はお姉ちゃんにプレゼントを──」
記憶は、その辺りで途切れた。
その後はもう何を話したのか、まったく覚えてなくて気がついたら寮の部屋の天井を眺めていた。
「あっ、エリカさん。元気になった?」
「なんの用よ……」
「えっ? 別に用事ってわけじゃないけど……でも私だよ、ここまで運んだの。感謝してくれてもいいんじゃないかな?」
知るか。
返すのは言葉ではなく態度で。
あえて、みほの視線の反対側へ寝返りを打つ。
「あー……まぁいいけど。そうだよね。私達まだ喧嘩しているんだもんね」
「怒ってるんでしょう……? 無視を続けなさいよ……私のことは放っておいて」
むしろ楽にして。
私はもう土に還りたいの。
「そうです。怒ってます。エリカさんは自分勝手なんだもん。勝手に拗れて、勝手に悩んで、全体的に我が儘なんだよ。もっと素直になればいいのに」
「困ったわね……私のルームメイトはどうも日本語が通じないみたいだわ……ほっといてって言ったでしょ」
「大切なことを言わないのはエリカさんも一緒じゃないかな。だって聞いたよ? 山下先輩から」
思わず跳ね起きた。
「何で急にあいつの名前が出てくるのよ!?」
振り向かずにはいられなかった。なぜ、なぜ山下なのだ。
目線を壁から翻し、みほの瞳を見つめる。
みほは微笑みながら、言い聞かせるように静かに言葉を繋いだ。
「あの夜の後ね。エリカさんは山下先輩に会ったんでしょう? そしたら、その次の日にはすぐ山下先輩はチームのみんなで私に会いに来て謝ってくれたよ。どうか戦車道を続けさせてくれって」
「あの……口の軽い馬鹿女……」
「あー、ひどいな。でもエリカさんの方がもっとひどいよね? 私、戦車道を続けたいなんて一言も言ってなかったのに。エリカさんは嘘つきだよ」
胸が張り裂けそうになる。
みほを探して走ったあの瞬間よりも、その言葉は私に刺さった。
「ごめん……」
「許さない」
「許して欲しいわけじゃない……でも謝らせて。ごめんなさい……みほ」
「許さないから」
いずれこうなる予感はしていた。
彼女は決して頭が悪いわけじゃない。少し要領の悪いところはあるけれど、本当は聡明な子なのだ。
隠し通せるなんて考えた、私の方が愚かだった。
私は彼女に嘘をついた。
「私……みほにひどいことをしたわね……。どうぞ好きなだけ軽蔑して……許される行為じゃないわ。傷ついた貴方の心に付け込んで……。私は戦車を続けたかった……みほが黙っていれば戦車ができる……そんな私の欲望のせいで、貴方を無理矢理、また戦車に乗せた……」
「許さないよ」
ほんの数日前に立てた誓いを、すぐに破るような私は弱い人間なのだ。
絶対にもう泣かないと決めたのに、我慢できなかった。
けれど心はようやく満たされた。
隠そうとした嘘が露見して彼女に責められることで、ようやく私の頸木は外された。
貴方とまた戦車に乗れて楽しかった。
いいえ、戦車なんか関係なしに同じ部屋で同じ本を読んで一緒に笑い合う。
かけがえのない時間が愛おしかった。
その感情を黒く塗りつぶしたのは私自身だ。
嘘を守ろうとするから、すべてが嘘に思えた。
こんな楽しいはずがない。私は彼女を欺している。許されるはずがない。
疑心は澱のように沈殿して、ますます私は堕ちていく。
すべてが虚しかった。
彼女の笑顔が虚しかった。到底耐えられるものではなかった。
やっと素直に貴方と仲良くなれるのに、その権利のチケットを自分で破り捨てるなど、頭がおかしくなりそうだった。
いや、もうとっくに私は狂っていたのだ。
罪を犯しておいて、それを咎められて喜んでいるではないか。
ようやく解放されるんだと。
そんなもの、とても通常の精神状態と言えない。
「ごめんね……ごめんなさい……」
「許して欲しいなら、何かそれ以外のことを言ってくれないかな」
こんな形で。
いや、救い難く愚かな自分に相応しい。それでもようやく鎖が外される。
「貴方は……みほはみほなのよ……。戦車なんて関係ない……自分の思うことをやればいいわ……」
私のことを、今ここで引っ叩いてくれて構わない。
絶交してくれて構わない。
許されなくていい。
「じゃあ、私が戦車道辞めるって言ってもいいの?」
「いいわ……」
みほの気持ちをもう蔑ろにしたくない。
「私が自分の気持ちに正直になっていいの?」
「いいのよ……」
「そっか……じゃあね、私、続けるよ。戦車道」
理解し難い発言だった。
そうだ、また私のせいだ。
私がこうして惨めったらしく泣いてなどいるから彼女は情にほだされて。
慌てて涙を拭う。
「ばっかじゃないの……?戦車なんかつまんないことばっかじゃない。我慢しなくていいのよ。自分のしたいことをしなさいよ!」
「したいことなら、あるよ。私、嬉しかった。ずっと背中を摩ってくれた。ずっと手をつないでいてくれた。エリカさんは私に優しくしてくれた。それが嘘なのかもって思ったら、ずっとつらかっ……た。利用されても別にいいよ。それがエリカさんの夢なら応援するよ……? でも、そう言ってくれなかったから……ずっとエリカさん黙ってるん……だもん。それが、私への優しさなのか。優しいふりなのか……わからなくて……」
だから、ずっと寂しかった。
彼女はそう言った。
「だけど今なら……ね? できそうなの。で……も……まだ足りないよ……だからお願い……」
あと少しで、またエリカさんを信じられそうなの。
眼と同じ。
感情のよくわかる、その大きな瞳から溢れる一筋の流れ。
緩やかに伝い、顎から滴り落ちる。
悲しみはなく、ただ清かった。
その昔、海岸で綺麗な貝殻を箱いっぱいに集めて遊んだ。
私にとっての宝石達。
あの頃と同じ無邪気に純粋に美しいと思えるものが、また私の目の前にある。
私は。
私は二度も道を違えない。
泣く泣かない、なんてそんな軽い誓いではない。
「わかった。もう嘘はつかない。だから私を信じて、みほ。お願い」
「わかった……許してあげるね……」
彼女の髪。
彼女の指。
彼女の涙。
どれも暖かくて、柔らかくて、儚くて、脆い。
だから、もう私の手からすり抜けないように。
もう離さないと誓った。
見返りは必要ない。そんなものもうとっくに貰っていたから。
だって、こんなに晴れ晴れしい気持ち。
初めて戦車に乗って以来じゃないかしら。
「あっ、また嘘ついてるよね……?」
「嘘なんかじゃ……。ううん、嘘よ。だって、それよりも今の方がもっと幸せだもの」
また手をつなぎ合って寝て、起きて点呼を受けて着替えを済ませる。
今日は公式戦、第二回戦。
変わらない日々がまた来る。
気温は今日こそ三十度に行くとか、行かないとか。
こんな暑い中で、よくも好んで鉄の箱なんか入ってるわね。
自分でも呆れるわ。
戦車なんか別に楽しいわけじゃない。
選択したんだもの。
当たり前に伴ってくる義務だ。
「行こう! エリカさん!」
「ええ、今日も勝つわよ! みほ!」
楽しくても苦しくても日はまた登り、営みは繰り返される。
深く考える必要なんかない。
損か得かで考えればいいだけの話だ。
せっかく青春を謳歌するなら楽しまなくちゃ損、それだけのことだ。
だからもう迷わない。
偽りなく前だけを向いて進む。
それでも負けたなら、何か別の楽しいことを見つけるわ。
そう、彼女と一緒に。
だって別に拘る必要なんかないもの。
やりたいことなど他にもいくらでもあった。
「よし! 戦車前進! 隊長車に続いて! 遅れないでよ!」
「は~い、了解。王子様」
……。
「……何よ、その王子って」
「いや、だって聞いたぜぇ? みほちゃん救いに大立ち回りしたってな!」
「は?」
「先輩相手にすっごい啖呵切ったって噂になってたわよ、あんた」
「はぁ!? 嘘でしょ!?」
「いいなー。うらやましいなー。夢も同じで、お部屋も……同じ……? キャー!」
「……それで? ……それで、どこまで進んでるの?」
「いいから! お前ら真面目に試合しろ!」
前言撤回。
こんな馬鹿みたいな試合さっさと終わらせて帰って寝たいわ。
本当、戦車なんて少しもおもしろくない。