※この作品はR-18です。

疾風-The Weak   作:佐藤_ライパク勢


原作:Rising Impact
タグ:R-18
ライジングインパクトスピンアウト第二段です。走り屋集団「キャメロット」の、その後。

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疾風-The Weak

 すすけた雑誌を拾うと、中から一枚の写真がはらと落ちた。雑誌並にすすけ、擦り切れている。裏面には日付と「七海モータース前にて」の文字列があった。裏返すと、思ってもみなかった画に遭遇した。居並ぶバイクを囲むようにして映る、笑顔の若者たち――

「マーリン、これ」

「どないしたっちゃ?」

 写真を手にするなり、マーリンの表情が輝き、曇り、やがてその両者がない交ぜとなった、どこか不透明な色を示した。しばしの絶句ののち、ようやくこぼれ出たのは「――こりゃ」の一言だった。

「アリア殿は、面白いものを見つける天才じゃのう」

 冗談めかした言い方にも嘆息が混じる。応じて笑おうにも笑えない。「いやな天才ね」と返すのが精精だった。

「ジェーソンのバイクが載った号だね」

 ティムが言った。

「それで、ついでだからって記念撮影したんだったか。始めは何かのジョークかと思ってたんだが、雑誌に本当に載ってからはそうも言ってられなくなったんだっけな。そういえばジェーソン、あのときに知り合った彼女とは今も続いているのかい?」

「まあ、普通にな」

 普通ね、ティムはわざとらしく肩をすくめた。

「しかし、今にしてみると随分不思議な写真じゃのう」

「そう昔って訳でもないんだがね」

 昔ではない。だが、それがどうしたというのだろう。ティムの言葉を継ぐ者はいない。写真の中で屈託なく笑う顔触れの中には、今この場に残っている顔があれば、既にない顔もある。その違いこそが、結局のところ全てなのだ。

「昔がどうであれ、それで今がどうにかなるわけでもないだろう?」

 沈黙を破ったのはドルファだった。

「俺はキャメロットとグラールが一つだった時代を知らない。俺だけじゃない、多くの奴らがそうだ。お前たちとフェニックスが過去にどうこうしたからと、そこを発端として、既に多くの人間を巻き込んでいるんだ。今更感傷でお茶濁しか? 許されるわけがない」

「確かにのう」マーリンが苦笑した。

 ドルファの発想は極めて正論で、正論だからこそいらつきを覚えさせられる質のものだった。逃避の心が言わしめているようにも聞こえる。現実を現実として見、受容する。打破しようとは志さない。とは言え根拠もなしで現状の打破を確信する人間よりは遥かにましとも言えはするのだろうが。

「大丈夫よ」

 口から出た言葉が、半ば自分に向けてのものであると気付く。

「今更感傷も何もないわ。戦わなきゃいけないんだもの。仮に感傷のような気持ちがあったにしても、そんなのは戦う理由にこそなれ、気持ちを鈍らせるようなことにはならないわ」

「詳しいな」ドルファがあからさまに鼻白んだ。

「当事者だもの、私も」

 マーリンから再び写真を回してもらった。一団の中心では二人の青年が肩を組んでいる。その後ろには、二人を支えるかのようにして、一人の男が立っている。写真の隅々を見ようにも、どうしても視線が男から離れてくれない。

 忘れかけていたのに。彼のことも、彼との思い出も、あの頃に得た全ての痛みも。

「去った人間がいて、同じように、新しく集った人間がいる」

 口を開いたのはジェーソンだ。

「時は戻らんのさ。ならば進むしかない」

「――そう、ね」

 写真を雑誌に再び閉じこんだ。目を閉じる。

 私は強くなれただろうか。それとも、あの時のままなのだろうか。

 答えは、見えない。

 

 カジェリは、自分の取るべきラインが一筋の光として見える、と言っていた。胡散臭い話だ、だが信じるより他なかった。実際彼女の走りは常に理想的なラインを描く。思い切りには欠けるものの、安定性にかけては他の追随を許さない。その言を信じる以外に、彼女の最速を納得することは出来ない。

 最速。実に分かりやすい考え方だ。他者を抜き去ればいい。得ること自体に意味はない、だが何よりも確かな自己の証明にはなる。誰よりも優れていることは、事実そのものが栄冠として輝く。目指すだけの価値はある代物だ、と思う。他の何を犠牲にしてもだ。だが、カジェリはそれを否定する。その上で、速さを我がものとしている。弟を、周りの環境を、すべてを愛しながらも――常に、アリアの前を走りつづける。

 苛立ちが走りを荒くする。緻密なアクセルワーク、多くの走りこみの上に築き上た無数の「理論」――アリアの走りには何よりも冷静さが求められる。冷静さと、自信と。この二つをたのみに速さを磨き上げてきた筈だと言うのに。

「根、詰めすぎなのよ」

 仲間の言葉は、喜びよりも戸惑いに満ちていた。今まで絶対的とすら思われていた差が突如として縮まり、あろうことか逆転さえ果たしてしまったのだ。無理もないことだろう。初めての敗北に、怒りすら覚えず、悔しさも感じず、冷徹とすら言ってしまえそうなほどの温度で、沸き上がってくるのは他者への分析だった。

 ずっと格下だと思いつづけてきた相手に負けたのだ、と自分に言い聞かせようとしてみる。受け入れようとしない。何度も繰り返す。結果は同じだった。

「勝ったんだから、もう少し嬉しそうな顔してみたら?」

 心にもない言葉が口をつく。本来ならあんた程度が私に勝てるはずもないんだから。私が本調子に戻ったら、こんなことはもう二度と起こらなくなるんだから。我が事ながら薄ら寒さを覚えてしまうほどの自信だった。

 一方で、心のどこかが叫んでいることにも気付く。このままずっと勝てないままでいるとしたら? すぐに考えつかなかったふりをする。頭から振り払う。それを考えることに、意味などない。

 仲間の顔を見た。何故か可笑しくなってきた。

「そうね、たまには息抜きも必要かもね」

 

 繁華街から一本奥へ入り込んだ通りに立つ雑居ビルの地下。BAR AVARON の看板。厚手のドアが開けば、歓声とも嬌声ともつかない声が溢れかえってくる。薄暗い室内には多くの影、壁には所狭しとバイクの部品が、あるいは名の知れたライダー達の写真が飾られていたりする。今更のように店の名称となっている AVARON がとある有名レーシングチームのもじりであることに気付かされる。つまりはそういう店か、と妙に合点が行く。

 一歩店内に踏み込んでみれば、いくつもの視線が絡み付いてきた。ただし、ほんの一瞬だ。各々の関心はすぐさま目前の酒に、食べものに、あるいは隣人に戻ってゆく。

 仲間に促されるまま通路を進む。漂う煙草の匂いはこの手の店にはつきものと言ってもよさそうではあったが、だからと言ってわざわざ我慢をしようとも思えない。来て早々ではあったが、暫くしたら適当な口実をつけて逃げ出してしまおう。

「お、来たね」

 声は一番奥に陣取る男からだった。軽薄そうなその口ぶりが癇に障る。

「そんなに待ってないでしょ?」

 とは、仲間の一人。普段よりも声のキーが少々高い。

「ま、ね。座りなよ、始めよう」

 テーブルに仲間たちが次々とついていく。テーブルを囲むように、仲間たちと予め席についていた人間が交互に座るような形を取った。どこに座ろうか決めあぐねている間に席は埋まってしまう。残るは奥の席、例の軽薄そうな男の隣。一番避けたいと考えていた席ではあったが、この場にあってはどこに座ってみても大して変わらないだろう、と思い直す。

 テーブルセットは既に出来上がっている。空きグラスにはすぐにビールがつぎ込まれた。新顔にグラスが回る。音頭を取ったのは隣の男だった。

「じゃ、この辺りで乾杯と行こうか」

「乾杯って、何に対して?」

「そうだな、この出逢いに、ってのはどうかな?」

 ひとしきりの笑い声は上がったが、特に反対が出るわけでもなかった。音頭に続いて十数人が乾杯を唱和し、思い思いにグラスを重ねあった。

 調子を合わせて何人かとグラスを合わせ、中身を口にしてみた。だが、どうにも盛り上がれない。何が苦手かと問われれば、それこそ破目を外すことと答えてしまいかねない勢いなのだ。

 隣からグラスが伸びてきた。

「改めて」

 声の主に目を遣る。そして妙な感覚をおぼえる。先ほどまでの雰囲気が消えていた。浮かれあがった面子の中にあって一人沈静化しているとでも言うべきなのだろうか、その豹変振りには戸惑いと、少なからぬ興味が湧いてくる。

 乾杯に応じる。ほのかに、短く、グラスが鳴る。

「あなたたち、何の集まりなの?」

「医大生。言うなればボンボンの群れ、ってところかな」

「そうなんだ」

 道理でふ抜けた面構えが多いわけだ、と思う。だからどう、と言うこともないのだが、とりあえずの感想は一言で足りた。いけ好かない連中だ。

「それにしても、アリア・セイフォートともあろうものがこんな席に顔を出すなんてね。意外だったよ」

 反射的に振り向いてしまった。まだこの場では名乗っても、紹介を受けてもいないはずだ。男の顔を見るも、答えなど判るはずがない。まじまじと見つめてしまうのみに留まる。

 男が苦笑した。

「大分自分のことを理解してないんだな。あれだけ派手に走り回ってりゃ少しは自分の名前も売れてくる、とは思わなかった?」

「誰が、あなたたちみたいなお坊ちゃまにまで知られてると思うの?」

「違いない」男が笑った。「けど、坊ちゃんの中にだって走ってる奴はいる。でなきゃ走り屋集団と医大生、なんて集まりはありえないだろ?」

「知らないわ、そんなこと」

 知る必要などない。興味もない。破目を外すのに必要なのは対象でなく、状況なのだ。

 グラスを一気に乾す。久しくアルコールを容れていなかった体は過剰な反応を示した。だが、努めて表には出さないようにする。精一杯の強がりだった。

「お、イケるね」

 男は早速瓶を構えていた。グラスを突き出すと、すぐさまなみなみと満たされた。

「自己紹介が遅れたけど、僕はレインって言う。医大生、兼走り屋ってところかな。よろしく」

「自分で走り屋なんて、普通言う? 胡散臭いわ」

「手厳しいな」

 レインが頭を掻いた。

「おいおいレイン、いきなり抜け駆けかよ」

 注意が完全にレインに向いていたため、その声はほぼ真後ろから飛んできたようなものだった。驚き、振り返ると、既にある程度出来上がっている男が一人。手にはボトルが握られている。だらしなく緩んだ顔つきが、どうにも癇に障る。

「普通だろ、世間話くらい。こっちゃいきなりハイギアスタートなんてできないんだから見逃せよ」

「ヘイヘイ、ってなんだよ。まるで俺が悪モンじゃねーか」

「なんだよ、妙に説得力あるな」

「うるせーよ」

 レインが男に向けて大仰に肩をすくめてみせた。

 何気ないその動作が妙におかしく、つい笑みをこぼしてしまう。

 それが、この場に到着してから初めての笑みだった。

 

 一旦体が酒に馴染むと、大分以前の勘が戻ってくる。勘と言ってしまうのも妙な話ではあるのだが、どの辺りで限界かは見当がついた。幾分酒の回りが早い。今日はそろそろだろう。

 既に席は乱れていた。テーブルに突っ伏している者、何人かで大笑いをあげている一団、カウンター席に移動して何事かを囁きあっているカップル、など様々な様相を呈している。

 彼らの様子を見るともなしに見ながら、部屋の隅、二方の壁に背を預け、特に何かを口にするでもなしで座り込む。

 沈思する。随分と笑った気がする。慣れないことをした、という戸惑いはあったが、悪くないとも思う。たまにはこういうのもいい。揺れる視界に身を委ねたまま、酔っていることを楽しもうと思う。

「グロッキーみたいだね」

 話し掛けてきたのはレインだった。

「そうでもないわ。結構楽しいもの」

「そうは見えないけど?」

「分からないわよ、あなたには」

「はいはい」

 隣に座り、やはり壁に寄りかかった。グラスは一旦テーブルに置く。

「今日来てくれたことは本当に驚いたけど、正直なところ嬉しかったよ。ありがとう」

「何なの、出し抜けに?」

「勘繰ったって何もないよ。ただ感謝してるだけだ」

 感謝。感謝?

「おかしなこと言うのね」

「そうかな?」

 レインが自分で持ってきたグラスを指で弾いた。中にさざなみが立ち、だがそう時をおかずに静まってしまう。何気ないひと仕種だったというのに、妙に目をとられた。

「何て言えばいいのかな。君の走りは他の奴らと違うんだ。僕を惹きつけてやまない、って感じでね。何を求めて走ってるんだろうとか、いろいろ聞いてみたいことがあった。でも大元さえ辿ってみれば、ただ話してみたかっただけなのかも知れない。だからこうして君が来て、僕に話をするチャンスを与えてくれたことには感謝をするしかない――って、なんかこれじゃ愛の告白だな」

 台詞の締まらなさに笑う。レイン、という人間のキャラクターではないように思う。

「大胆なのね」

 ついからかうように言ってみた。すると今度は平然と「奥手なのさ」と返してきた。

「でも、別に不思議でも何でもないんじゃないかな。僕だけじゃない、そもそもアリア・セイフォートと言えば斯界の注目株だ。結構色々な人間がお近づきになってみたい、と思ってるはずだ」

「近付いてどうするの?」

「さあ? 本人たちにしか分からないことなんじゃないかな」

「だから、今こうして聞いてるんじゃないの」

「え?」

 話の流れからか、自分に向けられた言葉だとは露ほども考えていないようだった。レインの表情が停止した。面白い反応だ、と思う。もう少し問いを重ねてみるのも面白いかもしれない。どの言葉が最も効果的なのだろうか、軽く頭を巡らせてみた。

「走り屋として、ってこと? それとも別に何かあったりするのかしら? その辺興味あるな、聞かせてよ」

 停止した表情が揺らぐと、その下から別の顔が現れた。

「そうだね、……どういう答えがいい?」

 逆効果だった、そう思ったときにはもう遅い。レインの瞳に確信を感じる。自らの胸には戸惑いが大きく広がってくる。

「どういう答え、って」

 問いを返すのが精一杯だった。

「意外と、分かるところは分かってるみたいだね。それとも実績が自信を生むのかな。ま、そんなことを考えたってしょうがないか」

 漠然とした言い回しだったが、内容はほとんどこちらに対する挑発といってしまってもいい。だが、そこまで分かっていても上手い打開策が見つからないのではしょうがない。酒で回転の鈍くなった頭にとって、レインの一言一言はあまりにも強力だった。

「何が言いたいの?」

「大したことじゃない。敢えて言うんなら、そうだな。君が興味を示してくれてることが嬉しい、って辺りになるんだと思う」

「いよいよわからないわ」

「だろうね、僕も分からなくなってきた」

 こともなげに言ってのける。

 レインの真意がわからない。だが今となっては知ろうとすること自体には大した意味がないようにも思えてきた。ともなれば、後はレインに対して感じ取っているものが一体何であるかを突き止めるべきだ。

 しばし顔を覗き込む。口が勝手に開く。

「バイクに乗った切っ掛けは、前の恋人だった」

 頭の中に一人の男が描かれた。甘みやら切なさといった感覚が付随してあらわれる。だが、全ては過ぎたことだ。単なる記憶の一断片でしかないからこそ当時の感覚も思い出すことが出来る。痛みなど、伴うはずがない。

「同じフィールドに立ちたかったからこそ、だったのかもしれない。でも、時が経つにつれて私の目から彼は消えていった」

 レインの顔から笑みが消えた。といって別段話題を忌避する風でもない。テーブルのグラスを手にし、一口つけてから改めて正面切って見詰めてきた。

「気付けば、って辺りなのかもしれない。恋人として最後に交わした言葉、最後に見た表情。どちらも思い出せない。時々顔を合わせることがあるとは言っても、そうともなれば所詮他人と他人だしね」

 レインのグラスを奪い、喉を潤そうとした。ウイスキーのロックだった。普通のグラスに入っていたため、ウーロン茶と一人で勝手に合点してしまっていたのだからたまらない。むせ返ってしまう。

「大丈夫?」

「平気よ、ありがとう」

 改めて中を見れば、もう残りも少ない。一瞬のためらいと短い深呼吸の後、一気に飲み干してしまう。まだ、口が重い。もっと軽くしなければならない。軽くしなければ、出すべき言葉も出せずに終わる。

「ねえレイン、どう思う?」

「どうって、何が?」

「結局私は恋人よりバイクを選んだ、ってことになるのかしら」

「それを僕が答えられるって?」

 レインの言葉は、強制的な覚醒を促してくる。一瞬頭の中が真っ白になった。直後には苦笑が浮かんでいた。

「――そう、ね」

 一体、何を口走っていると言うのか。語る必要など全くないはずではなかったか。もっと別個の、もっと重要なことだ。口にするべきは胸の裡に渦巻いている感情などではない。理解を求めてみたところで仕方がないのだから。

「まあ、そいつが羨ましくはある、かな」

「なんで?」

「君のことを知っているからさ」

 その言葉が冗談なのか、何らかの感情を伴ってなのか。表情からは何も伺えない。

「馬鹿みたいなこと言うのね」

 言いながら、馬鹿なのは自分だ、とも思う。頭の中を整理してみようなど、どれだけ馬鹿馬鹿しいことだろうか。どのような分岐、どのような錯綜を経ようとも、行き着く先にあるのはただ一つなのだ。何のこともない。自らの望むままを言ってしまえばいい。

「ねえ」

 呼び掛けてから、いちど唾を飲む。

「なら、酔ったから介抱して、って言えば応じてくれるの?」

 

 向けられた好意に甘えたかったのだ。言い訳は、それでいい。

 シャワーの一滴一滴が肌を灼く。表面にこびりついた何かを削ぎ落として行く。

 ハンドルを締める。流れ落ちる水滴に肌を舐められる感覚を楽しむ。一滴がしたたるたび、頭がクリアになっていくような気がした。

 髪の毛を乾かすのもそこそこに、ドアを開けた。

 沈んだ色のライトに照らされる中、ベッドにはレインがいる。上半身に一糸もまとわぬままで本を手にしている様が妙におかしかった。

「何読んでるの?」

「フロイト。学校の課題でね」

 本を取り上げ、乱暴に閉じる。

「嘘。どうせ趣味なんでしょ」

「ま、半分はね」

 キスはレインからだった。応じる。そのままベッドに乗り、上から覆い被さるようにして交歓し合う。眉間から脳の深奥部にかけて鈍い感覚が走る。更にむさぼると、感覚は後頭部を貫き、後方に拡散していった。呼吸を忘れていたと気付いたのは、唇を離してからだった。

「人って、見かけによらないのね」

「何が?」

「いい身体してるんじゃない。もっと細身だと思ってたのに」

「重要なんだよ。自分を固めておけば、君のやわらかみがよりありがたい」

「変な理由」

 互いを探り、探られる。レインの指先が肌をなぞり、巧みに敏感な個所をすくい上げてくる。次から次へと脳に刺激が去来する。特に触れられているでもない個所にも似たような感覚が走り始めてきた。耳の裏、脇、臍、内腿。レインの舌が首筋を這う。声が漏れそうになった。

「結構、場数踏んでるんじゃない?」

「まさか。イメージトレーニングの賜物ってやつだよ」

「随分と嫌なイメージトレーニングね」

「そうかな? お相手を喜ばせたい、ってのは普通だと思うんだけど」

「普通かしら?」

 レインに乗り上げた。硬い腹筋の感触がなんとも心地よい。呼吸を伴う上下動すら、昂ぶった体にとっては刺激だった。後ろ手に屹立の所在を探り当てる。それが充分に大きく、硬くなっていることを確認すると、しばらく実物を見ぬままいじり続けた。

 枕もとに目を転じると、蓋つきのカゴが置いてある。蓋を開け、中身を取り出す。端を咥えてパッケージを破ると、中からは苺の匂いが漂ってきた。

「へえ、こんなのあるんだ。面白い」

 屹立と対面すると、早速ゴムを装着させた。ゴム付の格好は密かに可愛らしい、と思う。端を軽く引っ張り、放してみた。パチリと小さく音がする。レインの表情がわずかに歪んだ。

「ごめん、冗談冗談」

「もうちょっと気の利いた冗談のが嬉しかった、かな」

「悪かったってば」

 改めてレインに乗る。位置を合わせ、まず先端を貫入させる。異物が肉を押し分ける感触、あまり愉快とは思えない代物ではあった。だが構う必要はない。一気に咥えこむ。

 縦一直線に痺れが走った。結合部がめくり上がるかのようだった。

 これとよく似た感覚を知っている。走り出す直前の、あの一瞬。

「どうと言うこともない、か」

 つい口走る。レインが怪訝そうな顔をした。

「跨るのがバイクから男になった、それだけ」

 腰を動かす。レインの手が腰に回ってきたので、その上から手を重ねる。

 自らの挙動が快感の伝播と合致する。何とも言えぬ恍惚が支配する。

「男とバイクが同列か、参ったね」

「そう言う訳でもないけど」

 ふ、とレインが息を漏らした。

「じゃ、そういう事にしときますか」

 言葉が消えた。

 シーツの擦れる音、重なる呼吸。ニチャ、ニチャと音がする。

 あさましい、と思う。この体を求めているレインも、それに応じる自分も。音の上に音が重なり、その都度何か黒々としたものが蓄積されてゆくかのような気分になる。吐き気を催しそうな気がした。酒のせいではない。もっと、別の何かの。

 動きを止めた。

 息が荒くなっていた。鼓動も早い。定期的に、極めて耳障りに、耳朶を叩いてくる。

「――疲れたわ」

 顔に掛かってきた髪の毛を払った。随分と長くなってきた。そろそろ切り時かもしれない。

「交代する?」

「そうね」

 レインが起き上がった。片手を脇の下に伸ばすと、その手は項に到達し、首筋をなぞってきた。至近距離で見詰め合う。

「綺麗だな」

「何の冗談?」

「冗談なもんか、心からさ」

 優しく、静かに体を入れ替えてきた。背中にシーツの感触を得る。いささか柔らかすぎはしまいかとは思ったが、感想は胸よりの刺激によってかき消された。

「あなたの言葉って、全部冗談に聞こえるのね」

 負けるまいと思って口にしたわけではなかった。だが自分の言葉でレインがきょとんとし、直後には何ともいえぬ苦笑を浮かべる様を見るのは面白かった。

「そうなのか。損ばっかりしてるわけだよ」

 つい、笑ってしまった。

 今度は自分から手を伸ばす。両手で頭を包み込み、引き寄せる。

 肌に伝わってくる温もりが愛しかった。寄る辺を得ていることが、何にも増して嬉しい。腕の中にある感触がこの場限りのものであるにしても。――いや、この場限りならばこそなのかも知れない。それがいかに浅ましさに基づくものであるにせよ、ここで休んでおけば、また走り出すことができる。

 二度目のキスをする。唇と唇だけの。

「外してみない?」

「え?」

「ゴム」

 言うが早いか、手を伸ばした。表面がわずかに湿っている。これが自分に由来するものだと思うと、何故か可笑しくなってきた。

 しばしレインが黙考する。

「よっぽどのギャンブラーなのかな」

 ゴムに伸ばしていた手をどけると、自分でゴムを外し、ベッドの脇に放り投げた。腰をずらし、あてがうと、何の躊躇も無しに突き入れてきた。全身に走る刺激は、誘い入れたときとは全く比較にならなかった。加えてダイレクトに伝わってくる熱さ、下腹部に感じる生々しいまでの形状。柔らかく、しかし、固い。

 こじ開けられてしまうような気がした。そうはさせまいと腿を締める。だが頭の片隅にはこじ開けられてしまっても構わない、という気持ちもよぎる。完全に受け入れてしまえば。強烈な誘惑だった。とは言え応じるわけには行かない。仮に全てを委ねてしまえば、それはもうアリア・セイフォートではないから。根拠などなかったが、確たる矜持だった。

 ライトを背にしているので、レインの表情は伺えない。上下動のたびに髪の毛が揺れる、分かるのはその程度だ。ふとレインの顔に手を当ててみた。随分細い顎だった。

「あなたが髭生やしたら、大分面白そうね」

「そうかな?」

「面白そうって言うか、妙に似合いそう」

「誉められてる、と取っていいのかな」

「どちらでも」

 緩急をつけたレインの動きに付き合うのは予想外の体力消費を伴った。自分から動いているわけでもないのに、自然と息が切れてくる。

 レインの動きが一定になってくる。強く、速く、深い。そろそろだ、と思う。

「このまま」耳打ち。

「このまま、中で」

 その言葉が届いたのか、それとも隔たりを取り払った時にはもうそのつもりでいたのか。どちらなのかは分からない。これ以上無い、というほどに力のこもった一突きが放出の合図となった。動作が止まり、小さな痙攣が一度、二度。腹部に何かが満たされるかのような感触を得る。思いがけぬ多量のようだった。

 全てを受けきると、意識が秒一秒を追うごとに覚めてゆくのが分かった。世界がもとの姿を取り戻す。見上げる先には天井があって、ぼんやりとした光と影が模様を描くかのように広がっている。レインの荒い息が耳に届く。自らの心音も聞こえてくる。鎮まれ、と念じるだけで鎮まるような気がした。大きく上下する背中を改めて抱き締めてみた。何も感じなかった。

 抱き合った状態でいること暫し、唐突にレインが顔を起こす。

「ごめん、中に出しちゃったな」

 ありありと浮かぶ惑いの色が、どうにもレインらしくないと思わせる。レインらしさ。自信と、他者への意識と、ありとあらゆる行動を彩っている、ある種の「華」と――その顔をみて、ようやくレインを理解できたような気がした。うまく言葉にはあらわせそうにないそれを思うと、つい笑みがこぼれてしまう。

「気にしないで」

 唇を重ねる。

 起き上がると、フロアーに落ちていたゴムを捨てた。「几帳面なんだな」と言ってくるレインには軽い笑みを向けた。

 バスルームに入る。冷水で全身を打つ。火照った体にはいささか冷たすぎるほどだったが、これはこれで気持ちが良かった。

 ふと、内股を伝う感覚に気付く。

 見れば水滴に混ざり、白濁したゼリー状のものが零れ落ちていた。たまらなく気持ちの悪い感覚だった。指で弾く。だが、落としても落としても中から滲み出てくる。

 業を煮やし、指で掻きだした。意味はなかった。

 

 レインとのセックスが何をもたらしたのか。

 愚かしい問いだった。答えを探し出す必要もない。だが、そう問おうとする姿勢には意味が隠れているのではないかと思う。

 交歓の残滓がいまだ下腹部に留まっている。だが記憶としてはあまりにはかない。ひとたびエンジンに火を入れれば、たちまちのうちに吹き飛んでしまう程度の代物だ。

 ギャラリーたちのざわめきが周囲を占めている。他の車、あるいはバイクのヘッドランプでライトアップされていて、一帯は祭りの様相を呈している。

 町外れから山あいを抜け、海岸線をかすめて海沿いの駐車場へと至る道。地元では有名な走り屋たちのスポットだ。今晩も既に多くの勝負が行われた。大取りの勝負ともなれば当然夜もふける。ジャケットの袖をめくると、あらわれた時計の針は25:00を示していた。いつも通りだ、と思う。

 隣に目を遣る。バイクがいる。無駄を徹底して省いたフォルムの中、エンジンルームのところに鮮やかな満月が一つ輝いている。唯一のその飾りくをして、皆々はそのバイクをシャイニング・ロード、光輝の君主と呼び習わしている。無論その乗り手が圧勝の山を築き上げているからこその名だ。

 乗り手の名はカジェリ。不敗の女王。

 背後よりの光に照らし出され、カジェリは笑っている。これから勝負に臨もうとする相手に対する、捉えようによってはこの上ない挑発だが、そのような笑みでないのは確かだった。そのようなことをできる人間ではないのだ。ひたむきで、走りを愛し、己に与えられた環境に感謝する。感謝をし続けることができる。無論、これから勝負を行う相手に対しても。

 内側で煮え返る何かを抑え切れる気がしなかった。早くスタートの時間になってしまえ、と思う。速さ以外の全てが否定される世界だ。何の言い訳も利かず、そう、逃げ道がないからこそ魅せられる。信じるべきはあらゆる感覚を制御するために全力を振り絞らんとする意志。そして自らの意志を一手に受け、現象へと切り替える、この右手。周りの雑音になどとらわれることなく、己の心の裡にのみ埋没さえしていればいい。気など抜けられるはずもないが、安心はしていられる場所だ、と思う。

 スタート・チェッカーが目の前に立った。

 間もなく時間だ。一瞬ハンドルを握る手に力がこもった。

 バイザーを下げ、前方を見据える。沿道にはギャラリーがひしめいている。ふと目がレインを探そうとした。すぐに自分のしようとしていることに気付く。

「スタート30秒前!」

 脳内を一筋の光条が閃く。動き出す、そう思うだけで、心が躍り出すのを抑え切れない。すぐ間近の空気だけが熱くなり、乾いていくような気がした。今度こそは。

 カウントダウンは15秒前から。もっとも長い15秒間だ。クラッチを切り、アクセルを握りこんだ。エンジンがこれまでになくけたたましい唸り声を上げた。

 5秒前。チェッカーが両手を振り上げる。全て開いていた指が4本、3本と減る。大きく息を吸い、止めた。残りの指は1本。

「Go!」

 一瞬起こるタイヤの空転、直後には急加速による重圧――出だしは互角だった。

 スタート直後からしばらくはストレートが続く。馬力にはあまり差がない。強いて言えばカジェリのバイクのほうが幾分か低い、という事になるだろうか。それも車重や体重の差からすればほぼ帳消しだろう。むしろゼロ速度からの加速に関してはカジェリのほうが有利だ。

 カジェリはコーナー進入時に大きく減速する。もちろん自分が理想的なラインを描くことができるから、その脱出速度に絶対の自信を持つからだ。とは言えこの一瞬でこちらが先んじるのに変わりはない。タイヤが食いつく限界を見極め、アクセルを調整し、Rの中心に向かって体重を傾ける。

 遠心力の拘束から逃れると、既にカジェリは横に来ていた。次のコーナーではカジェリがインになる。不利ではあったが、アウト側にいればライン取りには比較的自由が利くようになる、とも言えた。例えば、いかにカジェリの取るであろうラインを潰してゆくか。走行妨害にならない程度、駆け引きレベルでの手段を一手二手と考える。考え付いては、次々に棄却してゆく。どのような策であれ、カジェリ相手ではいささか心許ない気がした。

 わずか一瞬の思考は、ほぼ本能のなせる業と言ってよかった。或いは思考とすら呼ぶ必要も無かった。結局とるべき選択もままならぬ状態でコーナーに食い込む。アクセルを緩めるタイミングは、例によってカジェリが一瞬早い。先行とすら呼べない些少のリードを少しでも活かさねばならない。全神経をタイヤの手応えに集中する。多少の無理も辞さないつもりでいた。この場合に限れば、相手がカジェリなのはありがたい話だった。

 暴力的な外向きの力に抗し、限界ぎりぎりの距離までカジェリに迫る。肩と肩とが触れ合ったかのような錯覚にとらわれる。接触の恐怖が悪寒となって背筋に走った。直後快感に変わった。

 カラカラになった唇を舐める。タイヤ一つ分後ろにカジェリがいる。少しでも気を抜けば即座に逆転を許す距離だ。もとより油断などできる相手でもないが、すぐ後ろにつけられている、と言うプレッシャーは相当に神経を磨耗する。恐ろしい、と思う。たまらなく恐ろしく、だからこそ心地好い。

 山間部に突入すると、アップダウンが激しくなる。時折前輪が浮き上がることもある。カジェリも、このエリアでは目立つ動きを見せずにいた。ともなると、仕掛けてくるとしたら海沿いに出てからだろう。

 何箇所目かのコーナーを抜けた。左右に迫っていた木々が唐突に開け、路肩のうち片一方に底無しの穴が開く。山が切れたのだ。

 アクセルを全開にした。ここからが本当の勝負だ。自分のものでないエンジン音が、風切りの音にまぎれて聞こえてくる。どこから仕掛けてくるのだろうか。今すぐかもしれないが、もっと後かもしれない。どちらであっても大した違いではないのだ。片時であれ油断をすれば逆転を許す。それだけのことなのだから。

 ――けれど。

 全身を支配する緊張感。ぎりぎりのラインで争っている、ということ。そして、このことは隠しようもない。わずかであるにせよ先行している、という喜びがある。今度こそは勝てるかもしれない、そう思うと、身体が奇妙な熱を持つかのような気がした。

 その思いが芽生えるのと、カジェリが仕掛けてくるのとはほぼ同時だった。

 ほんの僅かな気の緩みを見透かされでもしたのだろうか。あまりにも絶妙のタイミングだった。つい先ほどまでいた場所に、既にその姿が無い。戦慄を覚えた。

 一体何が起こるのか、などと悠長なことを考えている余裕など無かった。譲らない、譲れない。片隅に残る冷静な自我が落ち着け、と叫んだ。聞こえない。普段なら考えられないほどのスピードでコーナーが迫り来るさまには襲い掛かる、と言う言葉が相応しいようにも思えた。全感覚を総動員する。活路はあるはずだ。僅か数パーセントの確率であろうとも、見出さねばならない。そして成功せねばならない。でなければ勝利など到底覚束ない。

 この期に及んで、今もなお勝利にしがみついていることにおかしさを覚えた。ガードレールは二重になっている。その外は岩礁だらけの海だ。既に状況は、生と死の瀬戸際なのだ。

 イン側は岩壁になっている。インいっぱいに寄れば、下手をすれば頭ごと吹き飛んでしまいかねないような気もした。だが、躊躇の材料にはならなかった。気後れしたところで、もう遅い。

 コーナーに侵入する。――

 唐突に重力が消えた。

 直後全身を衝撃が襲う。全ての感覚が遮断された。自分がどこにいるのか、何をしていたのか、これから何をしようとしているのか。全ての記憶が粉々に吹き飛んでいた。

 あらゆるものが元の姿を取り戻すのには、どれほどの時間がかかっただろうか。遠くから声が聞こえてくる。時を追うごとに声は近付き、はっきりと聞き取れるようにまでなってくる。

「――リアさん、アリアさん!」

 切羽詰った声だった。それが妙に可笑しい。随分と大仰ではないか。

 何故か声の主の特定には時間が掛からなかった。その声を心のどこかで求めていたからだろうか、あまりにもつまらない予測が心の片隅によぎった。心のうちで笑う。

 抱き起こされている浮遊感、むずがゆさがあらわれると、直後には右足の激痛に苛まれるようになった。膝の辺りだ。足だけではない。痛みのない個所を探し出そうとするほうが一苦労のようにも思えた。少し身体を動かそうとするだけでも苦痛だった。

「動かないで! 右足脱臼、それだけじゃない! どこにどんな打撲があるか分かったもんじゃないし、こんな事故の後なんだ、頭に何かあったらどうするんだ!」

 声が妙に近い。ヘルメットを外されていたのか、と今更のように気付く。だが、それが何だと言うのか。意識の主導を握っているのは、とめどない痛みだ。言葉は一塊の音としてのみ捉えられ、意味をまるで為さずにいる。

 周囲に注意を払おうとするも、気力が保たない。間もなく全ての感覚が遠のいてきた。抗えるはずもない。深淵に引きずり込まれてゆく。――

 次に意識が戻った時、アリアがまず感じ取ったのはベッドの硬さだった。

「ホテルとは、大違いね」

 その呟きの意味を、誰が解しただろうか。

 

「カジェリはどうなの?」

 それ以外の関心ごとなど皆無に等しい。こちらの過失が、下らぬ意地が、彼女にまで危害を及ぼした。その事実のみが、大きく、重くのしかかってくる。

 林檎を剥くレインの手が止まった。しばし考え込み、視線を上げる。

「順番を追って話そうか」

 林檎とフルーツナイフを傍らに置く。

「君のスリップに彼女も巻き込まれたわけだが」

「それは知ってる」

「そうだね。ならいちいちこんなことを話してみてもしょうがない。打ち身、捻挫が無数、骨折が五箇所。あと、これは頭部を打ったショックからのものらしいんだが――」

 レインが一旦言葉を切り、顔を覗きこんで来た。躊躇が伺える。

「続けて」

 ――溜め息。

「こういうことを言うのには、本当に勇気がいるな。――彼女は、光を失った。バイクに跨るのは、もう絶望的だそうだ」

「――そうなの」

 それ以外にコメントのしようなどなかった。

 彼女の中で走りがいかほどのウェートを占めていたのか、当人ならざる身では推し量ることすら難しい。だが、少なくとも楽天的に受け止めることはないだろう。あれほどの走りを失わねばならないのだから。カジェリは走りの向こうに何を求めていたのだろうか。けれど、それを失った今となっては、心に浮かび上がる全てが見果てぬ夢でしかないのだ。叶わぬ事が約束された夢ほど、これまで叶えようと努力を重ねて来たのであれば尚更、それは強烈に、そして残酷に、心に焼き付いてしまうことになるだろう。

「カジェリは」

 レインに聞かせよう、と思ったわけではなかった。口にせずにはおれなかった、それだけだ。心の中に残すには、溜め込んでおくには、あまりに重すぎた。

「彼女は、きっと私を責めないんでしょうね。事故なんだもの、仕方が無かったのよ。そう言うに決まってる。――心から」

 責められたほうがよほど気楽になれるだろうに、と思う。決して有り得ないことと分かっておきながら、そう望まずにいられない。

「よく見てるんだね、彼女のこと」

「皆が知っていることよ。だから彼女は慕われる。私と違ってね」

 最後の一言に軽い後悔を覚える。言う必要のないことだった。

 嫌でも視界に飛び込んでくるベッドが、他の入院患者が、自分が病院にいるのだということを痛感させる。目をつぶっても鼻腔には病院特有の、人をすっかり滅入らせる匂いが飛び込んでくる。目をつぶれば余計に匂いが強くなるような気さえする。

 ここに自分がいる。当たり前と言えるのかもしれない。しかし走っていたときに、この情景を少しでも想起したことがあっただろうか。失敗をすれば痛みを負うことすら忘れかけていた。

「随分と弱音を吐くんだね」

 不意をつかれたその言葉に、一瞬面食らう。直後にはそれが言うべきでなかった一言に対してのものだと気付かされる。羞恥とともに苛立ちが湧き上がる。

「どういうこと? 私らしくない、って?」

「そこまで乱暴な言い方をするつもりはないけどね」

 シャリ、シャリと言う音が聞こえ始める。レインは再び林檎を手に取っていた。

「人ひとりを傷つけて平然としていられるなんて、それはもう人間じゃない。その点で言えばむしろ安堵した、ってことにはなるんだろうけど」

「何が言いたいの?」

「どうして、苦悩を誰かと分かち合おうとしない? 言いたいのはそういうことさ」

 その視線は林檎に落ちたままになっている。

「君の弱音は、人に頼ろうとするたちのものじゃない。全てを自分一人で抱え込もうとしてる。それがどれだけ恐ろしいことか分かってる?」

 顔を上げる。

「正しいも、間違っているも無いんだよ。全てがネガティヴな方向に流れ、後悔の渦中に呑み込まれるんだ。最後に残るのは暗澹とした闇だけなんだよ」

 そこで言葉を切る。

 ふと、外からの音が届いてくる。どれも閉じた空間の中では意味を持たぬ雑音でしかなかった。だが、世界が自分とレインだけで成り立っているわけではないと言うことを、何の前触れもなく、あるいは意味すらないのかもしれないが、思い出すには十分なものだった。

「詩人ね」嘲笑が浮かんだ。

「とても聞き心地がいいわ。右から左に抜けて行くよう。全然言葉が残らないの。――だから何? あなたがそれを言ってみてどうなるの? 私がどこかに落ちて行くとしても、結局は他人事じゃないの」

 レインの顔が歪むのを見て、奇妙な愉悦が浮かんだ。だが一瞬だった。

 心が凍り付く、とはこういうことを言うのだろう。早くも冷め切っている。何故レインがそのような表情をするのかすら理解に苦しみかける。きっかけを与えたのは、他ならぬ自分自身だった筈なのに。

 レインが口を開いた。だがそこからは何の音も発されない。そのまま閉じる。きつく噛み締められたのが、外から見ただけでも理解できた。

 剥きかけだった林檎を最後まで剥いてから、皿に置く。折角だから食べて、と言い、立ち上がる。

「――また来るよ。お大事に」

 レインの足取りは重い。ドアを開け、振り向かずに「君は、強いんだろうか」とだけ言い残し、立ち去る。

 ドアが閉まるなり、何故か溜め息がもれた。目をつむり、レインの言葉を反芻する。答えはすぐに出た。

 考えるまでもない。弱いのだ。

 体中の痛みが、不意に目を覚ました。

 

 退院には日を要した。煩瑣な諸手続きを踏み、担当医、看護婦に一通りの挨拶を済ませる。帰り際カジェリの病室に寄った。会話は弾まなかった。交わした数少ない言葉も、概ね想像した通りの内容だった。「弟がいない時に来てくれたのがせめてもの幸いね」――苦笑混じりの言葉が、唯一の予想外、と言ったところか。

 病院を出る。外にはレインが待っているだろうか、と思う。

 いない。

 当然だ、と内心苦笑する。あの日以来、レインが病室に顔を出すことはなかった。来なくて清々した、と言う気持ちの裏に、隠しようもない、来て欲しかったと言う気持ちもある。矛盾を受け入れるのにはさしたる葛藤もなかった。自分はレインを知ってしまった。違えようもない事実だ。

「アリアさんじゃね?」

 唐突にかかる声に振り返る。

「そうだけど、何か?」

「わしはマーリンっちゅう者なんじゃけんど、ちょっとよろしゅうおますか?」

 その顔を見る。何回か見掛けたことのある顔だった。確かキャメロット、とか名乗る集団の人間だったか。走り云々と言うよりは、どことも分からぬその妙な訛りが有名だった。

「別に構わないけど」

「じゃ、とりあえず場所をかえまっしょい。立ち話もなんじゃし」

 マーリンは一旦木陰のベンチに案内すると、一走りしてジュースを買ってきた。

「おごるがね」

 マーリンが隣に座る。

「話ってのは、他でもない。レインのことなんじゃけんど」

「レインのこと? どうして私に?」

「奴の口から、よくあんさんの名前があがっとってな。そいで、今回の失踪について何か知っとるんじゃないか、と思ったんじゃ」

 何の前触れもなしに、予想外の言葉が飛び出てくる。受け入れの準備が整っていなかったこともあり、面食らう。

「失踪って、何の冗談?」

「冗談じゃありゃんせん、事実じゃがね」

「ちょっと待ってよ、いきなりそんなこと持ち出されても」

 頭の中を整理しようとする。しかし手に入っている情報にろくなものはない。情報とすら呼ぶのもおこがましいほどだ。むしろ、混乱を来していたのは感情だった。

 何かを言わねば、と思う。その気持ちが焦りに繋がり、結局ろくな言葉は思いつけないままだった。

 マーリンが溜め息をついた。

「――そうがすか、わずかな希望だったんじゃけんど」

 立ち上がる。

「時間を取らせてすまんでおじゃる。で、ものはついでなんじゃけんど、レインから何かの連絡が入ったらわしかキャメロットの誰かに教えてくれんじゃろか?」

「それは構わないわ」

 多分入らないでしょうけど、という言葉は呑み込む。

 ふとレインの顔が、――最後に見た、あの顔が思い浮かんだ。すると、何故かしら口が自然に開いた。

「ねえ、マーリンさん」

「何がすか?」

「唐突なお願いだけど、私を――キャメロットに、入れてくれないかしら?」

 一瞬何を言われたのか、マーリンは理解できなかったようだった。しばし黙考し、やがて嚥下したと見える。だがどうにも釈然とはしないようだった。

「そりゃ構わんけんど」

 二の句は継がせない。素早く手を差し出す。

「そう? なら、よろしくお願いします」

 マーリンの無骨な手が握手に応じるのには少々の時間を要した。この手もレインに触れたことがあるのだろう、などと、ふとどうでもいいような想念が心をかすめる。

 風が吹いた。

 髪が頬を撫でる。入院中に大分伸びてしまっている。そろそろ切り時か、と思っていた折の入院で、走るにはだいぶ邪魔になってしまっているかもしれなかった。

 だが、ふと思い直す。

 もう、髪を切る必要もないかもしれない。

 

 † † †

 

 一枚の写真を眺めていた。

 アーサーがいる。ウーゼルと肩を組んでいる。後ろにはマーリンがいる。ティムも。ジェーソンも。もちろん自分自身も。誰もが屈託なく、ただ笑っている。それぞれの愛機も共に映っている。結成されたばかりのキャメロット――輝いていた、と思う。だが、もう手の届かないものだ。

「ずいぶん懐かしいわね」

 後ろからの声。ミリアムだった。

「そうだね。けど、つい最近のことのようにも思えるよ。不思議な感覚だ。やっぱりキャメロットは、僕たちにとって特別な場所だったんだろうな」

「特別だったんじゃないわ。今でも、間違いなく特別なのよ」

「――ごもっとも」

 断言できる、それは強さなのだろうか。分からない。

 ただ、それが無知から来るものであってもいい、とは思う。それを聞くことが慰めとなる。袂を分かってしまったことを悔いるようなことはあっても、ミリアムの言葉は自分の取った行動を肯定してくれているような気になってくる。やはり正しかったのだ、と思わせてくれる。

 ――けれど。

 ミリアムが顔を覗き込んできた。

「ねえ。聞きたかったんだけど、どうしてあなた、私たちについてきたの?」

 直球だった。前振りもない。てらいも、迷いすらない。もう苦笑しか出来ない。

「あ、なんなのよ。そんなに馬鹿みたいな質問?」

「いや。君らしいって思っただけだ」

「やっぱり馬鹿にしてるんじゃない」

「してないって。断言するよ」

 そう言って写真をしまいこんだ。ミリアムの質問に答えるのに、もう写真は全く用を為さない。逆に、言うべき事を見失ってしまいそうな気さえする。

「そうか、ミリアムには言ったんだっけ」

「何を?」

「アーサーを見極めたい、ってのが理由の一面に過ぎないって」

 その言葉がスイッチにでもなったのか、今まで封印してきたこと――意図していたわけでもなく、自然とそうなってしまったとでも言うべきなのだろうが――が、とたんにあふれ出てきた。まだ自分がキャメロットの一員であった時代のこと。ただし、その当時にはキャメロットの人間でない自分も同時に存在していた。今にして思うと、それ以外の時間がどれだけ自分の中で多くを占めていたのかを実感する。

 見れば、ミリアムは怪訝そうな表情を浮かべていた。

「上手く話せるかどうか、の自信は皆無なんだけどね」

 一応、その断り置きをする。

「アーサーのことをポジティブな理由としておくなら、それはきっとネガティブな理由、とでも呼ぶのが正しいんだと思う。――ミリアム。僕はね、逃げ出したんだ」

「逃げ出したって?」

「それまで立つべきだ、と信じていた場所からさ」

 言いながら、それでも最後の一歩を踏み出しきれない。どうにかして迂遠な言葉で言い逃れができないか、と求めてしまう。自分の逃げ腰が無性に可笑しかった。言葉にしよう、と思い立ったのは他ならぬ自分自身のはずだというのに。

 目を閉じた。一人の少女の顔を思い浮かべた。

 もう、思い出すことにすら時間が掛かる。想いばかりが強まり、彼女の輪郭をぼやけさせてしまっている。

 彼女の面立ちを、その眼差しを思い出すのには苦痛が伴った。だが、苦痛から逃げようとは思わない。何よりも重要なのは、事実を受け止める強さだと思うから。

「その子は強かった。誰よりも。だからこそ輝いていて、だからこそ惹かれた。だからこそ、その子が挫けた時には、どうにかして支えてやりたいと思ってた」

 目を落とし、己の手を見つめた。

 ――この手では、受け止められなかったのだ。

「強過ぎた、とでも言うべきなんだろうな。自分が挫けた時も、その子は決して他者の手にすがろうとしなかった。むしろ拒んだ。そして――」

 きっと、大きな何かを失った。だが、それは言ってみても仕方のないことだ。

 改めてミリアムを見る。

「ごめん、どうにも曖昧な言い方しかできそうにもない」

「いいよ、言いたいように言ってくれて。私なりに理解してみる」

 事もなげに言ってくる。かなわないな、と思う。

 改めて少女のことを思い起こす。その姿が鮮明となればなるほど、彼女が心に残してしまったであろう傷の深さに思いが行く。その傷を癒せるのが自分でないことが悔しいし、悲しい。だが、癒そうと思うことがいかにおこがましいか、とも思ってしまう。

 逃げ出してしまったのだ。それが、全てだ。

 アーサーが出て行く、そう察した時、どれほど喜んだだろう。もう彼女と同じ所にはいられない気がした。いれば身を切るような思いに苛まれることになるだろうから。それでいて、彼女は自分に対して何を思うこともないだろう。耐えられる自信など、まるでなかった。

「結局、一番弱いのは、他ならぬ僕自身だったんだろうな」

 あの時手を差し伸べつづけられていれば、あるいは。

 そのように思うことすら、今は虚しい。


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